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テスト 1
しおりを挟む「朝日向さーん、朝日向小虎さーん」
「はい」
白を基調とした清潔感のある待合室で名前が呼ばれた。俺はすぐに立ち上がって看護師のもとへ寄る。もう何度も見るその顔を互いに見合えば、笑顔とは違う表情が浮かんでいた。
薬品の香りが染みついた診察室に入れば、白衣を羽織った彼が笑顔で俺を出迎えてくれる。
「久しぶり、元気だったかい?」
「お久しぶりです。まぁまぁ、かな」
苦笑を浮かべて肩を竦める。彼はそんな俺を見て、にこりと柔らかな笑みを浮かべた。
親父が死んですぐ、俺は兄に引き取られる前、親父の弟であるおじさんに引き取られていた。
そのとき念のためと判断して、おじさんは俺を入院させたのだ。そのときすでに俺がこちらに来ることは決まっていたらしく、ずっと同じ担当医の其川(そのかわ)さんが面倒を見てくれている。
面倒というよりは勉強なんかや、医療業務とは一切係わりのないところまで見てくれていたのだから正直頭は上がらない。
「へぇ、お兄さんと。じゃあ仲直りできたんだね?」
「仲直り……とは違う気がしますけど、でも、以前よりはずっと良くなった……かな」
「そっか。うん……そっか、良かった」
精神科医である其川さんが微笑む。彼は俺と兄の仲が思わしくないことは知っていたし、それをどうにかしたい俺の気持ちも知っている。だから俺以上に微笑んでくれることが単純に嬉しかった。
「でも心配してたんだ。二週間に一度は来なさいって言ってるのに、小虎くん全然来ないんだもの」
「あはは、はい、すみません。バイトが忙しくて」
「あぁ、カシスト……だっけ? なんか最近よく噂を聞くなぁ」
「え? 噂?」
「シックなバーなのに、お粥が人気だって噂」
「……それ、俺です、作ってるの」
「えぇ!? あ……あははっ! あ、そうなんだ?」
「……はい」
口に手を当てて笑う其川さんから目を逸らせば、彼はくすくすと笑いつづけていた。
「でもまぁ、いいんじゃない? 楽しそうにしてるなら、それが一番だよ」
「う……色々とすみません」
「うん、いいよ」
若くて爽やかで、患者さんや看護師にも人気のある其川さんが微笑めば、辺りには春のような柔らかなオーラができる。それを楽しみに思う俺は、正直くすぐったくてしょうがなかった。
だけど一度呼吸を深くして、そっと吐き出す。
「俺、二度と来ない……とは言えないけど、当分来ないつもりです」
「……自分で決めたんだ?」
「はい。まだ目指してる兄弟なんかじゃないけど、でも、兄も前向きな意見を俺にくれたから、俺はそれを信じたいんです」
「……うん……いいと思うよ」
寂しそうな其川さんの表情にちくりと胸が痛んだ。
この人はずっと、親父が死んでから親のように、ときには兄のように俺の面倒を見てくれた。彼にとってそれは患者の一人に過ぎなくとも、俺にとって彼と過ごした時間もまた、大切なものに変わりはない。
でも、俺が本当に笑い合っていたいのは、この人ではない。
「でも俺、泣き虫で弱くて、すぐへこんでばっかだから、こんなこと言ってても来るかもしれないです。だからそのときは、」
「頭を撫でて叱ってあげる。そのあとうんと甘やかしてあげる。でしょ?」
「……はい」
また肩を竦めてしまう。いまさら隠し事をする仲でもないが、少しは見栄を張らせて欲しい。なんて、決して口には出さないが。
そのあと一言二言話をして、俺は診察室をあとにした。いつも見ていた待合室が、今は違って見える。いつもはうな垂れて座っていたソファーも、来るたび変わっている週刊誌も、窓から射す柔らかな日差しだって。今はすべてが新鮮に見えていた。
ゆっくりと足を踏み出して出口へ向かえば、なんだか見えない誰かに背中を押されている気分になる。多分、こういうのをきっと心機一転とも言うのだろう。
白い廊下を歩きつづけていれば、手すりに掴まって歩く女性がいた。七十は超えていそうだが、きっと見た目年齢よりも若いだろう。
「どうかしました?」
「え?」
なんだか困っているように見えて声をかける。横顔しか見えていなかったその姿があらわになって、息を呑む。
この人……目が見えてないんだ。
声のするほうを頼りに顔を向けたのだろう。しかしその目が俺を見ることはない。おおよその位置を見つめる姿に、そっと手を伸ばす。
「どこかへ行くんですか?」
「……この手は、貴方の手?」
「はい、そうです。なんだか伸びちゃって……すみません、頼りないかもですね」
「ふふ……そうね。私は手すりに掴まっているんだもの、転びはしないわ」
「はい、手すりのほうが安全かもしれません」
焦点の合わない双眸が形を変える。目元に寄るしわがなんだか温かくて、思わず母親を連想してしまった。実際生きていれば、もっと若いはずなのだが。
彼女は頼りになる手すりから、そっと片手を離して俺の手を握る。驚くほど、温かかった。
「本当はね、会いたい人がいたの。今日来るって聞いて、動いたらダメですよなんて看護師さんに言われてたけど、そんなの聞いてちゃいられないわ、ねぇ?」
「はは、そうだったんですか。看護師さんには悪いけどお手伝いしますよ?」
「あら、良い子ね。声からしてまだ高校生……大学生かしら?」
「高校生ですよ、まだまだ子供です」
「えぇ、そうねぇ。高校生は子供だわ」
「はい」
話をしながら廊下の様子を見る。少し遠くに位置するソファーは空いている。
「少し、動きますよ」
「ならしっかりサポートしてちょうだいね?」
「もちろん」
手すりから完全に彼女の手が離れる。俺はその両手を握って、ゆっくり一歩、また一歩、彼女が落ち着いて歩いてこられるように引いていった。ソファーに辿り着いて、そこに彼女の腰を下ろさせれば、安心したような息が彼女の口から漏れ出た。
「それで、会いたい人ってどんな人なんですか?」
「歳は十六で男の子。それしか知らない」
「……なかなか難しいですね」
「えぇ、だからもうこのさい、貴方でもいいかなって思ってるところよ」
「あはは、じゃあ隣、失礼しますね」
「どうぞ」
そこまで必死に探すつもりでもなかったのだろうか、それとも疲れてしまったのだろうか。思惑を隅に置いて、俺は彼女の隣に腰を下ろす。おもむろに彼女の手が伸びてきて、そっと握った。
「お孫さんですか?」
「えぇ、そうよ。一度も顔を見せに来ない、可愛くない孫よ」
「へぇ、なにか事情があるとか?」
「さぁ……どうかしら。私には分からないわ。でも会ったら言ってやるつもりよ」
「? なんて?」
フンッ、と意気込んだ彼女がまたも声を頼りにこちらのほうへ顔を向ける。
やはり実年齢よりは若く見えるだろう容姿に、顔も覚えていない母親が重なる。きっと母親的存在がいないから、そう思ってしまうのだろう。
「この世はアンタが思ってるほど、厳しくもないし甘くもない。けど、山のような幸せがゴロゴロ転がってるのよ。だからいっぱい傷ついて、そのぶん大人になりなさい――ってね」
「……なんだか、すごく重みがあります、ね」
「そう? いえ、そんなことないわ。長く生きてきた私が言うんだもの、重くはない。けど、軽くもないわね」
「はい……そうですね」
歳の差、というのだろうか。
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「あ! 梶原(かじわら)さん! こんなとこまで逃げてたのね!?」
「あら、見つかっちゃった」
バタバタと慌ただしい看護師が俺と彼女のほうへ近寄る。梶原、という名字なのか、俺は彼女の手をそっと解いた。看護師が梶原さんと俺を叱って、だけど彼女が反省もせずに俺に「また来なさいね」なんて言うものだから、当分来ないとは、言えなかった。
そのあと遅刻して学校に行けば、調理室に入るなり雄樹にタックルされるわ、ゲーム攻略ができないとか泣きつかれるわ、おまけに寂しいよぅとかすり寄るわで、正直ウザかったのだがまぁ、癒された。やっぱりアホな雄樹がいるだけで全部が嘘みたいにギャグになる。
「は?」
だけどいつものようにサボっているとき、俺は言った。兄貴……玲央となんか、仲良くなったかもって。
そしたら雄樹は目を丸めて、なにか言いたそうな顔を複雑に歪ませる。ついでに両手をパタパタと振り始めた。挙動不審にもほどがあるぞ。
「あ、えーと、えーと、あれだ! だから、だからあれだよ! あれ!」
「あれってなんだよ」
「だから! そう、あれ!」
かと思えばパッと笑顔を作って、俺に抱き着いた。
「おめでとうっ!」
「……は」
おめでとう。そう言われて、口から変な息が漏れてしまった。だけど俺の口元は緩んでしまって、なんだか雄樹がいつも以上に可愛く見えて、背中に回る腕と同じように雄樹を抱きしめた。
「……うん、ありがと」
「いいんだよ! だって俺っ! トラちゃんのダチだもんっ!」
「あぁ……そうだよな。うん、雄樹はダチだ。最高の、俺のダチだ」
「うんっ!」
ぎゅうー、なんて音がする。正直苦しいが、そんなのお構いなしといった様子で、俺と雄樹の腕は互いの体を必死に抱きしめていた。
あぁ、これが友情か……やばい、嬉しい。
バッ! と雄樹が俺の肩から顔を上げ、思いのほか真剣な顔を向けた。次の瞬間――、
「だから勉強教えて!」
「は?」
なんだかとても、いや、かなり空気の流れを無視した言葉がぶっ飛んできた。
まぬけな表情で雄樹を見るが、やつは今か今かと俺の返事を待っているようだ。
うん、とりあえず。
「お前はアホだな、やっぱり」
「だから勉強教えてよー!」
うわーん! なんていつもの雄樹が、今の俺には嬉しくてしようがなかった。
聞けば、どうやら恋人である仁さんに「今度のテストで赤点取ったらバイト禁止」と言われたらしく、勉強を見てくれそうな俺に目をつけたらしい。体育祭も終わって高校初のテストも近いことは近いだろうが、中学でも一桁点数を取るようなやつにどう勉強を教えればいいんだ、俺は。
「あー、とりあえずさ、どこまで分かってんの?」
「え? 足し算と引き算と、あと簡単な掛け算と割り算!」
「……うん……うん」
なにも言えずに頷いておく。アホすぎて言葉も出ないとはこのことか。とりあえず雄樹が珍しく携えた教科書をパラパラめくる。
最初から教えりゃいいのか、俺は?
「て、ゆーかさ。テストって……」
「うん、来週だよー」
「……」
教科書投げ捨てたろうか、アホが。
「あははっ! ははっ、腹いってぇ……っ!」
「ちょっと仁さん、笑ってないでくださいよ!」
いつのまにか配られていたテスト範囲だけでも頭に叩き込ませようと、俺が学校でどれだけ苦労したかを仁さんに説明すれば、彼はひーひー腹を抱えながら爆笑している。
作りかけのナポリタンがいい具合にできあがっていたので退かせば、彼は笑いながら礼を言った。
「はーっ、あいつマジで馬鹿だなー」
「……恋人なんだから仁さんが面倒見てくださいよ、俺じゃ手に負えませんって、マジで」
「あー、いや。高校んときの勉強なんて覚えてねぇよ。だからまぁ、頑張れ」
「頑張れ、じゃないですってば」
げんなりしながらお粥を完成させてアホを呼ぶ。すぐにやってきたアホが元気よく運びに行く姿を見て、バイト禁止だけは阻止してあげたいとも思う。思う、が。
「……あんなアホ、どうしろってんですか」
「……なんか悪い」
二人で雄樹のアホっぷりに肩を落とす。が、すぐに俺は顔を上げた。
「隆二さんとか、豹牙先輩は?」
「あー……まぁ、頭はいいけどよ、教えると思うか?」
「……うん、難しいかもしれないかもしれない」
「どっちだよ」
自分で言っておいてなんだが、頼みの綱はもうどこにもない気がしてきたぞ。
「じゃあトラ、こうしようぜ」
「? なんですか?」
もともと厳つい表情をしている仁さんがニヤリと笑う。だから余計に凄味があるが、もう慣れている俺には悪巧みしているようにしか見えない。実際、その通りなんだろうし。
彼はどこからか取り出したチケットを俺の前に掲げる。
「雄樹が赤点免れたら、最近玲央と仲良くなった小虎ちゃんにご褒美として、この遊園地の入場券をやる――どうだ?」
……非常に、非常に不服ではあるが。
「……のった」
カウンター内で、無謀すぎる売買が行われているなどと、どこのアホが分かるだろうか。そう、分かるはずがない。俺がアホ過ぎた。
あとになって冷静に思えば、雄樹が赤点を免れるのはまぁ、なんとかしてやろう。しかし、しかし、だ。
遊園地の入場券を貰って、俺はそれをどうするつもりなんだろうか。
「……馬鹿だった」
がっくりと肩を落とす。それはバイトが終わって数時間だけ雄樹の勉強を見ていた疲れかもしれないが、そうじゃない。入場券を貰ってもどうすることもできない自分に対する呆れである。
兄と行けるとでも思ってたのか、俺は?
あぁそうだとしたら最悪に馬鹿なのはこの俺だ。
行けるわけがないだろうが、行けるわけが!
家に帰って一番にソファーになだれ込み、ずっと自分に呆れていること数十分、いい加減、風呂に入ろうと体を起こした瞬間、玄関扉の開く音がした。どうやら帰ってきたらしい。……噂をすればなんとやら、かな。
「おかえりー……」
「あ? なんだ、まだ起きてたのか」
「うん、今さっき帰ってきたとこ」
今はこうして普通に会話をしているが、やはり仲が改善された二日くらいは敬語で遠慮しがちだった。しかし俺が敬語や遠慮をすれば、兄貴は壁やイス、つまり物を殴ったり蹴ったりするのである。当然、自己防衛力が働いたのは言うまでもない。
そして一つ問題が解決したかと思えば、先にはもっとたくさんの問題が隠れていたのである。
実は、兄貴は他人の飯が食えない潔癖症だったのである。綺麗な店でなら食えるが汚い店は無理。顔見知りでも本当に親しいやつじゃなきゃ手作りなんてとても食えたものじゃない、なんて俺にしては不思議な潔癖症だ。
ちなみにデスリカの食べ物は口にしないが、カシストの食べ物は口にする。つまり、俺の知るところ、兄貴が他人の飯を食うのは仁さんだけだ。
だから兄貴が俺の飯を食わなかったのも俺が嫌いだからで、かじるようになったのは少しだけ俺を認めてくれたからで、でもまだ、やはり自分で作ったほうが安心できるのだと言う。それを知ったときの悲しみと喜びは絶対に忘れてやったりしない。
「飯、どーした?」
「まだ食ってねぇよ。てめぇは?」
「俺は食べてきた。仁さんとこで雄樹と」
「ふーん」
なぜか手荷物のない兄貴がさっさと台所に立つ。手を洗って冷蔵庫を物色していることから、飯の準備をするのだろう。なんだかなぁ。
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