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第4章 名前のない関係
43話 ほどける距離
日が傾き始めたころ。
視界の先に、光を弾く大きな水面が見えてきた。
「⋯⋯すごい。綺麗」
思わず息を呑む。
夕陽を溶かしたみたいな水面。湖を囲むように広がる森。遠くに、浮かぶように建つ白い建物。
「あそこです」
レオンが窓の外を指さした。
「すごい。絵本の中の建物みたいですね。それに不思議と息がしやすい気がします」
レオンの声が、少しだけ柔らかくなる。
「この湖の水は、乱れている魔力を静めてくれる効果があります。そのため、心身共に楽になるのです」
「そうだったんですね」
「ええ。王都は人が多く、魔力が乱れやすい場所ですから」
レオンは口元をわずかに緩めた。
「余計なことを言いましたが、まずは景色を楽しんでください」
馬車が止まり、扉が開く。
降りた瞬間、ひやりとした空気に包まれた。
けれど頬を刺すような冷たさではない。水辺特有の、しっとりとした冷え方。
「寒くありませんか」
「ちょっとだけ。でも、平気です」
そう言ったそばから、肩にすっと重みがかかった。
レオンのコートだった。
「だ、大丈夫ですよ!レオンさんだって寒いですよね?」
「私はどうにでもなりますから、心配はいりません」
そう言って、コートの襟元をそっと整えてくれる。そして何事もなかったように歩き出す背中を見ながら、胸の奥が妙にそわそわした。
「その、ありがとうございます⋯⋯」
肩にかかった重みと、かすかに香る落ち着いた香り。
自分でもよく分からない感情をごまかすように、私はコートの前をそっと合わせる。
(⋯⋯うん。ありがたく借りておこう)
そう心の中でだけ呟きながら、別邸の中へ足を踏み入れた。そして、夕食はそこで取ることとなった。
広すぎない空間に、柔らかな灯りが落ちている。
卓上には白い花が一輪だけ。豪華さより静けさを選んだような設えが、この場所に似合っていた。
(ここ、なんだか落ち着く)
食後のデザートが運ばれた頃、扉が控えめにノックされた。
給仕が戻ってきて、透明なグラスをそっと卓上に置く。
私は中身を見て目を丸くした。
「わあ、フルール・ミルダ⋯⋯!」
ベリーの香りがする赤い飲み物。王都でも人気があるけれど、店によって味も、提供の仕方も少しずつ違う。
「ミナは本当にこれが好きなんですね」
「はい!この国で一番好きな飲み物なんです!」
グラスを取り、一口飲むと、ふわっとベリーの甘さと酸味が広がった。
「やっぱり、美味しいですね。これ、しかも私の好きなルージュだ」
「それはよかった」
ふと、少し前のことを思い出した。
「そういえば、私たちがよく行ってたカフェって、いつもルージュで出されてたじゃないですか?」
「ええ」
フルール・ミルダには、ベリーの果肉をあえて残したタイプのルージュと、完全に液体化されたセレの2種類がある。
「この前、同系列のカフェに行ったらセレで出されたんですよ。支店によって違うんですかね?」
すると、レオンは少しだけ目を伏せて言った。
「いえ、あのカフェは基本的にセレで提供されますよ。ただ、あなたにはルージュを出すよう、私があらかじめ頼んでいただけです」
「⋯⋯そうだったんですか?」
「初めて一緒に飲んだ時、あなたはルージュを気に入っていた。だから伝えていただけです」
「私の好きなもの、覚えていてくれたんですね⋯⋯」
「当然でしょう」
胸の奥が、少し熱くなる。
(いけない、忘れたらダメ⋯⋯!レオンさんは優しいけど、私の記憶を奪った人!騙されちゃいけない⋯⋯!)
私は話題を変えるよう切り出した。
「わ、私も!レオンさんの苦手なもの、わかりますよ」
「へえ。なんですか?」
レオンは口元に楽しげな気配を浮かべて、こちらを見た。
「レオンさん、香草入りのスクランブルエッグ、好きじゃないですよね!」
「なぜ、そう思ったんですか?」
「この国では、香草入りのものが普通なのに、屋敷で出る朝食には入っていないからです」
私は勝ち誇ったように顎を上げて答えた。
「ええ、そうですね」
レオンはなぜか、おかしそうに息を零した。
「なにがおかしいんですか」
「いえ、ミナは本当に可愛い方だと思っただけです」
「ど、どういう意味ですか」
「ミナは、香草入りのスクランブルエッグは好きなんですか?」
「いえ、恥ずかしながら私も苦手でして⋯⋯」
「では、お揃いですね」
(なんだこの意味深な笑みは)
「ミナに一つ面白いことを教えて差し上げます」
「なんですか⋯⋯いきなり」
「人の味覚というものは、記憶を失ってもあまり変わらないようですよ」
(⋯⋯つまり、それって――)
「待ってください。もしかして、それも私に合わせて、香草を入れないようにお願いしてたんですか?」
「どうでしょう」
「どうでしょうって、答えてください!」
レオンはそれ以上言わず、グラスに口をつけた。答えを隠したままの横顔が、妙に楽しそうだった。
視界の先に、光を弾く大きな水面が見えてきた。
「⋯⋯すごい。綺麗」
思わず息を呑む。
夕陽を溶かしたみたいな水面。湖を囲むように広がる森。遠くに、浮かぶように建つ白い建物。
「あそこです」
レオンが窓の外を指さした。
「すごい。絵本の中の建物みたいですね。それに不思議と息がしやすい気がします」
レオンの声が、少しだけ柔らかくなる。
「この湖の水は、乱れている魔力を静めてくれる効果があります。そのため、心身共に楽になるのです」
「そうだったんですね」
「ええ。王都は人が多く、魔力が乱れやすい場所ですから」
レオンは口元をわずかに緩めた。
「余計なことを言いましたが、まずは景色を楽しんでください」
馬車が止まり、扉が開く。
降りた瞬間、ひやりとした空気に包まれた。
けれど頬を刺すような冷たさではない。水辺特有の、しっとりとした冷え方。
「寒くありませんか」
「ちょっとだけ。でも、平気です」
そう言ったそばから、肩にすっと重みがかかった。
レオンのコートだった。
「だ、大丈夫ですよ!レオンさんだって寒いですよね?」
「私はどうにでもなりますから、心配はいりません」
そう言って、コートの襟元をそっと整えてくれる。そして何事もなかったように歩き出す背中を見ながら、胸の奥が妙にそわそわした。
「その、ありがとうございます⋯⋯」
肩にかかった重みと、かすかに香る落ち着いた香り。
自分でもよく分からない感情をごまかすように、私はコートの前をそっと合わせる。
(⋯⋯うん。ありがたく借りておこう)
そう心の中でだけ呟きながら、別邸の中へ足を踏み入れた。そして、夕食はそこで取ることとなった。
広すぎない空間に、柔らかな灯りが落ちている。
卓上には白い花が一輪だけ。豪華さより静けさを選んだような設えが、この場所に似合っていた。
(ここ、なんだか落ち着く)
食後のデザートが運ばれた頃、扉が控えめにノックされた。
給仕が戻ってきて、透明なグラスをそっと卓上に置く。
私は中身を見て目を丸くした。
「わあ、フルール・ミルダ⋯⋯!」
ベリーの香りがする赤い飲み物。王都でも人気があるけれど、店によって味も、提供の仕方も少しずつ違う。
「ミナは本当にこれが好きなんですね」
「はい!この国で一番好きな飲み物なんです!」
グラスを取り、一口飲むと、ふわっとベリーの甘さと酸味が広がった。
「やっぱり、美味しいですね。これ、しかも私の好きなルージュだ」
「それはよかった」
ふと、少し前のことを思い出した。
「そういえば、私たちがよく行ってたカフェって、いつもルージュで出されてたじゃないですか?」
「ええ」
フルール・ミルダには、ベリーの果肉をあえて残したタイプのルージュと、完全に液体化されたセレの2種類がある。
「この前、同系列のカフェに行ったらセレで出されたんですよ。支店によって違うんですかね?」
すると、レオンは少しだけ目を伏せて言った。
「いえ、あのカフェは基本的にセレで提供されますよ。ただ、あなたにはルージュを出すよう、私があらかじめ頼んでいただけです」
「⋯⋯そうだったんですか?」
「初めて一緒に飲んだ時、あなたはルージュを気に入っていた。だから伝えていただけです」
「私の好きなもの、覚えていてくれたんですね⋯⋯」
「当然でしょう」
胸の奥が、少し熱くなる。
(いけない、忘れたらダメ⋯⋯!レオンさんは優しいけど、私の記憶を奪った人!騙されちゃいけない⋯⋯!)
私は話題を変えるよう切り出した。
「わ、私も!レオンさんの苦手なもの、わかりますよ」
「へえ。なんですか?」
レオンは口元に楽しげな気配を浮かべて、こちらを見た。
「レオンさん、香草入りのスクランブルエッグ、好きじゃないですよね!」
「なぜ、そう思ったんですか?」
「この国では、香草入りのものが普通なのに、屋敷で出る朝食には入っていないからです」
私は勝ち誇ったように顎を上げて答えた。
「ええ、そうですね」
レオンはなぜか、おかしそうに息を零した。
「なにがおかしいんですか」
「いえ、ミナは本当に可愛い方だと思っただけです」
「ど、どういう意味ですか」
「ミナは、香草入りのスクランブルエッグは好きなんですか?」
「いえ、恥ずかしながら私も苦手でして⋯⋯」
「では、お揃いですね」
(なんだこの意味深な笑みは)
「ミナに一つ面白いことを教えて差し上げます」
「なんですか⋯⋯いきなり」
「人の味覚というものは、記憶を失ってもあまり変わらないようですよ」
(⋯⋯つまり、それって――)
「待ってください。もしかして、それも私に合わせて、香草を入れないようにお願いしてたんですか?」
「どうでしょう」
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レオンはそれ以上言わず、グラスに口をつけた。答えを隠したままの横顔が、妙に楽しそうだった。
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