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雨の教室
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放課後の教室は、雨音だけが支配していた。
誰もいないはずのその空間に、彼女はいた。
窓際の席で、黒髪を肩に垂らしたまま、静かにノートにペンを走らせている。
傘を忘れた俺は、彼女を見つけたとき、少しだけ救われた気がした。
「まだいたんだ、七瀬。」
「うん……忘れ物、してて。」
嘘だ。七瀬が忘れ物をするところなんて、一度も見たことがない。
だけど、それを問いただすほど、俺たちは親しくない。
「傘、持ってないんだ。よかったら、一緒に帰らない?」
彼女は驚いた顔をして俺を見た。
その瞳の奥に、一瞬だけ揺れたものを俺は見逃さなかった。
七瀬は、ほんの一瞬だけ迷ったようだった。でもすぐに、静かに頷いた。
「……うん。ありがとう。」
彼女が席を立つと、教室の中に漂っていた緊張感がふっと緩んだように感じた。
俺は自分の傘を持ち、少しだけ広げながら、彼女の横に並んだ。
「ちょっと狭いけど、我慢して。」
「ううん、大丈夫。」
校舎を出ると、雨は思ったより強かった。
傘の下で、俺と七瀬の肩が何度も触れた。
そのたびに、胸が少しだけ跳ねる。
普段はほとんど話さない彼女と、こんなに近くにいるのが不思議だった。
「……佐野くんって、やさしいんだね。」
「そうかな? 自分じゃよくわからないけど。」
「うん、やさしい。だから……困る。」
「困る?」
彼女は小さく笑って、前を向いたまま言った。
「やさしくされると、好きになっちゃうから。」
雷が鳴ったような気がしたのは、空のせいじゃなかった。
俺は言葉を失いながら、ただ七瀬の横顔を見つめていた。
「やさしくされると、好きになっちゃうから。」
その言葉を飲み込んだまま、俺たちはしばらく無言で歩いた。
雨音だけが、傘のふちを優しく叩いていた。
「……それって、俺のこと?」
やっと絞り出せた声だった。情けないくらい震えていた。
七瀬は歩みを止めた。俺も足を止めた。
駅前の小さな公園の前。ベンチに雨が打ちつけられて、音を立てていた。
「ううん、違うよ。……まだ、って言ったほうがいいのかな。」
「まだ?」
七瀬はうつむいたまま、言葉を選ぶようにして続けた。
「佐野くんは、私のこと、特別じゃないってわかってる。
誰にでもやさしいし、ちゃんとしてるし、そういう人だって。」
「そんなこと――」
「でもね、今日、一緒に歩いたこと、絶対に忘れないと思う。」
七瀬は傘から一歩離れて、雨に濡れる空の下へ出た。
「だから……ありがとう。ちゃんと、うれしかったよ。」
雨粒が彼女の髪に落ち、制服の肩に色を変えていった。
それがあまりに綺麗で、俺は呼び止める言葉を失った。
「好きにならないようにするね。」
そう言って、七瀬は傘もささずに、走り出した。
俺はただ、傘の下で立ち尽くすことしかできなかった。
数日ぶりに晴れた午後、教室には柔らかな西日が差し込んでいた。
放課後のざわめきが遠ざかり、誰もいなくなった教室に、俺はひとり残っていた。
あの日から、七瀬とは話していない。
昼休みに何度か廊下ですれ違ったけれど、彼女は目を逸らした。
俺も、言葉をかけることができなかった。
自分の中に残った「ありがとう」と「好きにならないようにするね」が、
何度思い返しても噛み合わなくて、喉の奥にひっかかったままだった。
そんなときだった。
「……佐野くん。」
振り返ると、そこに七瀬がいた。
制服の袖を指先で握りながら、少しだけ戸惑ったような表情をしている。
でも、目はまっすぐに俺を見ていた。
「この前は……ごめん。急に、走って行っちゃって。」
「いや、俺こそ……何も言えなくて。」
気まずい空気が流れるかと思ったけど、不思議とそうはならなかった。
たぶん、お互いにずっと気にしていたからだ。
七瀬は窓際の席に歩いていって、静かに腰を下ろした。
俺も少し間を置いて、隣の席に座った。
「……あのとき、言いすぎたかもって思ってたの。」
「でも、ずっとモヤモヤしてて、どうしても、ちゃんと話したくて。」
七瀬は、指先を組んで膝の上に置いたまま、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「佐野くんのこと、特別じゃないって、言ったけど……本当は、そうじゃなかった。」
「私、最初から、ちょっとずつ、気になってたんだと思う。」
俺の心臓が、嫌なほど正直に反応する。
「でもね、優しくされるたびに、それが本当の気持ちじゃなかったら怖くて……だから、自分で線を引いたの。」
俺は口を開こうとして、すぐ閉じた。
慎重に言葉を選ばないと、たぶん何かが壊れてしまう気がした。
「俺、誰にでも優しいわけじゃないよ。」
七瀬がゆっくりと顔を上げた。
「優しくしたくなる人にしか、できないんだと思う。」
静かに、でも確かにそう言った。
七瀬の目が少し潤んで、それでも、笑った。
どこか安心したように、小さく、けれど確かに。
「……ずるいよ、佐野くん。」
「そんなふうに言われたら、また好きになっちゃうじゃん。」
俺は、今度こそ目を逸らさなかった。
「じゃあ、今度は俺の番かな。」
「……七瀬のこと、ちゃんと好きになってもいい?」
窓の外で、夕焼けが差し込んでいた。
風がカーテンを揺らして、教室にやわらかな光が踊った。
七瀬は少しだけ驚いた顔をして、それから、静かに頷いた。
「……うん。今度は、ちゃんと傘の下にいるから。」
週の半ば、昼休み。
教室の窓際、佐野はいつもどおり弁当を広げていた。
そこへ、少し背の高い男子が明るい声で近づいてきた。
「よう、佐野。今日もひとり飯?」
「ん、まぁな。藤堂も、ひとり?」
「いや、今日、部の連中みんな忙しくてさ。たまにはお前と食べようかと思って。」
藤堂はクラスでも人気のある存在で、軽いノリと裏表のなさが特徴の男だった。
誰にでも話しかけるが、その中でも佐野とは部活もかぶっていないのに、なぜかよく一緒にいる姿があった。
そんな二人の会話を、七瀬は遠くの席からそっと見ていた。
佐野が楽しそうに笑う顔。その横で、気安げに話す藤堂。
その光景に、胸が少しずつざわめいていく。
(……ああいうふうに笑うんだ。)
放課後――
七瀬はノートを忘れたふりをして、また教室に戻った。
あのときと同じ、窓際の席。
ペンを持つ手が、少し震えている。
「また、忘れ物?」
聞き慣れた声がして顔を上げると、佐野が立っていた。
「う、うん……」
「あのさ、七瀬。……ちょっと話せる?」
七瀬は頷き、二人で並んで教室を出ようとした――そのとき。
「おーい、佐野! 今日、例の映画のチケット、手に入ったからさ。放課後いけるだろ?」
藤堂が、明るい声でドアの外から呼びかけてきた。
七瀬の足が、一瞬止まる。
佐野は少し困ったように眉をひそめた。
「ごめん、今日はちょっと……また今度でいい?」
藤堂は軽く肩をすくめた。
「そっかー、じゃあ残念。でも、また誘うわ。」
そう言って手を振り、階段の方へ消えていった。
教室の中に、ふたりだけが残った。
「……仲良いんだね、藤堂くんと。」
七瀬は、わざと何気ない風を装って言った。
でも、その声の端に、確かにわずかな棘があった。
佐野は気づいたように、少し笑った。
「藤堂はいいやつだよ。……でも、七瀬とはちょっと違う。」
「……違うって、なにが?」
「俺が“意識するかどうか”、ってこと。」
七瀬はその言葉に、目を見開いた。
「そっか……ずるいな、佐野くんは。」
「また言われた。」
佐野は笑った。けれど、七瀬はすぐに笑えなかった。
「でも……私、まだ自信ないよ。」
「なにが?」
「藤堂くんみたいな人が、佐野くんの隣にいるのが、自然に見えたから。
私がその隣にいていいのか、まだわからない。」
そう言って、七瀬は窓の外を見つめた。
光が少しだけ陰ってきて、遠くに雨雲が見えた。
「七瀬。」
呼ばれて、ゆっくり振り返る。
「自然とか、似合うとかじゃない。俺が“隣にいてほしい”と思うのは、七瀬だよ。」
七瀬は、しばらく黙っていた。
でも――
「……そう言われると、また好きになりそう。」
今度は、少し照れたように笑って、ちゃんと前を向いていた。
秋が深まり、放課後の教室はどこか冷たい空気に包まれていた。
最近、七瀬は笑わなくなった。
あの日以来、佐野と話すたびに、どこかぎこちなさが残ったままだ。
原因は、はっきりしている。
――藤堂だ。
彼は優しかった。まっすぐで、気配りができて、誰とでも自然に距離を縮める。
けれど、七瀬は気づいてしまった。
あの藤堂が、**「わざと佐野の近くにいる」**ことを。
それはたとえば、佐野と七瀬が廊下で話しているとき――
「おーい佐野、今日のプリント忘れてたぞ」
と、妙にタイミングよく割って入ってくる。
またあるときは、佐野の机の上に藤堂の好物のパンがさりげなく置かれていた。
それを「誰が置いたんだろうな」なんて佐野は笑っていたが、七瀬は見ていた。
藤堂が昼休み、こっそり購買から2つ買っていたことを。
(……どうしてそんなことするの?)
七瀬の胸に、答えの出ない疑問と黒いもやが溜まっていく。
⸻
ある日、下校途中。
「藤堂くんってさ……佐野くんのこと、好きなの?」
ふいに漏れた七瀬の言葉に、藤堂は歩みを止めた。
「はは、なにそれ。男同士で?」
「……ううん。たぶん、違う意味。」
藤堂は一瞬、黙った。
そして――
「七瀬ってさ、思ってたより鋭いんだね。」
軽く笑った顔の奥に、何かがきらりと光った。
「俺さ、佐野のことが好きなんじゃない。佐野を“欲しがる誰か”が、好きなんだ。」
「……どういう意味?」
「つまり、君のことだよ。七瀬。」
七瀬の表情が凍る。
「俺、気づいてた。君が佐野のこと、ずっと目で追ってるの。
あの日の傘も、教室での会話も、全部見てた。
……いいね。真っ直ぐで、揺れてて。惚れちゃうよ、そんなの。」
「やめて。」
「……でも、面白くないんだよね。
“佐野くんは誰にでも優しい”って、君が言ってたじゃん? あれ、正しいと思うよ。
君のこと、本当に“特別”だと思ってるのかな?」
「……」
「だったらさ、俺が“特別”にしてあげようか?」
藤堂はふっと、七瀬の耳元でささやいた。
「君を手に入れたら、佐野はどういう顔をするんだろうな。」
⸻
その夜、七瀬は眠れなかった。
「好きにならないようにするね」と言ったのは、自分なのに。
どうして、こんなにも誰かに奪われることが怖いのだろう。
次の日、教室に入ると、藤堂と佐野が笑いながら話していた。
いつも通りの空気。でも、七瀬にはもう、藤堂の視線だけが刺さって感じられた。
そして、藤堂がこちらをちらりと見て、口元だけでこう言った。
「――来るか?」
まるでゲームの招待のように。
七瀬は視線を逸らすことができなかった。
日が落ちるのが早くなった放課後。
校舎の裏手、図書室へ向かう廊下で、七瀬は藤堂に呼び止められた。
「……ちょっと、いい?」
静かな声だった。いつもの軽さはなかった。
「昨日の話、怒った?」
「……怒ってない。」
七瀬は答えた。でも、目は合わせられなかった。
藤堂はしばらく黙ってから、言葉を選ぶように話しはじめた。
「俺、ずるいよな。わかってる。でも……君のこと、放っておけないんだ。」
「……なんで?」
「誰かのこと、好きになるときってさ。
“最初に惹かれた相手”より、“その人を見つめてる君の横顔”に惹かれることも、あるんだよ。」
七瀬はその言葉に、わずかに目を見開いた。
「俺が佐野を見てたのは、正確にはその隣にいた君を見てたからなんだと思う。」
「……それって」
「うん、“代わり”かもしれない。君もそう思ってるんだろ? 佐野の代わりとして俺を見てるって。」
七瀬は何も言わなかった。でも、否定もしなかった。
沈黙の中、藤堂は教室のドアを開けた。
「……じゃあさ、今夜だけ“お互いの代わり”でもいいから、俺と一緒にいてくれない?」
七瀬は迷った。とても迷った。
でも、何かが壊れそうな予感がして、怖かった。
だから――
「……うん、いいよ。」
⸻
その夜、人気のないショッピングモールの屋上。
藤堂が買ってきた缶コーヒーをふたりで飲みながら、空を見上げていた。
「……こういうの、はじめて。」
「俺も。」
藤堂は優しかった。
七瀬のペースに合わせてくれる。
佐野とは違う、どこか大人びた安心感。
「ねえ、藤堂くんはさ、本当に……私のこと、どう思ってるの?」
「今は、君の“代わり”でもいいって思ってる。でも――」
藤堂は、七瀬の頬に手を伸ばして、そっと触れた。
「いつか、“本物”になってみせるよ。」
七瀬は目を閉じた。
そしてその夜、佐野のことを一度だけ忘れた。
⸻
翌朝。
教室で佐野と目が合った。
ふとした瞬間に感じる違和感。
空気の奥に、何かが変わってしまった匂いが、確かにあった。
佐野は七瀬を見つめたまま、目をそらさなかった。
七瀬も、見つめ返した。
でも、その視線の中に、昨日の“嘘”がひとつ、沈んでいた。
放課後の空は、まるで泣きたがっているみたいだった。
どこまでも灰色で、厚く重く、じっと地上を見下ろしている。
その下を、佐野はひとり歩いていた。
カツン、カツンと靴が濡れたアスファルトを叩く音だけが響く。
傘を持っていたはずなのに、開く気にはなれなかった。
濡れるままに歩いた方が、少しだけ“楽”だった。
七瀬と藤堂が、一緒にいた。
夜の屋上、コンビニの袋、ふたり分の缶コーヒー。
そんな断片が、噂となって耳に入った。
信じなかった。
……いや、信じたくなかった。
でも、今朝の七瀬の目。
どこか遠くを見ているようなあの瞳が、
何よりも真実を語っていた。
(ああ、俺――間に合わなかったんだな。)
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
誰のせいでもない。七瀬にも、藤堂にも。
優しすぎたのは、自分だったのかもしれない。
ずぶ濡れになりながら、ふと空を仰ぐ。
そのとき、雨粒が目に入ったのか、
それともただの涙だったのか、もう分からなかった。
(雨って、こんなに冷たかったっけ。)
前に七瀬と相合傘で歩いた日が、急に思い出される。
肩が触れたときの鼓動。
「好きになっちゃうから」なんて、ふいに笑った横顔。
それが今、もう二度と見られない気がして、息が詰まった。
雨音だけが、優しくて、容赦なかった。
まるで、空までもが「それでよかったのか」って問いかけてくるようだった。
(よくないよ、全然……)
佐野は思った。
でも、今さらそれを伝える術はない。
あの傘の下で交わした言葉も、沈黙も、すべてが遠く感じた。
雨はただ、佐野の輪郭を少しずつ溶かしていく。
彼の“居場所”が、音もなく消えていくように。
教室の中で、佐野の姿は以前と変わらなかった。
ノートを貸してと頼めば、すぐに差し出してくれるし、
重そうな荷物を持っていれば、さりげなく手伝ってくれる。
でも――そのすべてから、「ぬくもり」が消えていた。
七瀬はそれに、気づいてしまった。
(目が合っても、すぐそらされる)
(声をかけても、必要以上に踏み込んでこない)
(……まるで、“壁”を作られてるみたい)
「……佐野くん。」
帰り際、意を決して呼びかけた。
「……何か、怒ってる? 私のこと……避けてる?」
佐野はしばらく黙っていた。
その沈黙が、七瀬をじわじわと追い詰めていく。
「怒ってないよ。」
「……じゃあ、なんで……」
「七瀬のこと、大事にしすぎて、手を離したほうがいいって思っただけ。」
優しい声だった。
でも、そのやさしさは、あまりにも“遠かった”。
七瀬は笑えなかった。
かつて、あの雨の日の帰り道、傘の下で並んだ距離が、
今はどうしても埋まらなかった。
⸻
放課後。
天気予報が外れて、空が突然泣き出した。
街の明かりが滲むほどの、土砂降り。
七瀬は駅のホームに立ち尽くしていた。
傘を持っていなかった。いや、考え事ばかりで、持ってくるのを忘れたのだ。
ホームの端で、足元の水たまりを見つめていると、
ふと向かいの階段から、誰かが駆け上がってくる気配がした。
――佐野だった。
目が合った。
七瀬は一瞬、目をそらそうとした。
でも、佐野は足を止めなかった。
まっすぐ、彼女の前まで来て、何も言わずに傘を差し出した。
「……風邪、ひくよ。」
七瀬の心臓が大きく跳ねた。
あの日と、同じセリフ。
でも、響きがまるで違った。
それはもう、“やさしさ”じゃなかった。
ただの“事務的な善意”――まるで、他人に向けたような。
「……やっぱり、優しくない方がいいよ。」
そうつぶやくと、佐野は傘を彼女に押しつけて、ひとり濡れたホームを歩き出した。
「待って!」
七瀬が叫んだ。
雨音を突き破って、声が広がった。
「私、ちゃんと……ちゃんと、後悔してる!
藤堂くんといたのは、佐野くんの代わりになれるって思っただけで……!
……でも、全然違った。違ったんだよ……!」
佐野は立ち止まった。
背中越しに、小さく肩が震えていた。
「ねえ……もう一度だけ、あの日に戻れたらって、ずっと思ってる……」
返事は、なかった。
ただ――雨が、佐野の肩を濡らしていた。
そして、七瀬の手には彼の傘。
あの日と、逆だった。
「優しくされると、好きになっちゃうって言ったろ?」
佐野が、小さく振り返って言った。
「もう好きじゃないなら、傘、返して。」
それだけ言って、彼は去っていった。
七瀬はその場に立ち尽くしたまま、傘を握りしめていた。
それはあまりにも重くて、腕が震えた。
夕方。
灰色の空が沈み込むように低く、街はしとしとと雨に包まれていた。
佐野と七瀬は、駅前の小さな公園にいた。
あのとき別れた場所。濡れたベンチ。
今度は、ちゃんと向き合うために。
「……今日は、ありがとう。傘、返すね。」
七瀬は差し出した。
でも佐野はそれを受け取らなかった。
「もう一度だけ、聞かせてほしい。あの日……あの時、
『好きにならないようにする』って言ったの、あれは――」
七瀬が目を見開いた。
雨が強くなっていく。風が、妙に冷たい。
「……嘘だった。」
「そっか。」
佐野は、静かに笑った。
そして、決意を固めたように、言葉を紡ぎはじめる。
「俺、ずっと言えなかったけど……本当は、最初から――」
──その瞬間。
ガシャンッッ!!!
信号のガラスが、突然内側から破裂した。
空気が歪む。街の空が、異様な“黒”に染まる。
そして、現れた。
巨大な傘の怪物――アンブーレーラー。
黒くねじれた傘の骨組みが無数に伸び、雨を吸い上げ、
まるで雨粒が血のように赤く変色している。
「な、何……!? あれ……!?」
七瀬が震える。佐野がすぐに前に出た。
「七瀬、下がって!」
アンブーレーラーの一本の“骨”が、鞭のようにしなって地面を砕く。
水しぶきが、凶器のように吹き荒れる。
「この距離じゃ逃げ切れない……!」
佐野が七瀬を庇うように腕を伸ばす。
だが次の瞬間、アンブーレーラーの中骨が彼の肩をかすめて斬り裂く。
「佐野くんっ!!!」
七瀬が叫ぶ。
地面に膝をつきながらも、佐野は七瀬の手を握った。
「大丈夫……絶対、守るから……!」
血が、雨に滲んでいく。
そして、空が咆哮するように雷鳴を落とす。
「七瀬、もしここから逃げられたら……伝えたかったんだ。俺――」
雷鳴が言葉をかき消す。
だが、七瀬は確かに見た。
佐野の唇が、**「好きだ」**と動いたのを。
目の前に、アンブーレーラーが口を開ける。
傘の中心がねじれ、そこから黒い風が唸りをあげる。
「佐野……!! 行かないで……! まだ、ちゃんと……答えてない……!」
次の瞬間、傘の骨が再び襲いかかる。
その間際――
ズシャッッ!!!
宙から鋭く光る何かが降り注ぎ、傘の一部を切り裂いた。
「……遅れてごめん。」
現れたのは、藤堂だった。
目にはいつもの軽さはなく、ただ鋭い決意だけが宿っていた。
「こいつは……俺が知ってる。七瀬、佐野、お前ら逃げろ!」
「でも……!」
「行けッ!! そいつは人の“未練”と“雨”に引き寄せられて現れる化け物だ。
本気で生きたいと思ってない奴から喰われてく!」
佐野は七瀬の手を強く握り、叫んだ。
「七瀬、俺たちはまだ、終わってない!」
雨が、怒号のように打ちつける中。
ふたりは互いの手を握りしめ、燃えるような“生”を確かめながら、
怪物の牙から逃れるため、走り出した――。
激しい雨の中、七瀬と佐野は全力で走っていた。
ただの逃走じゃない。
「生きる」ため、「あの人を助ける」ため。
藤堂――あのままじゃ、アンブーレーラーに殺される。
駅から離れた高架下の隙間で、佐野が息を整えながら口を開いた。
「七瀬。俺、正直、怖い。死ぬかもしれないって思ったら、足が止まりそうになる。」
「……うん、私も。でも……」
七瀬は佐野の手を握った。
ぎゅっと、痛いほどに。
「でもね、佐野くんがいなくなるくらいなら、怖くても立ち向かう。
あなたが私を守ってくれたように、今度は私があなたと一緒に誰かを助けたい。」
「……七瀬……」
「だから――生きよう。あの人も、私たちも、誰も欠けちゃいけない。」
それは誓いだった。
お互いを“生きる理由”にした、かけがえのない約束。
佐野は頷いた。そして、小さく笑った。
「じゃあ、やるか。俺たちの“雨宿り”は、ここじゃ終わらない。」
ふたりは走り出す。
雨粒が、剣のように突き刺さる中を。
⸻
高架下の空き地。
藤堂は倒れていた。身体中に傷を負い、立ち上がれない。
その上に、アンブーレーラーが“開いた傘”を広げて降り立つ。
傘の骨組みが歪み、黒く、禍々しくうねる。
「……くそ、来るな……!」
そこへ、風を裂いて、佐野が飛び込んだ。
すぐに七瀬も後に続く。
「離れろ!! こいつは……!」
「知ってるよ、でも黙ってやられるなんて藤堂くんらしくない!」
「……七瀬……」
七瀬は佐野と向かい合い、手を繋いだ。
「この傘の怪物は、人の未練を喰って生きるって言ってたよね?」
佐野は頷く。
「だったら、未練なんて残さなきゃいい。
今ここで、ちゃんと気持ちを伝えて、ちゃんと生きるって選べば、
こいつはもう私たちを喰えない!」
七瀬の言葉に、佐野が強く握り返す。
「なら今、言わせてくれ!」
「えっ?」
「七瀬! 好きだ!!
誰よりも、君が好きだ。君がいなくなった世界なんて、考えたくもない。
一緒に生きてほしい。泣いても、笑っても、隣にいてくれ!」
その瞬間。
周囲の空気が変わった。
アンブーレーラーの動きが止まる。
黒い傘が、ビリビリと音を立てて震える。
「……あったかい……」
七瀬が、静かに涙をこぼした。
「私も……好き。ずっと、あの日から。」
ふたりの心が、ひとつに重なった。
その瞬間――
光が、傘を貫いた。
ふたりの握る手からあふれるように、金色の輝きが溢れ出す。
雨の一滴一滴が、その光を反射して、まるで世界中が祝福しているようだった。
アンブーレーラーが叫ぶ。
だが、愛の力はそれを上回る。
「――消えてよ、この未練の化け物!!」
佐野と七瀬の声が重なったとき、
アンブーレーラーは弾けるように霧散した。
ただの雨だけが、残った。
⸻
藤堂が地面に横たわりながら、ぽつりと呟いた。
「……バカップル爆誕だな……おめでとうよ、ほんとに……」
佐野が苦笑しながら手を差し伸べる。
「次は俺たちが、君を助ける番だったから。」
藤堂は手を取りながら、空を見上げた。
雨は、止んでいた。
⸻
【エピローグ】
あの日から、世界はほんの少しだけ変わった。
傘を持つ手は、ひとりじゃなくなった。
七瀬と佐野は、手をつないで歩く。
雨が降っても、怪物が来ても、
ふたりの“愛”はもう、何にも負けない
誰もいないはずのその空間に、彼女はいた。
窓際の席で、黒髪を肩に垂らしたまま、静かにノートにペンを走らせている。
傘を忘れた俺は、彼女を見つけたとき、少しだけ救われた気がした。
「まだいたんだ、七瀬。」
「うん……忘れ物、してて。」
嘘だ。七瀬が忘れ物をするところなんて、一度も見たことがない。
だけど、それを問いただすほど、俺たちは親しくない。
「傘、持ってないんだ。よかったら、一緒に帰らない?」
彼女は驚いた顔をして俺を見た。
その瞳の奥に、一瞬だけ揺れたものを俺は見逃さなかった。
七瀬は、ほんの一瞬だけ迷ったようだった。でもすぐに、静かに頷いた。
「……うん。ありがとう。」
彼女が席を立つと、教室の中に漂っていた緊張感がふっと緩んだように感じた。
俺は自分の傘を持ち、少しだけ広げながら、彼女の横に並んだ。
「ちょっと狭いけど、我慢して。」
「ううん、大丈夫。」
校舎を出ると、雨は思ったより強かった。
傘の下で、俺と七瀬の肩が何度も触れた。
そのたびに、胸が少しだけ跳ねる。
普段はほとんど話さない彼女と、こんなに近くにいるのが不思議だった。
「……佐野くんって、やさしいんだね。」
「そうかな? 自分じゃよくわからないけど。」
「うん、やさしい。だから……困る。」
「困る?」
彼女は小さく笑って、前を向いたまま言った。
「やさしくされると、好きになっちゃうから。」
雷が鳴ったような気がしたのは、空のせいじゃなかった。
俺は言葉を失いながら、ただ七瀬の横顔を見つめていた。
「やさしくされると、好きになっちゃうから。」
その言葉を飲み込んだまま、俺たちはしばらく無言で歩いた。
雨音だけが、傘のふちを優しく叩いていた。
「……それって、俺のこと?」
やっと絞り出せた声だった。情けないくらい震えていた。
七瀬は歩みを止めた。俺も足を止めた。
駅前の小さな公園の前。ベンチに雨が打ちつけられて、音を立てていた。
「ううん、違うよ。……まだ、って言ったほうがいいのかな。」
「まだ?」
七瀬はうつむいたまま、言葉を選ぶようにして続けた。
「佐野くんは、私のこと、特別じゃないってわかってる。
誰にでもやさしいし、ちゃんとしてるし、そういう人だって。」
「そんなこと――」
「でもね、今日、一緒に歩いたこと、絶対に忘れないと思う。」
七瀬は傘から一歩離れて、雨に濡れる空の下へ出た。
「だから……ありがとう。ちゃんと、うれしかったよ。」
雨粒が彼女の髪に落ち、制服の肩に色を変えていった。
それがあまりに綺麗で、俺は呼び止める言葉を失った。
「好きにならないようにするね。」
そう言って、七瀬は傘もささずに、走り出した。
俺はただ、傘の下で立ち尽くすことしかできなかった。
数日ぶりに晴れた午後、教室には柔らかな西日が差し込んでいた。
放課後のざわめきが遠ざかり、誰もいなくなった教室に、俺はひとり残っていた。
あの日から、七瀬とは話していない。
昼休みに何度か廊下ですれ違ったけれど、彼女は目を逸らした。
俺も、言葉をかけることができなかった。
自分の中に残った「ありがとう」と「好きにならないようにするね」が、
何度思い返しても噛み合わなくて、喉の奥にひっかかったままだった。
そんなときだった。
「……佐野くん。」
振り返ると、そこに七瀬がいた。
制服の袖を指先で握りながら、少しだけ戸惑ったような表情をしている。
でも、目はまっすぐに俺を見ていた。
「この前は……ごめん。急に、走って行っちゃって。」
「いや、俺こそ……何も言えなくて。」
気まずい空気が流れるかと思ったけど、不思議とそうはならなかった。
たぶん、お互いにずっと気にしていたからだ。
七瀬は窓際の席に歩いていって、静かに腰を下ろした。
俺も少し間を置いて、隣の席に座った。
「……あのとき、言いすぎたかもって思ってたの。」
「でも、ずっとモヤモヤしてて、どうしても、ちゃんと話したくて。」
七瀬は、指先を組んで膝の上に置いたまま、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「佐野くんのこと、特別じゃないって、言ったけど……本当は、そうじゃなかった。」
「私、最初から、ちょっとずつ、気になってたんだと思う。」
俺の心臓が、嫌なほど正直に反応する。
「でもね、優しくされるたびに、それが本当の気持ちじゃなかったら怖くて……だから、自分で線を引いたの。」
俺は口を開こうとして、すぐ閉じた。
慎重に言葉を選ばないと、たぶん何かが壊れてしまう気がした。
「俺、誰にでも優しいわけじゃないよ。」
七瀬がゆっくりと顔を上げた。
「優しくしたくなる人にしか、できないんだと思う。」
静かに、でも確かにそう言った。
七瀬の目が少し潤んで、それでも、笑った。
どこか安心したように、小さく、けれど確かに。
「……ずるいよ、佐野くん。」
「そんなふうに言われたら、また好きになっちゃうじゃん。」
俺は、今度こそ目を逸らさなかった。
「じゃあ、今度は俺の番かな。」
「……七瀬のこと、ちゃんと好きになってもいい?」
窓の外で、夕焼けが差し込んでいた。
風がカーテンを揺らして、教室にやわらかな光が踊った。
七瀬は少しだけ驚いた顔をして、それから、静かに頷いた。
「……うん。今度は、ちゃんと傘の下にいるから。」
週の半ば、昼休み。
教室の窓際、佐野はいつもどおり弁当を広げていた。
そこへ、少し背の高い男子が明るい声で近づいてきた。
「よう、佐野。今日もひとり飯?」
「ん、まぁな。藤堂も、ひとり?」
「いや、今日、部の連中みんな忙しくてさ。たまにはお前と食べようかと思って。」
藤堂はクラスでも人気のある存在で、軽いノリと裏表のなさが特徴の男だった。
誰にでも話しかけるが、その中でも佐野とは部活もかぶっていないのに、なぜかよく一緒にいる姿があった。
そんな二人の会話を、七瀬は遠くの席からそっと見ていた。
佐野が楽しそうに笑う顔。その横で、気安げに話す藤堂。
その光景に、胸が少しずつざわめいていく。
(……ああいうふうに笑うんだ。)
放課後――
七瀬はノートを忘れたふりをして、また教室に戻った。
あのときと同じ、窓際の席。
ペンを持つ手が、少し震えている。
「また、忘れ物?」
聞き慣れた声がして顔を上げると、佐野が立っていた。
「う、うん……」
「あのさ、七瀬。……ちょっと話せる?」
七瀬は頷き、二人で並んで教室を出ようとした――そのとき。
「おーい、佐野! 今日、例の映画のチケット、手に入ったからさ。放課後いけるだろ?」
藤堂が、明るい声でドアの外から呼びかけてきた。
七瀬の足が、一瞬止まる。
佐野は少し困ったように眉をひそめた。
「ごめん、今日はちょっと……また今度でいい?」
藤堂は軽く肩をすくめた。
「そっかー、じゃあ残念。でも、また誘うわ。」
そう言って手を振り、階段の方へ消えていった。
教室の中に、ふたりだけが残った。
「……仲良いんだね、藤堂くんと。」
七瀬は、わざと何気ない風を装って言った。
でも、その声の端に、確かにわずかな棘があった。
佐野は気づいたように、少し笑った。
「藤堂はいいやつだよ。……でも、七瀬とはちょっと違う。」
「……違うって、なにが?」
「俺が“意識するかどうか”、ってこと。」
七瀬はその言葉に、目を見開いた。
「そっか……ずるいな、佐野くんは。」
「また言われた。」
佐野は笑った。けれど、七瀬はすぐに笑えなかった。
「でも……私、まだ自信ないよ。」
「なにが?」
「藤堂くんみたいな人が、佐野くんの隣にいるのが、自然に見えたから。
私がその隣にいていいのか、まだわからない。」
そう言って、七瀬は窓の外を見つめた。
光が少しだけ陰ってきて、遠くに雨雲が見えた。
「七瀬。」
呼ばれて、ゆっくり振り返る。
「自然とか、似合うとかじゃない。俺が“隣にいてほしい”と思うのは、七瀬だよ。」
七瀬は、しばらく黙っていた。
でも――
「……そう言われると、また好きになりそう。」
今度は、少し照れたように笑って、ちゃんと前を向いていた。
秋が深まり、放課後の教室はどこか冷たい空気に包まれていた。
最近、七瀬は笑わなくなった。
あの日以来、佐野と話すたびに、どこかぎこちなさが残ったままだ。
原因は、はっきりしている。
――藤堂だ。
彼は優しかった。まっすぐで、気配りができて、誰とでも自然に距離を縮める。
けれど、七瀬は気づいてしまった。
あの藤堂が、**「わざと佐野の近くにいる」**ことを。
それはたとえば、佐野と七瀬が廊下で話しているとき――
「おーい佐野、今日のプリント忘れてたぞ」
と、妙にタイミングよく割って入ってくる。
またあるときは、佐野の机の上に藤堂の好物のパンがさりげなく置かれていた。
それを「誰が置いたんだろうな」なんて佐野は笑っていたが、七瀬は見ていた。
藤堂が昼休み、こっそり購買から2つ買っていたことを。
(……どうしてそんなことするの?)
七瀬の胸に、答えの出ない疑問と黒いもやが溜まっていく。
⸻
ある日、下校途中。
「藤堂くんってさ……佐野くんのこと、好きなの?」
ふいに漏れた七瀬の言葉に、藤堂は歩みを止めた。
「はは、なにそれ。男同士で?」
「……ううん。たぶん、違う意味。」
藤堂は一瞬、黙った。
そして――
「七瀬ってさ、思ってたより鋭いんだね。」
軽く笑った顔の奥に、何かがきらりと光った。
「俺さ、佐野のことが好きなんじゃない。佐野を“欲しがる誰か”が、好きなんだ。」
「……どういう意味?」
「つまり、君のことだよ。七瀬。」
七瀬の表情が凍る。
「俺、気づいてた。君が佐野のこと、ずっと目で追ってるの。
あの日の傘も、教室での会話も、全部見てた。
……いいね。真っ直ぐで、揺れてて。惚れちゃうよ、そんなの。」
「やめて。」
「……でも、面白くないんだよね。
“佐野くんは誰にでも優しい”って、君が言ってたじゃん? あれ、正しいと思うよ。
君のこと、本当に“特別”だと思ってるのかな?」
「……」
「だったらさ、俺が“特別”にしてあげようか?」
藤堂はふっと、七瀬の耳元でささやいた。
「君を手に入れたら、佐野はどういう顔をするんだろうな。」
⸻
その夜、七瀬は眠れなかった。
「好きにならないようにするね」と言ったのは、自分なのに。
どうして、こんなにも誰かに奪われることが怖いのだろう。
次の日、教室に入ると、藤堂と佐野が笑いながら話していた。
いつも通りの空気。でも、七瀬にはもう、藤堂の視線だけが刺さって感じられた。
そして、藤堂がこちらをちらりと見て、口元だけでこう言った。
「――来るか?」
まるでゲームの招待のように。
七瀬は視線を逸らすことができなかった。
日が落ちるのが早くなった放課後。
校舎の裏手、図書室へ向かう廊下で、七瀬は藤堂に呼び止められた。
「……ちょっと、いい?」
静かな声だった。いつもの軽さはなかった。
「昨日の話、怒った?」
「……怒ってない。」
七瀬は答えた。でも、目は合わせられなかった。
藤堂はしばらく黙ってから、言葉を選ぶように話しはじめた。
「俺、ずるいよな。わかってる。でも……君のこと、放っておけないんだ。」
「……なんで?」
「誰かのこと、好きになるときってさ。
“最初に惹かれた相手”より、“その人を見つめてる君の横顔”に惹かれることも、あるんだよ。」
七瀬はその言葉に、わずかに目を見開いた。
「俺が佐野を見てたのは、正確にはその隣にいた君を見てたからなんだと思う。」
「……それって」
「うん、“代わり”かもしれない。君もそう思ってるんだろ? 佐野の代わりとして俺を見てるって。」
七瀬は何も言わなかった。でも、否定もしなかった。
沈黙の中、藤堂は教室のドアを開けた。
「……じゃあさ、今夜だけ“お互いの代わり”でもいいから、俺と一緒にいてくれない?」
七瀬は迷った。とても迷った。
でも、何かが壊れそうな予感がして、怖かった。
だから――
「……うん、いいよ。」
⸻
その夜、人気のないショッピングモールの屋上。
藤堂が買ってきた缶コーヒーをふたりで飲みながら、空を見上げていた。
「……こういうの、はじめて。」
「俺も。」
藤堂は優しかった。
七瀬のペースに合わせてくれる。
佐野とは違う、どこか大人びた安心感。
「ねえ、藤堂くんはさ、本当に……私のこと、どう思ってるの?」
「今は、君の“代わり”でもいいって思ってる。でも――」
藤堂は、七瀬の頬に手を伸ばして、そっと触れた。
「いつか、“本物”になってみせるよ。」
七瀬は目を閉じた。
そしてその夜、佐野のことを一度だけ忘れた。
⸻
翌朝。
教室で佐野と目が合った。
ふとした瞬間に感じる違和感。
空気の奥に、何かが変わってしまった匂いが、確かにあった。
佐野は七瀬を見つめたまま、目をそらさなかった。
七瀬も、見つめ返した。
でも、その視線の中に、昨日の“嘘”がひとつ、沈んでいた。
放課後の空は、まるで泣きたがっているみたいだった。
どこまでも灰色で、厚く重く、じっと地上を見下ろしている。
その下を、佐野はひとり歩いていた。
カツン、カツンと靴が濡れたアスファルトを叩く音だけが響く。
傘を持っていたはずなのに、開く気にはなれなかった。
濡れるままに歩いた方が、少しだけ“楽”だった。
七瀬と藤堂が、一緒にいた。
夜の屋上、コンビニの袋、ふたり分の缶コーヒー。
そんな断片が、噂となって耳に入った。
信じなかった。
……いや、信じたくなかった。
でも、今朝の七瀬の目。
どこか遠くを見ているようなあの瞳が、
何よりも真実を語っていた。
(ああ、俺――間に合わなかったんだな。)
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
誰のせいでもない。七瀬にも、藤堂にも。
優しすぎたのは、自分だったのかもしれない。
ずぶ濡れになりながら、ふと空を仰ぐ。
そのとき、雨粒が目に入ったのか、
それともただの涙だったのか、もう分からなかった。
(雨って、こんなに冷たかったっけ。)
前に七瀬と相合傘で歩いた日が、急に思い出される。
肩が触れたときの鼓動。
「好きになっちゃうから」なんて、ふいに笑った横顔。
それが今、もう二度と見られない気がして、息が詰まった。
雨音だけが、優しくて、容赦なかった。
まるで、空までもが「それでよかったのか」って問いかけてくるようだった。
(よくないよ、全然……)
佐野は思った。
でも、今さらそれを伝える術はない。
あの傘の下で交わした言葉も、沈黙も、すべてが遠く感じた。
雨はただ、佐野の輪郭を少しずつ溶かしていく。
彼の“居場所”が、音もなく消えていくように。
教室の中で、佐野の姿は以前と変わらなかった。
ノートを貸してと頼めば、すぐに差し出してくれるし、
重そうな荷物を持っていれば、さりげなく手伝ってくれる。
でも――そのすべてから、「ぬくもり」が消えていた。
七瀬はそれに、気づいてしまった。
(目が合っても、すぐそらされる)
(声をかけても、必要以上に踏み込んでこない)
(……まるで、“壁”を作られてるみたい)
「……佐野くん。」
帰り際、意を決して呼びかけた。
「……何か、怒ってる? 私のこと……避けてる?」
佐野はしばらく黙っていた。
その沈黙が、七瀬をじわじわと追い詰めていく。
「怒ってないよ。」
「……じゃあ、なんで……」
「七瀬のこと、大事にしすぎて、手を離したほうがいいって思っただけ。」
優しい声だった。
でも、そのやさしさは、あまりにも“遠かった”。
七瀬は笑えなかった。
かつて、あの雨の日の帰り道、傘の下で並んだ距離が、
今はどうしても埋まらなかった。
⸻
放課後。
天気予報が外れて、空が突然泣き出した。
街の明かりが滲むほどの、土砂降り。
七瀬は駅のホームに立ち尽くしていた。
傘を持っていなかった。いや、考え事ばかりで、持ってくるのを忘れたのだ。
ホームの端で、足元の水たまりを見つめていると、
ふと向かいの階段から、誰かが駆け上がってくる気配がした。
――佐野だった。
目が合った。
七瀬は一瞬、目をそらそうとした。
でも、佐野は足を止めなかった。
まっすぐ、彼女の前まで来て、何も言わずに傘を差し出した。
「……風邪、ひくよ。」
七瀬の心臓が大きく跳ねた。
あの日と、同じセリフ。
でも、響きがまるで違った。
それはもう、“やさしさ”じゃなかった。
ただの“事務的な善意”――まるで、他人に向けたような。
「……やっぱり、優しくない方がいいよ。」
そうつぶやくと、佐野は傘を彼女に押しつけて、ひとり濡れたホームを歩き出した。
「待って!」
七瀬が叫んだ。
雨音を突き破って、声が広がった。
「私、ちゃんと……ちゃんと、後悔してる!
藤堂くんといたのは、佐野くんの代わりになれるって思っただけで……!
……でも、全然違った。違ったんだよ……!」
佐野は立ち止まった。
背中越しに、小さく肩が震えていた。
「ねえ……もう一度だけ、あの日に戻れたらって、ずっと思ってる……」
返事は、なかった。
ただ――雨が、佐野の肩を濡らしていた。
そして、七瀬の手には彼の傘。
あの日と、逆だった。
「優しくされると、好きになっちゃうって言ったろ?」
佐野が、小さく振り返って言った。
「もう好きじゃないなら、傘、返して。」
それだけ言って、彼は去っていった。
七瀬はその場に立ち尽くしたまま、傘を握りしめていた。
それはあまりにも重くて、腕が震えた。
夕方。
灰色の空が沈み込むように低く、街はしとしとと雨に包まれていた。
佐野と七瀬は、駅前の小さな公園にいた。
あのとき別れた場所。濡れたベンチ。
今度は、ちゃんと向き合うために。
「……今日は、ありがとう。傘、返すね。」
七瀬は差し出した。
でも佐野はそれを受け取らなかった。
「もう一度だけ、聞かせてほしい。あの日……あの時、
『好きにならないようにする』って言ったの、あれは――」
七瀬が目を見開いた。
雨が強くなっていく。風が、妙に冷たい。
「……嘘だった。」
「そっか。」
佐野は、静かに笑った。
そして、決意を固めたように、言葉を紡ぎはじめる。
「俺、ずっと言えなかったけど……本当は、最初から――」
──その瞬間。
ガシャンッッ!!!
信号のガラスが、突然内側から破裂した。
空気が歪む。街の空が、異様な“黒”に染まる。
そして、現れた。
巨大な傘の怪物――アンブーレーラー。
黒くねじれた傘の骨組みが無数に伸び、雨を吸い上げ、
まるで雨粒が血のように赤く変色している。
「な、何……!? あれ……!?」
七瀬が震える。佐野がすぐに前に出た。
「七瀬、下がって!」
アンブーレーラーの一本の“骨”が、鞭のようにしなって地面を砕く。
水しぶきが、凶器のように吹き荒れる。
「この距離じゃ逃げ切れない……!」
佐野が七瀬を庇うように腕を伸ばす。
だが次の瞬間、アンブーレーラーの中骨が彼の肩をかすめて斬り裂く。
「佐野くんっ!!!」
七瀬が叫ぶ。
地面に膝をつきながらも、佐野は七瀬の手を握った。
「大丈夫……絶対、守るから……!」
血が、雨に滲んでいく。
そして、空が咆哮するように雷鳴を落とす。
「七瀬、もしここから逃げられたら……伝えたかったんだ。俺――」
雷鳴が言葉をかき消す。
だが、七瀬は確かに見た。
佐野の唇が、**「好きだ」**と動いたのを。
目の前に、アンブーレーラーが口を開ける。
傘の中心がねじれ、そこから黒い風が唸りをあげる。
「佐野……!! 行かないで……! まだ、ちゃんと……答えてない……!」
次の瞬間、傘の骨が再び襲いかかる。
その間際――
ズシャッッ!!!
宙から鋭く光る何かが降り注ぎ、傘の一部を切り裂いた。
「……遅れてごめん。」
現れたのは、藤堂だった。
目にはいつもの軽さはなく、ただ鋭い決意だけが宿っていた。
「こいつは……俺が知ってる。七瀬、佐野、お前ら逃げろ!」
「でも……!」
「行けッ!! そいつは人の“未練”と“雨”に引き寄せられて現れる化け物だ。
本気で生きたいと思ってない奴から喰われてく!」
佐野は七瀬の手を強く握り、叫んだ。
「七瀬、俺たちはまだ、終わってない!」
雨が、怒号のように打ちつける中。
ふたりは互いの手を握りしめ、燃えるような“生”を確かめながら、
怪物の牙から逃れるため、走り出した――。
激しい雨の中、七瀬と佐野は全力で走っていた。
ただの逃走じゃない。
「生きる」ため、「あの人を助ける」ため。
藤堂――あのままじゃ、アンブーレーラーに殺される。
駅から離れた高架下の隙間で、佐野が息を整えながら口を開いた。
「七瀬。俺、正直、怖い。死ぬかもしれないって思ったら、足が止まりそうになる。」
「……うん、私も。でも……」
七瀬は佐野の手を握った。
ぎゅっと、痛いほどに。
「でもね、佐野くんがいなくなるくらいなら、怖くても立ち向かう。
あなたが私を守ってくれたように、今度は私があなたと一緒に誰かを助けたい。」
「……七瀬……」
「だから――生きよう。あの人も、私たちも、誰も欠けちゃいけない。」
それは誓いだった。
お互いを“生きる理由”にした、かけがえのない約束。
佐野は頷いた。そして、小さく笑った。
「じゃあ、やるか。俺たちの“雨宿り”は、ここじゃ終わらない。」
ふたりは走り出す。
雨粒が、剣のように突き刺さる中を。
⸻
高架下の空き地。
藤堂は倒れていた。身体中に傷を負い、立ち上がれない。
その上に、アンブーレーラーが“開いた傘”を広げて降り立つ。
傘の骨組みが歪み、黒く、禍々しくうねる。
「……くそ、来るな……!」
そこへ、風を裂いて、佐野が飛び込んだ。
すぐに七瀬も後に続く。
「離れろ!! こいつは……!」
「知ってるよ、でも黙ってやられるなんて藤堂くんらしくない!」
「……七瀬……」
七瀬は佐野と向かい合い、手を繋いだ。
「この傘の怪物は、人の未練を喰って生きるって言ってたよね?」
佐野は頷く。
「だったら、未練なんて残さなきゃいい。
今ここで、ちゃんと気持ちを伝えて、ちゃんと生きるって選べば、
こいつはもう私たちを喰えない!」
七瀬の言葉に、佐野が強く握り返す。
「なら今、言わせてくれ!」
「えっ?」
「七瀬! 好きだ!!
誰よりも、君が好きだ。君がいなくなった世界なんて、考えたくもない。
一緒に生きてほしい。泣いても、笑っても、隣にいてくれ!」
その瞬間。
周囲の空気が変わった。
アンブーレーラーの動きが止まる。
黒い傘が、ビリビリと音を立てて震える。
「……あったかい……」
七瀬が、静かに涙をこぼした。
「私も……好き。ずっと、あの日から。」
ふたりの心が、ひとつに重なった。
その瞬間――
光が、傘を貫いた。
ふたりの握る手からあふれるように、金色の輝きが溢れ出す。
雨の一滴一滴が、その光を反射して、まるで世界中が祝福しているようだった。
アンブーレーラーが叫ぶ。
だが、愛の力はそれを上回る。
「――消えてよ、この未練の化け物!!」
佐野と七瀬の声が重なったとき、
アンブーレーラーは弾けるように霧散した。
ただの雨だけが、残った。
⸻
藤堂が地面に横たわりながら、ぽつりと呟いた。
「……バカップル爆誕だな……おめでとうよ、ほんとに……」
佐野が苦笑しながら手を差し伸べる。
「次は俺たちが、君を助ける番だったから。」
藤堂は手を取りながら、空を見上げた。
雨は、止んでいた。
⸻
【エピローグ】
あの日から、世界はほんの少しだけ変わった。
傘を持つ手は、ひとりじゃなくなった。
七瀬と佐野は、手をつないで歩く。
雨が降っても、怪物が来ても、
ふたりの“愛”はもう、何にも負けない
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