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6.ファンタスチカ
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住み込みで働くのが原則ではあるが、それでもたまには休みがある。俺の場合は月に一度だけ外泊が認められていた。日曜日の朝から、月曜日の正午までが俺に与えられた唯一自由な時間なのだ。
両親もそんなものだったから今更それが少ないとか思わないけれど、トトやマッテオはもう少し多く休みをもらっているらしくて、それは少しだけ羨ましい。まあ、言ったところでどうしようもないし、そもそも俺は働くこと以外何をしたらいいかよくわからないから、変にすっぽりと空いた空白の時間をもらっても持て余してしまうだけなんだけれど。
そんなわけで、ここに来て初めての休みが訪れた。今日は思う存分寝坊をしてもいい。外に行ってもいい。仕事のことは何も考えず、好きなだけ酒を飲んでもいい。数日前まではこの日に何をしようかとワクワクしながら考えていたけれど、いつも通りの時間に起きてベッドでぼんやりとしていると昨日のことを思い出してしまった。
昨日、つまりディヴィッドに情操教育を施した日。教育の一環だと言ってしまえればそれで済むし、実際にはその通りなのに。どうしてここまで、俺の胃は重たくなっているのだろう。何をそこまで気に病むことがあるのだろう。俺がここまで考える必要は全くないというのに。
あの後、俺が部屋を出てから一度もディヴィッドとは顔を合わせていない。アリーチェに頼んで変わってもらったのだ。職務放棄だと自分で自分を責めたけれど、やはり気まずいのだと言うとアリーチェは笑って引き受けてくれた。申し訳ないことをしたと思いながら、何もしないのはよくないと思いトトとマッテオの手伝いをするために庭仕事をしていた。体を動かせば少しはマシになるだろうと思ったのだ。
でも結果はこの通りで、何もよくなっていないしむしろ変に意識して拗らせている。俺がこんなのでどうするんだ。ディヴィッドは何も気にしいなさそうなのに。
「……くそっ」
清々しい朝には似つかわしくない悪態をついて、重たい体を無理やり起こした。せっかくの休みなのだ。普段は行けない街で買い物でもしよう。外泊も許されているからどこかで酒でも飲んで、朝帰りでもしよう。
そうでもしないと俺はきっと、いつまでもこの感情を引きずってしまう。どうせ後数週間でディヴィッドとは離れ離れになるというのに。俺だけがこんなにしみったれて、執着していたら意味がない。
仕事着ではなく私服に袖を通しながら、長く伸びた前髪を指で摘んだ。そろそろ整えないと。モーニングスーツだったら別に気にならないが、こうして私服のジャケットやニットを着るとどこか野暮ったく見える。眼鏡も外出用に一つ新しいものを買おうか。今はあまり目立たないようにとシルバーのフレームにしているけれど、休みのときくらいはもう少し遊び心があってもいいかもしれない。
別に、誰かに見せるわけではないけれど。でもこうして着飾ることは嫌いじゃない。少しずつでいいから色々と買い揃えて行こう。そう思うとちょっとだけ胸の奥が軽くなる。やはり気分転換は必要だ。最後に香水を首元に振りかけて、部屋を後にした。
***
この街は、田舎ではあるがそれなりの繁華街が存在する。とは言っても首都と比べてそこまで大きくはないし、華やかでもない。でも夜になれば煌々と光る明かりが灯り続けるし、酒と煙草の香りで満たされていく。
細々とした日用品や雑貨を取り扱っている店は全て商店街に存在し、そこに行けば今俺が欲しいものは手に入る。そこまで小さくもないし寂れてもいないが、歩いているとどこかのんびりとした、穏やかな時間が流れているように感じる。トトとマッテオがよく通っている食堂や、アリーチェおすすめのカフェを覗いて、小さな骨董品の前を歩く。
年代物の時計や万年筆、カフスやタイピンがショーウィンドウに並べられていた。古いライターなんかも置いてあって、これを見たらきっと父さんは喜ぶだろうなと思った。俺の父さんはこういう骨董品に目がない。俺が小さい頃、父さんが休みのたびに街に連れて行ってもらってはこういった骨董品屋を見ていたものだ。一気にたくさんは買えないから、本当にいいものを一つだけ厳選するために何時間も商品を見ていたけれど、そのおかげが俺もいつの頃からかアンティークなものが好きになっていた。
俺も何か、一つくらい買ってもいいかもしれない。職業柄あまり大きなアクセサリーはつけられないけれど、小さなものならいいだろうか。例えばブローチとか、タイピンとか。実用的なものなら大丈夫かもしれない。
「いらっしゃい」
「あ、どうも」
ぼんやりと眺めていたら、いつの間に出てきたのか店主に声をかけられた。初老の、白髪が目立つ男性だ。小さなメガネをかけているけれど、その奥ではエメラルド色の瞳が眠たそうにこちらを見ていた。
「あんた、見ない顔だね」
「普段は向こうの屋敷で働いているからな」
「ほう。てことはノールズさんとこの者かい」
「ああ、まあ」
まさかここに来てノールズ家の名前を聞くことになるとは思わなかった。いや、この土地は昔からノールズ家のものだったし、今はもうそこまでの権力はないとはいえ昔からここに住む人にとってその名前は大きなものなのだろう。
そもそもこの土地は、かつてノールズ家の別荘があったところだった。本邸は今でも首都にあるし、今でも同じような扱いをされているけれどいつ頃かにはここが本邸だった時もあるらしい。ただその時は色々な事情があり、この土地は一度荒れ果てたそうだ。
しかしそれをここまで持ち直したのは当時のノールズ家当主であるアーノルド様で、彼は王室のご息女であるロザリア様とご結婚されたあとこちらに越して来たそうだ。お二人が亡くなった後はまた本邸に戻られたそうだけど、その時以来この土地にはノールズ家の影響が少なからずあるとのこと。
「お前さん、名前は?」
「ヴィンチェンツォ・ドメーニコ」
「ドメーニコ……なるほどな」
「はぁ?」
「いやいや、こっちの話だ」
ジロジロと俺の顔を見て、それから名前を聞いた後はしきりに納得したように頷いている。一体なんだというんだ。俺にはこの土地に親戚はいないし、いたとしても俺が知ることのない遠い遠い関係なんだろう。
俺の知らないところで勝手に納得されるのはなんだか癪だけど、あまり深く突っ込んでもしょうがないことでもある。仕方がないから店に入ってもいいかと尋ねると、店主は嬉しそうにドアを開けてくれた。なんだ、いい人じゃあないか。
「ドメーニコ家ということはあれか、お前さん、執事か何かか」
「そうだよ。俺の家は代々そうなんだ」
「そうだろうなぁ。俺がまだちんまい頃、何度か聞かされたものだよ。ノールズ家の話を」
「へぇ」
埃ひとつない棚を手で撫でながら、店主は懐かしそうに遠くを見つめた。俺は一応ノールズ家のこともドメーニコ家のことも学んだことはある。ただそれはあくまで書物からで、実際に誰かから話を聞いたことはあまりない。
実際に見聞きした人がいないわけでもないのだけれど、なぜか皆話したがらないのだ。特にこの土地に住んでいた当主については。誰も話そうとしない。決してタブーというわけでもないだろうし、何かひどいことをしたわけでもない。家系図を見てもなんの問題もなく、脈々と続いている。だというのに、なぜか本邸では一切話題には出なかった。
「あんたにそっくりなメイドも居たんだよ。金髪でな」
「俺は男だぞ、メイドに似てるって」
「でも似てるよ。目の色は違うけど、あんたのお祖母さん……ひいお祖母さんになるのかな。うん、横顔が似ている」
「……そうなんだ」
俺の家系は、イタリアに起源を持つ。だから名字もイタリア風で、たまに会話の中にイタリア語が入ってくることもある。でも俺は一度も行ったことがないし、自分の親族なんて両親くらいにしか顔を見たことがない。祖父母は俺が生まれた時はもういろんな国に飛び回って居たし、今だって帰国するのは数年に一度とか、そのくらいだ。
だからまさか、ここで自分のルーツについて聞かされるとは思わなかった。確かに俺の家系は昔からノールズ家に仕えていたと聞いていたけれど。そんなに昔からとは思わなかった。
「いや、俺も実際に会ったわけじゃないんだけどな。よく聞かされていたんだよ。ノールズ家に嫁いできたお姫様は気立てが良くて、美人さんで、しかも目が驚くほど赤かったって」
「目が赤い?」
「そうだよ。その時はまだ魔力があった時代だからな。目の色ってのが魔力の強さだったんだ。今じゃあ誰も信じないけどなぁ」
「目の色、ね」
魔力の話は置いとくとして、目の色と言われてふと思い出したことがある。そういえばディヴヴィッドも目の色について言っていた。目の色がこんなにも綺麗だから、僕は周りから変に期待をされるんだ、こんな色じゃなかったらよかったのに、と。
そうやって泣きながら俺に話したのはまだつい数日前の話だ。そういえば今頃何をしているんだろう。ちゃんと食事はしただろうか。勉強はしているだろうか。また逃げ出していないだろうか。そんなことがずっと気になってしまう。
「ノールズ家は、紫か。綺麗な色だよな」
「ああ。つい見とれてしまうくらいには」
「ほう。お兄さん、それは誰か意中の相手でもいるのかい」
「え、あ、いや……そんなことは」
「隠さんくてもいい。誰かを想う時ってのはみんなそんな顔をするんだよ」
「……どんな顔だよ」
指摘されるとますます気になってしまい、思わず?を抑えてしまう。指先に伝わる熱は確かに高く、これはきっと耳まで真っ赤になっているんだろうなと思い恥ずかしくなった。
そもそも意中って。今のはただ、別に、執事と家庭教師という立場で気になっただけであって。別に個人的に何かとか、そういうわけじゃあない。断じて違う。絶対に。
「まあいいさ。誰を好きとかなんて、それだけで十分すごいことさね。俺は実際に見たわけじゃないけど親父がいつもそう言っていた。あの時のノールズ家を見ているとそう思ったんだと」
「あの時のノールズ家? 何かあったのか」
「まあなあ。歴史の本には書かれていないけれど、結構複雑だったらしい。でもまあ、当の本人たちは幸せそうだったからなぁ。それで周りもいつのまにか受け入れていたというか。むしろ祝福したそうだ」
「複雑……そうだったんだ」
「おう。首都にいりゃわかんねぇだろうけどな。ここに長く住んでりゃ嫌でも耳に入ってくる。あのお二人は、本当に立派な方々だった。当主としても、伴侶としても」
しみじみとそう言いながら、店主は俺の肩を軽く叩いた。思ったよりも小さな手だ。しかしズシリと重く、ジワリと熱がある。これが長く生きた人間の持つ重みなんだろうか。もしかしたら、俺が今抱えている悩みも本当は些細なことなのかもしれない。件の当主たちがどういう人たちで、何があったのかはよく分からないけれど。もしかしたらもっと純粋で、もっと素直なものかもしれない。
そうだったらいいのに、と。そう願わずにはいられなかった。
「誰かを好きになることに、余計な肩書きはいらねぇんだとさ。親父が言ってたよ。本当に好きになったらそんなものが全部小さく見えるし、どうにかなるとも思えるんだと」
「楽観的だな。実際はそんなことないだろう」
「だとしたら今、あんたが仕えているノールズ家は存在しなくなる。ま、つまりはそういうことだ」
どういうことかよくわからなかったけれど、なんだか彼の言葉にはつい信じてしまいたくなる魅力があった。いや、信じたかったのかもしれない。本当に好きなら、余計な肩書きも、階級差も、性別も、年齢も。全部取っ払って真正面から向き合えるのだと、信じたかったのかもしれない。
そんな風にもしも思えるのなら。俺はきっと、ディヴィッドに。
「……ありがとう、助かったよ」
「はは、俺は何もしてねぇよ」
「そうだけど。話せてよかった」
「おう。あんたは色男なんだからもっと笑っとけ。暗い顔してるのも、まあ悪くはないけどさ」
「だからなんだよその色男って……まあいいや。じゃあな」
「はいよ」
結局何も買わずに店を出てしまった。本来なら何か買ったほうがよかったのだろうけれど、まあまた来ればいいだろう。あ、でも俺はもうすぐここを離れるんだった。それまでにまた来られるだろうか。でも生きていればきっと機会はある。その時は何か礼でもできるようにはしておきたい。
俺の中である程度の決着がついて、いろいろなことが清算できているように。少しは頑張ってみよう。
カランとドアについたベルが鳴る。空はやはりどこまでも青くて、風が柔らかく頬を撫でてくる。気持ちがいい。少しだけ軽くなった足で一歩踏み出し、また道を歩き出した。
***
とにもかくにも、俺は生来の楽天家らしい。骨董品屋の店主と話してからは幾分か気分が良くなり、それからはあまり難しいことを考えなくなった。いや、本当は気にしなくてはいけないんだろうけれど。それでも一人で悩んでいても仕方がない。好きなら好きで、それでいい。問題はそれからどうするかだ。
つまるところ自分の出方が全てであって、ディヴィッドが何か悪い訳でもない。そう思うことで、少しは気分が楽になっていた。
自分でも笑ってしまうくらい、簡単な男だと思う。それもまあいいだろう。その程度の問題ではないとは分かっているし、ちゃんと考えないといけないということも理解している。でも今日はせっかくの休みで、屋敷を離れることができる唯一のチャンスだ。それならば、普段できないことをしてみるのもいいかもしれない。
そう思って足を運んだのは、街の酒場だった。ブラブラと街を歩いているといつのまにか夕方になっていて、腹も減ったしと思って選んだ店はそれなりに人気の店だったようだ。ガヤガヤと騒がしい店内に入って、それからカウンター席を勧められる。ウイスキーを頼んでぼんやり煙草を吸っていると、その間にも客は何人も来店してきた。
日曜日だというのに、と思ったけれど客層を見ているとほとんどが若者で、帰るべき家庭がなく家に一人でいると孤独を感じてしまうからここに来ているような人々ばかりだった。なるほど、俺は普段から屋敷に住んでいるおかげで孤独の寂しさというのをあまり感じたことがない。だから、こうして誰かと一緒にいるのにそれぞれが悲しげな空気を纏っている。
いやでも。
「俺も、寂しかったのかもしれないなぁ」
屋敷にはいつも誰かいた。同じ年代の人もいた。でもいつも、みんな見ているのは他の人だった。仕えるべき相手がいて、いつもその人たちを見ていた。両親だってそうだ。俺のことを愛していないわけじゃあない。でも彼らの中にいるのはいつだって自分の主人で、俺が一番ではなかった。それが当然で、それが当たり前で、それが普通だとずっと思ってきたけれど。
それでもやっぱり、寂しかった。一人ぼっちでベッドに潜り込み、冷たい毛布に包まって、うんともすんとも言わないテディベアを抱きしめていた。
「ちゃんと愛されてるよ、ね」
それはもしかしたら、自分に向けた言葉だったのかもしれない。いや、祈りとも言えるだろう。そうであって欲しい、そうあれかしと。自分に向けて強く願った言葉を俺はディヴィッドに向けたのだ。
とはいえ。それでもディヴィッドは愛されている。少なくともあの屋敷にいる人たちからは、一人の個人としてちゃんと大事にされている。そのことに少しでも気づいてくれたらいいのだけれど。
「ねえ、オニーサン。お一人?」
「えっ?」
そんなことを考えていると、突然後ろから声をかけられた。若い女性の声なんて、アリーチェ以外もうずっと聞いていない。驚いてウイスキーを少しこぼしてしまう。吸いかけの煙草はいつのまにか全て灰になっていた。
「悲しそうな顔をしているのね」
「そうかな」
「ええ。今にも泣きそうな顔。寂しいの?」
「どう、だろう……そういうわけでもない、はずだけど」
女性は俺の隣に座って長い足をゆったりと組んだ。膝までの短いスカートがめくれて、その奥から白い太ももがちらりと見えた。その色に、生唾が湧き上がってくる。硬さなんてどこにもない、触れると跳ね返ってくるのだろうとわかるくらい、そこは柔らかく瑞々しく熟れていた。
少し癖のあるブルネットが腰まで伸びて、無造作に揺れている。気だるそうに笑う唇は、驚くほど、艶めいていた。
「お名前は? オニーサン」
「ヴィンチェンツォ」
「あら。イタリアの方?」
「先祖がな。俺は生まれも育ちもフィカリアだ」
「ふうん。そう。私はマルガレータ。メグって呼んで」
そう言って、メグは俺の手にそっと手を伸ばしてきた。細い指だ。傷も、乾燥も、どこにもない。女性の肌というのはこんなにも美しいものなのかと驚いてしまう。
年齢は、俺よりも少し上くらいだろうか。瞳の色と同じ青いドレスを着ているけれど、ナポリの海みたいだとぼんやりと思った。
「ヴィンチェンツォ……ううん、長いわね。ヴィンスでいい?」
「ああ。みんなそう呼ぶ」
「ありがと。ねえ、ヴィンスは誰か好きな人がいるのかしら」
「は、はぁ!?」
全く脈絡のない質問に思わず口に含んだウイスキーを吹き出してしまう。そもそも初対面の、まだ相手がどんな人かもわからないというのに。いきなりそんなことを聞かれたら誰だって驚く。
というより、俺はそこまでわかりやすい顔をしていたのだろうか。
「オニーサンみたいな色男がそんな顔してたら、変な女に捕まるわよ?」
「だから何なんだよ、その色男って」
「あら。自分がどんな顔が今まで見たことない?」
「あるけど。でも別に、俺は」
今日はやけに、その言葉を言われる。色男って。なんだよ、それ。自分の見た目については別に不男というわけではないだろうけれど、そこまでいいとも思っていない。アリーチェにしてもそうだけど、どうしてこう、みんなして俺のことをそんな風に言うんだろう。
「綺麗なブロンドだし、目の色も澄んでいるし。それに何より、色気があるわ」
「色気?」
「そう。誰かを好きになると、人はみんな色気が出てくるの。今のオニーサンにはそれがあるわ」
「……なんだよ、それ」
誰かを好きになると、とか。色気とか。そんなのもうよくわからない。自分では意識していないのに周りから見るとそこまでわかりやすいなんて。恥ずかしいにもほどがある。
色々と忘れたくてここに来たのに。どこに行っても結局、俺はディヴィッドのことばかり考えているんだ。
「ねえ、ヴィンス」
メグが俺の肩に?を寄せた。耳元で囁く言葉はとろりと甘くて、脳みそをバカみたいに揺さぶった。香水と化粧と、それから燻った煙草の香りがして、頭の奥がガンガンと痛む。口の中がカラカラに乾いていた。
そこから先のことは、あまり覚えていない。ささやかれた言葉は想像していた通りのもので、別に何も動揺もしなかった。罪悪感も、喜びも、何もなかった。お互い寂しいだけで、ただそれだけのためにここにいて、その空虚を埋めるためだけに手を伸ばすなんて。
そんなの、あまりにも寂しかった。だから俺は頷いた。飲みかけのウイスキーを一気に呷る。喉がヒリヒリと傷んだ。それでも全く酔うことはなく、メグの手をぎゅっと掴んだ。
その手はいつまでも、氷のように冷たかった。
***
青いドレスを脱がしていく。柔らかくて軽い生地は、夜の照明に当たると豪奢に見えるが触れてみると存外安っぽいことがわかる。手のひらに当たるとガサガサするし、肌に触れると痛くなりそうだ。
ナポリの海だと思ったその色は、もっと陳腐で安っぽい、濁流のような色になっていた。
「初めて?」
「いや」
「そうね。でもこういうのは初めてでしょ」
「こういうのって?」
細い指が俺の?を引っ掻く。糊が効きすぎてパリパリのシーツに、ブルネットの髪が散らばっていた。ヒールを履いたままの足が、俺の腰に回される。ぐい、と引き寄せられてバランスを崩すと、そのまま唇が触れるまで顔を引き寄せられた。
「愛のないセックス、っていうの。初めてじゃない?」
「……それは、まあ」
街外れの、安いホテルの、汚い一室で。碌に話もせずにベッドになだれ込んだはいいけれど、俺の頭の中はなぜか冷静だった。酒を飲んで、香水と煙草にあてられて、本当ならもっと理性を飛ばせると思ったのに。
何かを忘れるために女を抱くなんて、そんなことが許されるのだろうかと。そう思っているからだろうか。メグはそれも承知で、と言うよりももとよりそういうセックスしかしないのだろう、なんてことない顔をしているのに。
「泣きそうな顔」
「いや、これは」
「愛がないとセックスしちゃダメって、そう教わったのかしら?」
「少なくとも愛のないセックスを推奨されたことはないな」
「そう……いい人生を送っているのね」
その言葉にはわかりやすいほどの棘があった。それもそうだろう。俺みたいにずっと綺麗な屋敷で育って、ある程度の生活は保障され、そりゃまあ生きていくレールは決められているけれどわかりやすく道が示されているのだ。
メグみたいに、その日をどう生きるか毎日悩むことはない。そんな男が、一丁前に悩んだ顔をして女を抱こうとしているなんて。
いや、違う。違うのだ。メグはきっとそこに怒っているんじゃあない。俺が、誰かの代わりに、抱こうとしていることに。そこに怒っているのだ。わかっていると言った。それでもいいと言った。寂しいもの同士傷を舐め合おうと言われた。でもそれは、本心じゃあない。だってそうだろう。そんなことで体を重ねたら、終わった後に訪れるのは悲しいほどの空虚だ。喪失感だ。一瞬の快楽を得るために支払うには、それはあまりにも大きすぎる代償だ。
代償、だなんて。そんなことを思っている限りはきっと俺とメグは分かり合えない。寄り添えない。俺は、彼女の傷を、舐めることはできない。
「……ごめん」
「こういう時に謝る方がよっぽど失礼って、それは習わなかったの?」
「謝ったことがないものでな」
「あら、あなたの初めてをもらっちゃったってわけね。それはそれで光栄だわ」
ここまで流されたのは自分だというのに、どうしても最後の一歩を踏み出せなかった。後一枚、最後の一枚を取り外せばきっとそれで済んだのだろう。何も考えることなく、ひたすらに抱くことができただろう。
でもそれができなかった。したくなかった。それはもしかしたら、メグのブルネットが、何かと重なったからかもしれない。少しだけ癖の強い髪、ふわふわと揺れるその色が、ああ、そうだ、確かにこれは。
「……もし今、君を抱いたら多分、すごく後悔する」
「私、結構評判なのよ? いい体って」
「それは知ってる、あ、いや。そういう意味じゃなくて……君はとても魅力的だってことはわかる。本当に」
「それでも後悔する?」
「する……それに、君を傷つけることになる。どうしようもなく」
「ただでさえ割と傷ついているんだけど? 半分服を脱がされて、それで勃たないって」
「た、っ……いや、まあ……そうだけど」
アルコールの飲みすぎとか、メグが魅力的じゃなかったわけでもない。ただ俺の問題なのだ。誰か他の人で上塗りしようとしても、それができないくらい自分の中に大きな存在としてディヴィッドがいる。
ここまで明らかに見せつけられるともう言い訳することはできない。
「重症ね、あなた」
「そう、だな」
「そんなにいい女なわけ? その人」
その言葉に頷くことができず、適当に言葉を濁す。それを見てメグはまた笑い、今日はもう寝ようと俺の背中を撫でた。目の前が滲んでいることに気がついて、自分がその時になってようやく泣いているのかとわかった。
本当に泣きたいのはメグの方だろうに。俺はなんて、ひどい人間なんだ。ひどい人間だと自分で自分を責めて、それでどこか満足している。「自分はひどい男だ」ということに酔っている。ひどい。本当にひどい。このまま泣き疲れて、溶けてしまいたい。
明日どんな顔でディヴィッドに会えばいいんだろう。
「おやすみ、ミーツェ。かわいい子猫ちゃん」
「ああ……おやすみ」
「ねえ、最後に一つだけお願いしてもいいかしら」
「ん?」
シャツの隙間に指を差し込まれる。鎖骨の近くを撫でられて、びくりと体が跳ね上がった。
「今夜一緒に居たって証拠、残してもいい?」
「……見えないところになら」
「ふふ、優しいのね」
滲んだ口紅が寂しげに歪んで、首筋に触れた。冷たい舌で舐められて、そのまま強く吸い上げられる。ボタンを留めれば隠せるようなところにべっとりとルージュがついて、それでも拭い取ればさっさと消えてしまいそうなその色は、やはり俺たちにはとても、寂しく見えた。
「私もね……こんな馬鹿なこと、したくないのよ」
「え?」
首筋に顔を埋めたまま、メグは呻くようにそう呟いた。
「寂しいって言えたら、こんなことしないかったわ。誰かに抱いてもらって、それで寂しさを紛らわせるなんて。そんなことできないって、本当は分かっているのに。でも寂しいの。寂しくて、一人じゃ眠れなくて」
「……うん」
寂しいの、と言って泣きじゃくるメグを抱きしめて、髪をそっと撫でる。ぎこちない手つきかもしれないけれど、それでも多少は気持ちが落ち着くだろうか。
メグはメグで、孤独を抱えていた。彼女が普段どういう生活をしているかは知らない。そんなことを知る前にこうやってベッドに向かってしまったのだ。でも、彼女が纏うその寂しさはどこに行っても隠せなかったのだ。酒場にいても、夜の街を歩いていても、どこにいても香水のようにその色は彼女をまとっていた。
俺に、その色はあまりにも、強かったのだ。
「誰かに抱かれていると、その時だけは一人じゃないって思えるでしょう? でもね、いつまでもこんなことしていられないの。若くないと、綺麗じゃないと。いつまでも抱いてもらえない」
「それだけが全てじゃあないだろう」
「あなたはね。綺麗な世界しか知らないから、そう言えるのよ」
それは箴言だった。その通りだ。俺は綺麗な世界しか知らない。セックスは愛が伴っていないといけない、美しいものが愛でないといけない、愛で誰かを傷つけることはいけない。そんな風に思っていた。
でも違う。きっとこれも、愛の形だ。俺とメグがただ静かに抱き合って涙を流すことも。それを許すことも。ただ胸を貸すことも。それも一つの、愛の形だ。それは確かに美しくないかもしれない。なし崩し的に体を重ねることは、今回はしなかったけれどきっとメグはこれからも続けるだろう。それを「美しくないから」と責めることは俺にはできない。
それだって一つの、愛なのだ。目に見えないからこそわからなくなる。それでも。いや、だからこそ。
「俺は、ちゃんと愛せるのかな」
「そこまで思い悩むのなら、きっと十分よ。誰かに思ってもらえるっていうのはそれがどういう形であれ、すごいことだと思うわ」
「そう、か」
「そうよ。どういう形であれ、ね」
もしかしたらメグは察しているのだろうか。俺が、好きになってはいけない人に想いを寄せているということを。気づかれているのであればそれでいい。きっと彼女はこういうことを吹聴する人ではないだろう。よく知らないくせになんとなくそう思えてしまう。
こんな形で出会うんじゃあなくて、もっと違うところで知り合いたかった。そうしたら俺たちは良き理解者になれたのかもしれない。でもそんなこと、もうできなくて。
泣きじゃくるメグを抱きしめたまま、俺はとろりと眠りに落ちた。その日は何の夢を見ることもなく、ただこんこんと眠り続けた。
***
起き抜けのメグは夜と比べて少しだけ幼く見えた。俺と違い朝は遅い時間に起きるようで、朝日が昇ると同時に起き上がった俺を見て嫌そうな顔をした。
職業病なんだと言うと呆れたように笑う。今は別に、仕える人はいないというのに。ホテルのチェックアウトまではまだ時間があるから、うとうとしているメグを置いてシャワーを浴びる。そういえば今日は朝食を準備したり、新聞にアイロンをかけなくてもいいだ。
ついでに俺以外の人がベッドメイキングをしてくれる。こんないいことがあっていいのか。いや、いいんだけど。
「まったく、女を一人置いてシャワーだなんて。嫌われるわよ?」
さっぱりした気分でシャワー室から出ると、メグに嫌味ったらしい声で揶揄われた。勝手に俺の煙草を拝借して吸っている。それはそれでどうなんだと言いたくなったけれど、昨日のこともあるから何も言わなかった。
どうやらよく眠れたようで、目の下にあったクマは綺麗に落ちていた。
「おはよう」
「おーはよ。昨日はいい夜だったわね」
「はいはい」
「つれないわね」
「そりゃ失礼」
ボサボサの髪をかきあげながらぬるい紅茶を飲むメグは、昨日よりもさっぱりした顔をしていた。どちらかというと俺の方が色々と迷惑をかけたし、それに巻き込まれただけなのに。文句の一つも言わず、ただ笑って流してくれた。
「また会えたら、今度こそはキスくらいしましょうね」
「お別れのキスじゃ駄目か?」
「ふふ、そういうとこ好きよ。堅物でどうしようもないところ」
「それは良かった」
そんな感じで俺たちはただ薄っぽい味の朝食を食べ、そうして触れることもないままホテルを後にした。お別れのキスは?に軽く、それこそ触れるかどうかわからないものを。最後に香った化粧品の香りは、いつまでも俺の鼻に残って消えなかった。
門限である正午まではまだ少し時間があったけれど、早めに帰ろうと思いどこにも寄らず直接館に向かうことにした。せめて何か手土産でも、と帰り道にあるショコラティエに寄って詰め合わせを一つ買う。ディヴィッドの分は別に、少しだけ高いものを購入する。
丸一日空けていたからきっと迷惑もかけただろう。トトやマッテオはディヴィッドの世話をしていたし。当然もらえるはずの休みだったからここまで罪悪感に苛まれる必要はないのだけれど、なんだかメグと一緒に一晩過ごしたこともあってか、なんだかうっすらとした背徳感を感じていた。
言わなければ誰にもバレないだろうし、バレたところで咎められることもない。俺には今正式にお付き合いしている人はいないのだし、浮気でもなんでもない。そうはわかっているけれど、なんでだろうか、少しだけ悪いことをした気分になった。
「いや……何もしてないんだけど」
本当に何もしていないから逆に驚いてしまう。女性と一晩過ごしておいて、本当に何もしていないなんて。こんなの他の人が聞いたら呆れるどころか笑ってしまうだろう。別に笑われたっていいのだけれど。
そんなことを考えながら屋敷までの坂道を歩く。昨日、ここを下った時はなんてことなかったのに。今はどうしてか、少しだけ緊張していた。ディヴィッドに会いたくない。会ってしまったらまたよくない感情を抱いてしまいそうになる。
その感情が、果たしてどういうものなのか。俺には少しだけわかってしまい、だからこそ余計に会いたくないと思っていた。
だが残念なことにそういう類の願いは聞いてもらいないのが常なわけで。
「あ、おかえり!」
玄関口でソワソワと立っていたのは、紛れもなくディヴィッドだった。この時間はまだ授業中だというのに。どうしてこんなところにいるんだ。いやそれはいいんだけど。本当は良くないけど、まあある意味想定内だ。
問題は、一体どういう顔で話せばいいかということなのだ。お前のことを思い出したら女を抱けなかった、なんて、そんなこと言えるはずがない。
「早かったね」
「まあな……お土産買ってきたからあとで食べよう。それから午前中の授業についても……ディヴィッド?」
嬉しそうに駆け寄ってきたディヴィッドが、突然ピタリと足を止めた。一体どうしたんだろう。不思議に思って手を伸ばすと、嫌がるように避けられる。その仕草に驚いて、思わず後ずさってしまった。
「な、なんだよ」
「ヴィンス……女の人の匂いがする」
「えっ」
まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。シャワーも浴びたし、何も目に見えるものは残していないはずだった。でもまさか、香りだなんて。もしかしたら最後に交わしたキスの時に移ったのだろうか。それとも一晩同じベッドにいたから、そこで肌の奥まで染み込んでしまったのだろうか。
どちらにしてもこれはまずい。いや、別に何かあるわけではないけれど。またあの頃のように、絶望的なまでに距離を作られ、ようやく開いた心を閉ざされてしまうんじゃないのか。
そう思うと、一瞬で足元が冷たくなった。ヒュ、と自分の息が絞れるのがわかる。そうだ、ディヴィッドはそういう人間だ。自分とは違う、普段とは違うことに敏感で、そこから一瞬で筋道を立てられる。それほどまでに頭の回転が早い、聡い人間だった。
「……女の人と、そういうことしたの?」
「いや、これは」
「僕にしたみたいに、女の人にもしたんだ」
「してない、というよりお前、なんでそんな」
「う、うるさいなぁ!」
なんで、泣きそうなんだよ。俺が誰と何をしたって本当はいいはずだろう。そもそも俺は、お前の使用人に過ぎない。これからもうあと数週間もしたらお前はここを離れて、俺のことを忘れてしまうかもしれないんだぞ。
そうだというのに、なんで。
なんで、お前は。
泣きそうな顔をしているんだよ。
「ヴィンスのばか……」
「おい、ディヴィッド!」
両目いっぱいに溜まった涙を拭き取ることもせず、ディヴィッドは走ってどこかに行ってしまった。それを引き止めることもできず、いやそんな立場に俺はないことに気がついて、その場で立ち竦むしかできなかった。
結局そのあと、俺はディヴィッドを見つける前にトトたちに見つかって、昨日から今日にかけてのことを一気に報告されることになる。
ディヴィッドに買ってきたチョコレートは結局本人に食べてもらうことはなく、アリーチェたちが嬉々として食べるのを黙って見ることしかできなかった。
両親もそんなものだったから今更それが少ないとか思わないけれど、トトやマッテオはもう少し多く休みをもらっているらしくて、それは少しだけ羨ましい。まあ、言ったところでどうしようもないし、そもそも俺は働くこと以外何をしたらいいかよくわからないから、変にすっぽりと空いた空白の時間をもらっても持て余してしまうだけなんだけれど。
そんなわけで、ここに来て初めての休みが訪れた。今日は思う存分寝坊をしてもいい。外に行ってもいい。仕事のことは何も考えず、好きなだけ酒を飲んでもいい。数日前まではこの日に何をしようかとワクワクしながら考えていたけれど、いつも通りの時間に起きてベッドでぼんやりとしていると昨日のことを思い出してしまった。
昨日、つまりディヴィッドに情操教育を施した日。教育の一環だと言ってしまえればそれで済むし、実際にはその通りなのに。どうしてここまで、俺の胃は重たくなっているのだろう。何をそこまで気に病むことがあるのだろう。俺がここまで考える必要は全くないというのに。
あの後、俺が部屋を出てから一度もディヴィッドとは顔を合わせていない。アリーチェに頼んで変わってもらったのだ。職務放棄だと自分で自分を責めたけれど、やはり気まずいのだと言うとアリーチェは笑って引き受けてくれた。申し訳ないことをしたと思いながら、何もしないのはよくないと思いトトとマッテオの手伝いをするために庭仕事をしていた。体を動かせば少しはマシになるだろうと思ったのだ。
でも結果はこの通りで、何もよくなっていないしむしろ変に意識して拗らせている。俺がこんなのでどうするんだ。ディヴィッドは何も気にしいなさそうなのに。
「……くそっ」
清々しい朝には似つかわしくない悪態をついて、重たい体を無理やり起こした。せっかくの休みなのだ。普段は行けない街で買い物でもしよう。外泊も許されているからどこかで酒でも飲んで、朝帰りでもしよう。
そうでもしないと俺はきっと、いつまでもこの感情を引きずってしまう。どうせ後数週間でディヴィッドとは離れ離れになるというのに。俺だけがこんなにしみったれて、執着していたら意味がない。
仕事着ではなく私服に袖を通しながら、長く伸びた前髪を指で摘んだ。そろそろ整えないと。モーニングスーツだったら別に気にならないが、こうして私服のジャケットやニットを着るとどこか野暮ったく見える。眼鏡も外出用に一つ新しいものを買おうか。今はあまり目立たないようにとシルバーのフレームにしているけれど、休みのときくらいはもう少し遊び心があってもいいかもしれない。
別に、誰かに見せるわけではないけれど。でもこうして着飾ることは嫌いじゃない。少しずつでいいから色々と買い揃えて行こう。そう思うとちょっとだけ胸の奥が軽くなる。やはり気分転換は必要だ。最後に香水を首元に振りかけて、部屋を後にした。
***
この街は、田舎ではあるがそれなりの繁華街が存在する。とは言っても首都と比べてそこまで大きくはないし、華やかでもない。でも夜になれば煌々と光る明かりが灯り続けるし、酒と煙草の香りで満たされていく。
細々とした日用品や雑貨を取り扱っている店は全て商店街に存在し、そこに行けば今俺が欲しいものは手に入る。そこまで小さくもないし寂れてもいないが、歩いているとどこかのんびりとした、穏やかな時間が流れているように感じる。トトとマッテオがよく通っている食堂や、アリーチェおすすめのカフェを覗いて、小さな骨董品の前を歩く。
年代物の時計や万年筆、カフスやタイピンがショーウィンドウに並べられていた。古いライターなんかも置いてあって、これを見たらきっと父さんは喜ぶだろうなと思った。俺の父さんはこういう骨董品に目がない。俺が小さい頃、父さんが休みのたびに街に連れて行ってもらってはこういった骨董品屋を見ていたものだ。一気にたくさんは買えないから、本当にいいものを一つだけ厳選するために何時間も商品を見ていたけれど、そのおかげが俺もいつの頃からかアンティークなものが好きになっていた。
俺も何か、一つくらい買ってもいいかもしれない。職業柄あまり大きなアクセサリーはつけられないけれど、小さなものならいいだろうか。例えばブローチとか、タイピンとか。実用的なものなら大丈夫かもしれない。
「いらっしゃい」
「あ、どうも」
ぼんやりと眺めていたら、いつの間に出てきたのか店主に声をかけられた。初老の、白髪が目立つ男性だ。小さなメガネをかけているけれど、その奥ではエメラルド色の瞳が眠たそうにこちらを見ていた。
「あんた、見ない顔だね」
「普段は向こうの屋敷で働いているからな」
「ほう。てことはノールズさんとこの者かい」
「ああ、まあ」
まさかここに来てノールズ家の名前を聞くことになるとは思わなかった。いや、この土地は昔からノールズ家のものだったし、今はもうそこまでの権力はないとはいえ昔からここに住む人にとってその名前は大きなものなのだろう。
そもそもこの土地は、かつてノールズ家の別荘があったところだった。本邸は今でも首都にあるし、今でも同じような扱いをされているけれどいつ頃かにはここが本邸だった時もあるらしい。ただその時は色々な事情があり、この土地は一度荒れ果てたそうだ。
しかしそれをここまで持ち直したのは当時のノールズ家当主であるアーノルド様で、彼は王室のご息女であるロザリア様とご結婚されたあとこちらに越して来たそうだ。お二人が亡くなった後はまた本邸に戻られたそうだけど、その時以来この土地にはノールズ家の影響が少なからずあるとのこと。
「お前さん、名前は?」
「ヴィンチェンツォ・ドメーニコ」
「ドメーニコ……なるほどな」
「はぁ?」
「いやいや、こっちの話だ」
ジロジロと俺の顔を見て、それから名前を聞いた後はしきりに納得したように頷いている。一体なんだというんだ。俺にはこの土地に親戚はいないし、いたとしても俺が知ることのない遠い遠い関係なんだろう。
俺の知らないところで勝手に納得されるのはなんだか癪だけど、あまり深く突っ込んでもしょうがないことでもある。仕方がないから店に入ってもいいかと尋ねると、店主は嬉しそうにドアを開けてくれた。なんだ、いい人じゃあないか。
「ドメーニコ家ということはあれか、お前さん、執事か何かか」
「そうだよ。俺の家は代々そうなんだ」
「そうだろうなぁ。俺がまだちんまい頃、何度か聞かされたものだよ。ノールズ家の話を」
「へぇ」
埃ひとつない棚を手で撫でながら、店主は懐かしそうに遠くを見つめた。俺は一応ノールズ家のこともドメーニコ家のことも学んだことはある。ただそれはあくまで書物からで、実際に誰かから話を聞いたことはあまりない。
実際に見聞きした人がいないわけでもないのだけれど、なぜか皆話したがらないのだ。特にこの土地に住んでいた当主については。誰も話そうとしない。決してタブーというわけでもないだろうし、何かひどいことをしたわけでもない。家系図を見てもなんの問題もなく、脈々と続いている。だというのに、なぜか本邸では一切話題には出なかった。
「あんたにそっくりなメイドも居たんだよ。金髪でな」
「俺は男だぞ、メイドに似てるって」
「でも似てるよ。目の色は違うけど、あんたのお祖母さん……ひいお祖母さんになるのかな。うん、横顔が似ている」
「……そうなんだ」
俺の家系は、イタリアに起源を持つ。だから名字もイタリア風で、たまに会話の中にイタリア語が入ってくることもある。でも俺は一度も行ったことがないし、自分の親族なんて両親くらいにしか顔を見たことがない。祖父母は俺が生まれた時はもういろんな国に飛び回って居たし、今だって帰国するのは数年に一度とか、そのくらいだ。
だからまさか、ここで自分のルーツについて聞かされるとは思わなかった。確かに俺の家系は昔からノールズ家に仕えていたと聞いていたけれど。そんなに昔からとは思わなかった。
「いや、俺も実際に会ったわけじゃないんだけどな。よく聞かされていたんだよ。ノールズ家に嫁いできたお姫様は気立てが良くて、美人さんで、しかも目が驚くほど赤かったって」
「目が赤い?」
「そうだよ。その時はまだ魔力があった時代だからな。目の色ってのが魔力の強さだったんだ。今じゃあ誰も信じないけどなぁ」
「目の色、ね」
魔力の話は置いとくとして、目の色と言われてふと思い出したことがある。そういえばディヴヴィッドも目の色について言っていた。目の色がこんなにも綺麗だから、僕は周りから変に期待をされるんだ、こんな色じゃなかったらよかったのに、と。
そうやって泣きながら俺に話したのはまだつい数日前の話だ。そういえば今頃何をしているんだろう。ちゃんと食事はしただろうか。勉強はしているだろうか。また逃げ出していないだろうか。そんなことがずっと気になってしまう。
「ノールズ家は、紫か。綺麗な色だよな」
「ああ。つい見とれてしまうくらいには」
「ほう。お兄さん、それは誰か意中の相手でもいるのかい」
「え、あ、いや……そんなことは」
「隠さんくてもいい。誰かを想う時ってのはみんなそんな顔をするんだよ」
「……どんな顔だよ」
指摘されるとますます気になってしまい、思わず?を抑えてしまう。指先に伝わる熱は確かに高く、これはきっと耳まで真っ赤になっているんだろうなと思い恥ずかしくなった。
そもそも意中って。今のはただ、別に、執事と家庭教師という立場で気になっただけであって。別に個人的に何かとか、そういうわけじゃあない。断じて違う。絶対に。
「まあいいさ。誰を好きとかなんて、それだけで十分すごいことさね。俺は実際に見たわけじゃないけど親父がいつもそう言っていた。あの時のノールズ家を見ているとそう思ったんだと」
「あの時のノールズ家? 何かあったのか」
「まあなあ。歴史の本には書かれていないけれど、結構複雑だったらしい。でもまあ、当の本人たちは幸せそうだったからなぁ。それで周りもいつのまにか受け入れていたというか。むしろ祝福したそうだ」
「複雑……そうだったんだ」
「おう。首都にいりゃわかんねぇだろうけどな。ここに長く住んでりゃ嫌でも耳に入ってくる。あのお二人は、本当に立派な方々だった。当主としても、伴侶としても」
しみじみとそう言いながら、店主は俺の肩を軽く叩いた。思ったよりも小さな手だ。しかしズシリと重く、ジワリと熱がある。これが長く生きた人間の持つ重みなんだろうか。もしかしたら、俺が今抱えている悩みも本当は些細なことなのかもしれない。件の当主たちがどういう人たちで、何があったのかはよく分からないけれど。もしかしたらもっと純粋で、もっと素直なものかもしれない。
そうだったらいいのに、と。そう願わずにはいられなかった。
「誰かを好きになることに、余計な肩書きはいらねぇんだとさ。親父が言ってたよ。本当に好きになったらそんなものが全部小さく見えるし、どうにかなるとも思えるんだと」
「楽観的だな。実際はそんなことないだろう」
「だとしたら今、あんたが仕えているノールズ家は存在しなくなる。ま、つまりはそういうことだ」
どういうことかよくわからなかったけれど、なんだか彼の言葉にはつい信じてしまいたくなる魅力があった。いや、信じたかったのかもしれない。本当に好きなら、余計な肩書きも、階級差も、性別も、年齢も。全部取っ払って真正面から向き合えるのだと、信じたかったのかもしれない。
そんな風にもしも思えるのなら。俺はきっと、ディヴィッドに。
「……ありがとう、助かったよ」
「はは、俺は何もしてねぇよ」
「そうだけど。話せてよかった」
「おう。あんたは色男なんだからもっと笑っとけ。暗い顔してるのも、まあ悪くはないけどさ」
「だからなんだよその色男って……まあいいや。じゃあな」
「はいよ」
結局何も買わずに店を出てしまった。本来なら何か買ったほうがよかったのだろうけれど、まあまた来ればいいだろう。あ、でも俺はもうすぐここを離れるんだった。それまでにまた来られるだろうか。でも生きていればきっと機会はある。その時は何か礼でもできるようにはしておきたい。
俺の中である程度の決着がついて、いろいろなことが清算できているように。少しは頑張ってみよう。
カランとドアについたベルが鳴る。空はやはりどこまでも青くて、風が柔らかく頬を撫でてくる。気持ちがいい。少しだけ軽くなった足で一歩踏み出し、また道を歩き出した。
***
とにもかくにも、俺は生来の楽天家らしい。骨董品屋の店主と話してからは幾分か気分が良くなり、それからはあまり難しいことを考えなくなった。いや、本当は気にしなくてはいけないんだろうけれど。それでも一人で悩んでいても仕方がない。好きなら好きで、それでいい。問題はそれからどうするかだ。
つまるところ自分の出方が全てであって、ディヴィッドが何か悪い訳でもない。そう思うことで、少しは気分が楽になっていた。
自分でも笑ってしまうくらい、簡単な男だと思う。それもまあいいだろう。その程度の問題ではないとは分かっているし、ちゃんと考えないといけないということも理解している。でも今日はせっかくの休みで、屋敷を離れることができる唯一のチャンスだ。それならば、普段できないことをしてみるのもいいかもしれない。
そう思って足を運んだのは、街の酒場だった。ブラブラと街を歩いているといつのまにか夕方になっていて、腹も減ったしと思って選んだ店はそれなりに人気の店だったようだ。ガヤガヤと騒がしい店内に入って、それからカウンター席を勧められる。ウイスキーを頼んでぼんやり煙草を吸っていると、その間にも客は何人も来店してきた。
日曜日だというのに、と思ったけれど客層を見ているとほとんどが若者で、帰るべき家庭がなく家に一人でいると孤独を感じてしまうからここに来ているような人々ばかりだった。なるほど、俺は普段から屋敷に住んでいるおかげで孤独の寂しさというのをあまり感じたことがない。だから、こうして誰かと一緒にいるのにそれぞれが悲しげな空気を纏っている。
いやでも。
「俺も、寂しかったのかもしれないなぁ」
屋敷にはいつも誰かいた。同じ年代の人もいた。でもいつも、みんな見ているのは他の人だった。仕えるべき相手がいて、いつもその人たちを見ていた。両親だってそうだ。俺のことを愛していないわけじゃあない。でも彼らの中にいるのはいつだって自分の主人で、俺が一番ではなかった。それが当然で、それが当たり前で、それが普通だとずっと思ってきたけれど。
それでもやっぱり、寂しかった。一人ぼっちでベッドに潜り込み、冷たい毛布に包まって、うんともすんとも言わないテディベアを抱きしめていた。
「ちゃんと愛されてるよ、ね」
それはもしかしたら、自分に向けた言葉だったのかもしれない。いや、祈りとも言えるだろう。そうであって欲しい、そうあれかしと。自分に向けて強く願った言葉を俺はディヴィッドに向けたのだ。
とはいえ。それでもディヴィッドは愛されている。少なくともあの屋敷にいる人たちからは、一人の個人としてちゃんと大事にされている。そのことに少しでも気づいてくれたらいいのだけれど。
「ねえ、オニーサン。お一人?」
「えっ?」
そんなことを考えていると、突然後ろから声をかけられた。若い女性の声なんて、アリーチェ以外もうずっと聞いていない。驚いてウイスキーを少しこぼしてしまう。吸いかけの煙草はいつのまにか全て灰になっていた。
「悲しそうな顔をしているのね」
「そうかな」
「ええ。今にも泣きそうな顔。寂しいの?」
「どう、だろう……そういうわけでもない、はずだけど」
女性は俺の隣に座って長い足をゆったりと組んだ。膝までの短いスカートがめくれて、その奥から白い太ももがちらりと見えた。その色に、生唾が湧き上がってくる。硬さなんてどこにもない、触れると跳ね返ってくるのだろうとわかるくらい、そこは柔らかく瑞々しく熟れていた。
少し癖のあるブルネットが腰まで伸びて、無造作に揺れている。気だるそうに笑う唇は、驚くほど、艶めいていた。
「お名前は? オニーサン」
「ヴィンチェンツォ」
「あら。イタリアの方?」
「先祖がな。俺は生まれも育ちもフィカリアだ」
「ふうん。そう。私はマルガレータ。メグって呼んで」
そう言って、メグは俺の手にそっと手を伸ばしてきた。細い指だ。傷も、乾燥も、どこにもない。女性の肌というのはこんなにも美しいものなのかと驚いてしまう。
年齢は、俺よりも少し上くらいだろうか。瞳の色と同じ青いドレスを着ているけれど、ナポリの海みたいだとぼんやりと思った。
「ヴィンチェンツォ……ううん、長いわね。ヴィンスでいい?」
「ああ。みんなそう呼ぶ」
「ありがと。ねえ、ヴィンスは誰か好きな人がいるのかしら」
「は、はぁ!?」
全く脈絡のない質問に思わず口に含んだウイスキーを吹き出してしまう。そもそも初対面の、まだ相手がどんな人かもわからないというのに。いきなりそんなことを聞かれたら誰だって驚く。
というより、俺はそこまでわかりやすい顔をしていたのだろうか。
「オニーサンみたいな色男がそんな顔してたら、変な女に捕まるわよ?」
「だから何なんだよ、その色男って」
「あら。自分がどんな顔が今まで見たことない?」
「あるけど。でも別に、俺は」
今日はやけに、その言葉を言われる。色男って。なんだよ、それ。自分の見た目については別に不男というわけではないだろうけれど、そこまでいいとも思っていない。アリーチェにしてもそうだけど、どうしてこう、みんなして俺のことをそんな風に言うんだろう。
「綺麗なブロンドだし、目の色も澄んでいるし。それに何より、色気があるわ」
「色気?」
「そう。誰かを好きになると、人はみんな色気が出てくるの。今のオニーサンにはそれがあるわ」
「……なんだよ、それ」
誰かを好きになると、とか。色気とか。そんなのもうよくわからない。自分では意識していないのに周りから見るとそこまでわかりやすいなんて。恥ずかしいにもほどがある。
色々と忘れたくてここに来たのに。どこに行っても結局、俺はディヴィッドのことばかり考えているんだ。
「ねえ、ヴィンス」
メグが俺の肩に?を寄せた。耳元で囁く言葉はとろりと甘くて、脳みそをバカみたいに揺さぶった。香水と化粧と、それから燻った煙草の香りがして、頭の奥がガンガンと痛む。口の中がカラカラに乾いていた。
そこから先のことは、あまり覚えていない。ささやかれた言葉は想像していた通りのもので、別に何も動揺もしなかった。罪悪感も、喜びも、何もなかった。お互い寂しいだけで、ただそれだけのためにここにいて、その空虚を埋めるためだけに手を伸ばすなんて。
そんなの、あまりにも寂しかった。だから俺は頷いた。飲みかけのウイスキーを一気に呷る。喉がヒリヒリと傷んだ。それでも全く酔うことはなく、メグの手をぎゅっと掴んだ。
その手はいつまでも、氷のように冷たかった。
***
青いドレスを脱がしていく。柔らかくて軽い生地は、夜の照明に当たると豪奢に見えるが触れてみると存外安っぽいことがわかる。手のひらに当たるとガサガサするし、肌に触れると痛くなりそうだ。
ナポリの海だと思ったその色は、もっと陳腐で安っぽい、濁流のような色になっていた。
「初めて?」
「いや」
「そうね。でもこういうのは初めてでしょ」
「こういうのって?」
細い指が俺の?を引っ掻く。糊が効きすぎてパリパリのシーツに、ブルネットの髪が散らばっていた。ヒールを履いたままの足が、俺の腰に回される。ぐい、と引き寄せられてバランスを崩すと、そのまま唇が触れるまで顔を引き寄せられた。
「愛のないセックス、っていうの。初めてじゃない?」
「……それは、まあ」
街外れの、安いホテルの、汚い一室で。碌に話もせずにベッドになだれ込んだはいいけれど、俺の頭の中はなぜか冷静だった。酒を飲んで、香水と煙草にあてられて、本当ならもっと理性を飛ばせると思ったのに。
何かを忘れるために女を抱くなんて、そんなことが許されるのだろうかと。そう思っているからだろうか。メグはそれも承知で、と言うよりももとよりそういうセックスしかしないのだろう、なんてことない顔をしているのに。
「泣きそうな顔」
「いや、これは」
「愛がないとセックスしちゃダメって、そう教わったのかしら?」
「少なくとも愛のないセックスを推奨されたことはないな」
「そう……いい人生を送っているのね」
その言葉にはわかりやすいほどの棘があった。それもそうだろう。俺みたいにずっと綺麗な屋敷で育って、ある程度の生活は保障され、そりゃまあ生きていくレールは決められているけれどわかりやすく道が示されているのだ。
メグみたいに、その日をどう生きるか毎日悩むことはない。そんな男が、一丁前に悩んだ顔をして女を抱こうとしているなんて。
いや、違う。違うのだ。メグはきっとそこに怒っているんじゃあない。俺が、誰かの代わりに、抱こうとしていることに。そこに怒っているのだ。わかっていると言った。それでもいいと言った。寂しいもの同士傷を舐め合おうと言われた。でもそれは、本心じゃあない。だってそうだろう。そんなことで体を重ねたら、終わった後に訪れるのは悲しいほどの空虚だ。喪失感だ。一瞬の快楽を得るために支払うには、それはあまりにも大きすぎる代償だ。
代償、だなんて。そんなことを思っている限りはきっと俺とメグは分かり合えない。寄り添えない。俺は、彼女の傷を、舐めることはできない。
「……ごめん」
「こういう時に謝る方がよっぽど失礼って、それは習わなかったの?」
「謝ったことがないものでな」
「あら、あなたの初めてをもらっちゃったってわけね。それはそれで光栄だわ」
ここまで流されたのは自分だというのに、どうしても最後の一歩を踏み出せなかった。後一枚、最後の一枚を取り外せばきっとそれで済んだのだろう。何も考えることなく、ひたすらに抱くことができただろう。
でもそれができなかった。したくなかった。それはもしかしたら、メグのブルネットが、何かと重なったからかもしれない。少しだけ癖の強い髪、ふわふわと揺れるその色が、ああ、そうだ、確かにこれは。
「……もし今、君を抱いたら多分、すごく後悔する」
「私、結構評判なのよ? いい体って」
「それは知ってる、あ、いや。そういう意味じゃなくて……君はとても魅力的だってことはわかる。本当に」
「それでも後悔する?」
「する……それに、君を傷つけることになる。どうしようもなく」
「ただでさえ割と傷ついているんだけど? 半分服を脱がされて、それで勃たないって」
「た、っ……いや、まあ……そうだけど」
アルコールの飲みすぎとか、メグが魅力的じゃなかったわけでもない。ただ俺の問題なのだ。誰か他の人で上塗りしようとしても、それができないくらい自分の中に大きな存在としてディヴィッドがいる。
ここまで明らかに見せつけられるともう言い訳することはできない。
「重症ね、あなた」
「そう、だな」
「そんなにいい女なわけ? その人」
その言葉に頷くことができず、適当に言葉を濁す。それを見てメグはまた笑い、今日はもう寝ようと俺の背中を撫でた。目の前が滲んでいることに気がついて、自分がその時になってようやく泣いているのかとわかった。
本当に泣きたいのはメグの方だろうに。俺はなんて、ひどい人間なんだ。ひどい人間だと自分で自分を責めて、それでどこか満足している。「自分はひどい男だ」ということに酔っている。ひどい。本当にひどい。このまま泣き疲れて、溶けてしまいたい。
明日どんな顔でディヴィッドに会えばいいんだろう。
「おやすみ、ミーツェ。かわいい子猫ちゃん」
「ああ……おやすみ」
「ねえ、最後に一つだけお願いしてもいいかしら」
「ん?」
シャツの隙間に指を差し込まれる。鎖骨の近くを撫でられて、びくりと体が跳ね上がった。
「今夜一緒に居たって証拠、残してもいい?」
「……見えないところになら」
「ふふ、優しいのね」
滲んだ口紅が寂しげに歪んで、首筋に触れた。冷たい舌で舐められて、そのまま強く吸い上げられる。ボタンを留めれば隠せるようなところにべっとりとルージュがついて、それでも拭い取ればさっさと消えてしまいそうなその色は、やはり俺たちにはとても、寂しく見えた。
「私もね……こんな馬鹿なこと、したくないのよ」
「え?」
首筋に顔を埋めたまま、メグは呻くようにそう呟いた。
「寂しいって言えたら、こんなことしないかったわ。誰かに抱いてもらって、それで寂しさを紛らわせるなんて。そんなことできないって、本当は分かっているのに。でも寂しいの。寂しくて、一人じゃ眠れなくて」
「……うん」
寂しいの、と言って泣きじゃくるメグを抱きしめて、髪をそっと撫でる。ぎこちない手つきかもしれないけれど、それでも多少は気持ちが落ち着くだろうか。
メグはメグで、孤独を抱えていた。彼女が普段どういう生活をしているかは知らない。そんなことを知る前にこうやってベッドに向かってしまったのだ。でも、彼女が纏うその寂しさはどこに行っても隠せなかったのだ。酒場にいても、夜の街を歩いていても、どこにいても香水のようにその色は彼女をまとっていた。
俺に、その色はあまりにも、強かったのだ。
「誰かに抱かれていると、その時だけは一人じゃないって思えるでしょう? でもね、いつまでもこんなことしていられないの。若くないと、綺麗じゃないと。いつまでも抱いてもらえない」
「それだけが全てじゃあないだろう」
「あなたはね。綺麗な世界しか知らないから、そう言えるのよ」
それは箴言だった。その通りだ。俺は綺麗な世界しか知らない。セックスは愛が伴っていないといけない、美しいものが愛でないといけない、愛で誰かを傷つけることはいけない。そんな風に思っていた。
でも違う。きっとこれも、愛の形だ。俺とメグがただ静かに抱き合って涙を流すことも。それを許すことも。ただ胸を貸すことも。それも一つの、愛の形だ。それは確かに美しくないかもしれない。なし崩し的に体を重ねることは、今回はしなかったけれどきっとメグはこれからも続けるだろう。それを「美しくないから」と責めることは俺にはできない。
それだって一つの、愛なのだ。目に見えないからこそわからなくなる。それでも。いや、だからこそ。
「俺は、ちゃんと愛せるのかな」
「そこまで思い悩むのなら、きっと十分よ。誰かに思ってもらえるっていうのはそれがどういう形であれ、すごいことだと思うわ」
「そう、か」
「そうよ。どういう形であれ、ね」
もしかしたらメグは察しているのだろうか。俺が、好きになってはいけない人に想いを寄せているということを。気づかれているのであればそれでいい。きっと彼女はこういうことを吹聴する人ではないだろう。よく知らないくせになんとなくそう思えてしまう。
こんな形で出会うんじゃあなくて、もっと違うところで知り合いたかった。そうしたら俺たちは良き理解者になれたのかもしれない。でもそんなこと、もうできなくて。
泣きじゃくるメグを抱きしめたまま、俺はとろりと眠りに落ちた。その日は何の夢を見ることもなく、ただこんこんと眠り続けた。
***
起き抜けのメグは夜と比べて少しだけ幼く見えた。俺と違い朝は遅い時間に起きるようで、朝日が昇ると同時に起き上がった俺を見て嫌そうな顔をした。
職業病なんだと言うと呆れたように笑う。今は別に、仕える人はいないというのに。ホテルのチェックアウトまではまだ時間があるから、うとうとしているメグを置いてシャワーを浴びる。そういえば今日は朝食を準備したり、新聞にアイロンをかけなくてもいいだ。
ついでに俺以外の人がベッドメイキングをしてくれる。こんないいことがあっていいのか。いや、いいんだけど。
「まったく、女を一人置いてシャワーだなんて。嫌われるわよ?」
さっぱりした気分でシャワー室から出ると、メグに嫌味ったらしい声で揶揄われた。勝手に俺の煙草を拝借して吸っている。それはそれでどうなんだと言いたくなったけれど、昨日のこともあるから何も言わなかった。
どうやらよく眠れたようで、目の下にあったクマは綺麗に落ちていた。
「おはよう」
「おーはよ。昨日はいい夜だったわね」
「はいはい」
「つれないわね」
「そりゃ失礼」
ボサボサの髪をかきあげながらぬるい紅茶を飲むメグは、昨日よりもさっぱりした顔をしていた。どちらかというと俺の方が色々と迷惑をかけたし、それに巻き込まれただけなのに。文句の一つも言わず、ただ笑って流してくれた。
「また会えたら、今度こそはキスくらいしましょうね」
「お別れのキスじゃ駄目か?」
「ふふ、そういうとこ好きよ。堅物でどうしようもないところ」
「それは良かった」
そんな感じで俺たちはただ薄っぽい味の朝食を食べ、そうして触れることもないままホテルを後にした。お別れのキスは?に軽く、それこそ触れるかどうかわからないものを。最後に香った化粧品の香りは、いつまでも俺の鼻に残って消えなかった。
門限である正午まではまだ少し時間があったけれど、早めに帰ろうと思いどこにも寄らず直接館に向かうことにした。せめて何か手土産でも、と帰り道にあるショコラティエに寄って詰め合わせを一つ買う。ディヴィッドの分は別に、少しだけ高いものを購入する。
丸一日空けていたからきっと迷惑もかけただろう。トトやマッテオはディヴィッドの世話をしていたし。当然もらえるはずの休みだったからここまで罪悪感に苛まれる必要はないのだけれど、なんだかメグと一緒に一晩過ごしたこともあってか、なんだかうっすらとした背徳感を感じていた。
言わなければ誰にもバレないだろうし、バレたところで咎められることもない。俺には今正式にお付き合いしている人はいないのだし、浮気でもなんでもない。そうはわかっているけれど、なんでだろうか、少しだけ悪いことをした気分になった。
「いや……何もしてないんだけど」
本当に何もしていないから逆に驚いてしまう。女性と一晩過ごしておいて、本当に何もしていないなんて。こんなの他の人が聞いたら呆れるどころか笑ってしまうだろう。別に笑われたっていいのだけれど。
そんなことを考えながら屋敷までの坂道を歩く。昨日、ここを下った時はなんてことなかったのに。今はどうしてか、少しだけ緊張していた。ディヴィッドに会いたくない。会ってしまったらまたよくない感情を抱いてしまいそうになる。
その感情が、果たしてどういうものなのか。俺には少しだけわかってしまい、だからこそ余計に会いたくないと思っていた。
だが残念なことにそういう類の願いは聞いてもらいないのが常なわけで。
「あ、おかえり!」
玄関口でソワソワと立っていたのは、紛れもなくディヴィッドだった。この時間はまだ授業中だというのに。どうしてこんなところにいるんだ。いやそれはいいんだけど。本当は良くないけど、まあある意味想定内だ。
問題は、一体どういう顔で話せばいいかということなのだ。お前のことを思い出したら女を抱けなかった、なんて、そんなこと言えるはずがない。
「早かったね」
「まあな……お土産買ってきたからあとで食べよう。それから午前中の授業についても……ディヴィッド?」
嬉しそうに駆け寄ってきたディヴィッドが、突然ピタリと足を止めた。一体どうしたんだろう。不思議に思って手を伸ばすと、嫌がるように避けられる。その仕草に驚いて、思わず後ずさってしまった。
「な、なんだよ」
「ヴィンス……女の人の匂いがする」
「えっ」
まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。シャワーも浴びたし、何も目に見えるものは残していないはずだった。でもまさか、香りだなんて。もしかしたら最後に交わしたキスの時に移ったのだろうか。それとも一晩同じベッドにいたから、そこで肌の奥まで染み込んでしまったのだろうか。
どちらにしてもこれはまずい。いや、別に何かあるわけではないけれど。またあの頃のように、絶望的なまでに距離を作られ、ようやく開いた心を閉ざされてしまうんじゃないのか。
そう思うと、一瞬で足元が冷たくなった。ヒュ、と自分の息が絞れるのがわかる。そうだ、ディヴィッドはそういう人間だ。自分とは違う、普段とは違うことに敏感で、そこから一瞬で筋道を立てられる。それほどまでに頭の回転が早い、聡い人間だった。
「……女の人と、そういうことしたの?」
「いや、これは」
「僕にしたみたいに、女の人にもしたんだ」
「してない、というよりお前、なんでそんな」
「う、うるさいなぁ!」
なんで、泣きそうなんだよ。俺が誰と何をしたって本当はいいはずだろう。そもそも俺は、お前の使用人に過ぎない。これからもうあと数週間もしたらお前はここを離れて、俺のことを忘れてしまうかもしれないんだぞ。
そうだというのに、なんで。
なんで、お前は。
泣きそうな顔をしているんだよ。
「ヴィンスのばか……」
「おい、ディヴィッド!」
両目いっぱいに溜まった涙を拭き取ることもせず、ディヴィッドは走ってどこかに行ってしまった。それを引き止めることもできず、いやそんな立場に俺はないことに気がついて、その場で立ち竦むしかできなかった。
結局そのあと、俺はディヴィッドを見つける前にトトたちに見つかって、昨日から今日にかけてのことを一気に報告されることになる。
ディヴィッドに買ってきたチョコレートは結局本人に食べてもらうことはなく、アリーチェたちが嬉々として食べるのを黙って見ることしかできなかった。
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BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
転生したら、主人公の宿敵(でも俺の推し)の側近でした
リリーブルー
BL
「しごとより、いのち」厚労省の過労死等防止対策のスローガンです。過労死をゼロにし、健康で充実して働き続けることのできる社会へ。この小説の主人公は、仕事依存で過労死し異世界転生します。
仕事依存だった主人公(20代社畜)は、過労で倒れた拍子に異世界へ転生。目を覚ますと、そこは剣と魔法の世界——。愛読していた小説のラスボス貴族、すなわち原作主人公の宿敵(ライバル)レオナルト公爵に仕える側近の美青年貴族・シリル(20代)になっていた!
原作小説では悪役のレオナルト公爵。でも主人公はレオナルトに感情移入して読んでおり彼が推しだった! なので嬉しい!
だが問題は、そのラスボス貴族・レオナルト公爵(30代)が、物語の中では原作主人公にとっての宿敵ゆえに、原作小説では彼の冷酷な策略によって国家間の戦争へと突き進み、最終的にレオナルトと側近のシリルは処刑される運命だったことだ。
「俺、このままだと死ぬやつじゃん……」
死を回避するために、主人公、すなわち転生先の新しいシリルは、レオナルト公爵の信頼を得て歴史を変えようと決意。しかし、レオナルトは原作とは違い、どこか寂しげで孤独を抱えている様子。さらに、主人公が意外な才覚を発揮するたびに、公爵の態度が甘くなり、なぜか距離が近くなっていく。主人公は気づく。レオナルト公爵が悪に染まる原因は、彼の孤独と裏切られ続けた過去にあるのではないかと。そして彼を救おうと奔走するが、それは同時に、公爵からの執着を招くことになり——!?
原作主人公ラセル王太子も出てきて話は複雑に!
見どころ
・転生
・主従
・推しである原作悪役に溺愛される
・前世の経験と知識を活かす
・政治的な駆け引きとバトル要素(少し)
・ダークヒーロー(攻め)の変化(冷酷な公爵が愛を知り、主人公に執着・溺愛する過程)
・黒猫もふもふ
番外編では。
・もふもふ獣人化
・切ない裏側
・少年時代
などなど
最初は、推しの信頼を得るために、ほのぼの日常スローライフ、かわいい黒猫が出てきます。中盤にバトルがあって、解決、という流れ。後日譚は、ほのぼのに戻るかも。本編は完結しましたが、後日譚や番外編、ifルートなど、続々更新中。
【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
偽物勇者は愛を乞う
きっせつ
BL
ある日。異世界から本物の勇者が召喚された。
六年間、左目を失いながらも勇者として戦い続けたニルは偽物の烙印を押され、勇者パーティから追い出されてしまう。
偽物勇者として逃げるように人里離れた森の奥の小屋で隠遁生活をし始めたニル。悲嘆に暮れる…事はなく、勇者の重圧から解放された彼は没落人生を楽しもうとして居た矢先、何故か勇者パーティとして今も戦っている筈の騎士が彼の前に現れて……。
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