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当たり前 2
しおりを挟むそれからその事実を知っていた仁さん、隆二さん、雄樹に話を聞いたところ。
兄貴も泉ちゃんも相手をとっかえひっかえ遊びたいが、恋人を作るなんて面倒なことはしたくないらしく、つまり体だけの関係を求める相手は何十人でも欲しい、という恐ろしい願望があったらしい。
それで偶然にも知り合った兄貴と泉ちゃんは互いに同じ匂いを感じとり……形だけは恋人を、カモフラージュとして同盟を結んだのだそうだ。
そうなればいくら抱こうが抱かれようが、相手には「恋人がいるから」なんて嘘でばっさりその気持ちを拒絶することができる。そんな浮気万歳カップルではあるが、みなが二人は恋人だと騙されているので、しつこくされることはない、とかなんとか。
そもそも二人とも一度寝た相手とは寝ないらしく、忘れ物をしたときは互いに相手に届けているのだという。
ちなみに俺が看病したときの泉ちゃんは仮病で、そうして具合の悪い振りをしながら童貞を捕まえているそうだ。
……そんな不純な話を、初心な俺に聞かせないで欲しかった。
「悲しい……女の子に対するなにかが失われた……っ」
「よしよし、トラちゃん可哀想に。大丈夫、女じゃなくても恋はできるよ。俺が保証する」
「……雄樹……っ!」
「トラちゃん……っ!」
「悪いけどその気持ちだけ受け取っておくわ」
「だよね!」
アホな雄樹の励ましに癒されて、俺はまたお粥作りをはじめた。
――と、いうのに。
「じんーーー!」
なんか、エレベーターのほうから叫んだ男が仁さんのほうに飛び込んできた。誰だ、この人。
「司(つかさ)じゃねぇか。どうした?」
「どうした!? どの口で言ってんだよお前は! ちくしょう!」
「はは。相変わらずキレやすいなぁ、お前」
「ふざけるな! 俺の金のなる木を返せっ!」
金のなる木?
飛び込んできた男をものともしない仁さんに感銘を受けつつお粥を仕上げる。お盆に乗せて雄樹に渡せば、恋人が絡まれているというのにやつは素直に運びに行った。ということは、知り合いなんだな。
「おいおい、玲央がここにいんのはアイツの意志だぜ?」
「違うだろ! このあいだここで乱闘した詫びだろうがぁ!」
「分かってんなら黙ってろよ。そのうちデスリカに戻るだろ」
デスリカ……と、いうことは。
多分、仁さんに吠えているこの人はデスリカのスタッフだろうか?
「あ、トラ。これだよデスリカのオーナー。江藤司(えとうつかさ)、豹牙の兄で俺の悪友」
「はぁ……あ、江藤せんぱ……豹牙先輩にはいつもお世話になってます。朝日向小虎と申します」
仁さんは司さんのことなど気にするでもなく俺に紹介してくれる。ので挨拶をすれば、司さんの眼鏡がキラリと光った。じっと、品定めでもしているような視線が全身を見る。
「どうも、江藤司で、豹牙の兄です。ごめんね、変なところを見せて。でも良かった」
なのに、なぜか司さんは一瞬で人当りの良さそうな笑みを浮かべ、俺のほうへ手を差し伸べながら言ったのだ。
「君みたいなちゃんと挨拶のできる子が、豹牙の後輩で」
ニカッ。司さんの白い歯が光る。ま、眩しいっ!
なんてアホなことを思いつつ、俺は江藤せんぱ……豹牙先輩にも兄がいるんだとか、入ってきたときとは全然違うなこの人とか、まぁ色んなことを思っていた。とりあえず差し出された手を握っておく。
「小虎くんって玲央の弟なんでしょ? 似てないもんだねぇ。あ、でも俺も豹牙と似てないだろ? はは」
「あー……でも、なんか雰囲気? 似てますよ。豹牙先輩と司さん」
「……おい仁、なにこの子。天然記念物?」
天然記念物!? 俺が!? なにゆえ!?
司さんの発言に笑っている仁さんと隆二さんだが、俺にはその笑いがちっとも理解できなかった。
「ま、珍しいよな。今時こんなやついねぇもんなぁ?」
「まったくだな。無防備すぎて危ないだろ……あ、でも玲央が兄なら大丈夫か」
大人二人が同じことを思いながら別々の表情を見せて俺を見る。
なんだか逃げ場がなくて縮こまるが、必死に笑いを堪えている隆二さんを見つけ、そちらのほうに助けを求めれば……にこっ。なんて笑われて終わった。
「あ、隆二じゃん。おい玲央に言ってくれよ。そろそろデスリカ戻ってくれって」
「いいですけど、従うかは分かりませんよ」
「えー、なんだよそれ。そんなにここいたいの、玲央は」
「さぁ? 元々溜まり場だったから……ですかねぇ?」
そんな俺の視線を追って隆二さんを見つけた司さんは平然と会話の相手を隆二さんに変える。それに安心していれば、帰ってきた雄樹が「げ、まだいた」みたいな顔をしてふたたびお粥を持って消えた。……もしかして、雄樹は司さんが嫌いなんだろうか。
「ふーん? 隆二、今の言いかたわざとらしーね」
「そうですか? ま、伝えておきますよ。でも正直、あと二日もすれば戻るんじゃないですかね、ここ、ヤリ部屋ないし」
「あー。だよなぁ。アイツ下半身に忠実だもんな。喧嘩してるときだけはイケメンなのに勿体ねー」
なにやら不審な会話があちらから聞こえてくるが、聞かなかったことにしよう、うん。
そんな俺を察してか、仁さんが頭を撫でてきた。ち、ちくしょう!
「あ、それ? 噂のお粥」
「へ?」
「デスリカでも持ちきりなんだよ、ついでに豹牙も太鼓判押してた」
「えぇ!?」
やばい。デスリカのオーナーである司さんに言われてしまった。
そうなればもう否応なしにも認めるしかなくて、というかデスリカでの注文数のほうが正直多くて、だから、つまり、営業妨害するんじゃねーとか言われたらどうしよう!
「玲央がデスリカに戻ったらさ、記念として俺にお粥作ってよ、小虎くん」
「……へ?」
なのに、司さんの口から出たのは意外なもので。思わず呆けていれば司さんの頭を仁さんが小突いた。
「なにが記念だよこの性悪」
「はー? それ仁の顔のほうだろーが。悪人面!」
「うっぜー……」
げんなりと、仁さんの顔がしかめる。
そのあと帰っていった司さんは、なぜか俺にデスリカの入場タダ券(司さんが即行で書き殴った)をくれた。
やっぱり似てないかも、江藤兄弟。
そうしてやけに騒がしかった今日のバイトは終わり、なぜか隆二さんのバイクで家まで送ってもらった数十分後、兄貴が帰ってきた。普通に驚いてリビングで固まるが、兄貴は気にするでもなくこちらに近づく。
若干、いや不機嫌な兄貴相手になにか言えるわけでもなく、今まさに風呂に入ろうとしていた体をゆっくり引いた。
「あの、……お風呂、先にどうぞ」
「……」
乱闘騒ぎ以来、兄貴は俺が部屋にいたとしても殴ることはなくなった。飯も、まだかじる程度だが食べてくれている。
ただ……正直、俺が求めているような兄弟像では、決してなかった。
互いに、いや俺が気まずい空気をさらして遠慮して、殴られないと分かっていても兄がいれば部屋に篭り、いないときでも物音に敏感で。正直、兄貴もいい気分ではないだろう。
だけど今日も今日とてなにか言えるわけでもなく、俺は部屋に引きこもるため背を向けた。
「おい」
が、兄貴に呼び止められてしまえば振り返るしかない。時間をかけてそちらを見れば、かなり不機嫌な様子。いつ、その拳が飛んでくるかもしれない、そんな空気。
「あのな」
「は、はい……っ」
「……チッ」
唐突にされた舌打ちに表情が曇れば、面倒くさそうに兄貴が頭のうしろを掻く。かと思えば俺の腕を掴み、リビングにあるソファーの前まで引っ張るとそこに座らせてきた。無理に肩を押されたので膝がゴチンッなんて音を立てて床につく。痛い。
そんな俺になにか反応するでもなく、兄貴はソファーに腰を下ろす。俺は床で、兄貴はソファー。その光景はまさに俺たち兄弟をあらわしている図だったことだろう。
「てめぇよ、俺が前に言ったこと覚えてんのか?」
「……え、はい」
「だったらなんで変わってねぇんだよ。あ゛?」
「……」
やはり、いい気分ではなかったのだ。俺がもし兄貴の立場であれば、きっとそう感じていたと思う。
だけど、だからって……それを言う勇気なんて持ち合わせてはいない。
「てめぇは言ったな。俺に兄貴面かまして世話しろよってな」
「は、い……」
「なら、」
言葉が落とされるたびに顔が下を向く。そうして俯いてしまうが、言葉の波が止まることはなかった。
「てめぇも弟面かまして、少しは可愛げでも見せてみろ」
「……は?」
なのに俺の顔が限界まで俯いたそのとき、兄貴はありえない言葉を放った。すぐに上がった視界が不機嫌そうに煙草を吸う兄を捉える。
「てめぇは俺がなにも言わなくても通じるとか、んなこと思ってんのか? そんな人間この世にいる訳ねぇだろが」
「……」
「言いたいことがあるなら言え。それが世話される人間の、てめぇの義務だ」
「……」
ぐるぐると、なにかが頭の中を飛び交っている。
それがちゃんとした形になることはなくて、でも必死になろうとしている。それらが互いにぶつかれば、心地のいい音がした……そんな気がした。
そんな気が、したんだ。
「……で……っ」
「あ?」
「なんっ、で……っ」
言葉では表現しきれない心地のいい音色が、なんどもなんども頭の中で生まれていく。それが溢れることなんてなくて、生まれては俺の心に沁みて、生まれては俺の心に沁みて。
「なんで……っ! そ、な……こと……っ!」
心に沁みて、声になる。
「なんで、俺のこと、嫌いなくせにっ! そんなこと、言ってくれんだよっ、世話する、なんて、言ってくれたんだよ……っ」
「てめぇが言ったんだろうが」
「なんで、素直に聞いてくれんだよっ!」
兄貴の前じゃ緩みやすい涙腺がじわりと涙を吐き出した。それがポタリと膝の上に落ちていく。広がった染みは布越しに肌を濡らした。兄貴の手が、そんな俺の胸元を掴む。
「てめぇが言ったから。それじゃ不満か」
「……っ」
そんなの、決まってる。
「不満じゃ、ねぇよっ、ばかぁ……っ!」
溢れてしまった涙でぐしゃぐしゃになった顔を気にすることなく、俺は兄貴に言ってやった。
きっと兄貴には分からないだろう。
俺がどんなに弟として俺を見て欲しいのか。その視界に入ることを許されて、声をかけてくれて、殴らずに撫でてくれること。
そんな当たり前のことをどれだけ望んでいるかなんて、きっと兄貴には分からないだろう。
だから殴らなくなったと知ったときも、はじめて俺の料理を食べてくれたときも、本当はお粥を頼んでくれることだって、俺にとってはどれも代えがたい幸せなんだ。
そんな幸せをいつまでも夢見るほど素直でもないし、ましてや甘えるなんてできないけど。
それでも馬鹿みたいに涙を流して、必死に手を伸ばそうとする自分を抑えている俺は――きっと兄貴には分からないだろう。
それなのに、俺が落ち着くまでソファーに座っていた兄貴は、俺の鼻水が納まったのを見計らって冷蔵庫のほうへ向かっていった。ありえないことに飲み物を二本携えて戻ってくれば、その一本が差し出されたのである。
とりあえず怒られる前に受け取れば、兄貴はまた煙草を吸いはじめた。
「落ち着いたか?」
「あ……は、い」
「はぁ……てめぇよ、本当学習しねぇな」
珍しくため息なんてついた兄貴のほうを見たら、額に兄貴の持つビール缶が軽く音を立ててぶつかった。
「なんで弟面しろっつってんのに敬語なんだよ。単細胞かてめぇは、あ?」
「……」
「もっと砕いて言わなきゃ分かんねぇのかよ、ったく、面倒くせぇ」
タバコを持つ手で器用にビール缶を持つと、空いた左手を俺の頭に乗せる。
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「――っ」
フッと微笑みながら言われた言葉に、俺の顔が一瞬で赤く染まった。
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「はっ、だっせぇ顔」
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「あ? なんだよ」
「……なん、で」
「なんで優しいの? ってか? さっきも言っただろうが、てめぇがそうしろっつったんだろ」
たちまち不機嫌そうに眉間にしわが寄る。でも今の俺にはそんなことに気付けても、気づかう余裕はなかった。
だって、そうじゃんか。
「そ、な……こと、急に言われたって……っ!」
「なぁ」
だいたい可笑しいだろ。俺が言ったからそうした、なんて。はいそーですか、なんて、素直に受け取れるわけがない。そんな俺の考えが分かっているのだろうか、兄貴のつまらなそうな声が俺を呼ぶ。
「じゃあなんで、俺はてめぇを殴ってたと思う?」
「……は?」
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あぁ、もしかしてこの人は――気まぐれで楽しんでいるのではないか?
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信じたいくせに疑うことしかできない俺が息を呑めば、兄貴はなにも言わずに煙草を灰皿に捨てた。間を置くことなくまた、煙草に火がつく。
「……俺が嫌いだから、だろ」
「あぁ、嫌いだな。てめぇみたいな言いたいことも言えねぇクズは大嫌いだ」
「……っ」
ほら、やっぱり。一瞬でも気を許した自分に悔しさが募る。あぁなんだ……夢ってのは、本当に長くつづかない。
「はっ、またそうやってだんまりか? 一体どれだけ我慢すりゃ気が済むんだろうな、てめぇは」
「……」
「さっきみたいに泣いてたほうがまだ可愛げがあったのによ」
つまらなそうに紫煙を吐き出す兄貴の言葉が背中に刺さる。痛いと言えば、この刺は消えてくれるのだろうか……。消して、くれるのだろうか。
そんな淡い期待をまだ、してもいいのだろうか。
「……じゃあ」
「あ?」
「じゃあっ、言えよ! 今まで俺を殴ってきた理由を! 俺が納得するまで説明してみろよっ!」
本当はまだしていたい。淡くたって馬鹿らしくたって、一瞬でも俺に優しくしてくれた兄貴が本当に存在するのなら、俺はアンタにすがりたい。甘えたい。なぁ、だから言ってくれ――。
「うぜぇから」
「……は?」
なのに、その口から出た理由が、いや、理由にもなっていないそれが、あまりにも単純で滑稽で――馬鹿馬鹿しくて。悔しい憎い辛い悲しい、色んな感情が湧きあがる中、俺はただただ絶望を覚えた。
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「……」
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「気づいてねぇだろうけどよ、てめぇは俺に殴られつづけて頑丈になってんだぜ?」
「――……は?」
牙を向けたまま、野獣が卑しく口角を上げる。
「怖いよなぁ、人間の体ってのはよ。俺に殴られても気ぃ失わないくらい頑丈になってよ、それでもまだ、てめぇは俺に怒鳴りもしねぇ」
「……」
「真っ当な理由もなく殴られつづけてると分かってるくせに、それをどうにかしようともしねぇ」
「……」
「しまいにゃ俺が消えたら一人になる? てめぇはどこまでクソなんだよ、小虎」
小虎、そう兄が名前を呼んだ瞬間、どこかへ逃げ出そうとしていた自分が無理に戻された気がした。
落ち着かない感情が忙しない。どうにかしなきゃと思うほど、焦るだけの自分が歯がゆい。
俺の手はそんな考えを置き去りにしたまま、胸倉を掴む兄の手を剥がそうとした。当然、俺の力で剥がれるものではないのだけど。
「なのにこうやって、俺の手を剥がそうとするみてぇに牙向けやがる」
「……え?」
そう呟いた兄の手が、俺の胸倉からそっと手を離した。その手は迷うことなく煙草を掴み、すぐ取り出して火をつけた。
「本当はてめぇだって俺に謝って欲しいんだろ?」
「そ、な……あたり、まえ」
兄を見上げたまま言葉を発せば、兄の目から怒りが嘘のように消えていった。
「その当たり前を、てめぇは今までしてこなかったんだろうが」
「……」
なにかがグッと心の奥を掴んできた。苦しいはずなのに、本当は痛いはずなのに、でもそれを止めて欲しいとは言えない。
言いたくないんだ。その痛みから解放されてしまえば、きっと俺は寂しいと泣いてしまう。どんなに愚かなことでも、寂しいと泣いてしまう。
求めるように兄を見つめれば、それ以上のなにかを秘めた目が俺を見つめ返した。
「だから俺はてめぇを殴った。そんなてめぇが嫌いだからな」
「……」
「言え。てめぇが思っていることを全部。俺に吐き出してぶつけろ。小出しになんかしてねぇでさっさと牙を向きだしてこい」
「……そ」
そんな、こと。
できないようにしたのは、お前だ。
我慢して堪えて、ことが終わることをひたすらに待つよう仕向けたのはお前だ。お前と親父だ。
だから俺は悔しくて、謝ってもらおうと必死に生きて。なのになんで、なんでアンタがそれを言うんだ。
言うんだよ。
「ふざっ、けんな……っ」
「ふざけてこんなことするほど、俺も暇じゃねぇよ」
「だったら! だったらてめぇが謝れよ! 俺にとやかく言ってないで謝れよ!」
いきり立った脳内が、思考を置き去りに命令を下してくる。俺は兄の胸倉を掴みながら叫んだ。まるで情けない震えた声で、叫んだ。ちっとも怯まない兄の顔にすら感情が湧きあがるが、それをどうにかしようとは今、思わない。
「暴力に真っ当な理由がない? んなもん当たり前なんだよ! そんなこと分かってて弟殴ってんじゃねぇよ! 我慢してる? んなのてめぇがそうするよう仕向けてきたんだろうが! 体が頑丈になったことも、俺の気持ち乱すのも、全部てめぇのせいだろうが!」
今まで吐き出せずにいたものが溢れだす。止まりそうにないそれが口から飛び出していけば、俺は後悔とは違う酷い気持ちに押しつぶされそうだった。
悔しい。そう悔しい。
兄貴面かましてみろ、なんて俺が言ったことだけど、でもなんで矛盾をつきつけながらこうやって、わざと俺の気持ちを煽ってくるんだ。
煽るだけ煽って、今こうして吐き出させてくる。我慢を忘れさせてくる。そんな行為に〝兄貴面〟を感じてしまう自分が悔して堪らない。
まるで弟扱いされているような、手放しに喜んでしまう自分がどうしようもなく悔しくて、堪らないんだ。
「謝れ! 今まで俺に我慢させたぶん、謝れよっ!」
「……あぁ、いいぜ」
兄の胸倉を掴む俺の手に、一回り大きな手が重なる。驚くほど温かいそれに怯んでしまえば、兄の口角は上がった。
「だけど謝るのは、俺がてめぇを認めたときだ」
「――なっ!」
「だから小虎、これだけは覚えろ」
謝罪を求めろと自分で言ったくせに、またこうして自分の価値を押し付ける。そこにも怒りを感じてふたたび叫ぼうとすれば、それを許さない空気が兄から放たれた。
グッと言い淀んでいれば、兄の表情が無になった。そして――、
「この先いくらてめぇが俺を兄貴だと認めても、いいか小虎、絶対に――俺を許すな」
そして、ただ真っ直ぐと俺に一言、言い放ったのである。
それまで脳内を支配していた感情がどこかへ消え去り、俺は胸倉を掴んだ手をそのままに座り込む。
ぐったりとした疲労感が、あまりにも心地いい。
「なんだ、よ……それ……なんだよ、それ……っ」
なぁ、アンタって人はどこまで自分勝手で我儘で、気ままで自己中心的で、ひどく一方的で。
そのくせそこに芯なんて通すから、どっしり腰を据えて生きているから気高くて、目が離せないほど畏怖の念を起させる。
あぁ、アンタって人は――。
「……あ? おい、なに泣いてんだよ」
「うっ、せー……お前なんか……お前なんかなぁっ、許したりしねーんだからなぁっ!」
「……はっ、いいぜ、上等じゃねぇか」
本当に獣みたいに喉を鳴らして兄が笑う。俺はやっと込めていた力を抜いて、兄の胸倉から手を離した。同時に離れていく兄の手を少し惜しいとも思う。
だけど次の瞬間、兄が落ちていく俺の手を握って自分のほうへ引き寄せた。
「これからはそうして言いたいことは全部言え。我慢はもう、すんじゃねぇよ」
「……なっ」
「分かったら風呂入って来い。その情けねぇ面、しっかり洗ってこいよ?」
くくっ。また獣みたいに兄が喉を鳴らして笑う。その笑顔を見たとき俺はやっと理解した。
この瞬間、今まさにこのとき……俺と兄の関係は変わったのだと。
「……その、情けない面したやつの兄だろうが、アンタは」
「はっ、違いねぇな」
どこまでも愉快そうに目の前の獣は笑っている。
そんな表情が俺にも移ったのだろう、いつのまにか俺の口元は馬鹿みたいに緩んでしまっていた。俺の笑顔を見た兄がさらに笑えば、俺もまた、さらに笑ってしまう。
ただひたすらに夢見ていた光景が、そこにはあった。
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