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第二章 そして舞台の幕が開く

89話 至らぬと知りながら(ジェームズside)

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 ぽつぽつと雨音が鳴り響く。現在は室内に一人きりだ。イアンたちは下がらせている。

 全てを吐き出すかのように、深いため息を吐く。

 分かっていた。自分が愚かだったことは。第一王子として、取るべき振る舞いではなかった。イアンにも苦言を呈されたし、タンザナイト寮生の視線がそれを物語っている。

 僕は完全に間違えたのだ。
 それでも、自分に何が選べただろう。

 脳裏に浮かぶのは、まだ幼かった頃の彼女。
 信じられないかもしれないけれど、どうか聞いてほしい。そう言って、僕に語られた未来の彼女の話。

 彼女は言った。いつか自分は他者を虐げるかもしれない。そんな自分は僕に相応しくないから、身を退きたいのだと。
 僕のために身を引きたい、そう告げる彼女の言葉に、心の隙間が埋められるのを感じた。

 それまでは、誰も僕を必要とはしなかった。父である陛下も、僕を産んだ母ですらも。

 母は言った。あの女の息子に玉座を取られてはならない、と。母にとって、僕の価値は玉座を取るための駒だった。腹違いの弟に玉座を取らせるなと、そう何度も繰り返していた。

 僕は弟に会ったことはない。父が愛する女性から生まれた弟は、とても愛されていたのだ。僕らに会わせるつもりがないほどに、大切に守られているらしい。

 父に愛され、優秀な才を持つ弟。僕とは異なり、王家の青を宿す祝福された身。

 弟の話を聞いたとき、一番に芽生えた感情は困惑だった。

 ――正当な生まれでもないくせに

 そう思ったのは、紛れもない事実だ。
 だって、弟は不義の子だ。彼自身に罪はなくとも、婚外子であるのは事実。本来ならば、王子と名乗ることすら許されない存在だ。

 なのに、王城の者は噂する。離宮で暮らす第二王子は素晴らしい。学問も剣の腕も、他の追随を許さぬほどの才を持つ神童だと。

 『偽りの愛では、女神の寵愛は受けられぬようだ』

 そんな言葉が、幼い僕の胸を切り裂いた。言われなくとも、それが僕に向けられたものであることは理解した。

 神に認められず、親にも愛されず、腹違いの弟に劣る欠陥品。スペアにもなれぬ紛い物。それが僕だった。

 そんな僕を救ったのが、リジーだった。
 玉座を取るための駒でもなければ、王家の欠陥品としてでもない。ただ一人の人として、僕の幸せを願う言葉をかけてくれた。
 その言葉を聞き、空のグラスへ水が注ぎこまれるように、空虚だった僕の心は満たされたのだ。

 だからこそ、幼い僕は彼女を愛し抜くと決めた。救ってくれた彼女に、僕が返せるのは愛しかなかった。

 僕だって分かっているのだ。自身が王位を継げぬことくらい。母が諦めていないのが不思議なほどに。

 王家の青を持たず、弟に実力すら敵わない欠陥品。そんな自分が、玉座につけるはずもない。
 父の愛が僕に向けられていたのなら、違ったかもしれないが。そんなもの欠片もなかった。

 それが分かっているからこそ、彼女を愛し抜くことだけは誓ったのだ。王子妃にはなれても、王妃にはなれないだろう彼女。その彼女に手渡せるのは、僕の心しかなかった。

 そんな愛する彼女だからこそ、守りたい。そう思っているけれど。

 僕は天を仰ぎ、目元を手で覆う。
 守り方を間違えたのか。例え、一度泣かせることになったとしても、彼女にあの場で話をさせるべきだったのか。

 分からない。ただ一つ分かるのは、間違えたという事実だけ。

 聖女の従者が問いかけた内容に、答え一つ出せず。周囲から見放された。
 
 「殿下、おられますか?」

 軽いノック音の後に、愛らしい声が響く。リジーだ。いつもならその訪問を嬉しく思うのに、今だけは自然に笑えない。

 それでも、無視することはできなくて。無理に口角を上げて返事をした。

 「失礼します」

 入って来たのは、予想通りリジーだ。白いワンピースに身を包む彼女は、どこか不安げな表情を浮かべている。
 無理もない。昨日は大変な事件が起きたのだから。

 「ジェイミー……私は」
 「こちらにおいで、リジー」

 眉を寄せて苦しそうに呟く彼女に、優しく声をかける。もはや癖のようなものだった。彼女が不安を抱く度、それを拭うのは僕の役目だったから。

 「私、私っ! 本当に、していないのです。彼女のケーキにナイフを仕込むなど……!」
 「分かっているよ、リジー」

 宥めるように彼女へ声をかける。疑ってなどいないと伝わるように。

 事実、僕は彼女がシャーロット嬢を虐げたとは思っていない。
 彼女は僕を救った心優しい女性だ。それに、幼い頃から言っていた。シャーロット嬢を虐げるつもりなどないと。

 「ですが……皆、私を疑っているのです」

 その言葉に、僕はピタリと口を閉ざす。

 そう、そこが何より問題だった。ケーキの件はともかく、彼女がシャーロット嬢を疎んでいるという疑いが広まっている。

 事実、お茶会でちょっとした諍いはあったけれど。
 しかし、リジーにシャーロット嬢への悪意はないはずだ。
 貴族令嬢が魔獣騒ぎを怖がるのは当然のこと。言い方に問題はあったかもしれないが、大なり小なり皆恐怖を覚えていただろう。

 シャーロット嬢だって、恐ろしいと言っていたではないか。
 今回の件は、言い方が悪かった。それだけのはず。はず、なのだ。

 「リジー、大丈夫さ。君がシャーロット嬢を虐げるわけがない。
 だって君は、そんなことはしないと昔から宣言していただろう?」
 「……もちろんです。そんな酷いことできるはずがありません」

 わずかな間が空いて、彼女が僕の問いに答える。言葉がつっかえるほどに、彼女の心は傷ついているようだ。

 彼女の優しさは、僕が誰より知っている。僕の幸福を願い、自ら身を引こうとした彼女。優しさが無ければ、そんなことできるはずもない。
 貴族女性であれば、より良い結婚を望むのが普通だ。例え欠陥品の王子でも、王族であることには変わりないのだから。

 「リジー。今はハリス女史の指揮で調査が進められている。そこに私事が介入する余地はないだろう。きっと、君の無実は証明される」
 
 僕の言葉に、彼女は静かに頷く。その表情はわずかに緩んでいた。少しは安心できたようだ。
 このまま、無事に疑いが晴れると良い。そう願いながら、僕はゆっくりと彼女の髪に指を通した。

 そのときだ。

 室内に再びノック音が響く。リジー以外に、訪ねてくる者など思い当たらないのだが。
 とはいえ、用事もなく訪ねるはずもない。彼女の髪から手を放し、扉の外へ声をかけた。

 「失礼。殿下、少々お時間をいただきたい」

 驚くべき声に目を見開く。名乗られなくても、誰なのかすぐに分かった。

 「お父様……?」

 そう、愛する婚約者の父。ユースタス・ハワード・コードウェルその人なのだから。

 「ああ、入ってくれ」

 僕の声に、扉がゆっくりと開かれる。予想通り、扉の先には公爵の姿があった。

 「やはりここにいたのか、ブリジット」
 「お父様、どうして……?」
 「……変わらないな、お前は」

 そう告げる公爵の顔に、笑顔はない。情といったものが滲む様子もない。
 この瞳は、嫌というほど知っている。僕を見る父の瞳と同じだ。

 「公爵。僕に話があったのでは?」

 リジーにそんな瞳を見せるわけにはいかず、僕は話を促した。
 心優しいリジーは、あの瞳がどんなものか分かっていないのだろう。知らずにいられるのなら、その方がいい。僕は彼女の父親にはなれず、婚約者としての愛しか注げないのだから。

 だからせめて、親に愛されていない事実を彼女が知らずに済むように。僕は彼女の目を塞ぐのだ。自分のような苦しみを、彼女が抱える必要はない。

 「リジー、すまないが席を外してくれないか」

 公爵がわざわざ来たんだ、重要な話だろう。そう告げる僕に、リジーは心配そうな表情を浮かべる。

 しかし、そんな言葉は無意味となってしまった。公爵が制止の声を上げたからだ。

 「気遣いは無用です、殿下。娘もコードウェル公爵家の人間。話一つできぬほどではないでしょう」
 「公爵……」

 言外にこう言いたいらしい。「話一つできぬほど、愚かなのか」と。
 ここから彼女を遠ざければ、公爵の彼女を見る目はより厳しくなるだろう。
 しかし、話の内容によっては、より厳しい評価を受けるかもしれない。

 「ブリジット、お前はどうするのだ」

 悩んでいる僕をよそに、公爵はそう問いかける。自分のことは自分で決めなさい、彼は彼女にそう迫った。

 ああ、そんな風に言われれば、彼女が何と返すか分かっているだろうに。

 「是非、ご一緒させてください」

 その言葉は、僕の予想通りの答えだった。彼女が望むのなら、そうするしかないのだろうけれど。

 彼女は、この男と渡り合うだけのずる賢さを持っていないのだ。
 どこまでも冷徹で、貴族然とした男。抜け目ない人間を相手にするには、リジーはあまりに純粋過ぎる。

 「娘はこう申しております。よろしいですね?」
 「……ああ。彼女が望むのならば」

 そう返す僕に、公爵は静かに頷く。自分の思い通りになったというのに、満足そうな雰囲気は微塵もない。想定内の結果だったのか。

 「では、いくつかお尋ねしましょう。ブリジット、お前もだ。噓偽りなく答えるように」

 二度は言わない。そう言い渡す声は、恐ろしいほどに冷ややかだ。
 やはり、この男はリジーへ愛情など持ち合わせていないのか。家の益になるか否か、それだけの興味しかないのだろう。

 「昨日催された茶会で、聖女への嫌がらせが発生したと聞いております。間違いありませんね?」
 「ああ、事実だ」

 公爵の問いに、僕は静かに答える。予想はしていたが、やはりこの話題か。
 今回の件は、コードウェル公爵家としても無関係ではない。黙っているはずもなかった。

 「今回問題に上がっているのは、三点です」
 「……三点?」

 思いがけぬ言葉に、僕は眉を寄せる。僕が知る限り二点のはずだが。もう一つ問題があったのだろうか。

 公爵は僕から視線を外し、リジーへと目を向ける。
 とはいえ、それも一瞬のこと。単なる確認だったのだろうか。すぐに僕へ視線を戻し、口を開いた。

 「そうです。一つは、当家で作ったケーキにナイフの刃が混入されていたこと。こちら、事実と相違ございませんか?」
 「そのとおりだ。幸い、すぐに従者が気づいたため怪我はなかった」

 そう返すと、公爵は静かに頷く。彼が把握していた内容と変わりなかったようだ。

 「次にブリジット、お前の話だ。お前は聖女と口論になったそうだが、身に覚えはあるな?」
 「それは……っ」
 「言い訳はいらん。あるかないかで答えろ」

 冷たく切り捨てる姿は、取り付く島もない。リジーはそんな彼に恐怖を覚えたのだろう。「わ、たしは……」と涙混じりの声がした。
 到底見ていることができず、僕は口を開いた。

 「失礼、公爵。その件は事実だ。リジーの発言に問題があったのは、否定できない」
 「ジェイミー……!」

 リジーが悲痛そうな声を上げる。僕に言わせたことを悔いているのだろうか。こちらを見る瞳が涙で揺れていた。

 たしかに、彼女はミスを犯したけれど。威圧的な相手の前で、それを語らせるのはあまりにも不憫だ。

 「つまり、我が娘が聖女に非礼を働いたと?」
 「そうだね。とはいえ、ちょっとした誤解によるものだろう」
 「……ほう? 詳細をお聞かせ願えますか?」

 男の瞳がきらりと光る。娘の非が思ったより酷くなさそうだと感じたからか。内心で安堵しているのかもしれない。

 「ベント子爵領の件で、少々口論になってね。リジーに非があったのは事実だが、あれは言い方が悪かっただけだ」
 「言い方が、ですか」
 「そうだ。魔獣騒ぎを恐ろしく思うのは当然だろう? ましてや、実際に死者が出たという。恐怖を覚えるのは無理もないさ。
 誤解を招く言い方をしたことは悪かったが、言い方さえ違えばシャーロット嬢も怒りはしなかっただろう」

 当のシャーロット嬢だって、恐ろしいと言っていたのだから。そう告げる僕に、公爵は口を開いた。

 「殿下は、娘の言い方の問題だと?」
 「シャーロット嬢を揶揄するように聞こえたことが原因だろう?」
 「いいえ、それは違うでしょう」

 はっきりと否定する公爵に、目を見開く。僕は何か見落としているのだろうか。

 「言い方の問題ではなく、娘の言動そのものに問題があるのです」

 恐怖心を抱くことは当然でも、世の中には言っていいことと悪いことがある。そう語る公爵に、僕の胸が締め付けられた。
 奇しくもそれは、僕が昨日、聖女の従者へ言い放った言葉だった。

 「たしかに、娘の言葉は聖女を揶揄したと聞こえる発言です。死体が転がっていても動ける薄気味悪い人間。そう揶揄したと言われても過言ではない」

 公爵の言う通りだ。リジーがそんな酷いことを言うはずがないけれど、彼女をよく知らない人間が聞けば、そう思うのも無理はない。

 リジーは幼い頃から妃教育に時間を取られ、特定の人間としか関わりが無かった。
 それゆえに、人と上手く接することができず、誤解を招いたのではないか。

 「とはいえ、聖女が揶揄されたこと自体に怒ったとは思えません。

 殿下。この先は、あなたより長く生きた一人の人間として話をします」

 そう告げる公爵の瞳は、今までと異なっていた。彼は僕に関心など無かったはずなのに。
 今の彼は、僕という一人の人間をその瞳に映している。

 「ベント子爵領の状況は酷かった。領主は病床に臥し、伯爵家から見放され、国の救援もない。そんな中、長年苦しみ抜いた土地です」

 滔々と語る声は、厳しくも穏やかだ。突き放すのではなく、諭すように語りかけてくる。

 「直近の襲撃は悲惨でした。民は死に、民家が燃やされ、自警団に負傷者が出るほどの被害です」

 そうだ。王城でも酷い事件だったと噂になっていた。悲鳴が街に響き渡り、凄惨な光景が広がっていたという。

 「それを食い止めたのが、聖女でした。殿下と変わらない歳の少女です。もちろん、従者や騎士は側にいたでしょう。
 ですが、十分な数の人員はいなかった。それゆえに、彼女は最前線に立ち、戦った。

 自分の背に、無辜の民がいると知っているからこそ。引き下がれぬと立ち続けたのです」
 「――、」

 公爵の言葉に、僕は息をのむ。言葉を返す余裕すらなかった。勇敢な聖女、漠然とそう思っていたけれど。

 それは、どれほどの覚悟が必要だっただろう。彼女が敗れれば、民の命は失われる。人の命を背負うなど、誰にでもできることではない。

 凄惨な光景が、彼女を奮い立たせたのか。大の男でも躊躇うような覚悟を、彼女に決めさせたのか。

 「さて、先ほどの話に戻りましょう。
 なぜ、聖女が怒りを覚えたのか。自身を揶揄したことでないのなら、何を許し難く思ったのか。それは、ただ一つです」

 公爵の言葉に、僕の背に冷や汗が滑り落ちる。僕が見落としたもの、その存在に薄々気づき始めていた。

 「自身を揶揄するために、あの惨劇を利用した。そう感じたからこそ、怒りを覚えたのでしょう」

 公爵の言葉が、ストンと心の中へ落ちていく。
 ああ、そうか。それは道理だと腑に落ちた。

 彼女が怒るのは当然だった。いや、揶揄された時点で怒っても仕方のないことだけれど。

 彼女は自分のためではなく、苦しみ抜いた民を思い、それを利用する醜悪さに怒りを覚えたのか。

 そう思わせる振る舞いをしたリジーに、彼女は怒ったのだ。あの惨劇を誰より見ていた彼女が、許せないのは当然だった。

 「……それは、怒られても仕方がないな。気づけなかった僕に対しても」

 不甲斐ない、そう呟いて前髪をぐしゃりと握った。

 シャーロット嬢は、僕をどう思っただろうか。婚約者を御すこともできず、王族として適切な対応もできなかった僕を。

 聖女という我が国唯一の重責を担う彼女は、僕よりずっと冷静だ。
 きっと、僕が気付かなかっただけで、今までも不快感を覚えていたのかもしれない。僕は人の心情を察する能力に欠けているようだ。そんな視野の狭い僕より、彼女は多くのものが見えていることだろう。

 「リジー、一緒に謝りに行こう」
 「……ジェイミー?」

 僕の言葉に、リジーは目を見開く。僕から提案されると思わなかったのだろうか。驚く彼女に、何とか微笑みかける。

 「君だけでなく、僕も同罪だ。あの場で、君の非礼を詫びなかった時点で。だから君一人が謝罪する必要はない。
 共にシャーロット嬢へ謝罪をしよう。彼女は冷静な女性だ。誠心誠意謝れば、きっと耳を傾けてくれるさ」

 呆れられるかもしれないけどね。そう呟く僕に、彼女は俯いて拳を握る。

 リジーは今、混乱の只中にいるのだろう。彼女はとても優しい人だから、誰かと喧嘩などしたことがないはずだ。僕らの輪にいても、いつも穏やかに微笑んでいた。
 こんな風に誰かとすれ違うのは、初めての経験に違いない。

 だからこそ、一緒に謝りに行こう。彼女の足が竦むなら、支えるのが僕の役目だ。何もかも、一人で頑張る必要はない。

 そう考える僕をよそに、公爵が何事か呟く。その内容は聞き取れなかったが、聞き返す気にはならなかった。僕を見る瞳が、穏やかだったから。

 「お話をお聞かせいただきありがとうございました。私はこれで失礼するとしましょう」
 「え? まだ二つしか話をしていないが?」

 腰を上げる公爵に、慌てて声をかける。彼は首を横へ振り、静かに口を開いた。

 「いえ、もう十分理解出来ましたから。後は、今後の調査で判明するでしょう」

 そう言うと、公爵はリジーへ視線を向ける。その瞳が、再び冷え切ったものへと変化した。僕へ向けていた瞳との大きな差に、一人息をのむ。

 「ブリジット。いい加減、現実を見なさい。私がお前に伝える、最初で最後の忠告だ」

 殿下に感謝しろ。その言葉は、彼女のために告げたわけではないことを物語っている。僕の顔を立てて、彼女へ忠告したのだろうか。

 公爵は僕の父に似ている。我が子へ向ける瞳の冷たさはそっくりだ。
 父と同じように、我が子と関わりを持つことがなかったのかもしれない。それならば、今日初めて娘を叱ったと言われても納得がいく。
 最後のと付けたのは、何度も忠告を受ける真似をするなという釘刺しだろうか。

 リジーは口を開かなかった。俯いたまま、拳を握りしめている。
 もしかしたら、混乱ゆえに動けないのかもしれない。自身の言動がどのような誤解を与えたのか、それを知って。
 優しい彼女には、衝撃が強すぎたのだろう。

 「……では、失礼致します殿下」
 「ああ、わざわざ足を運んでくれてありがとう」

 そう返す僕に、公爵は一度目を丸めた。すぐに表情は戻ったけれど、今日の彼は驚くほど表情豊かだったと思う。

 扉の閉まる音が響く。僕は深く息を吐き、覚悟を決めた。

 このままではいけない。取り返しがつかなくなる前に、動かなくては。今ならまだ間に合うはずだ。

 リジーは心優しい女性だ、いつか皆の誤解も解けるはず。そんな未来のために、まずは謝罪から始めよう。

 俯く彼女の表情は見えないけれど。
 僕を救った彼女は、心の美しい女性だから。

 きっと二人で正しい道を歩めるはず。そう思い、僕はゆっくりと瞼を閉じた。
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