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第4章 名前のない関係
33話 嗅ぎ回った代償
夜明け前。
まだ空が青くなる前の時間帯に、私は屋敷を抜け出した。吐く息が白い。
(こうやってこっそり抜け出すのも、慣れたもんだ。ちょうどレオンさんがいない日でよかった。どうかバレませんように)
港へ向かう途中、ディランが待ち合わせ場所に立っていた。いつもの軽い顔じゃない。
「来たな」
「ディラン、早いね」
「ミナが遅いんだろ。ほら、セシル」
影の中からセシルが出てくる。
髪をまとめ、いつもより地味な外套を羽織っていた。目は赤いけど、泣いてはいない。
「ミナちゃん⋯⋯ごめんね。巻き込んで」
「巻き込まれてないよ。私の判断でここに来たんだから。それに、今日は情報集めだけだし、そんな危ないことにはならないよ」
「ありがとう⋯⋯」
「ほら、喋ってると目立つ。行くぞ」
ディランが小さく言う。
港は潮と濡れた木材の匂いがした。遠くで鎖の鳴る音も聞こえる。
「知り合いの帳場係、あそこだ」
倉庫の脇に、小さな詰所がある。
そこから出てきた男はディランを見るなり姿勢を正した。
「ディラン様。朝早くからお疲れ様です」
「ああ、例の帳簿、見せてくれるか」
男は一瞬だけ迷ってから周囲を見回し、私たちを中へ入れた。
帳場の机の上に置かれたのは、分厚い受領帳。
紙の端が潮気で波打っていて、指を置くとざらりとする。
「この印、セシルの家のだろ」
ディランがページをめくり、指で叩く。
セシルが息を呑んだ。
「……うん、間違いない」
「で、こっちは?」
同じ日付、同じ品目。なのに受領印が違う。字体が微妙に硬い。
(これ……誰かが真似て書いてる?)
私がページを覗き込んだ瞬間、背後で声がした。
「おいおい、お姉さんたちよ。そんな汚い帳簿に顔近づけない方がいいぜ」
振り向くと、倉庫の影から男が一人出てきた。港の荷役の格好。
(……何この人)
ディランが即座に前へ出る。
「関係ねえだろ。邪魔だ」
男は肩をすくめた。
「いやぁ、邪魔してんのはそっちだろ。帳場係、そういうの関係者以外に見せちゃいけないって言われてないのか?」
帳場係が青くなる。
「そ、それは……」
セシルが小さく言った。
「……あなた、誰ですか」
男は笑う。
「俺はただの港の人間だけど」
そして、その視線が私に止まった。一瞬だけ、値踏みするみたいに。
男はにやりと笑って言う。
「それで、お嬢さんは何者?商人の娘にしちゃ雰囲気が違うなあ」
「……ただの学生です」
「学生ねえ」
男が一歩近づいた。私は反射的に半歩引いた。その動きに、男の口角が上がる。
「警戒心はある、と」
ディランが舌打ちした。
「おい。その女から離れろ」
セシルは私の肩を軽く押し、目配せする。逃げる合図だ。
私も頷いて帳簿から目を離した。
その瞬間、男がぽつりと言った。
「……黒髪黒目か、珍しいなあ」
(な、なに?)
背筋が凍った。
ディランが私の前に立ち、男に言い放つ。
「見世物じゃねえ。あっち行けよ」
男は両手を上げて、降参の仕草をした。そして何でもないように背を向ける。
「はいはい。悪かったって。でもよ、この港で上の許可なく嗅ぎ回ると、消されるぞ」
そう言い残して、倉庫の影に溶けるように消えた。
「……なに、今の」
「知らねえ」
ディランが低く言う。
「だが厄介な匂いがするな」
私は帳簿のページを指でなぞった。
「でも、これみて。一つ見つけた。ここの印、変だよ」
ディランが頷く。
「ああ。すり替えの可能性が高い。この写しだけでも取れれば」
帳場係が小声で言った。
「写しなら……」
引き出しから薄紙を出す。
「本当は駄目ですが……」
ディランが視線で礼を言う。
セシルは小さく頷き、指先に魔力を集めた。薄紙がふわりと浮き、帳簿の文字と印が、滲むように移っていく。
「よし、とりあえずこれで今日は——」
その瞬間、外で足音が増えた。
二人や三人じゃない。荷車の軋み、男の声。
ディランが顔を上げた。
「……やばい。人が集まってきてる」
帳場係が青くなって震える。
「もしかして、さっきの男……!」
セシルが声を上げた。
「逃げよう!」
詰所を出た瞬間、倉庫の前に男たちがいた。腰には短剣。
その中心に——さっきの男がいた。
(……嘘)
男はこっちを見て肩をすくめる。
「言っただろ。上の許可なく嗅ぎ回ると消されるって」
ディランが前へ出る。
「どけ。俺は——」
「知ってるよ、子爵家の坊ちゃん。でも今日は、お前じゃないんだ」
視線が、私に刺さる。
「その女だ」
血の気が引いた。
「……私?」
「そう。黒髪黒目って珍しいんだよ。上が会いたがると思ってさ」
セシルが叫ぶ。
「ふざけないで!彼女から離れて!」
男は笑う。
「ちょっとこっちに来てもらえるかな」
ディランが歯を食いしばった。
「ミナ、セシルの後ろへ行け!この中だとセシルが一番強い——!」
「ミナちゃん、こっち!」
「わ、わかった!」
だが、遅かった。
男たちが動き、突っ込んでくる。
私は反射的に魔力を走らせた。
(簡易結界——!)
薄い膜が広がる。だが、背後には倉庫。逃げ道がない。
(ずっと結界を維持するのは無理だ……!どうやって逃げる!?)
ディランが護身用の短剣に手をかけた瞬間、別方向から棒が振り下ろされる。
「くそっ!」
「ディラン、危ない!」
ディランは防いだが、それに気を取られているうちに、私は腕を掴まれてしまった。
布越しに指が食い込んだ。
「い、痛い!離して!」
「うるさい女だな、静かにしろよ」
もがいた瞬間、腹のあたりに強い衝撃。蹴られた。
「ぐっ……!」
息が詰まり、視界が揺れる。胃がひっくり返るみたいに気持ち悪い。
(やばい、意識が……)
倒れる直前、私は見た。あの男が胸元の小さな魔導具に触れて、何かを囁くのを。
(……誰かに連絡してる……?)
次の瞬間、意識が途切れた。
まだ空が青くなる前の時間帯に、私は屋敷を抜け出した。吐く息が白い。
(こうやってこっそり抜け出すのも、慣れたもんだ。ちょうどレオンさんがいない日でよかった。どうかバレませんように)
港へ向かう途中、ディランが待ち合わせ場所に立っていた。いつもの軽い顔じゃない。
「来たな」
「ディラン、早いね」
「ミナが遅いんだろ。ほら、セシル」
影の中からセシルが出てくる。
髪をまとめ、いつもより地味な外套を羽織っていた。目は赤いけど、泣いてはいない。
「ミナちゃん⋯⋯ごめんね。巻き込んで」
「巻き込まれてないよ。私の判断でここに来たんだから。それに、今日は情報集めだけだし、そんな危ないことにはならないよ」
「ありがとう⋯⋯」
「ほら、喋ってると目立つ。行くぞ」
ディランが小さく言う。
港は潮と濡れた木材の匂いがした。遠くで鎖の鳴る音も聞こえる。
「知り合いの帳場係、あそこだ」
倉庫の脇に、小さな詰所がある。
そこから出てきた男はディランを見るなり姿勢を正した。
「ディラン様。朝早くからお疲れ様です」
「ああ、例の帳簿、見せてくれるか」
男は一瞬だけ迷ってから周囲を見回し、私たちを中へ入れた。
帳場の机の上に置かれたのは、分厚い受領帳。
紙の端が潮気で波打っていて、指を置くとざらりとする。
「この印、セシルの家のだろ」
ディランがページをめくり、指で叩く。
セシルが息を呑んだ。
「……うん、間違いない」
「で、こっちは?」
同じ日付、同じ品目。なのに受領印が違う。字体が微妙に硬い。
(これ……誰かが真似て書いてる?)
私がページを覗き込んだ瞬間、背後で声がした。
「おいおい、お姉さんたちよ。そんな汚い帳簿に顔近づけない方がいいぜ」
振り向くと、倉庫の影から男が一人出てきた。港の荷役の格好。
(……何この人)
ディランが即座に前へ出る。
「関係ねえだろ。邪魔だ」
男は肩をすくめた。
「いやぁ、邪魔してんのはそっちだろ。帳場係、そういうの関係者以外に見せちゃいけないって言われてないのか?」
帳場係が青くなる。
「そ、それは……」
セシルが小さく言った。
「……あなた、誰ですか」
男は笑う。
「俺はただの港の人間だけど」
そして、その視線が私に止まった。一瞬だけ、値踏みするみたいに。
男はにやりと笑って言う。
「それで、お嬢さんは何者?商人の娘にしちゃ雰囲気が違うなあ」
「……ただの学生です」
「学生ねえ」
男が一歩近づいた。私は反射的に半歩引いた。その動きに、男の口角が上がる。
「警戒心はある、と」
ディランが舌打ちした。
「おい。その女から離れろ」
セシルは私の肩を軽く押し、目配せする。逃げる合図だ。
私も頷いて帳簿から目を離した。
その瞬間、男がぽつりと言った。
「……黒髪黒目か、珍しいなあ」
(な、なに?)
背筋が凍った。
ディランが私の前に立ち、男に言い放つ。
「見世物じゃねえ。あっち行けよ」
男は両手を上げて、降参の仕草をした。そして何でもないように背を向ける。
「はいはい。悪かったって。でもよ、この港で上の許可なく嗅ぎ回ると、消されるぞ」
そう言い残して、倉庫の影に溶けるように消えた。
「……なに、今の」
「知らねえ」
ディランが低く言う。
「だが厄介な匂いがするな」
私は帳簿のページを指でなぞった。
「でも、これみて。一つ見つけた。ここの印、変だよ」
ディランが頷く。
「ああ。すり替えの可能性が高い。この写しだけでも取れれば」
帳場係が小声で言った。
「写しなら……」
引き出しから薄紙を出す。
「本当は駄目ですが……」
ディランが視線で礼を言う。
セシルは小さく頷き、指先に魔力を集めた。薄紙がふわりと浮き、帳簿の文字と印が、滲むように移っていく。
「よし、とりあえずこれで今日は——」
その瞬間、外で足音が増えた。
二人や三人じゃない。荷車の軋み、男の声。
ディランが顔を上げた。
「……やばい。人が集まってきてる」
帳場係が青くなって震える。
「もしかして、さっきの男……!」
セシルが声を上げた。
「逃げよう!」
詰所を出た瞬間、倉庫の前に男たちがいた。腰には短剣。
その中心に——さっきの男がいた。
(……嘘)
男はこっちを見て肩をすくめる。
「言っただろ。上の許可なく嗅ぎ回ると消されるって」
ディランが前へ出る。
「どけ。俺は——」
「知ってるよ、子爵家の坊ちゃん。でも今日は、お前じゃないんだ」
視線が、私に刺さる。
「その女だ」
血の気が引いた。
「……私?」
「そう。黒髪黒目って珍しいんだよ。上が会いたがると思ってさ」
セシルが叫ぶ。
「ふざけないで!彼女から離れて!」
男は笑う。
「ちょっとこっちに来てもらえるかな」
ディランが歯を食いしばった。
「ミナ、セシルの後ろへ行け!この中だとセシルが一番強い——!」
「ミナちゃん、こっち!」
「わ、わかった!」
だが、遅かった。
男たちが動き、突っ込んでくる。
私は反射的に魔力を走らせた。
(簡易結界——!)
薄い膜が広がる。だが、背後には倉庫。逃げ道がない。
(ずっと結界を維持するのは無理だ……!どうやって逃げる!?)
ディランが護身用の短剣に手をかけた瞬間、別方向から棒が振り下ろされる。
「くそっ!」
「ディラン、危ない!」
ディランは防いだが、それに気を取られているうちに、私は腕を掴まれてしまった。
布越しに指が食い込んだ。
「い、痛い!離して!」
「うるさい女だな、静かにしろよ」
もがいた瞬間、腹のあたりに強い衝撃。蹴られた。
「ぐっ……!」
息が詰まり、視界が揺れる。胃がひっくり返るみたいに気持ち悪い。
(やばい、意識が……)
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