スブロサ

一花みえる

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7.ブルームーン

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 秘密を抱えるということはとても苦しい。しかも、誰にも言えないことであれば尚更だ。そのことが逆に二人の仲を深めるということはあるだろう。でもこれは、少なくとも俺にとっては毒以外の何物でもなかった。そもそもお互いを愛称で呼び、二人きりの時は敬語を使わないことは二人の秘密だとしても、俺が主人であるディヴィッドに情欲を抱いていることは誰にも話していない秘密だった。
 さっさと吐き出して楽になりたいと思う反面、言ったところでどうしようもないという絶望も俺の中には存在する。結局のところ、言っても言わなくても俺はただ苦しいだけなのだ。
 あの日からディヴィッドは俺のことを微妙に避けていた。相変わらず二人きりの時は俺のことを愛称で呼ぶし、話しかければ一瞬だけ顔を輝かせる。でもその後すぐに何かを堪えるような顔をして、そうしてうつむくのだ。例えば夜寝る前とか、俺が部屋を出ていく直前に少しだけ悲しそうに名前を呼ぶ。でも結局何も言わず、なんでもない、とだけ言ってベッドに潜り込むのだ。

 それ以上のことは自分から話しかけることもしないし、触れようとしたらすぐに身を翻して去ってしまう。まるで初めて出会った時のようだ。いや、その時よりももっとひどい。あれから俺たちは少なくとも距離を縮めていたし、その結果俺は抱いてはいけない感情を俺は持ってしまった。そういう醜い感情を抱いてしまったが故に、今のこの関係がとてつもなく苦しかった。
 それならいっそ、ひどく嫌ってくれた方がまだマシだ。出会ってすぐの頃のように顔を見れば悪態をつかれ、姿を見かければ逃げられ、名前なんて決して呼んでくれなかったあの頃の方がまだ気持ちは楽だった。嫌われているのであればこちらもある程度の距離を取っていればいい。事務的に仕事をし、必要以上に近づかなければいい。でも今は違う。少なくとも、近づきすぎと自分でもわかるくらいには距離を縮めていた。それがいいか悪いかは、また別として。

 しかしそんなことを言ってもディヴィッドがパブリック・スクールに入学する日は刻一刻と近づいている。屋敷内でも荷造りや書類手続きのために少しずつ忙しなくなっていた。それが逆によかったのか、毎日膨大な仕事に追われていると少しはディヴィッドのことを考えなくてすむ。制服の採寸をし、真新しい洋服を箱に詰め、替えのインクやペン先を皮袋に入れ、向こうでも寂しくないようにとお気に入りのテディベアを持っていくかどうか確認し、そんなことをしているとあっという間に時間は経っていく。クリスマスには帰ってくるらしいけれど、その時俺は本邸だ。きっと彼はここに直接戻ってくるだろうし、そうなるともう本当に、次いつ会えるかわかったものじゃあない。
 こうやって毎日なんの理由もなく会えるのは、もう後数日なのだ。そう思うと、どうしてこんなにも距離ができてしまったのだろうかと悔やまれて仕方なかった。
 それにもう一つ。
「うっ……は、ぁ……」
 俺には、隠しておかなければいけないことがあった。
「はー、あ……っ、は、っ、あ、あぅ、う……っ」
 毎晩、自分で自分を慰める時。思い浮かべるのはいつだってディヴィッドだった。彼を慰めたこの手で、自分のものも慰める。決して名前を呼ばないようにと気をつけながらも、それでも彼の痴態を想像せずにはいられなかった。
 それはいつの間にかさらに過激になってきて、現実では後ろから抜いたことしかなかったのに彼の小さな体をかき抱き、足を広げ、そうしてそこを己の熱で貫くことさえも考え始めた。
 一体どんな顔で泣くのだろう。一体どんな締め付けで俺を愛してくれるのだろう。一体どんな声で俺の名前を呼ぶのだろう。
 そんなことを考えると、どんなに体が疲れていてもすぐに熱は起き上がり、しとどに濡れ、そうしてあっという間に達してしまうのだ。
「あ、ああ、あ……っ、あー……っ」

 頭の中でディヴィッドは白濁を吐き出した。それと同時に自分の右手に生暖かい感触が広がる。手のひらにべっとりとこびりついた青臭い体液を眺めながら、なんて自分は最低なんだと悲しくなり、そうして小さく舌打ちをした。
「最低だな……本当」
 こんなことを考えるくらいならさっさと本人に打ち明けて、こっぴどく嫌われてしまいたい。でもそんなことになったらきっと、自分の気持ちが耐えられないだろう。彼に嫌われることがこんなにも恐ろしいだなんて。最初はなんとも思っていなかったのに。
 あの菫色の瞳が、二度とこちらを向いてくれなくなったら、なんて。そんなこと、絶対に考えたくなかった。
「……それも時間の問題だな」
 しかし現実はもう後少しでディヴィッドと別れることになる。遠い遠いパブリック・スクールの、誰がいるともしれない寮に入るのだ。俺は本邸に戻ってまた執事としての勉強をすることになるだろう。また退屈な日々が始まるのかと思うと、きゅうと胸が痛くなり、閉じた目からは一筋の涙が溢れてきた。
 俺が泣いていい立場ではないはずなのに。こうしてセンチメンタルな気持ちに浸って、一人で涙を流すなんて。やっぱり愛は、いいものじゃない。甘いだけのものじゃない。いつだかディヴィッドとそう話した夜のことを思い出して、少しずつ自分の中であやふやだったものが輪郭を持ち始めたことに気がついた。

 愛、なんて。そんなもの今まで考えたことがなかったけれど。今になって、愛しい人がいなくなると実感してようやく、その答えが出そうになっていた。
「おせーよ、何もかも」
 枕に顔を突っ伏してそう呟く。早く寝ないと明日の職務に差し障りがあるのに。目を閉じたらやっぱりディヴィッドの顔が浮かんでしまって、結局その日はうまく眠ることができなかった。
 夢の中ではこんなにも笑っているのに。目を覚ましたらお前は笑ってくれない。その事実があまりにも苦しくて、湿った枕カバーが頬を濡らした。

***

 しかし時間は確実に進んでいて、ついにその日がやってきた。大きなトランクを抱えたディヴィッドが、真新しい制服に身を包んでいた。朝起きてから今まで、ディヴィッドは緊張しているのかろくに言葉を発しなかった。それもそうだろう。以前は彼が優秀すぎたが故に飛び級をし、その結果友人と言える人は一人も作れなかった。いつだって、どこにいたって爪弾きにされていた。
 今回のパブリック・スクールだって本来ならまだ入学するには若い年齢だ。そのことでまた、前回と同じように嫌な思いをするのではないか。そう心配しているのかもしれない。でもそれはあまり気にしなくていいし、むしろ誇っていいのだとエリザベス様に言ってもらい、ようやく落ち着いたそうだけど。

 確かにディヴィッドは賢くて聡いけれど、それを自分の能力ではなく「ノールズ家」の血筋だからと言って卑屈になってしまう。目の色が明るく澄んでいるから、だからなんだと言うけれど。実際はその裏でそれ相応の努力をしていることを俺は知っている。それに本当は、その努力を認めて欲しいということも知っている。
 だからこそ余計に心配になるのだ。自分よりも年上の学生たちからしてみるとそりゃ面白くないだろうし、目についてしまうことはもうしょうがない。嫉妬や妬みのせいでまた辛い思いをすることになっても、逃げる場所はない。せめて俺が近くにいてやれたらと思うけれど、特殊な事例を除いて使用人は連れて行ってはいけないのだそうだ。
 だからこれが最後の給仕かと思い深緑のジャケットを着せていると、こちらに背中を向けたままのディヴィッドが何か言いたそうに俺の名前を呼んだ。
「ね、ヴィンス」
「ん?」
「え、っと」
 シワもシミも一つもない新品のジャケットは、少しだけ大きい。背が伸びてもちゃんと着られるようにという配慮で、そのせいで今はぶかぶかだった。

 そのジャケットの、袖のあたりと指先でいじっている。何か話したいことでもあるのだろうか。最近いつもこうい顔をしていた。伝えたいことはあるのに、言葉が詰まって声にならない。言いたいことはたくさんあるのに、なんと言えばいいかわからない。そんな顔を、いつも俺に向けていた。その度に俺は聞き出すこともしてやらず、無理に聞くのも悪いからと変な言い訳をして見逃していたのだ。とは言ってももうこれを逃すと直接あって話すことなんてできなくなる。
 でも今は、迎えの車がもうすぐ来るからあまり長いこと話せない。きっとそれはディヴィッドもわかっているのだろう、意を決するように大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「あの日、なんだけど」
「あの日って。どれだよ」
「えーっと、ヴィンスがお休みをもらった、次の日」
「……ああ」
 つまり、俺たちがぎこちなくなった日のことだ。あの日が一体どうしたというのだろう。もうすぐ会えなくなるのだ、せめて最後くらいはいい気分で別れたいのに。しかしそんなことも言えない。俺はただ黙って先を促した。
「ご……ごめん、なさい。変に無視したりして」
「えっ」
 想定外にしおらしく謝られて、正直拍子抜けした。てっきり文句の一つでも言われると思っていたのに。ただ、どうやら本人の中ではわざと距離を置いたことが気に病んでいて、申し訳ないと思っていたようだ。
 本当に、もう。そういう姿を見せてくるから。どうしても俺は、お前のことを忘れられないのだ。
「やっぱりお前、俺のこと避けてたんだな」
「うっ、そう、だけど……なんだか話そうにも切り出し方がわからなくて。それにみんな忙しそうだったから」
「それは正解だな」

 ようやくいつも通りに話せるようになったな、と胸をなでおろす。一体何が原因であんな態度をとったかはわからないけれど、それでもディヴィッドの中で一応解決したようだ。
 そもそも俺はメグと何かしたわけでもない。一緒に寝たけれどただそれだけだ。非難されることは何一つしていないのだから。というより怒られる謂れもないし。でも、だからこそ、どうしてディヴィッドがそんな風に起こっていたのかはわからなかった。
 子供らしい独占欲や、潔癖なところが出たのだろうか。それとも好きでもない女性と一晩過ごしたことに対する呆れだったのだろうか。それはもう、わからないけれど。もしもそれ以上の何かがあるのであれば、聞いてみたいとは思った。
 知らない方がいいかもしれないけれど。でもそれは、単なる俺のわがままだ。
「せっかくヴィンスはお休みで、外で遊んできたのに。僕があんなことを言ったから気分を悪くしたかなって心配だったんだ」
「いや別に……むしろ俺の方が不思議だったんだぞ。なんであんな風に俺を避けたんだよ」
「なんでって……」
 何か言おうとしてパカリと口を開いたはいいけれど、そこから先にどんな言葉を紡げばいいかわからなかったようで、困ったように首を傾げられた。つられて俺も首をかしげる。本人がわからないんじゃあ俺にもわからない。

 それに、今はもう時間がない。あと数分で車はやって来るだろう。廊下から俺たちを呼ぶアリーチェの声が聞こえてきた。ああ、これで本当にタイムアップだ。これ以上はもう、俺たちは一緒にはいられない。本当は強く抱きしめたいのに。それさえもできず、ありふれた餞別の言葉しか送ることができない。別れを惜しむ恋人にさえなれないなんて。
 最後に一度、首に巻いたネクタイを整えてやる。しっかりやれよ、と頭を撫でてやって、まだ言葉に困っていたディヴィッドに部屋のドアを開けてやった。
 ドアの向こうは燦々と日の光が差し込んでいて、旅立つにはちょうどいい日和だった。寒すぎもせず、暑すぎもせず。眩しすぎもせず、暗すぎもせず。きっとディヴィッドの人生をこれからもずっとこんな風に照らしてくれるだろう。そう思うと瞼の裏がじんと熱くなる。それをごまかすために一度振り返って、無理やり下手くそな笑顔を作った。
「さあ、行きましょうか。ディヴィッド様」
「うん……ヴィンチェンツォ」
 こうして俺たちは、前と変わらない主人と家庭教師に戻っていく。甘やかな触れ合いも、軽い呼びかけも、全てを忘れて。さよなら、さよなら。俺たちの秘密の日々。秘密の関係。誰にも知られずにただ薔薇の花だけが聞いていたあの夜の言葉。それらを全部抱えて、俺は死ぬまでずっと、大切な宝物として慈しむのだろう。
 そうして俺たちは、いつも通り、本来あるべき形へ戻っていった。

***

 ディヴィッドが別邸を去ってから一週間が経った。言葉にしてみれば簡単なことで、しかし体感からすると驚くほどに長い。こんなにも一日は長かっただろうかと時計を見ながら驚くほどだ。この一週間でディヴィッドの部屋を片付け、それから自分の荷物も綺麗にまとめた。細々したものを整理していると思いの外時間がかかって、本来なら三日ほどで本邸に戻るはずが一週間もかかってしまった。
 本当は、この館を離れたくなかったのだ。まだかすかに残るディヴィッドの気配を感じたくて、ここから離れたくなかった。そんな女々しいことを思いながら、ふと足が向かった先は図書室だった。
 今は誰かに会うのがなんとなく嫌で、そうなるとここくらいしか一人になれる場所がない。それにここは、いつも優しく俺を迎えてくれていた。
 そういえば最近は忙しくて本を読むことを忘れていた。一時期はあれほどまでに読み漁っていたのに。ディヴィッドがいなければ全く手を出さなくなるなんて。
「相変わらず埃っぽいな」
 ドアを開けるとうっすらとそこは光が差し込んでいるだけで、驚くほどに薄暗かった。キラキラと埃が舞っている。俺が整理をしてから誰も手をつけていないのだろう。この屋敷にいる人で日常的に小説を読む人はおそらくディヴィッドだけだった。

 エリザベス様は日々の業務や社交に追われているし、どちらかと言うと小説は世俗的なものであまり好まれない。難しい哲学書が素晴らしいとは思わないけれど、確かに実りある書物だとは感じる。きっと彼女もそうなのだろう。俺もそうやってしつけられてきた。家庭教師や執事になるために必要なものだけを、良いものとして与えられてきた。
 でもここに来て、ディヴィッドと出会って。一緒に過ごしたのはほんの一ヶ月程度だけど。それでも多くのものを教えてもらった。小説の楽しみも、ほんの並べ方も、それから。
「愛、ね」
 愛とはどんなものだろう。俺にとって、ディヴィッドにとって、それは一体どんな形をしているのだろう。そんなこと今まで一度も考えたことがなかった。今まで知ることもなかった。考えることもなかった。
 それほどまでに俺は、偏った知識しか持っていなかったのだ。小説を読んで初めて人と人が抗えないほどの力で惹かれあい、そうしてその恋のために命を落とすことを知った。きっと数ヶ月前の俺は「そんなバカなことがあるか」と笑い飛ばしていただろう。でも今ならわかる。会えないのなら、叶わないのなら。もうこんな世界、なくなればいい。そう思ってしまえるのだ。そんなこときっと、ディヴィッドに出会わなければ一生知ることはなかっただろう。
 ディヴィッドに出会えて本当によかった。そう思う一方で、どうして今隣にいてくれないのだろうかと恨めしくも思う。授業を抜け出してはここに来て、延々と美しい恋愛小説を読みふけっていた。

 隣にいてくれたら、どれほどいいか。それは家庭教師としての仕事がなくなってしまったから、とか。そういうわけではなく。一人の人間としてい隣にいて欲しかった。肩の触れ合う距離で、話しかければすぐに声が届く距離で。ずっと、隣にいて欲しかった。
「……なんだってこうも、胸が痛いんだ」
 愛はもっと美しいものじゃないのか。優しいものじゃないのか。お前の望んでいた愛は、そういうものじゃなかったのか。もしもこれがお前の考える間としたら、俺にはあまりにも辛すぎる。
 愛しい人を思って胸を痛めるなんて。涙を流すなんて。胸に空いた穴がいつまでも大きくなっていって、そこから抑えきれなくなった言葉が溢れそうになるなんて。こんなのあまりにも、辛すぎる。
 何かを読む気にはなれなかったけれど、今は幸いにも時間がある。明日には本邸に戻らないといけないし、そうなるとこうしてゆっくり本を読むこともできなくなるだろう。今がその、最後のチャンスなのかもしれない。思い出に浸るわけではないけれど、最後の記念にどれか一冊でも読んでみようか。
 そう思って手を伸ばしたのは、かつて俺がディヴィッドに話した物語だった。ウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。キザだのなんだの言われたけれど、どの文章も流れるように入って来て頭の中に残っている。それはつまり、きっといい物語だということなんだろう。

 これなら短いし、一度読んでいるから時間もかからないだろう。そう思って本棚から抜き出すと、近くの椅子に座って表紙をめくった。
「ん?」
 開いてみて、そこに何かが挟まっていることに気がついた。どうやらメモのようだ。俺が前に読んだときはこんなもの挟まってはいなかった。誰かの忘れ物だとしても、この屋敷でこの本を読むなんて、他に。
「……ディヴィッド?」
 まさか、と思い急いで中を開いてみる。見慣れたブルーブラックのインクで書かれた文字は、確かにディヴィッドの筆跡だ。こんなところに入れておくなんて。内容によっては寮に送らないといけない。
 人の秘密をこっそりみてしまうような気持ちになって少し申し訳なく思ったけれど、こればかりはしょうがない。怒られたらそのときはそのときだ。そんな時が俺にやってくるのだろうかというのは、また別の話として。
 ゆっくりと開いてみると、そこに書かれていたのは。
『お父様に会ったら、この紙を見せて。絶対にだよ』
 ただ、それだけだった。なんだこのなぞなぞのような文章は。本邸に戻って、ジョージ様に会った時にこの紙切れを見せろ、というのか。ううん、しかしこれ以外は何も書かれていないし。果たして見せたところで何か変わるのだろうか。

 いや、ディヴィッドがそういうのならそうするしかない。というよりこれは本当に俺宛なのだろうか。もし違ったらものすごく恥ずかしいことになるのだけれど。
「うーん……まあ、やってみるか」
 無くしてしまわないよう大切にポケットにしまって、それからもう一度、今度は少しだけ感慨深い気持ちになりながらページをめくった。このメモを挟むためにディヴィッドも同じ本を開いたのだろう。彼の身長よりも少しだけ高いところにある本棚から、必死になって取り出したのだろう。
 その姿を想像すると微笑ましくなって笑ってしまう。笑ってしまって、その拍子に目尻に涙が浮かんでしまって、それから先はもうダメだった。一度壊れてしまった涙腺は修復することは難しく、気がついたら次から次へと涙が溢れていた。
 ポロポロ、まるで梅雨の長雨のように。その涙は止むことを知らない。
「みっともねぇな……」
 どうして自分が泣いているのかもわからず、かといって拭っても拭っても止まることはなく、自分でもどうしたらいいかわからない。せめて本だけは濡らさないようにと注意しながら袖口で拭い、もうこうなったら思う存分泣いてやろうと腕に突っ伏した。

 そういえばメグもこんな風に泣いていた。寂しい、寂しいと。声を上げずに泣いていた。今ならその気持ちが少しだけわかる。意味もなく流れる涙をただ垂れ流しにすることがこんなにも苦しいだなんて。その時に、隣に誰かいてほしいだなんて。そんなことを思ってしまうことを。俺はようやく、知ることができた。
 誰もいない図書室で、俺はただ声を出さずに泣いた。泣いたところでどうしようもないとわかっていて、だからこそ余計に涙が出た。この涙が乾く頃にはきっと胸に空いた穴もふさがっているだろうと期待して、泣き疲れて寝てしまうまで。
 俺は、ただ一人のことを考えながらただひたすらに泣いていた。
 
***

 アリーチェやトトたちに見送られながら、俺は重たいトランクを持って玄関に立った。初めてここに来たのは一ヶ月ほど前だ。だというのに、あまりにもここにはたくさんの思い出がある。本邸とは違いこじんまりとしているから、使用人同士の仲もいい。まるで、本当の家族みたいに過ごしていた。
 しかも血縁関係だけではなく、信頼と尊敬で繋がれた家族だ。俺にとってそういう存在は生まれて初めてで、最初はその距離感に驚くこともあった。でも今となっては廊下ですれ違ったら挨拶をし、時間があれば雑談を交わし、軽口を叩くことだって多くあった。この屋敷にいれば必ず誰かが居てくれる。だから寂しくない。日々の仕事が忙しく、大変であってもみんなで食堂に集まり同じものを食べる食事の時間は何にも代えがたい貴重な時間だった。

 でも、それも今日で終わりだ。これからは本邸に戻って、そうしてまた少し前と同じような日々を送る。日々家庭教師や執事として必要なことを学び、父について仕事を学ぶことになる。それは俺にとって確かに日常であり、何もおかしなことはないのだけれど。
 でも、この屋敷で与えられた部屋から見えた景色を俺は忘れない。山々の間から覗いて見えた陽の光を、紫がかって明けゆく日の出を、東雲色の夕空を。俺は、きっと忘れないだろう。
 そしてもちろん。ディヴィッドとの日々も。俺はきっと、忘れない。一緒に読んだあの本も、一緒に眺めたあの薔薇も、二人だけの秘密にしたあの行為も。
 一生大事に抱え込んで生きていく。
「寂しくなるわね。まだここに居てもいいのに」
「元々こういう契約だったからな。しょうがない」
「しかしヴィンスが居なくなるとあれだな。薔薇園の手入れを手伝ってくれる人が減ってしまう」
「俺は好きで手伝った覚えはないんだが……」
 マッテオがご自慢の髭を撫でながら悲しそうにそう言うから、まるで下働きのボーイみたいに扱われたことに噛み付く。トトやマッテオに比べたら確かに俺は年下で、若造かもしれない。そんな理由で一日の空いた時に突然「中庭の手入れを頼む」なんて言うから俺は断れなくて、無駄にそういうスキルが身についてしまった。

 それにアリーチェも皿洗いとかシルバーのメンテナンスを俺に任せていたから、きっと本邸に戻っても下手な使用人よりは上手く仕事をこなせるだろう。はじめの頃は茶葉の種類もティーセットの種類もよくわかって居なかった俺に、一から全て教えてくれたのもアリーチェだった。
 そう考えると、俺はここに来て多くのことを学んだ。本邸に居たら決して学ぶことができない、そういうことをたくさん教えてもらった。それは俺にとっての強みになるだろう。
「ヴィンチェンツォ、本当にありがとうございました。ディヴィッドもあなたに懐いて居たようで」
「エリザベス様……」
 わざわざ俺のために多忙な中部屋から出て来てくれたエリザベス様は、感慨深そうに俺の顔を眺めてそう言った。厳しい中にも優しさのある淑女であると改めて感じたのは、ディヴィッドが食事の席から逃げ出した時のことだった。
 彼女はいつだって強い女性だった。結婚したら女は家に入るものだと言われるこの時代に、彼女は自分の手でこの館を切り盛りして居た。それは本当に、見上げる努力だったのだろうと思う。弱音一つ吐かず、疲れたところを一度も見せず、いつだって前を向いていた。
 ディヴィッドもこういう女性と結婚するのだろうか。たとえそこに愛はなくとも、いやあってもいいんだけれど、ディヴィッドもこうして女性と添い遂げるのだろうか。そう思うと少しだけ、いや本当は悲しくなるほど、胸が痛んだ。
「私はそんな……むしろお力になれず申し訳なく思っています」

「そう思えるのであればノールズ家も安泰ですね。あなたもディヴィッドもまだ成長途中です。私はそういう若い二人が一緒に育っていくところを見られて、久しぶりに嬉しく思いましたよ」
「成長、ですか」
「ええ。驚くほどに成長しました。ディヴィッドは……あの子は、ああいう性格でしょう? それで本当に友達と呼べる人がいなかったんです。もちろん誰かに懐くなんてこともなかった」
「それは……そうでしょうね」
 あれはもう人見知りと言っていいのかもしれない。本当は仲良くなりたいのにどうしたらいいかわからず、つい冷たい反応を見せてしまう。そのくせ本人にはずば抜けた才能があるから、何も知らない人から見たらいけ好かない子供、という風に見られてしまうのだろう。
 それが原因で学校では趣味の悪い嫌がらせを受けていた。どんなに努力をしても「ノールズ家」だからと言われた。褒めて欲しい、本当の自分を見て欲しい、何かができるからではなく、何かができなくてもそんな自分を丸ごと愛して欲しい。そう思いながらもどうやって言葉にしたらいいかわからず、一人で声にならない叫びを漏らしていた。
 そう思うと、よくあそこまで心を開いてくれたものだと驚いてしまう。俺の何が良かったんだろう。どこを好いてくれたんだろう。結局それを聞くこともできず、別れてしまった。
「どうかこれからも、ディヴィッドのことをよろしくお願いしますね」

「それはもちろん……でも次いつ会えるか」
「心配しなくても。きっとすぐに会えますよ」
「そうでしょうか」
「ええ。私がそう言うのだから」
 そう言って、エリザベス様は珍しくおどけた表情を見せた。くしゃりと寄った目尻の皺は深く皮膚に刻まれて、それほどまでに長い時間この家に尽くして来たのだとすぐにわかる。でもそれを苦労とも言わず、ただ静かに守り続けて来た。辛い時もあっただろう。苦しいことだってあったはずだ。それでも倒れることなく、ずっとここに居続けた。その事実が、どれほどすごいことか。まだ若造な俺には、ただ感嘆の声を漏らすことしかできなかった。
 その強さの証拠が目尻の皺なんだと思うと、途端にこの女性が柔らかく朗らかな人間に見えて来て、ああ、もう少したくさん話をしておけば良かったと突然後悔の気持ちが溢れてきた。
 人は、いつまでもこの世には居られない。いつかはあの世に行ってしまう。エリザベス様も今は健康でいるけれど、それもいつまで続くかわからないのだ。不謹慎かもしれないけれど、でもそれはいつか必ず訪れる現実だ。その「いつか」が、もしかした思っているよりも早く訪れるかもしれない。

 人は、出会えば必ず別れる。それは俺とディヴィッドのように物理的なこともあれば、メグとのようにどうしようもない別れもある。そしてエリザベス様との別れも、いつかくる別れも、それはその離別のうちの一つなのだ。
 だからせめて彼女の前では。少しでも良い人間でありたい。それは家庭教師や執事としてだけではなく。一人の人間として。そう思わせてくれる存在が人生の中にいてくれて、本当に良かった。
「もしもまた、ここで働くことがあったら。その時はどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。いつでも待って居ますよ。あなたのことも、ディヴィッドのこともね」
「それはもちろん。私は」
 俺は、ディヴィッドの。
「家庭教師で、執事ですから」
 ようやく胸を張ってそう言えたなと思った時には迎えの車がやってきて、そのエンジン音を背中に深々と頭を下げた。込み上げてくる涙は寂しさのためなんだと思いながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。

***
 
本邸に到着したのはもうすぐ夕方といった時間だった。別邸からは電車で五時間はかかる。その間、取り立ててすることもなかったので図書室から借りてきた『ロミオとジュリエット』を読んでいた。他に読む人はいないから、読み終わったら宅配便で送ってくれればそれでいいと言ってもらった。

 きっと本邸に戻ったらこんな風にゆっくり本を読むこともない。これがある意味最後になるかもしれないと思うと、一度読んだことある本だとしてもじっくりと読み返してしまった。改めて読んでみると、最初に目を通した時とは違う発見があって面白い。
 あの時はただただ文字を追いかけることが楽しくて、こんな風に内容をじっくりと理解することはできなかった。ディヴィッドはこんな風に、文字を読むだけではなくてその奥深くにある、もっと本質的なものを汲み取ろうとしていたのだろうか。
 そんなことを思っていると電車は首都トラニアに到着していた。
「失礼します、ジョージ様」
 本邸に戻ってまず最初に向かったのは、現当主でありディヴィッドの父親であるジョージ様の部屋だった。本当は父親や母親の顔を見たかったけれど、二人ともまだ仕事中だ。ゆっくり三人で話すのはきっと日付が変わるころだろう。
 磨きこまれて艶のあるドアを三回ノックする。中から「どうぞ」という声がして、俺はゆっくりとドアノブを回した。
「ヴィンチェンツォ・ドメーニコ、ただいま戻りました」
「ああ。お疲れ様。今回は本当にありがとう」
 ディヴィッドそっくりの、癖が強いブルネット。ちょっと垂れている目尻には、うっすらと皺が寄っていた。前髪を全てかきあげて額をあらわにしている。がっしりとした体つきや、すらりと高い身長はこれから数年したらディヴィッドもこういう風に成長するのだろうかと思わされた。

 ディヴィッドよりもスモーキーな目の色は、夕日に照らされて大粒の宝石のようだった。
「どうだったかい? ディヴィッドはなかなか難しいこだったろう」
「いえ、私も一緒に勉強させてもらいました」
「そうかい? うん、でも確かに変わったね、ヴィンチェンツォ」
「え?」
 ニコニコ嬉しそうに俺を見つめるジョージ様が満足そうに頷く。俺の一体何が変わったというのだろう。自分では取り立てて変わったところはないように思う。見た目も一ヶ月程度じゃそこまで変わらない。
 不思議に思っていると、くすくすと笑われた。
「ディヴィッドがね、手紙を送ってくれたんだよ。今までこんなこと一度もなかったんだけど」
「そうですか。それはようございました」
「こちらから送ることはあっても、返事はいつも君が書いていただろう? しかも全部業務報告。ああいや、それが嫌だったわけじゃないんだ。でもやっぱり、少し寂しくてね」
「それは……申し訳ないことを」
「いいんだ。それは僕も悪い。あの子が何を言われたら反発するか、分かっているのに。どうしても言いたくなってしまうんだよ」

 それはつまり、ノールズ家の血が流れていることについてだろう。お前はノールズ家の人間なんだから、と手紙にはよく書かれていた。その言葉にディヴィッドはいつも反発をしていて、そのことで泣いた夜もあった。
 確かにいくら努力をして結果を出しても「ノールズ家」だからと一言で終わらせられてしまっては堪らないだろう。しかしジョージ様だってそこに悪い意味を持たせている訳ではないということも、分かっている。
「ちょっと思い出話をしよう……付き合ってもらっても?」
「はい、もちろんです。私でよければ」
「君に聞いてもらいたいんだ」
 そうやって語り始めたジョージ様はどこか懐かしい目をしていた。
「僕がディヴィッドと同じ年齢の頃、それはそれはひどい出来損ないだと言われていたんだ。父親にね。僕の目は見ての通りくすんでいる。かろうじてバイオレットではあるけれど、こんな色だときっと本人もろくでもないんだと言われていた」
「そんな……」
 ジョージ様は、確かにディヴィッドと違って飛び級などはされていない。しかしただそれだけのことで、大学を卒業されてからはご自身で株式会社を立ち上げ、そうして航空関係のお仕事を始められたのだ。
 それまで学術関係の仕事に就くか、王室があることは国王の側近として勤めることが多かった中、ジョージ様の取られた行動は最初ひどい批判を受けたそうだ。

 一度はこの家を出たけれど、ご結婚されたと同時にノールズ家の当主になったと聞く。俺が知っているのはこの程度のことだ。しかし本人にしてみると、それはそれは辛い時期だっただろう。たかだか目の色がくすんでいるだけで、そこまで言われるなんて。ようやく軌道に乗り始めた事業も、それはただの偶然だと言われたこともあるらしい。
 その思いを想像するだけで胸が痛くなる。俺の気持ちに気がついたのか、ジョージ様は困ったように笑った。
「大丈夫だよ。今はもう笑い話だ。いつまでも昔のことを思うのも疲れてしまうだろう?」
「そう、ですが」
「まったく、ディヴィッドも幸せ者だ。君という執事がいてくれたんだからね」
「私は、そんな」
「僕もね……良くなかったと思っているんだ。ディヴィッドの目が、僕のそれと違って明るく澄んでいることにこだわってしまった。目の色なんて関係ない、自分の力で努力をしてきたんだと自分では言っているくせに、子供には自分が苦しんできたことを押し付けてしまう……本当に申し訳なかった」
 確かにディヴィッドの瞳は類い稀なる明るさだ。どこまでも吸い込まれていきそうなほどに明るく澄んでいて、見ているこちらが魅了されてしまいそうだ。
 だから、わかるのだ。ジョージ様たちが期待してしまうことが。たとえ目の色がバイオレットではなくグリーンとかブルーであっても、元々持っている能力が高いからそれに期待してしまう。そしてその理由づけとして、たまたま明るく澄んだバイオレットの瞳、というのがあるだけだった。

 でもジョージ様にはそれをどう褒めたらいいかわからなかったのだろう。ご自身がかつて言ってもらいたかった言葉を無意識のうちに選んでいたのだろう。それは決して、悪いことではない。ただディヴィッドはそこまで理解することはできなかった。どうして自分を見てくれないんだと涙を流した。
 ああ、なんて不器用なんだろう。ジョージ様も、ディヴィッドも。やっぱりこの二人は親子なんだと改めて思った。
「それでも……ディヴィッド様はきっと理解されていると思います。短い間でしたが隣で仕えていたから分かりますが、彼は聡い方です。人の痛みがわかる方です。優しい方です。だから、きっと」
「ふふ、うん、そうだね。本当に、君はチェーザレそっくりだ」
「父上に、ですか」
「うん。そう」
 突然父親に似ていると言われて思わず驚いてしまう。一体どこが似ているのだろう。顔つきはまあ確かに似ていると言われるけれど、きっとそういう話ではないだろう。それに俺はどちらかというと母親似だ。
 一体どういうことなんだろう。不思議に思って首を傾げていると、ジョージ様は楽しそうに笑った。
「ディヴィッドは本当に、いい執事を持った。僕も安心したよ」
「えっ? ええと……申し訳ありません、ちょっとお話の筋が、わからないのですが」
「さっき、ディヴィッドから手紙が届いたと言っただろう?」
「はい」

 そう言って机の引き出しから一通の手紙を取り出した。薔薇色の便箋には流れるような筆跡でディヴィッド・ノールズと書かれている。ああ、ディヴィッドの文字だ。そう思ってそれまで思い出さないように隠していた感傷が一気に顔を覗かせる。
 パブリック・スクールに入学してもう一週間だ。元気にやっているだろうか。寂しがってはいないだろうか。俺は、すごく寂しい。寂しくて、それでも前を向かないといけなくて、今までお前のいない人生を俺はどう生きてきたかもう分からなくなってしまうんだ。
 一体どんな手紙を送ったのだろう。息災であるというものなら、ジョージ様は俺にこんなことを言わないだろう。
「そんなにディヴィッドが心配かな?」
「あ、いえ……元気だろうかと、思っただけです」
「元気だそうだよ。授業も始まって、大変だと書いてある」
「そうですか」
「うん。それでね」
 ガサガサ便箋をめくって、ふと目を留めたジョージ様は困ったような面白そうな顔で笑った。
「ディヴィッド、授業についていけないそうなんだ」
「えっ? そんな、まさか」
「でもそうなんだって。ほら」
 そう言って見せられた手紙には、確かに『授業が始まって、思いの外難しいです。このままだと置いてきぼりにされてしまうかもしれません』と書いてある。

 その言葉に目を疑った。だってまさか、そんなはずがあるわけない。あの一ヶ月でどれほど高度なことを学んだか。パブリック・スクールどころか大学でも通用するくらいのことを共に勉強したはずなのに。それにあのディヴィッドがこんなことをジョージ様に言うわけがない。自分のできないところを表に出すことがどれほど苦手なことか。そんなこと、俺にだってすぐに分かる。
 だとしたら、この言葉は。
「確かにあの子は飛び級で、本来ならまだパブリック・スクールに入学できる年齢じゃあない。君がしっかりと教え込んでくれたようだけど、環境が変われば理解できるものもできなくなるのだろう」
「私の力不足でしたら、それは……大変申し訳なく、思います」
「いやいや。そう言っているんじゃあないんだ。君はよくやってくれた。おそらくだけど、軽いホームシックになっていると思うんだ。だから本来なら出来ることが、出来なくなっている。……と、いうのはまあ親としての甘やかしなんだけど」
 果たしてそれは本当だろうか。環境が変わろうとクラスメイトと馴染めなくとも、関係なく彼は自分のなすべきことを行なってきた。むしろ今の自分に何をすれば必要な知識が身につくのか、本能的にわかる人だと思っていた。
 だからこそ不思議なのだ。こんな風に「このままだと置いてきぼりにされてしまう」なんて、未来のことを恐れて不安になるなんて。
「それで、だ。ヴィンチェンツォ。ここから先は一人の家庭教師として聞いてもらいたい」
「わ、わかりました」

 姿勢を正したジョージ様が机に乗っていた分厚い本を開いた。よく見るとそれはディヴィッドが入学したパブリック・スクールの入学案内書で、そこには様々な校則などが載っている。
 とあるページを開いて、ジョージ様がその一文を読み上げた。
「原則として執事や家庭教師の同伴は許可しない。ただし、以下の例外は対象外とする……ってね。つまり僕が言いたいことは、ディヴィッドのために家庭教師を一人送ることは必要かどうか、ということなんだ」
「か、ていきょうし……ですか」
 以下の例外とは、次の通りだ。
 一つ、著しく学業が疎かな者。
 一つ、自力では学業、寮生活に取り組めない者。
 一つ、飛び級のため入学規定年齢より若い者。
「そうか、ディヴィッド様は年若いから……」
「そう言うこと。まああの子のことだから本当はちゃんとすればあそこの勉強くらいなんてことないんだろうけれど。でも、どうかな。君はどう思う?」
 学校の定めたルールを見るに、家庭教師を送ることは何も悪いことではない。ディヴィッドは飛び級だからこの例外に当てはまるだろう。
 しかもよく考えたことに、それだけではなく学業にも不安があると書いた。そうすれば本邸から家庭教師が送られてくることは確実だと思ったのだろう。ここまで頭が回っておいて、何が「不安」だ。全く、あいつと来たら。

「必要、でしょうね。私が一ヶ月見て来た中で、やはり誰か彼を導く人が必要です。しかも根気強く、信頼関係がしっかりと築かれている人が」
「ふむ……なるほどね」
 とは言っても、まさかここで自己推薦をするわけにはいかなかった。今のはあくまで意見の一つであり、誰を送るかは当主のジョージ様が決めることだ。
 それに、俺が彼の元に行きたいというのは今まで面倒を見てきたからということだけではなく、ただ純粋に会いたいだけなのだ。会いたい、会って抱きしめたい、自分の抱えている感情を、彼に伝えたい。それで嫌われてしまっても、それでもこの感情を伝えぬまま命が潰えてしまうことの方がよほど恐ろしい。
 人はいつまで生きているかわからない。いつか、いつかと思っていたらその「いつか」が二度と訪れないかもしれない。それならば。今こうして溢れんばかりの感情を言葉にして、伝えたい。
「信頼関係、と言ったね」
「はい」
「ディヴィッドからの手紙には、続きがあるんだ」
「続き?」
「そう……『もしも誰か家庭教師を送ってくれるのであれば、僕が信頼できる人がいい。その人は、きっとその証拠を持って来てくれる』ってね。さあ、それは一体、なんだろうね」
「証拠……? っ! まさか……!」

 急いでトランクを開けて中から一冊の本を取り出す。ウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だ。そして、そこに挟まれていた紙を取り出して、ジョージ様に差し出した。表紙に挟まれていた『お父様に見せてね』と書かれている、あの紙だ。
 そうか、それで。こんな手紙を。
「あの、これのことでしょうか」
 恐る恐る差し出した本と紙を見て、ジョージ様は至極嬉しそうに笑った。そして俺に見せてくれたディヴィッド様からの手紙には。
「きっと、シェイクスピアを持ってくるから……」
「驚いたよ。まさか本当に君たちがここまで信頼し合っているなんてね。何も言わなくても通じ合っているってことかな?」
「いや、そんな。恐れ多いです……」
「これで僕の懸念事項は解決した。よかったよ」
 満足そうに笑ったジョージ様は、俺に一枚の紙を差し出した。そこにはノールズ家の紋章が描かれ、そしてその下にはジョージ様の名前が書かれている。厚い羊皮紙に書かれているその書類は、俺が一ヶ月前にもらったものと同じだった。
 辞令、と書かれたその紙に書かれていたのは。
「ヴィンチェンツォ・ドメーニコ。君に一つ仕事を与えよう」
 紙を持つ手が震える。まさか、こんなことがあるなんて。こんな奇跡みたいなことが起こるなんて。俺はもしかして夢を見ているんじゃあないだろうか。
 いや、でも。この胸の痛みは、激しく高鳴る鼓動は、確かに現実だ。そうだ、現実だ。足が震える。生唾が溢れてきた。

「来週の日曜日から、ディヴィッドがパブリック・スクールを卒業する日まで。それが任期だ。その間、彼のそばに仕え、そして家庭教師としてノールズ家にふさわしい学力まで引き上げること。いいね?」
「……はいっ」
「家庭教師用の部屋はないそうだから、悪いけれどディヴィッドと同室だけど。大丈夫かな」
「私は大丈夫です。必要があれば使用人の部屋を借りますし」
 むしろそうしたかった。同じ部屋だなんて、俺が色々と落ち着けない。だって彼が学校に行っている間以外は、ずっと一緒に過ごすということだ。そんなの、絶対に、耐えられない。
 でもディヴィッドが同室を望むのであれば、拒む理由はどこにもないけれど。
「頼むよ。ヴィンチェンツォ。これから六年間、また君がディヴィッドの先生だ」
「身にあまる光栄です。このヴィンチェンツォ、ドメーニコ家の名に恥じぬよう、誠心誠意勤めてまいります」
 深々と頭をさげる。ジョージ様からの激励を聞きながら、高揚する感情を抑え込むのに必死だった。
「それじゃあ帰って来てすぐで申し訳ないけれど、すぐに準備を始めてもらえるかな。必要最低限のものだけ持っていけばあとは後日こちらから送るよ」
「ありがとうございます。幸いまだ荷ほどきをしていないので、準備はすぐに終わります」
「うん。あ、そうだ。忘れるところだったよ」

 ディヴィッドから、と言われて渡された小さなカードには薔薇の絵が描かれていた。なんだろうと思いひっくり返すと、短い文章が書かれている。
 それはよく見ると、どこかで見たことのなる文章だった。
「名前がなんだというの……バラと呼ばれるあの花は……そうか、この本の」
 あとは部屋で読みますと言って、俺は早足でジョージ様の部屋をあとにした。この言葉は俺がディヴィッドに言った文章だ。それをどうして、こんな風に送って来たんだろう。まるでなぞなぞだ。でも、どこか必死めいていて可愛らしい。
 可愛い、だなんて。その感情さえも今ではすっかり受け入れられるようになっていた。

    
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