とら×とら

篠瀬白子

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外出 1

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結果から言おう、雄樹は赤点だった。しかも全教科、である。
しかし俺と雄樹が必死に「寝てなかったら赤点じゃなかった」なんて説得したことにより、仁さんの怒りはなんとか鎮めることができた。
が、だからといって甘い話などあるはずもなく、雄樹は罰として当分、閉店後の掃除を一人でやることになった。憐れ雄樹、自業自得だ。
あとから聞けば、テスト前日になって緊張したらしい。いつもは緊張すらしない雄樹が、だ。それくらいバイトが好きなんだと思えば、なんだか教えた身としても少しは心が晴れるというか……。

とにかく、だ。
遊園地の入場券は貰えなかった。雄樹はなんとかバイトをつづけられている。それが結果である。


「……本当に、行くわけ?」
「約束しただろうが。行かねぇなら行かねぇでハッキリしろ」
「いっ、くに……決まってるだろうが」


そしてテストが帰ってきた週の土曜日、俺は約束通り兄貴と出かけることになった。
服を買ってやる。とか言われたが、正直兄貴と出かけられるのなら理由なんてなんだっていい。

ただ、問題なのは。

兄貴と出かけることが、こんなに恥ずかしくて堪らない、ということである。
だって、そうだろ。今まで家でしかろくに話もしてねぇし、デスリカとかカシストとか、体育祭のときだってまともな会話も交えていない。

それなのに「はいじゃあ出かけましょう」なんて、そんなの嬉しいとか混ざり合いすぎて恥ずかしいにもほどがある。

だけどYESかNOしかない兄貴の怒りを高めてしまう前に、俺はそんなやつの背中を追いかけた。
ご自慢のバイクに跨いだときには心臓が破裂しそうだったし、ご近所さんが目を丸くしてこちらを見ていたときは挨拶もぎこちなかった。

でもそれ以上に感じてしまうのは、本当に俺は今、兄貴と出かけようとしているんだってこと。
あぁ、良かった。今日が晴れてて良かった。ありがとう、天気予報のお姉さん。明日からもまた見ます。

しかし街に来てみれば、それまで感じていた喜びも落ち着きのないものへと変わってしまった。
最近、俺は兄貴と家でしか会ってもいないし話もしていなかった、だから、すっかり忘れていたんだ。

兄貴がこの街にとって、どれだけ凶悪な存在かを。

噂通り、兄貴が歩けば人は怯えた表情で避けていくし、肩があたってしまえば土下座まではしないが、こちらが申し訳なくなるほどの謝罪を見せてくれる。それでも兄貴は舌打ちをしていたが。
綺麗なお姉さんや可愛い女の子たちはそんな兄貴を熱を持った眼差しで見つめているし、行動派の人は話しかけても来る。しかし兄貴が放つのは「うぜぇ」「邪魔」「消えろ」である。

どうしよう……俺、この人と兄弟らしいこと、なんで望んでたんだろう。

そんな兄貴から少しでも距離をとれば、すぐに気づかれて睨まれる。だから必死に隣……とまではいけないのでうしろをついていくが、なんだか居心地が悪い。
あぁ、俺って……兄貴のこと、なんにも知らないんだな。そう言われている気がして、好奇と恐怖の視線に顔を俯かせてしまう。

なんか、切ない。


「おい」
「え……わぶっ!」


急に呼ばれて顔を上げれば、立ち止まっていた兄貴の胸にぶつかった。痛めた鼻を擦っていれば、周りの人たちは顔を青ざめて早々と去っていく。
まさか、こんな街中で……いや、殴らないだろう、うん、大丈夫。そう言い聞かせてはいるが、きっと俺の顔も青ざめていただろう。

しかし兄貴は舌打ちをこぼすだけで、目の前の店に入っていった。
呆然と立ち尽くしながら、周りから聞こえる安堵の息と好奇の視線に、俺もすぐさま店へと逃げるように足を踏み入れる。

カラァン。
扉についている鐘が来客を知らせる。
中は兄貴や隆二さんが好んでいそうなジャンルの服が並ぶ、恰好いい店だった。

天井にぶら下がるファンを見つめながら、なんて自分は場違いなのだろうと息を漏らす。


「いらっしゃいませ~。で、玲央。この子に合う服見立てればいーわけ?」
「あぁ」


呆然と立ち尽くす俺に寄って来たギャル男みたいな男が、面倒くさそうに俺を見る兄貴に話しかける。
その内容にいまいち頭がついていかないが、ギャル男が手を引っ張って奥へ連れて行くので、俺はなにも言えずにされるがままだった。

あのー、とか声をかけたりもしたが、ギャル男は俺と店に並ぶ服を交互に見たかと思えば、選んだ服を俺に持たせる。どうしよう、ついていけない。


「弟なんだって?」
「え?」
「アンタ、玲央の弟なんだろ?」


なのに突然話しかけてくるから、どこかへ飛んでいた自分が急いで戻ってきた。


「あ、あぁ……はい、そうです」
「ふーん。似てないね」
「よく、言われます」
「あははっ、ほんっと、似てねー」


畳まれていたVネックカットソーを広げながらギャル男が笑う。黒い肌に白い歯が異様に目立っていた。


「でも玲央と兄弟とか、マジ大変っしょ?」
「まぁ、そうですね……でも、意外と最近は楽しいです」
「あっは、なにそれ。じゃあ前は楽しくなかったんだ?」
「色々あったんです……」
「へー、ふーん? そうなんだぁ?」


ニヤニヤ。あまり好きにはなれない笑みを浮かべたギャル男が、持っていたVネックカットソーを俺に投げつける。
カゴとかねーのか、バカヤロー。


「ま、でも仲は良さそうじゃん。玲央がこの店に人連れてくんなんて、隆二しか見たことねーもん」
「あ……やっぱり隆二さんもこの店で買ってるんですね」
「買ってるっつーか、まぁ、買ってっけど。あの二人、モデルやってるからねー」
「………………は?」
「え、なに? 知らなかったん? あは、ごめんね?」


……はい?


ギギギと首を鳴らして兄貴のほうへ顔を向ける。やつは店の外で電話をしていたが、通行人が全員避けるように早足になっている。
ふたたびギャル男のほうへ顔を戻した。


「しゃーないわな。あんなイケメン、そりゃスカウトかかんねーほうがおかしいもん」
「……あー……えーと……なんか、その」
「ん?」
「だから、まぁ……ありがとうございます」


なぜ自分でもお礼を言ったのか分からない。
モデルをやっているという事実を教えてくれたから? 不可抗力だろうが。
イケメンって褒めてくれたから? 弟から見ても腰抜かすくらいにイケメンだがな。

そんな俺と同じ気持ちだったのか、ギャル男は驚いた顔をこちらに向けていた。


「やっぱ似てねぇー」
「……俺もそう思います」


なんだかもう、どうにでもなれ。

それからギャル男のチョイスでほいほい決まった服を試着しては「やっぱパンツ変えるべ」とか「ジャケットこっちにして」とか、まぁ散々だった。疲れた、という意味でだが。
それでもプロ意識なのだろう、ギャル男は自分や兄貴とは違ったジャンルのもので見立ててくれた。

例えば、ヴィンテージデニムジャケット・Uネック長袖カットソー・カーゴパンツ・レースアップブーツ、なんてコーディネートとか。
「上はジップパーカーにするだけでラフになるよ~」とかアドバイスを受けつつも、ちゃっかりパーカーを俺の手に投げるあたりは違う意味でプロ意識を感じたが。

そうして両手では抱えきれなくなった服をレジに置けば、どこかへ消えていた兄貴がやってきた。


「どうよ、ざっとこんなもんじゃん?」
「あぁ」


レジカウンターから落ちそうなほど大量の服をどこか自慢げに見せるギャル男をよそに、兄貴はさっさと諭吉を数枚取り出す。
ギョッとしながら固まっていれば、ギャル男は楽しそうに笑って、兄貴は反応すらしてくれなかった。

本当に買ってくれるとは……なんかもう、胸がいっぱいです。

会計を済ませて店のロゴが入った紙袋を両手いっぱいに抱えれば、兄貴はやはりさっさと店をあとにした。
ついていこうと少し駆け足になれば、グッと肩を掴まれて引かれる。


「玲央と隆二が載ってるやつ入れといたから、見てやって。んで、またおいでね?」
「あ……なんか、色々お世話になりました。ありがとうございます」
「うん、じゃねー」


肩からズレ落ちる紙袋の紐を直しつつも一礼して、俺は兄貴を追うために店を出る。
入って来たときと同じようにカラアンと鐘が鳴れば、不思議と胸が踊っていた。

俺は家での兄貴しか知らない。隆二さんたちと不良をしている姿も、モデルをしていることも、学校でなんて体育祭以来会ったこともないから特に、街でなんて今日歩かなきゃ絶対に知らないままだった。
だけど少しずつ、本当に少しずつだけど、俺は兄貴のことを知っていっている。潔癖症だとか、気に食わないと殴るくせに、ちゃんとそこに自分なりの理由があることとか、それがちゃんと悪だと分かっているとか、本当は意外と、自分の周りを見ていることとか。

目指している兄弟像とは限りなく遠いが、それでもこれが俺と兄貴だけの兄弟像なんだと思えば、なにをしてもされても嬉しくてしようがなかった。


「兄貴っ」
「あ?」


店の外で待っていてくれた兄貴に駆け寄って、身長差に悔しさを覚えつつ見上げ、俺は言う。


「今日、ありがとう。俺、すげー嬉しい」
「……」


照れながら笑ってしまえば収まらないもので、口元が緩みすぎて溶けそうだ。
あぁ、やっぱり未だに信じられない。あの兄貴がこうして、俺と一緒に外を歩いてくれている。俺に服を買ってくれた。今ならなにをされたって、許せる気がしてる。


「変なとこで素直なやつ」
「い、いいだろ、別にっ」


なのにそんな俺を呆れて見てくるもんだから、余計なプライドみたいなものが邪魔をする。
それでも兄貴が舌打ちもせずに歩きだせば、それだけで幸福だった。

それから真っ直ぐ帰るのかと思っていれば、大量の紙袋を駅前のロッカーに突っ込んだ兄貴は、なにも言わずに喫茶店へと足を入れた。
ついていけば昼のカシストとは違う、これこそまさに喫茶店とでも言える店内だった。
勝手にコーヒーを二つ頼む兄貴に文句も言わずにいれば、やつは早々と煙草に火をつける。


「なんだよ」
「え?」


そんな兄貴を見つめていたのだろうか。
不愉快そうな双眸がこちらを見る。すぐにやつの手元にある煙草へ視線を向け、誤魔化した。


「いや、ヘビースモーカーだなって」
「は? 煙草が苦手とか言わねぇだろうな?」
「や、苦手だったらもっと前に言ってるし」
「言えねぇくせに、なにほざいてんだてめぇは」
「……」


まぁ、実際その通りではある。
だが別に煙草の煙が嫌、だなんて女の子らしいことをいうつもりはない。
だいたい親父もヘビースモーカーだったし。そう、酒も浴びるように飲んでたっけ。
兄貴はそこまで飲んだりしないけど、でも比較的飲むほうなんだろうな。


「なんか……俺、まだ夢見てるみたい」
「はぁ?」


兄貴の呆れた声にハッとする。俺、今なんて言った?
慌てて口を手で押さえてもみるが、それが意味を持つことはなかった。

怪訝な表情をする兄貴から視線を逸らし、街の風景を見つめる。


「俺、こうして街に出て遊ぶの、久しぶりかも」
「……雄樹と遊んでねぇのかよ」
「ん、遊ぶけど、やっぱ夜のが多いし。学校では寝てばっかだし」
「そんなんでよく赤点取らずにいれたな」
「まぁ、暇があれば勉強してたから」
「へぇ」


意識して変えたつもりはないが、不思議と会話がつづいている。
こうやって俺がなにかを口にすれば、兄貴はちゃんと返事をくれる。

思えば、俺が言ったことは嫌々でも、前から実行していてくれていた気がするんだ。
俺が一人になるって言ったときはカシストに送ってくれたし、一緒に走ってって言ったときは走りはしないがゴールまで連れてってくれた。オムライスは誤解させたようだが、作ってもくれた。

兄貴面をかましてみろって言ったときは、いつもの無表情を変えて承諾してくれた。

兄貴は、俺が言えばちゃんと実行してくれる。それを俺はどこかで理解していたのかもしれない。
でも理解と信用が同等になるはずもなくて、結局は一人で勝手に落ち込んだり悲しんだり、しまいには怒鳴ってもみたり。

なのに、そうやって怒鳴っても「そうしてろ」って言ってくれる兄貴が、俺は好きだ。


「そういえばさっきの人に聞いた。モデルやってるんだ?」
「あ? あぁ、んなたいそうなもんじゃねぇよ。ババアに無理やりやらされてるだけだ」
「ば、ババア?」
「スカウトしてきた事務所の女社長」
「……へぇ」


先ほどのことを話題に出してみれば、やはり半信半疑だったことが事実となって驚く。
この顔でモデルってのは納得できるけど、あの兄貴が素直に承諾するとは思えない。絶対、金で動くようなやつじゃねぇもん。


「あの、詳しく聞いても、いい?」
「別に。ただスカウトされて、断ったけどババアが家に押しかけてきて、俺の首とっつかまえて写真撮って、それが雑誌に載ってるだけだ」
「……ごめん、ちょっと信じられない」
「俺もだ。あのババア、司以上に凶悪だろ」


げんなりとした兄貴が煙草の灰を灰皿に落とす。
司さんが凶悪、というのもまた信じられないことなのだが、街でも畏怖されている兄貴をモデルとして雑誌に載せる女社長とやらも信じられない。

聞けば、その女社長さんは泉ちゃんのお母さんで、それでも断りつづけた兄貴にたいして「泉のためにやりなさい!」とか言ったらしい。
当然、それで素直に言うことを聞くはずもないが、毎度毎度、拉致されては撮られるらしいのでもう半ば諦めているんだとか。


「でもさ、彼女のお母さんなら少しは協力してやれば?」
「あのなぁ、俺が他人のために動くと思うか? 形だけの彼女や隣歩くのは許した隆二のためでも動くわけねーだろ」
「……」


隆二さん、泉ちゃん、こんな最低な兄で本当にごめんなさい。
どうしてこいつはこう、自分が世界の中心なんだろうか。それでも人が寄ってくるから不思議だが、そこには納得せざるを得ないというか。
あぁでもだからって、自分のためにしか動きませんと宣言されれば、弟としては心配というか不安というか、それでいいのか兄貴、みたいな心情になるぞ、俺は。


「でも今日、兄貴は俺のこと連れてきてくれたじゃん。だから口ではそう言っても優しいやつなんだなって、勝手に思ってる」
「……だからよ、変なとこで素直っつーか。思ったことを口にする前に、少しは考えろ」
「なんで……?」


やっと兄貴に視線を戻せば、やつは歪んだ顔で俺を見た。


「聞いててこっちが痒くなる」


……すみませんね。



「そういえばさっきの人に聞いた。モデルやってるんだ?」

「あ? あぁ、んなたいそうなもんじゃねぇよ。ババアに無理やりやらされてるだけだ」

「ば、ババア?」

「スカウトしてきた事務所の女社長」

「……へぇ」


先ほどのことを話題に出してみれば、やはり半信半疑だったことが事実となって驚く。
この顔でモデルってのは納得できるけど、あの兄貴が素直に承諾するとは思えない。絶対、金で動くようなやつじゃねぇもん。


「あの、詳しく聞いても、いい?」

「別に。ただスカウトされて、断ったけどババアが家に押しかけてきて、俺の首とっつかまえて写真撮って、それが雑誌に載ってるだけだ」

「……ごめん、ちょっと信じられない」

「俺もだ。あのババア、司以上に凶悪だろ」


げんなりとした兄貴が煙草の灰を灰皿に落とす。
司さんが凶悪、というのもまた信じられないことなのだが、街でも畏怖されている兄貴をモデルとして雑誌に載せる女社長とやらも信じられない。

聞けば、その女社長さんは泉ちゃんのお母さんで、それでも断りつづけた兄貴にたいして「泉のためにやりなさい!」とか言ったらしい。
当然、それで素直に言うことを聞くはずもないが、毎度毎度、拉致されては撮られるらしいのでもう半ば諦めているんだとか。


「でもさ、彼女のお母さんなら少しは協力してやれば?」

「あのなぁ、俺が他人のために動くと思うか? 形だけの彼女や隣歩くのは許した隆二のためでも動くわけねーだろ」

「……」


隆二さん、泉ちゃん、こんな最低な兄で本当にごめんなさい。
どうしてこいつはこう、自分が世界の中心なんだろうか。それでも人が寄ってくるから不思議だが、そこには納得せざるを得ないというか。
あぁでもだからって、自分のためにしか動きませんと宣言されれば、弟としては心配というか不安というか、それでいいのか兄貴、みたいな心情になるぞ、俺は。


「でも今日、兄貴は俺のこと連れてきてくれたじゃん。だから口ではそう言っても優しいやつなんだなって、勝手に思ってる」

「……だからよ、変なとこで素直っつーか。思ったことを口にする前に、少しは考えろ」

「なんで……?」


やっと兄貴に視線を戻せば、やつは歪んだ顔で俺を見た。


「聞いててこっちが痒くなる」


……すみませんね。

それから頼んでいたコーヒーが来てもこんな調子で、俺が聞けば大抵のことは答えてくれるし、言い淀んでいれば煽って発言させてくる。
なんだかんだいって、ちゃんと兄貴面かましてる辺りが正直嬉しいけど、歯がゆい。

なんでもっと前からそうしてくれなかったんだって、女々しいことすら思ってしまう。


「あ? う、わ……玲央じゃん」
「あぁ? んだてめぇ」


喫茶店から出て今度こそ帰るのかと駅前を歩いているとき、兄貴の肩に誰かがぶつかってきた。
うしろ向きで誰かと話をしながら歩いていたせいで、兄貴が見えなかったのだろう。しかし相手が分かった瞬間、男の顔は見事に歪んだ。
しかしすぐさま笑みを張り付けると、恐怖から無理に出しているような声で兄貴に言ったのである。


「てめぇこそなに昼間っからうろついてんだよ
「……」


その発言に「あちゃー」なんて感情が俺の表情を生成する。あの男、死んだな。
兄貴の足が微かに動いたかと思えば、一瞬の間にそれが男の腹を蹴り飛ばしていた。


「誰に喧嘩売ってんだよ、てめぇ」


サァーと顔を青ざめているのは俺だけではない、周りの通行人全員だ。駅前とあって人も多いこの場所で、巻き込まれたくないNO,1を誇る喧嘩がはじまったのである。無理もない。
少しうしろに後ずされば、通行人だろう人間にぶつかってしまう。あぁもう、すみません。振り返った瞬間――。


――ガッ!

「……え」


なぜか、殴られた。
痛いといえば痛いのだが、正直驚きのほうが隠せない。
目の前の男は嫌らしい笑みで俺を見ている。あぁ、そうか。こいつら――。


「なぁ玲央、アンタさぁ、少しやりすぎなんじゃねぇの?」


兄貴と俺が歩いているのを見て、人質に取れると思ったのだろう。だから無謀な喧嘩を売ってきているのだろう。
両腕を取られて捕えられるが、俺と男を見る兄貴の表情はいたって普通だった。むしろ、つまらないものでも見ているような顔だ。


「で?」
「あ?」
「で、そいつ取って、てめぇはどうする気だって聞いてんだよ」


無表情なまま兄貴が男に問う。ため息まで出る始末だ。
俺は兄貴に蹴られた男がゆっくり起き上がるのを見て、危ないんじゃないかなと思っている。けど、口が動くことはなかった。

殴られるといつもこうだ。抵抗を忘れた人形みたいに力が抜ける。
あぁ兄貴、うしろを見てくれ。今アンタ、危ないんだ。

そんな俺の視線に気づいていたのだろうか、それとも自分で気づいていたのだろうか、起き上がった男のほうを振り向かず手の甲で殴れば、今度こそ男は沈んだ。裏拳……。


「ちったぁ考えて喧嘩売れよ、格下が」


平然と言いのけて、俺がいるというのに男の顔面に拳を飛ばす兄貴。
男がその反動で倒れていけば、掴まれている俺までバランスを崩してしまう。なのに兄貴が当然のように俺を掴んでくれるから、倒れることはなかった。


「そしててめぇは抵抗しろ」
「あてっ!」


んでなぜか小突かれた。意味分からん。
つーか三文芝居にもなりゃしねー喧嘩だな。

面倒くさそうに息を吐く兄貴を見上げながら、また知らないことを一つ知った気分になる。
なんか兄貴って……。


「んだよ」
「え? あ、いや……」


俺の視線に気づいた兄貴に若干睨まれる。慌てて視線を違うほうへ向ければ、顔を青ざめた通行人たちがみな、一様に驚きの表情を浮かべていた。
なんだか居たたまれなくなっていれば、男たちの存在などなかったように兄貴が歩きだす。少し躊躇いもしたが、俺はそんな背中を追いかけた。すみません、誰か手当てしてあげてください。

そのままロッカーから服を取り出して家に帰れば、消毒液を大量に含んだガーゼをべちゃりと当てられて……手当てともいえないそれが俺に施された。

兄貴との初お出かけは、そんな形で幕を下ろしたのである。

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