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第3章 真相
22話 忘れ去られた記憶
来週、とレオンさんは言った。
けれど、実際に屋敷を抜け出せそうな日が訪れたのは、それから四日目のことだった。
レオンさんは公務で王宮に詰める日程が決まり、夕刻に屋敷を出て、戻りは翌朝になると知らされた。
ノートに突如として現れた『王立大学創立記念広場の中央記念碑に行け』という文字。
確かめるには、今日しかない。そう思った。
その日一日はいつも通りを装いながら、頭の中ではずっと屋敷の見取り図を並べていた。
玄関ホールには、夜も交代で付きっきりの護衛がいる。正面から出るのは初めから論外。
裏口は昼間こそ使用人でごった返すが、深夜になれば人の出入りはほとんどない。だから、裏口しかない。だが問題は、そこに辿り着くまでの廊下と階段だ。
見回りは一時間ごと。交代の前後、十分くらいだけ、廊下にいる人の気配がなくなる時間がある。
ここ数日、ただ部屋に引きこもっていたわけじゃない。
レオンが屋敷を出たのは、夕食前のまだ明るい時間帯だった。
「では、行って参りますね。ゆっくり休んでください」
そう言い残して玄関から馬車に乗り込むのを見送った。
時計を見つめる。夜の見回りが始まるのは、消灯から一時間後。その最初の交代タイミングが狙い目だ。
大学までは歩いて三十分ちょっと。記念広場は、そのすぐ手前。往復一時間はかかる。なら、広場にいられるのはせいぜい一時間。それ以上は危険だ。
(全部で二時間⋯⋯それが限界)
夕食を済ませ、あとは自室で休みますとエラに告げた。
灯りを落とした部屋の中で、ベッドに横になりながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。
ノートは、服の内ポケットに入れてある。何度も指先で存在を確かめてしまう。
廊下から聞こえる足音と、階下からかすかに届く声。
それらがひとつ、またひとつと消えていき、やがて屋敷全体が静けさに包まれていった。
(そろそろだ)
決めていた時刻になったところで、私はそっと身を起こした。
履き慣れた靴を選ぶ。
扉の取っ手をゆっくりと回し、きしませないよう注意しながら隙間を開ける。
廊下には誰もいない。
魔石灯も夜用に弱く絞られていて、足元だけをぼんやり照らしていた。
(大階段は避けなきゃ。使用人用の階段から行こう)
私は壁際を歩き、音が響かないよう一歩ごとに体重を分散させる。自分の呼吸音さえも邪魔に思えるほど、静かな廊下だった。
角をひとつ曲がる。
見回りの兵は、ちょうど交代のため反対側の棟に向かっているはずだ。
(今、私のいる側の廊下は誰もいない。ここまでは計算通り)
使用人用の狭い階段の前まで来る。
扉を少しだけ開き、中の暗闇を覗き込む。誰の気配もしない。
一段、また一段。
ゆっくりと、しかし迷いなく降りていく。
手すりに触れる指先が湿っているのが分かった。
階段を下り切ると、そこは厨房と裏口に続く短い通路だった。
昼間は湯気と人の声で満ちている場所も、今は静まり返っている。
扉の隙間から覗くと、見張り役もいないようだった。
(よし⋯⋯)
私は息を殺して、厨房の前を横切る。
足音をひとつ立てるごとに、心臓が跳ね上がる。
裏口の扉に手をかける。
扉は内側からかんぬきを下ろす仕組みだった。音を立てないよう、ゆっくりと持ち上げて外す。
冷たい夜気が、隙間からすっと滑り込んでくる。
(行くしかない)
私は外へ出て、そっと扉を閉めた。
かんぬきを元に戻すか一瞬迷ったが、戻してしまえば帰ってきた時にまた手間がかかる。
だから施錠はせず、扉がきちんと閉まったことだけ確認して、その場を後にした。
見上げると、月が高い。
屋敷の塀沿いに、影の濃いところを選んで歩いていく。正面門のほうから、話し声が聞こえた。門番がいる証拠だ。
(正面は近寄らないようにして、塀の低い裏庭側から抜けよう)
レオンの屋敷は王都の中でも高台にあり、裏手の塀は表よりわずかに低い。
庭師用の小さな道から、塀すれすれまで近づく。
そこには、枝を大きく張り出した木が一本。
(数日軟禁されてたことにも意味があった。おかげで屋敷の構造が全て把握できてる。ここからなら⋯⋯いける)
私は幹に足をかけ、低い枝までなんとかよじ登る。そこから塀の上へと身を移した。
(思ったより高い⋯⋯でもやらなきゃ)
躊躇は一瞬だけ。私は塀の外側へ飛び降りた。
膝に衝撃が走る。けれど、なんとか転ばずに着地できた。
(出られた⋯⋯!)
振り返れば、そこには高くそびえる公爵家の塀。
安堵と同時に、時間のことが脳裏に浮かぶ。
(ここから大学までは、早足で三十分。記念広場に行って⋯⋯記念碑を確かめる)
ポケットの中のノートを握り込む。夜風が、頬を切るように冷たかった。
ここからが、本当の勝負だ。
屋敷から大学までは、何度も通った慣れた道。いつもなら、ただの平和な通学路。けれど今日は違う。
(早く、急がないと⋯⋯)
心の中で時計の針をなぞりながら、足を速める。
やがて王立大学の重厚な門が見えてきた。その先に広がるのが、創立記念広場。
石畳の中央に、白い大理石の記念碑がすっと立っている。土台には初代国王と王妃。二人の「出会い」を記念して建てられたとされ、学生なら誰もが一度は見上げる場所だ。
(ノートには、創立記念広場の記念碑の前に行けとだけ書いてたけど⋯⋯)
私は息を整え、周囲をぐるりと見渡す。
さすがに深夜だけあって、広場には誰もいない。
見上げれば、童話の挿絵で何度も見た二人の横顔。国王の真っ直ぐな眼差しと、王妃の柔らかな微笑み。
ノートを胸元で抱きしめ、そっと碑の土台に手を置いた。
だが、何も起きない。
(どうしよう。来たら何か起こるのかと思ってたけど⋯⋯)
意味が分からず、記念碑の周りを一周してみる。隠し扉のような継ぎ目も、怪しい細工も見当たらない。
(もしかして私、なにか勘違いしてる⋯⋯?)
焦りがじわじわと額ににじみ始めた、そのときだった。ノートが、ほんのりと熱を帯びた。
「え⋯⋯?」
手のひらに伝わる、微かな温度。表紙が、ぽうっと淡く光を帯びる。
同時に、指先で触れていた碑の表面から、震えるような魔力の波が伝わってきた。
視界の端で、記念碑の表面に、古びた魔法陣の線が浮かび上がる。
(記念碑そのものが、術式の一部になってる?)
ノートのページが、ぱら、ぱら、と勝手にめくれていく。一枚、また一枚。やがて、真っ白だったはずのページが開かれた。
その瞬間、どこからか声が聞こえた。
──こんばんは。ここは世界の継ぎ目。無事に辿り着くことができたようですね。
「え⋯⋯どこから私に話しかけて──」
思わず声に出して問い返す。けれど広場には、相変わらず私ひとりしかいない。
声は、耳からではなく、頭の内側に直接落ちてきている感覚だった。
──私は、クサナギユリ。この声は、世界の継ぎ目、日本から来た異世界人──これらが揃わなければ、届けられないもの。
ミナさん、お会いできて嬉しいです。
初代王妃の顔が脳裏に浮かぶ。
「⋯⋯初代国王の妃、クサナギユリ様?」
──そうです。この国の歴史では、私は異国の妃と書かれています。けれど本当は違う。私は、あなたと同じ場所、日本から来ました。
「やっぱり⋯⋯日本人だったんですね。でも、お妃様は何百年も前にお亡くなりになったはずでは⋯⋯」
──そう。私はもうこの世にはいません。ですが、あなたのためにこの魔法を残しました。今、あなたは私と会話しているように感じているでしょう。でも実際には、あなたの問いに合わせて、私が残した情報が自動的に引き出されているだけ。私はあなたの今の状況も、この世界で何が起きているかも分かりません。それはできないのです。
(条件付きの自動応答魔法、みたいなものか⋯⋯)
「あの、私、本当にわからないことばかりで、なにから聞いたらいいのかも⋯⋯」
──今から、私が持っている情報をすべて話します。
声は淡々としているのに、どこか優しさが滲んでいた。
──まず、私はこの世界に転移してから、必死に日本へ帰る方法を探しました。その中で、二つ大事なことを知りました。
一つは、こちらの世界の魔法が「名前」をとても重く扱うということ。真名は、強い術式の核にされます。真名を縛ることで、その人間のいく先や寿命さえもねじ曲げることができる。
(魔法史の講義で聞いたことがある。でも、真名を使うほどの強い魔法は今では禁忌扱い。現在は使える術者すらいないと)
──そして、もう一つは、日本に帰る方法。
「日本に、帰る方法ですか?」
鼓動が一気に早くなる。
──はい。まず、この世界と私たちがいた日本は、本来なら決して交わらないはずの層にある。けれど、数百年に一度、世界の縫い目にゆらぎが生じることがある。
その歪みは、日本と呼ばれる島国のどこかに現れやすい。
それは地脈の流れのせいなのか、星の巡りなのかは、はっきりとはわかりません。
ただ、残された記録を並べていくと、異世界から迷い込んできた人間の出身地には、いつも同じ地名が添えられている。
──日本。
数百年に一度、日本のどこかでこちらとの境界がわずかに重なる。その継ぎ目に、たまたま立ってしまった誰かが、こちら側へと落ちてくる。
選ばれたわけでも、使命があるわけでもない。そこにいてしまったという、それだけの理由で。
私もあなたも、その数百年に一度のゆらぎに巻き込まれた、ただの一人に過ぎない。
「そ、そんな──」
──私は帰還方法も見つけました。しかし、それは、初代国王の異常な執着心ゆえに阻まれた。私は名を縛られ、二度と故郷に帰ることができなくなった。
ヴァルティエルの血。あれほど強い魔力を持つ彼らなら真名を使った禁忌魔法も、容易く行使できる。
「な、なぜ、そこまでしてユリさんを⋯⋯」
──私の見解では、魔力の強い人間ほど、外側の世界から来た魂に強く惹かれる傾向がある。だから、あなたも奴らには気をつけなければならない。決して、真名を握られてはなりません。
その言葉に焦りが募る。
「名前って⋯⋯そんなの、もう無理です。レオンさんだって、私の名前はもう当然知ってて⋯⋯」
──だから私はひとつの術式を組みました。外側の世界から来た者の真名を、この世界の言葉から切り離し、新しい名前にすり替える魔法です。
心臓が跳ねる。
──あなたが最初にこの世界に現れたとき、あなたは自分を「ミナ」と名乗ったはず。
「はい。名乗ったも何も、私の名前はミナですし⋯⋯それは⋯⋯」
──いいえ。違います。あなた自身も、本当の名前を忘れてしまう。それがこの術式の肝です。本当の名前でなければ、誰にも縛られない。他者も、この世界も、あなたの真名を使って、あなたを拘束することができなくなる。
「そ、そんな⋯⋯つまり、私は自分自身をミナだと思っていたけど、本当の名前が別にあるってことですか?」
──そうです。けれど、それは同時に、あなたの帰り道を曖昧にしてしまうことでもありました。外側の世界に戻るための術式には、本来の名前が必要になるからです。
息が苦しくなる。
──だから私は、真名を取り返す方法を含めた、元の世界へ帰る方法を日本語で書き残しました。この世界の人間には読めない言語なら、暗号として機能すると思ったのです。
「この世界の人間が読むことはできない──」
言いかけて、血の気が引いた。
(違う、それは間違ってる。レオンさんは、日本語を読める。なぜなら私が教えたから。しかも、レオンさんは──)
「ど、どうしたら⋯⋯私、日本語をレオンさん⋯⋯ヴァルティエルの人間に教えてしまって⋯⋯」
──それなら、一刻も早く真名を取り戻し、日本へ帰りなさい。
「一刻も早く⋯⋯そ、その本はどこにあるんでしょうか?」
──この記念碑の内部です。ですが、一年前に持ち出され、現在は王宮地下封印庫にあります。
「持ち出された?誰がそんなことを⋯⋯?」
──あなたにしか不可能です。ミナさん、あなたは一年前にもここに来ています。
「そ、そんな⋯⋯私にそんな記憶は⋯⋯!」
──はやく、その本を回収してください。
「あ、あの、まだ聞きたいことが──!」
──そろそろ時間です。ご武運をお祈りします。
そこで、声は途切れた。
慌てて呼びかけるが、返事はもうない。
「そ、そんな⋯⋯一体どうしたら⋯⋯」
(私の『ミナ』という名前は本当の名前じゃない?一年前にここへ来たことがある? そんな記憶なんて、どこにもないのに……何が、どうなってるの?)
気がつけば、空の色がさっきよりわずかに明るくなっている。
(いけない。もうこんな時間⋯⋯)
ノートを閉じると、記念碑からも魔力の気配がすっと消えていった。さっきまで浮かんでいた魔法陣も、跡形もなく消えている。
ただの大理石の塊。
ここで異世界に戻る方法についての話が交わされていたなんて、誰も思いもしない。
私はノートを胸に抱き、小さく息を吐いた。
(今ここで考えている時間はない。とにかく今は屋敷へ戻らなきゃ)
広場を抜け、通りを走り、夜の空気を肺に流し込みながら、屋敷の裏口へと急いだ。
けれど、実際に屋敷を抜け出せそうな日が訪れたのは、それから四日目のことだった。
レオンさんは公務で王宮に詰める日程が決まり、夕刻に屋敷を出て、戻りは翌朝になると知らされた。
ノートに突如として現れた『王立大学創立記念広場の中央記念碑に行け』という文字。
確かめるには、今日しかない。そう思った。
その日一日はいつも通りを装いながら、頭の中ではずっと屋敷の見取り図を並べていた。
玄関ホールには、夜も交代で付きっきりの護衛がいる。正面から出るのは初めから論外。
裏口は昼間こそ使用人でごった返すが、深夜になれば人の出入りはほとんどない。だから、裏口しかない。だが問題は、そこに辿り着くまでの廊下と階段だ。
見回りは一時間ごと。交代の前後、十分くらいだけ、廊下にいる人の気配がなくなる時間がある。
ここ数日、ただ部屋に引きこもっていたわけじゃない。
レオンが屋敷を出たのは、夕食前のまだ明るい時間帯だった。
「では、行って参りますね。ゆっくり休んでください」
そう言い残して玄関から馬車に乗り込むのを見送った。
時計を見つめる。夜の見回りが始まるのは、消灯から一時間後。その最初の交代タイミングが狙い目だ。
大学までは歩いて三十分ちょっと。記念広場は、そのすぐ手前。往復一時間はかかる。なら、広場にいられるのはせいぜい一時間。それ以上は危険だ。
(全部で二時間⋯⋯それが限界)
夕食を済ませ、あとは自室で休みますとエラに告げた。
灯りを落とした部屋の中で、ベッドに横になりながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。
ノートは、服の内ポケットに入れてある。何度も指先で存在を確かめてしまう。
廊下から聞こえる足音と、階下からかすかに届く声。
それらがひとつ、またひとつと消えていき、やがて屋敷全体が静けさに包まれていった。
(そろそろだ)
決めていた時刻になったところで、私はそっと身を起こした。
履き慣れた靴を選ぶ。
扉の取っ手をゆっくりと回し、きしませないよう注意しながら隙間を開ける。
廊下には誰もいない。
魔石灯も夜用に弱く絞られていて、足元だけをぼんやり照らしていた。
(大階段は避けなきゃ。使用人用の階段から行こう)
私は壁際を歩き、音が響かないよう一歩ごとに体重を分散させる。自分の呼吸音さえも邪魔に思えるほど、静かな廊下だった。
角をひとつ曲がる。
見回りの兵は、ちょうど交代のため反対側の棟に向かっているはずだ。
(今、私のいる側の廊下は誰もいない。ここまでは計算通り)
使用人用の狭い階段の前まで来る。
扉を少しだけ開き、中の暗闇を覗き込む。誰の気配もしない。
一段、また一段。
ゆっくりと、しかし迷いなく降りていく。
手すりに触れる指先が湿っているのが分かった。
階段を下り切ると、そこは厨房と裏口に続く短い通路だった。
昼間は湯気と人の声で満ちている場所も、今は静まり返っている。
扉の隙間から覗くと、見張り役もいないようだった。
(よし⋯⋯)
私は息を殺して、厨房の前を横切る。
足音をひとつ立てるごとに、心臓が跳ね上がる。
裏口の扉に手をかける。
扉は内側からかんぬきを下ろす仕組みだった。音を立てないよう、ゆっくりと持ち上げて外す。
冷たい夜気が、隙間からすっと滑り込んでくる。
(行くしかない)
私は外へ出て、そっと扉を閉めた。
かんぬきを元に戻すか一瞬迷ったが、戻してしまえば帰ってきた時にまた手間がかかる。
だから施錠はせず、扉がきちんと閉まったことだけ確認して、その場を後にした。
見上げると、月が高い。
屋敷の塀沿いに、影の濃いところを選んで歩いていく。正面門のほうから、話し声が聞こえた。門番がいる証拠だ。
(正面は近寄らないようにして、塀の低い裏庭側から抜けよう)
レオンの屋敷は王都の中でも高台にあり、裏手の塀は表よりわずかに低い。
庭師用の小さな道から、塀すれすれまで近づく。
そこには、枝を大きく張り出した木が一本。
(数日軟禁されてたことにも意味があった。おかげで屋敷の構造が全て把握できてる。ここからなら⋯⋯いける)
私は幹に足をかけ、低い枝までなんとかよじ登る。そこから塀の上へと身を移した。
(思ったより高い⋯⋯でもやらなきゃ)
躊躇は一瞬だけ。私は塀の外側へ飛び降りた。
膝に衝撃が走る。けれど、なんとか転ばずに着地できた。
(出られた⋯⋯!)
振り返れば、そこには高くそびえる公爵家の塀。
安堵と同時に、時間のことが脳裏に浮かぶ。
(ここから大学までは、早足で三十分。記念広場に行って⋯⋯記念碑を確かめる)
ポケットの中のノートを握り込む。夜風が、頬を切るように冷たかった。
ここからが、本当の勝負だ。
屋敷から大学までは、何度も通った慣れた道。いつもなら、ただの平和な通学路。けれど今日は違う。
(早く、急がないと⋯⋯)
心の中で時計の針をなぞりながら、足を速める。
やがて王立大学の重厚な門が見えてきた。その先に広がるのが、創立記念広場。
石畳の中央に、白い大理石の記念碑がすっと立っている。土台には初代国王と王妃。二人の「出会い」を記念して建てられたとされ、学生なら誰もが一度は見上げる場所だ。
(ノートには、創立記念広場の記念碑の前に行けとだけ書いてたけど⋯⋯)
私は息を整え、周囲をぐるりと見渡す。
さすがに深夜だけあって、広場には誰もいない。
見上げれば、童話の挿絵で何度も見た二人の横顔。国王の真っ直ぐな眼差しと、王妃の柔らかな微笑み。
ノートを胸元で抱きしめ、そっと碑の土台に手を置いた。
だが、何も起きない。
(どうしよう。来たら何か起こるのかと思ってたけど⋯⋯)
意味が分からず、記念碑の周りを一周してみる。隠し扉のような継ぎ目も、怪しい細工も見当たらない。
(もしかして私、なにか勘違いしてる⋯⋯?)
焦りがじわじわと額ににじみ始めた、そのときだった。ノートが、ほんのりと熱を帯びた。
「え⋯⋯?」
手のひらに伝わる、微かな温度。表紙が、ぽうっと淡く光を帯びる。
同時に、指先で触れていた碑の表面から、震えるような魔力の波が伝わってきた。
視界の端で、記念碑の表面に、古びた魔法陣の線が浮かび上がる。
(記念碑そのものが、術式の一部になってる?)
ノートのページが、ぱら、ぱら、と勝手にめくれていく。一枚、また一枚。やがて、真っ白だったはずのページが開かれた。
その瞬間、どこからか声が聞こえた。
──こんばんは。ここは世界の継ぎ目。無事に辿り着くことができたようですね。
「え⋯⋯どこから私に話しかけて──」
思わず声に出して問い返す。けれど広場には、相変わらず私ひとりしかいない。
声は、耳からではなく、頭の内側に直接落ちてきている感覚だった。
──私は、クサナギユリ。この声は、世界の継ぎ目、日本から来た異世界人──これらが揃わなければ、届けられないもの。
ミナさん、お会いできて嬉しいです。
初代王妃の顔が脳裏に浮かぶ。
「⋯⋯初代国王の妃、クサナギユリ様?」
──そうです。この国の歴史では、私は異国の妃と書かれています。けれど本当は違う。私は、あなたと同じ場所、日本から来ました。
「やっぱり⋯⋯日本人だったんですね。でも、お妃様は何百年も前にお亡くなりになったはずでは⋯⋯」
──そう。私はもうこの世にはいません。ですが、あなたのためにこの魔法を残しました。今、あなたは私と会話しているように感じているでしょう。でも実際には、あなたの問いに合わせて、私が残した情報が自動的に引き出されているだけ。私はあなたの今の状況も、この世界で何が起きているかも分かりません。それはできないのです。
(条件付きの自動応答魔法、みたいなものか⋯⋯)
「あの、私、本当にわからないことばかりで、なにから聞いたらいいのかも⋯⋯」
──今から、私が持っている情報をすべて話します。
声は淡々としているのに、どこか優しさが滲んでいた。
──まず、私はこの世界に転移してから、必死に日本へ帰る方法を探しました。その中で、二つ大事なことを知りました。
一つは、こちらの世界の魔法が「名前」をとても重く扱うということ。真名は、強い術式の核にされます。真名を縛ることで、その人間のいく先や寿命さえもねじ曲げることができる。
(魔法史の講義で聞いたことがある。でも、真名を使うほどの強い魔法は今では禁忌扱い。現在は使える術者すらいないと)
──そして、もう一つは、日本に帰る方法。
「日本に、帰る方法ですか?」
鼓動が一気に早くなる。
──はい。まず、この世界と私たちがいた日本は、本来なら決して交わらないはずの層にある。けれど、数百年に一度、世界の縫い目にゆらぎが生じることがある。
その歪みは、日本と呼ばれる島国のどこかに現れやすい。
それは地脈の流れのせいなのか、星の巡りなのかは、はっきりとはわかりません。
ただ、残された記録を並べていくと、異世界から迷い込んできた人間の出身地には、いつも同じ地名が添えられている。
──日本。
数百年に一度、日本のどこかでこちらとの境界がわずかに重なる。その継ぎ目に、たまたま立ってしまった誰かが、こちら側へと落ちてくる。
選ばれたわけでも、使命があるわけでもない。そこにいてしまったという、それだけの理由で。
私もあなたも、その数百年に一度のゆらぎに巻き込まれた、ただの一人に過ぎない。
「そ、そんな──」
──私は帰還方法も見つけました。しかし、それは、初代国王の異常な執着心ゆえに阻まれた。私は名を縛られ、二度と故郷に帰ることができなくなった。
ヴァルティエルの血。あれほど強い魔力を持つ彼らなら真名を使った禁忌魔法も、容易く行使できる。
「な、なぜ、そこまでしてユリさんを⋯⋯」
──私の見解では、魔力の強い人間ほど、外側の世界から来た魂に強く惹かれる傾向がある。だから、あなたも奴らには気をつけなければならない。決して、真名を握られてはなりません。
その言葉に焦りが募る。
「名前って⋯⋯そんなの、もう無理です。レオンさんだって、私の名前はもう当然知ってて⋯⋯」
──だから私はひとつの術式を組みました。外側の世界から来た者の真名を、この世界の言葉から切り離し、新しい名前にすり替える魔法です。
心臓が跳ねる。
──あなたが最初にこの世界に現れたとき、あなたは自分を「ミナ」と名乗ったはず。
「はい。名乗ったも何も、私の名前はミナですし⋯⋯それは⋯⋯」
──いいえ。違います。あなた自身も、本当の名前を忘れてしまう。それがこの術式の肝です。本当の名前でなければ、誰にも縛られない。他者も、この世界も、あなたの真名を使って、あなたを拘束することができなくなる。
「そ、そんな⋯⋯つまり、私は自分自身をミナだと思っていたけど、本当の名前が別にあるってことですか?」
──そうです。けれど、それは同時に、あなたの帰り道を曖昧にしてしまうことでもありました。外側の世界に戻るための術式には、本来の名前が必要になるからです。
息が苦しくなる。
──だから私は、真名を取り返す方法を含めた、元の世界へ帰る方法を日本語で書き残しました。この世界の人間には読めない言語なら、暗号として機能すると思ったのです。
「この世界の人間が読むことはできない──」
言いかけて、血の気が引いた。
(違う、それは間違ってる。レオンさんは、日本語を読める。なぜなら私が教えたから。しかも、レオンさんは──)
「ど、どうしたら⋯⋯私、日本語をレオンさん⋯⋯ヴァルティエルの人間に教えてしまって⋯⋯」
──それなら、一刻も早く真名を取り戻し、日本へ帰りなさい。
「一刻も早く⋯⋯そ、その本はどこにあるんでしょうか?」
──この記念碑の内部です。ですが、一年前に持ち出され、現在は王宮地下封印庫にあります。
「持ち出された?誰がそんなことを⋯⋯?」
──あなたにしか不可能です。ミナさん、あなたは一年前にもここに来ています。
「そ、そんな⋯⋯私にそんな記憶は⋯⋯!」
──はやく、その本を回収してください。
「あ、あの、まだ聞きたいことが──!」
──そろそろ時間です。ご武運をお祈りします。
そこで、声は途切れた。
慌てて呼びかけるが、返事はもうない。
「そ、そんな⋯⋯一体どうしたら⋯⋯」
(私の『ミナ』という名前は本当の名前じゃない?一年前にここへ来たことがある? そんな記憶なんて、どこにもないのに……何が、どうなってるの?)
気がつけば、空の色がさっきよりわずかに明るくなっている。
(いけない。もうこんな時間⋯⋯)
ノートを閉じると、記念碑からも魔力の気配がすっと消えていった。さっきまで浮かんでいた魔法陣も、跡形もなく消えている。
ただの大理石の塊。
ここで異世界に戻る方法についての話が交わされていたなんて、誰も思いもしない。
私はノートを胸に抱き、小さく息を吐いた。
(今ここで考えている時間はない。とにかく今は屋敷へ戻らなきゃ)
広場を抜け、通りを走り、夜の空気を肺に流し込みながら、屋敷の裏口へと急いだ。
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「俺だけがお前を守れる。」
(なんでそんなことを私にばっかり言うの!?)
そんなことを思ってる時、父親である『シャガ』が口を開いた。
「何言ってんだ?この世界は男が多くて女が少ない。たくさん子供を産んでもらうために、何人とでも結婚していいんだぞ?」
「・・・・へ!?」
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