7 / 19
1章
グロキシニアの月 第一節
しおりを挟む「こちら、おつりです」
「おや、ありがとねぇ」
小さな小銭を念入りに数え、間違いがないことを確認してから客に手渡す。しわくちゃの小さな手は、かさついているのにとても暖かい。
この老婆は、ええと、確か。
「マチルダさん、でしたっけ」
「そうよ。嬉しいわぁ、アスランに覚えてもらえて」
良かった、正解だった。胸の奥でほっとため息をつく。昨日の夜、ルークが話していたことを覚えていてよかった。毎月決まった日に花を買いにくるからそろそろだと言っていたのだ。
買うのはいつも決まって真っ白の花。種類は何でもいいが、とにかく全て白でないといけない。変わった客だとは思ったが、実際に白い花束はどこか幻想的で美しい。
「また来月に来るわね。ルークにもよろしく」
「はい。ありがとうございました」
嬉しそうに花束を抱えたマチルダが、にこにこ笑いながら店を出ていった。ドアにつけていた真鍮のベルが鳴り終わると、どっと疲労が押し寄せてくる。
まだ慣れないな、これ。
「アスラン、ごめんね。会計任せちゃって」
「これくらい誰でも出来る」
「そんなことない。それに、アスランは覚えが早いから本当に助かってるんだよ」
新しい花をバケツに入れつつ、ルークはこちらを見てはニコニコしている。なにが、どう、楽しいというんだ!
慣れない仕事もようやく慌てることが少なくなってきた。しかし、まだ自分が働いていることに実感が湧いていない。実家にいた時は気が向いた時に小作人たちの所に行って、金を受け取るだけでよかったのに。
毎日冷たい水に手を浸し、名前もよく知らない花を店先に並べ、ヘラヘラと愛想笑いを浮かべないといけない。俺には今まで縁のなかったものばかりだ。しかし、ここで生きていくためにはやらなくてはならない。
それに、アルファより劣っているオメガのルークが出来ているんだ。俺にだって出来るはず。そう言い聞かせ、毎日足を棒にしながら働いていた。
「もう少ししたら休憩にしようか。今日はクリームチーズとサーモンのサンドイッチを作ったんだ」
「分かった」
「あと、玉ねぎのスープもあるよ。アスラン、好きでしょ?」
「はあ? 何でだよ」
「だって前に作った時、珍しくおかわりしてたから」
くそっ。そんなところまで見られていたのか。確かにルークの作る玉ねぎのスープは甘みの中にコクがあり、どこか優しい味がした。
だがそれだけだ。別に気に入っている訳では無い。毎日出されても文句は言わないが、好物ではない。断じて!
「そうだ、夜は何がいい?」
「別に、なんでもいい」
「じゃあ貝のワイン蒸しにしよう。白ワインに合うからアスランも気に入ると思うよ」
にこにこ、いつも通り笑いながらルークが話している。対して俺はいつも通りの仏頂面。自分で言うのもあれだけど、楽しいのか? こんなやつと話していて。
それに、気がかりなことが一つあった。もうすぐ結婚してから一月近く経過する。それなのに、ルークには訪れないのだ。
発情期が。
「お前、そんな無防備に歩き回ってて大丈夫なのか」
「無防備? ちゃんと虫除けのアロマを焚いてるけど」
「そうじゃない! 発情期だよ。もうすぐなんじゃないのか?」
「あー……」
成人したオメガは、月に一度の頻度で発情期が訪れる。その一週間前くらいからヒートと呼ばれる時期に入り、体が少しずつ作り替えられていく。用意が出来ると強いフェロモンを放出し始めるのだ。
そのフェロモンは全ての人間に効果があり、特にアルファは理性が壊されるほど強く脳を刺激される。今でこそ抑制剤などが開発され、オメガ自身でコントロール出来るようになった。しかし、それでも発情期は必ず訪れる。
アルファと番になるまでは。
「ヒートが始まる様子もないし、もしかして周期が長いのか?」
「いや、そのことなんだけど……」
「なんだ」
いつも、何も包み隠さずはっきりと話すルークが、珍しく口ごもった。怯えるように視線を泳がせる。
なんだ? 俺は何か変なことでも言っただろうか。
「隠すつもりはなかったんだ。言い出す機会もなくて」
「だから、何が」
「僕は、オメガだけど……来ないんだ。発情期が」
「……え?」
それは、想像もしていない言葉だった。
発情期が、来ない?
つまり俺とルークは番になれない。
運命の番だと言われたのに。だから結婚したのに。
それさえ不可能なんだとしたら、この結婚に何の意味があるというんだ。
「アスラン、ごめん、いつか言わないとって思ってたけど……なかなか言えなかったんだ」
「……わかった。とにかく、その話は家でしよう。誰かに聞かれたくない」
「わかった」
目の前がグラグラと揺れる。それまで自分を支えていたものが一気に崩れていく気分だ。
しかし不思議と頭の中はどこか冷静だった。怒りも込み上げてこない。おかしいな。どうしてだろう。ルークはこの秘密をずっと隠していたのに。
胸の奥はひどく凪いでいた。
「話はちゃんと聞く。だから、そう泣きそうな顔をするな」
「ご、ごめん」
それはもしかしたら、ルークが捨てられて迷子になった子供のように見えたからかもしれない。それで情が湧いたのかもしれない。
なんにせよ、今やるべきことは店の片付けだ。慣れた手つきでバケツに新しい水を入れる。今にも開きそうなつぼみが小さく揺れていた。
早めに店を閉め、とりあえず気分が落ち着くだろうとお茶を入れる。いつもならルークがしてくれるが、今日は見よう見真似で俺がやってみる。
ええと、ポットはここで、茶葉は確か棚にあったはず。薬缶に水を入れて沸騰させて、それから、何をしていたっけ。
「アスラン、僕がするよ」
「いい。そんな真っ青な顔でフラフラするな」
「うん……ありがとう、心配してくれて」
「別に……」
心配なんかしていない。居心地が悪いだろう、さすがに。明らかに気落ちしている人間にお茶を入れろ、だなんて。そこまで俺も酷い人間じゃない。
それに、これくらい俺にだって出来るんだ。店の会計が出来るようになったように。俺だって、少しずつこの生活に慣れてきている。
「変な感じ。アスランがキッチンに居るって」
「馬鹿にしているのか?」
「ううん。嬉しい」
「そうかよ」
ガラス瓶に詰められているドライハーブを適当にポットに入れていく。ルークがいつもブレンドして入れてくれる。食後はミントをよく入れていて、眠る前はカモミールやラベンダーが多い。
今は気持ちを落ち着かせたいだろうから、香り高いジャスミンにした。沸騰したお湯を注ぐと、まるで花畑にいるかのように甘い香りが広がってきた。
「ほら。熱いから気をつけろよ」
「ありがとう。いい香りがする」
「それで……発情期が来ない、というのは?」
「……うん」
お茶を一口飲んだルークが、ため息と一緒にぽつりぽつりと話し始めた。
「外的要因だと医者には言われたんだ。ひどく大きなショックのせいで、本能的に体が拒絶しているらしい」
「ショックって、まさか」
「目の前で、家族が殺された。それが原因だろうって」
「……そうか」
ルークの家族は、オメガを憎む人間に襲われ殺された。ルークと同じくオメガだった姉が狙われ、彼女を守ろうとした両親も巻き込まれた。
オメガは、確かにフェロモンで他者を惑わす。しかしそこに悪意はない。俺たちアルファもオメガを不本意に傷つけないよう薬を飲んで対処している。しかし、それでもオメガへの偏見は消えない。卑しい性だと決めつけて攻撃しようとする人も少なからずいる。
そんな偏見に、ルークの家族は殺されたのだ。何も抵抗できず、何も言えず、殴り殺された。そしてルークは彼らを助けるために俺の実家に駆け込んで来たのだ。
「アスランのお父様が助けてくれたから、僕だけは生き延びられた。感謝してるんだ」
「……甘いな、お前も」
「言うと思った。まあ、店を続けたかったら結婚しろって言われた時はさすがに驚いたけど」
それでも、とルークは笑った。
「こんな出来損ないのオメガが生き延びるにはそれしかなかったんだ。運命の番とか言われても僕には発情期が訪れない。だから貴方と本当に運命なのかは分からない。それでも僕は、貴方と一緒に過ごす日々は愛おしいと思う。それは揺るがない事実なんだ」
その言葉に息が詰まった。俺はルークに何もしてやっていない。たかだか下手くそなお茶を入れてやるくらいだ。それなのに、ルークは愛おしいと言う。
無理やり「運命」という言葉で縛られたこの関係を、受け入れている。それはつまり、アルファでもない、地主の息子でもない、ただ一人の「アスラン」という俺を受け入れてくれているということだ。
そんなこと、初めてだった。ただ一人の人間だった。俺を、俺として見てくれたのは。
「ルーク、お前は」
「ん?」
なんて眩しいんだろう。目の前にいるこの男は。絶望の淵にいたのに、こうして笑っている
前を向いている。現実を受け入れ、未来を見つめている。
俺には眩しすぎる。それでも目をそらすことが出来ない。俺は、お前が。
「お前は、その……何のお茶が好きなんだ」
「え、お茶?」
「そうだ。たまになら俺が入れてやる。下手くそでもいいなら」
そう言うと、一瞬キョトンとしたルークがふわりと笑い、目を潤ませながら「僕もアールグレイが好きだよ」と言った。まるでそこに一輪の花が咲いたかのように。
俺たちの間にはジャスミンの甘い香りが漂っていた。
0
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
僕がそばにいる理由
腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。
そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。
しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。
束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。
愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
寡黙なオオカミαにストーカー気質のネコΩが嫁いだ話
かとらり。
BL
誰もがケモミミとバース性を持つ世界。
澪は猫種のΩだった。
引っ込み思案の澪は半ばストーカーのように密かに追いかけている憧れの人がいる。
狼種のαの慶斗だ。
そんな慶斗にいきなり嫁ぐことが決定した澪。話しかけるのも無理なのに結婚なんてできるの?
しかも慶斗は事情があるらしくー…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる