とら×とら

篠瀬白子

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お兄ちゃん 4

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「お兄ちゃん?」


拓美お兄ちゃんと難しい話をしていたお兄ちゃんは、少し強引に病院をあとにした。
帰りのタクシーから家に帰ってくるまでずっと無言で、怖い顔をしていて、でもずっと、俺の手を握ってくれていた。
上着を脱ぎ捨てるお兄ちゃんに声をかけると、横目でこちらを見るなりソファーに座った。


「小虎、ちょっとこっち来い」
「……ん」


ソファーに座るお兄ちゃんの前に立つ。
お兄ちゃんは俺をじっと見つめていたけれど、ゆっくりと手を伸ばし、俺の手に触れた。


「怖いか?」
「……え?」
「俺が触るの、怖いか?」
「……んーん、怖くない」
「じゃあ、」


そう言って、お兄ちゃんが手を振り上げる。とっさに目を瞑ったけれど、来るはずの痛みは来なかった。
恐る恐る目を開くと、なんだか痛いものでもあるような、辛そうな顔をするお兄ちゃんがいた。


「これは怖いか?」
「……怖い、けど……怖くない、よ?」
「なんで?」
「……だって、」


振り上がった手がゆっくりと降りる。今度は逆に、俺がそこに手を重ねた。


「だってお兄ちゃんのほうが、辛そうだもん」


そう言うと、お兄ちゃんはまた苦しそうになって、少し俯いたかと思うと、俺を抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。


「悪い、驚かせたな」
「んーん。大丈夫」


労わるような優しい手つきで頬を撫でてくる。うっとりして自分からすり寄ると、お兄ちゃんはもう片方の手で頭をぐしゃぐしゃ撫でてきた。


「自分がどんな顔をしてお前を殴ってたかなんて覚えちゃいねぇけどな、いっつも俺のうしろにくっついてきたお前のことは覚えてる」
「……お兄ちゃん、ちゃんと待っててくれたよね」
「そう、だったかもな。多分、一応自覚はあったんだろうよ、兄貴だってな」
「……?」


首を傾げる。お兄ちゃんはちょっと笑って、俺を支えるように腰に手を置いた。


「小虎、今のお前に言って、ちゃんと理解してんのか分かんねぇけどよ、でも何度だって教えてやるから、今から俺が言うことをしっかり聞け」
「うん……」


笑ったはずのお兄ちゃんの目が真っ直ぐ俺を見つめている。
けれど言いながら触れてくる手の優しさは、どこまでも温かい。


「……お前は覚えてねぇみてぇだけど、俺らが小さい頃からクソッたれ……親父は、おふくろを殴っていた。いっつも俺らの前じゃ笑ってるおふくろがよ、俺らに聞かせまいと声殺して泣いてんだよ。
そんときは多分、まだ俺はお前の兄貴としてまともだったんだろうけど、そんなおふくろの姿を見て、親父が悪なんだって認識した。だから俺は親父が嫌いだったし、外面ばっかいいとこも、家じゃまるっきり別人になるとこも嫌いだった。
なのにお前はそんな親父に懐いてよ、お前がいるときだけは親父もおふくろも、家族みたいに笑ってんだよな。

親父は気づいてたんだろうな。俺が嫌ってて、小虎が懐いてること。だから親父は俺の前じゃ笑いもしなかったし、おふくろの顔色も暗かった。

多分、そんときにはもう、俺はまともじゃなかったんだろうよ。いつからか、親父とお前の両方が嫌いだった。
ついてくんなっつっても必ず後ろにいて、ヘラヘラ笑いやがって、親父の外面みたいに俺に媚売ってくるお前が大っ嫌いだった」
「……にい、ちゃ」


口を開こうとする。けれどお兄ちゃんが俺の口に人差し指を押し付けてきた。


「今なら分かる。お前にそんなつもりはなかったってな。でもそんときの俺もお前もまだガキで、自分の感情でしか測れなかったんだ。なにが悪いとか、そうじゃないって言葉も全部、自分が一度決めたことしか受け入れなかった」


苦しそうに笑ったお兄ちゃんが、開いたままの俺の口から指を離す。


「親父は露骨に俺を嫌っていったよ。だから俺もますます嫌いになった。次第にお前の前でも口論するようになって、おふくろもお前を守るようになって……俺は多分、もう兄貴じゃなくなっていた。いつだったか、親父と口論したあとによ、お前が平然とお兄ちゃんって呼んだとき、なんかが壊れたよ。人間として終わったよ。俺はお前を、殴った」


知ることのなかったお兄ちゃんの本心。
すごく辛そうに、でも笑いながら言うお兄ちゃんの手に、そっと自分の手を重ねる。


「……でもお前は、やっぱり俺のあとをついてきた。ヘラヘラしながら、殴ると痛いって泣くくせに、俺にばっかくっついてきた。
恐かった……んだろうな、俺は。そんなお前が怖くて、余計に殴ったんだろうな」


ふぅ、と息を漏らしたお兄ちゃんが重ねた俺の手を握りしめた。すごく冷たくて、微かに震えているそれが、とても愛おしい。


「お前を引き取るって決めたのは、前にも言ったようにおふくろの遺言だったからだ。それ以上に……別れたときに見たお前の顔が忘れられなかったからだ。
でもいざお前が家に来たとき、俺の期待は裏切られたよ。
お前はな、あのとき、いや、もっとずっと前から俺を罵って良かったんだ。謝罪を求めて良かったんだ。
俺が最初に謝るべきだってことは分かってる、俺がこんなことを言うのもお門違いだって分かってる。
それでも小虎、お前は俺を怒鳴り散らすべきだった」


握りしめる手の力が増す。痛いはずなのに、それ以上に心が痛い。


「……殴れば、昔みたいになると思った。
余所余所しいお前を殴れば、昔みたいにお兄ちゃんって呼ぶんだと思った。
そんなことしか覚えてなかった。兄貴だった頃、どんな風にお前に触れて、笑って、一緒に過ごしたかなんて覚えちゃいなかった。
……けど、お前はまた俺の期待を裏切った。殴ったあと、お前はなんにも反応しねぇ人形みたいになっちまった」


ふいに見つめあっていた視線が外される。それでも俺は、お兄ちゃんから目を離せずにいた。


「自棄になったよ。なにがなんでも泣かせてやるって、自棄になった。
俺の知らない反応をするお前を認めたくなかった。泣いても俺のあとを付いてくるお前しか、覚えちゃいなかった。
早く罵って欲しかった。最低だって言われて、はっきり自分が人として終わってることを認めて欲しかった」


外していた視線が戻される。
弱々しい手つきで俺の頬に触れるお兄ちゃんの手は、冷たい。


「……でも、お前はそんな簡単には終わらせちゃくれなかった。
正直、な。そんなお前が嬉しかったよ。こんな俺を求めてくるお前が、昔のお前みたいで安心した。
俺は……ずっとお前に甘えてたんだ」
「……おにい、ちゃん」
「なぁ小虎、分かるか。今の話でちゃんと分かったか?
お前を殴ってきた目の前の男はな、こんな歳になってもガキの頃と同じ物差ししか持ち合わせちゃいなくて、人を殴ることでしか気持ちを晴らせなくて、自分のせいで目の前に倒れる弟にかける言葉も知らない馬鹿で、最低な奴なんだ。お前がしがみついてまで、求められる人間じゃない」
「にい、ちゃ……っ」


暗い色に染まった瞳が嫌だ。お兄ちゃんが離れることは、嫌だ。
首を横に振る俺に、お兄ちゃんが両手で頬を支えてきた。


「でもな、プライドが高くて節操がなくて、矛盾ばっかで素直になれなくて、暴力でしか解決できないこんな屑でも、俺はお前をもう、絶対に傷つけねぇ。殴らねぇ、蹴らねぇ、叩かねぇ――置いて行かねぇよ。
お前が求めんならどんなことだってするし、お前が嫌ならなんだって切り捨てる」


ふっと、息が漏れる。喉に詰まった感情が、体の至るところから漏れていく。
体が震える。目が霞む。鼻の奥がツンとして、奥歯がガチガチと音を立てて堪えきれない。


「お前が親父とどんな生活を送ってきたのか、本当はお前の口から聞かなきゃいけねぇんだろうけどよ、お前は怖かったんだろ?
どんな生活を送ってきたのかを俺が知って、罪悪感に蝕まれて、お前と距離を取るんじゃないかって怖かったんだろ?」
「……っ」


頬に添えられたお兄ちゃんの手に触れる。今度は逆に、俺が震えていた。


「馬鹿トラ、いいか、よく聞け。
俺がお前を殴ってきたことは事実だし、俺とお前がどんなに仲良くなったって、それは忘れちゃなんねぇよ。罪悪感は消せねぇし、それを理由に余所余所しい態度を取ることもきっとある。でもだからって、俺がお前を置いていくことはありえねぇ」
「で、も……っ!」
「信じられねぇのは分かってる。でもお前は悪くないんだ。なにも、悪くない。だからたくさんワガママ言って、俺を振り回して、うんと甘えろ」


でも、だってお兄ちゃん。俺が悪いってお父さんは言うんだ。いっぱい殴りながら言うんだ。
俺が悪いからお兄ちゃんは置いて行ったんだって、そう言いながら笑うんだ。


「お前が親父に、あんなクソッたれになに言われて苦しんでんのか俺は結局全部は分かんねぇけどよ、それでも小虎、お前はなにも悪くない」


でも、だってお兄ちゃん、兄貴、俺が悪いから、だから置いて行ったんでしょう?
だってそうじゃなきゃ、俺が殴られていたあの五年はなんだったの。


「俺はお前に同情して欲しくて昔話をしたわけじゃない。何年でも何十年掛かったって構わねぇよ。お前が五年、こんなになるまで苦しめたクソッたれと、なんにも知らずに胡坐かいて甘えてた最低な俺、どっちの言葉を信じられるか、いくらでも待ってやる」


だってお兄ちゃん、でも兄貴、そんなこと言ってもねぇお兄ちゃん、俺は――。


「だからお前のペースで、ゆっくりでいい。こんな資格のない俺の言葉をいつか、信じてくれ小虎」


ぼろり、と涙が落ちた。
見開いた目から次々こぼれるそれは、俺の頬を優しく支える大きな手を濡らす。
奥歯がまだガチガチ音を立てているが、それ以上に心臓が痛い。胸の奥がすごくすごく、痛い。


「……さみ、し……かった……」
「……小虎?」


見開いた目で見つめる俺を覗き込む瞳に、情けない自分自身が映り込んでいる。
重ねた手で大きな手を握りしめると、もう、我慢なんて出来やしない。


「こわっ、かった……っ、だって、俺、もう置いてかれたく、ないっよ……っ! 迷惑かけたく、ないし、邪魔にもなりたく、ない、けどっ、でも、だって甘え方なんてっ、誰も教えてくれなかったっ!」
「……小虎……」
「我慢することしかっ、教えてくれなかったじゃんっ!」
「小虎……」
「突き放してっ、殴って、俺のこと否定してっ、今さら信じろとかふざけんなっ! 俺のこと散々馬鹿にして、兄貴面しろって言ったら本当にするとかっ、そんな矛盾ばっかのアンタがむかつくんだよっ!」


そうだよ、すごくむかついたんだ。今さらなんだよって、思ったよ。
でも知らないだろうけど、そんなことでも舞い上がっちまう馬鹿な俺はな、ここにいるんだよ。


「男のくせにボロボロ泣いちゃうくらい、喜ばせんな……っ! 変な潔癖あるくせに、俺の作った料理食うとかなんだよ、それぇっ、なんなんだよぉっ」


ドンッと目の前の胸板を叩く。それでもなんの反応もせず、ただ真っ直ぐ俺を見つめる瞳は温かい。


「女遊びだって、喧嘩だっていいよっ、いくらでもしたっていいっ。でも、ダメだ、ちゃんと朝、おはようって言ってくんなきゃダメなんだよ……っ、家ん中が広くて寒くて、俺……さみし、かったんだ……っ、寂しいんだよっ、馬鹿れおっ!」


鼻水も涙も垂れ流して、俺は目の前の獣に抱き着いた。そんな俺の背中を抱え込む玲央の腕が、こんなにも愛おしい。


「たった一日なのに……すっげぇ寂しかったんだよ、俺は……っ」
「あぁ」
「朝の挨拶が当たり前になったのも、こんなに寂しくなんのも玲央のせいだっ、玲央のせいだからな……っ!」
「あぁ、そうだな。俺が悪かった」


無茶苦茶なことを泣き叫ぶ俺に、玲央は穏やかな声で応えてくれる。
抱きしめる両腕に力がこもり、互いの肌が密着する。


「もっと……ぎゅってしろ……っ」
「はいはい」
「わら、うなぁ……っ」
「ったく、ワガママだな」


笑いながら言われた言葉に体を離す。でも離れ難くて顔が見えるくらいの位置で睨んでやった。


「ワガママで、いいんだろーが……」
「あぁ、もっと言えよ、たくさん甘えろよ、寂しがり」
「……うる、せ……っ」


ぐすっと鼻をすする。玲央は笑いながら俺の涙を舐めてきやがった。


「どんなお前だって、俺は逃げたりしねぇよ」
「……ばかれお……」
「照れんな、馬鹿トラ」


そう言って、涙や鼻水に塗れた俺の顔を何度も何度も舐める玲央が、そのうち色んなところに唇を寄せてきた。大人しく受け入れていると、ふいに間近で目が合った。


「不安にさせて悪かった。もう無断外泊はしねぇから、許してくれるか?」
「……やだ」
「じゃあどうすりゃいい? どうしたら機嫌直んだよ、小虎」


ちゅっちゅっと音を立てながら目尻や鼻の頭に唇を落とす玲央の声は甘い。ぐりぐりと重なった額が温かくて、本当は許すとか許さないとか、もうそんなことも考えられないくらいに気持ちが良い。
でも、勢いで憎まれ口を叩くこの心地よさからまだ、抜け出したくはない。


「……一緒に寝てくんなきゃ、許してやんない……」
「なんだよ、そんなことでいいのか?」
「そんなことじゃない……いっぱい、くっつきたい……っ」
「おいまた泣くなよ。せっかくワガママ言うようになったと思ったら、要求が低くて驚いただけだ」
「……低く、ねーし」
「はいはい、俺が悪かった」


最後に額に唇を寄せ、少し名残惜しそうに離れた獣がコツンと、額を重ねた。


「おかえり、小虎」
「……っ」


色んな意味の篭ったその言葉を耳にした瞬間、俺はまたぼろりと涙をこぼしたのであった。




「結局お前、朝俺がいなくて寂しくて、そんなときに巴の野郎に服捲られてああなったのか?」
「……その言い方はむかつくんですけど」


あれから(俺だけ)気まずい空気の中、玲央の作った相変わらずしょっぱいご飯を食べ、風呂に入り、寝るわけでもないのに玲央のベットに横になっている。
とはいっても玲央はヘッドテーブルの前に枕を置いて、そこに背をつけながら煙草を吸っているし、俺はそんな玲央の腰に抱き着いて寝転んでいる。なんとも恥ずかしい状態だが、散々恥を晒したのだから今日一日くらいは堪能してやるさ。


「んだよ、また機嫌悪くなったのか?」
「……いいよ、もう」


拗ねる俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でる玲央の手から逃れるように顔を下に向けると、ぽんぽんと叩かれた。


「拗ねんな。おら、顔見せろ」
「……」
「はっ、ぶっさいくな面」


大人しく顔を見せた俺になんたる屈辱。むかついて玲央の足をぺちぺち叩くと、くすぐってぇよなんて言葉が。ちくしょう。


「……黙ってて、ごめん。迷惑かけました」


いくら克服したつもりでも、やっぱり恐怖心と言うのは早々消えないようで。
俺の奥底に根付く親父の言葉は、ふとした瞬間俺を苦しめる。できるだけストレスは溜めないように雄樹とはしゃいだり、お粥作りに励んだり、無我夢中で勉強したりしたけれど、この背中だけはどうしても、切っても切り離すことはできないのだ。


「幼児退行……とか、自分でも情けないと思うけど、でも俺、自分だけ苦しんでる訳じゃないって分かってるから。だからもう二度とこん、なっ!?」


人が素直に謝っているというのに、玲央は突然背中に手を這わせてきた。しかもなんてことないように擦ってやがる。


「ちょ、玲央……っ、いくら気を付けるっつっても俺は……っ!」
「見せろ」
「はぁっ!?」
「見せろよ。そんで俺にも寄こせよ、お前の抱えてるもん、寄こせ」
「……れ、お……」


煙草を口に咥えたまま、目を細めて俺を見下ろすその瞳は真剣で。急なことで強張っていた体から力が抜けていく。

そんな俺に気づいた玲央が、咥えていた煙草を灰皿に押し付け、ゆったりと俺に覆いかぶさってくる。
心臓がバクバクと音を立ててうるさくて、でも、服越しに伝わる玲央の手が熱くて、なんだか不安と安心で頭がごちゃごちゃだ。


「小虎、さっきも言ったけどな。俺はいくらでも待ってやる。お前が本当に嫌なら見ねぇし、もうなにも言わねぇよ。でもな、お前のことは守りてぇし、だからお前のことで俺が知らないことを、全部無くしたい」
「……っ」
「少しずつでいいから、俺のことを信じろ。んでお前のこと、もっと教えてくれ」
「……う……っ」


頭上から聞こえる甘い声と言葉に頬が赤く染まる。
どこまでも優位に立つ語彙には多少むかつくが、そんなことも今さらだ。
恐る恐る、弱々しく、優しい手つきで玲央の手が俺の服の中へ入ってくる。腰回りをゆったりと撫でながら、指の腹から徐々に手の平すべてが肌に密着し、背中へと上がってくる。


「小虎」
「だ、いじょぶ……だか、ら……っ」


そんな肌と肌の触れ合いにふたたび強張る体に気づいた玲央が名前を呼ぶも、いっそのこと早く背中を見せたほうがマシだと声を荒げた。
恥ずかしさと恐怖心から玲央のほうを見ずにいる俺がぎゅっと目を瞑ると、玲央はそっと服の端を握った。
ゆっくり、ゆっくりと肌を撫でながら脱がされていく感覚は脳天を突き抜けるほど甘美で、なんだか度し難い。ついに背中全体が露出した瞬間、情けないことに体が震えた。


「……思ったより消えてんな、火傷の跡」
「ん……手術して、なんか薬、いっぱい塗られた……から」
「其川って野郎にか?」
「他に、誰がいんだよ……っ」


条件反射で震える体が煩わしいが、思考は至って正常なままだ。
また記憶が飛んで幼児退行することを恐れていたのが馬鹿みたいに、俺は今、安心感に満ち溢れていた。
つい涙が出てきてしまい、慌ててシーツに顔を押し付ける。


「ふーん、妬ける」
「は? えっ……やっ、ぁんっ!」


ぴちゃ……なんて音を立てて、意味不明なことを言った玲央が俺の背中を舐めた。舐めやがった。


「なんつー声出してんだ、お前」
「んっ……だって、れお、が……っ、ん、ふっ」
「……はっ、背中も甘いな、お前……」
「んなわけ、ありゅ、か……っ!」


恐怖心なんてもうどっかにいっちまったよ。もうなんだよコレ、つーかなにしてんだ玲央のやつ。
尾てい骨から肩甲骨の中心まで、ゆったりとした動作で舐め上げる舌の熱さに体が跳ねる。腰に添えられた玲央の手にすらもどかしさを感じて歯を食いしばると、今度は背中の中心に唇を落とされた。


「ちょっと、玲央、ほんとになにして……もう、ほんと、ふっ、はははっ」
「なに笑ってんだテメー」
「あははっ、ん、だって、はははっ」


突然笑い出した俺に驚いたのか、玲央が俺の顔を覗き込む。観念して目を合わせると、ますます笑いがこみあげてきた。


「だって、俺今までずっと怖かったのに、幼児退行するなんて情けないことになってたのに、いざ玲央に背中見られても全然怖くないっつーか。なんだ、もっと早く打ち明ければ良かったって思ったら、つい可笑しくて……ふ、ははっ」
「自分の甘える遅さを自覚できて良かったじゃねーか」
「ふはっ、うる、せっ」


なんだよ、もう。なんなんだよ、本当にさ。
なぁ玲央、俺がこれでどれくらい悩んでたか知ってるか? 知らないだろ?
親父と送ってきた生活の悲惨さを玲央に知られるのが怖くて、知った玲央が罪悪感を余計に感じて、離ればなれに暮らすことになったらどうしよって、ずっと悩んでたんだよ。なのにいざ蓋を開けてみれば今、俺笑ってんだよ。


「あー……ふふっ、俺さぁ、やっぱり玲央が好きなんだなーって思う。ブラコンだわ、これ」
「知ってる。まぁ俺も似たようなもんだろ」
「はぁ? 玲央が? ブラコン?」


驚いた俺に玲央が服を元に戻し、抱き上げてきた。
そのまま自分はヘッドテーブルに背をつけ、俺を後ろから抱き込む様に扱ってくる。


「お前がデスリカで見たあの女、歌手なんだけどよ。MVに出ろってしつこくされてな」
「あぁ……うん、巴さんから聞いた」
「は? ……まぁ、それで一流だか知らねぇけど食事に付き合わされて、あの女、飯食ってるときに咳すんのはいいけどよ、口を手で覆ったり、顔を逸らしたりしねぇんだよ。そのあとは全部残して煙草吸ってやった」
「え、いやまぁ……うん」
「んで、そんとき、つーかそこの飯食ってるときから思ってた。お前の料理が食いてぇなって」
「は?」
「ちゃんと食ったのは一回だっつーのに、自分でも信じらんねぇよ。俺も相当ブラコンだろ?」
「……」


煙草を吸う玲央のほうから煙が漂う。それが目に染みた訳でもないが、俺は両手で顔を覆った。


「照れんなよ、馬鹿トラ」
「……うる、せぇ……っ」


照れるに決まってんだろうが。嬉しいに決まってんだろうが。耳まで真っ赤になるくらい、顔に熱が集中しちゃうのはしょうがいないだろうが。
そんな俺の反応が楽しいのか、俺の頭の上に顎を乗せてきた玲央が喉を鳴らして笑った。


「前々から思ってたけどよ、俺もお前も互いのこと、なーんも知らねぇよな」
「……そうかも、ね」
「あぁ、だからお前がどんな目にあってきたか、お前の口から聞きたい。俺のことは俺が自分で教えてやりたい」
「……ん、でも玲央、俺は……」


まだ少し、やっぱり怖いよ。そう出かけた言葉が止まる。玲央の手が、俺の口を覆っているからだ。


「待ってやる」
「……」
「お互いのことを知るべきなんだとしても、俺らに足りねぇもんがそれだとしても、お前がいつか話してくれんのを待ってやる」
「……っ」
「まぁ、それまでは今回みてぇなことが起きてもなんとかしてやるよ。優しいお兄様に感謝しろよ?」
「……ふがふが」


優しいお兄様って……自分で言わないでくれます?
パッと手を離した玲央がまた喉を鳴らしながら笑った。


「とりあえず今回よーく分かった。甘え下手は溜めに溜めて、とんでもなく振り回すってことがよ」
「……もう返す言葉もございません」


ふたたび両手で顔を隠す俺を、玲央はクツクツと笑うのであった。

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