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第3話「遠ざけた想い、近づく距離」
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騎士団詰所での日々は、私に忘れかけていた穏やかさを与えてくれた。
早朝、窓を開けると、まだひんやりとした空気が肺を満たす。城壁の向こうでは鳥たちが楽しげにさえずり、朝日がゆったりと空を染めていく。
「フィアさん、おはようございます!」
元気な声と共に薬草を抱えて駆け込んできたナリスが、私に笑顔を向ける。その無邪気な表情に、つられて私も微笑んだ。
「おはよう、ナリス君。今日も元気そうね」
「ええ、でも今日は少し忙しくなりそうですよ。昨日、団長たちの訓練がちょっと激しかったみたいで」
ナリスはちょっと困ったように笑った。
騎士団に来てから半月ほど経ったが、私の心は少しずつここに馴染んでいた。特に、若い薬師見習いのナリスと一緒に過ごす時間は、ほのぼのとしていて心地よかった。
ナリスの言葉通り、午前中から治療室には軽い怪我をした騎士たちが次々と訪れた。
「フィアさんの包帯の巻き方、本当に綺麗だよな」
「そう? でも大事なのは、傷口を清潔にして安静にすることだから」
私が包帯を巻くと騎士たちは安心したように微笑む。その姿を見ていると、もう聖女ではない私でも、誰かの役に立てるのだという喜びが胸の中にじんわりと広がる。
そんな日常のなかで、私の心を静かに乱す人がいた。
レオン――騎士団長レオン・アルヴァース。
治療室の窓越しに見える彼の姿を見るたびに、胸が小さく痛んだ。鋭い剣を構える凛々しい背中。いつも真剣な瞳。時折見せる、団員たちに向けた優しい微笑み。
神殿にいた頃から、私は彼の姿を密かに追っていた。今、身を隠すようにして彼の傍にいられることが、嬉しくもあり、同時にとても苦しかった。
その日の午後、治療室にレオンがやってきた。手には書類を抱え、少し疲れた表情をしている。
「フィア、少しいいか?」
「はい、もちろんです」
私が頷くと、ナリスはそっと席を外してくれた。
レオンが治療室の机の上に書類を置きながら、何気なく話しかけてくる。
「このところ、団員たちが君のことをずいぶん慕っている。君が来てくれて、本当に助かっているよ」
その言葉が優しくて、胸が締め付けられた。けれど私は笑顔を保ったまま小さくうなずく。
「みんなが優しいから、私も頑張れます。団長こそ、お忙しそうですが、体調は大丈夫ですか?」
レオンは書類を手に取り、ふと視線を私に戻した。
「ああ、問題ない。だが――」
一瞬、言葉を止めた彼が、ためらうように続ける。
「君の顔色があまり良くない時がある。無理をするな。辛い時はちゃんと言うんだぞ」
その言葉に、思わず心が揺れた。私の余命のことを知っているのは私自身だけ。この切ない秘密を誰かに明かすつもりはなかった。でも彼の前だと、つい本音がこぼれそうになる。
「ありがとう、レオン団長。気をつけます」
彼は小さくうなずくと、部屋を後にした。その後ろ姿を見送りながら、胸が苦しくなる。
レオンが私に向ける優しさは、団長としてのものなのか、それとも――。
夜、私は自室のベッドの上で息をついた。窓の外では、星が静かに瞬いている。
胸にそっと手を当てると、私の命の鼓動が静かに響いていた。もうすぐ消えてしまう、小さな命。だからこそ、この想いを胸に秘めたまま消えるつもりだった。
けれど、毎日レオンの姿を見るたびに、その想いが胸の奥で大きくなる。
静かに目を閉じた時、再び身体の奥からこみ上げる熱が喉元を突いた。咄嗟に手を当てると指先が赤く染まる。
「っ……」
急いで洗面台へ向かい、血を洗い流す。顔を上げると、青白く疲れ切った自分の顔が鏡に映った。
(もう少しだけ……あと少しだけ、ここにいたい)
この日常を、みんなとの穏やかな日々を失いたくない。
私は再びベッドに戻り、小さく身を丸めた。
翌朝、治療室に入ると、机の上に小さな包みが置いてあった。開けてみると、甘く香るハーブクッキーが入っている。
ナリスが得意気に笑って説明した。
「団長がフィアさんにって。疲れてるみたいだから、甘いものでも食べてゆっくり休めって」
私はその小さな包みを胸に抱きしめるようにした。
(レオン……)
胸が温かくなり、同時に切なくなる。レオンのさりげない優しさが、私の遠ざけようとしていた想いを少しずつ近づけてしまう。
ゆったりとした日常の中で、小さな幸せを積み重ねながら、私は残された時間を大切にしたいと改めて思った。
けれど、私の余命が彼を傷つける日が必ず来る。だからこそ、この想いは胸の奥にしまっておこう。
私が去るその日まで、誰も傷つけず、ただ穏やかな日々を守りたい――。
それが、私が今できる唯一の願いだった。
早朝、窓を開けると、まだひんやりとした空気が肺を満たす。城壁の向こうでは鳥たちが楽しげにさえずり、朝日がゆったりと空を染めていく。
「フィアさん、おはようございます!」
元気な声と共に薬草を抱えて駆け込んできたナリスが、私に笑顔を向ける。その無邪気な表情に、つられて私も微笑んだ。
「おはよう、ナリス君。今日も元気そうね」
「ええ、でも今日は少し忙しくなりそうですよ。昨日、団長たちの訓練がちょっと激しかったみたいで」
ナリスはちょっと困ったように笑った。
騎士団に来てから半月ほど経ったが、私の心は少しずつここに馴染んでいた。特に、若い薬師見習いのナリスと一緒に過ごす時間は、ほのぼのとしていて心地よかった。
ナリスの言葉通り、午前中から治療室には軽い怪我をした騎士たちが次々と訪れた。
「フィアさんの包帯の巻き方、本当に綺麗だよな」
「そう? でも大事なのは、傷口を清潔にして安静にすることだから」
私が包帯を巻くと騎士たちは安心したように微笑む。その姿を見ていると、もう聖女ではない私でも、誰かの役に立てるのだという喜びが胸の中にじんわりと広がる。
そんな日常のなかで、私の心を静かに乱す人がいた。
レオン――騎士団長レオン・アルヴァース。
治療室の窓越しに見える彼の姿を見るたびに、胸が小さく痛んだ。鋭い剣を構える凛々しい背中。いつも真剣な瞳。時折見せる、団員たちに向けた優しい微笑み。
神殿にいた頃から、私は彼の姿を密かに追っていた。今、身を隠すようにして彼の傍にいられることが、嬉しくもあり、同時にとても苦しかった。
その日の午後、治療室にレオンがやってきた。手には書類を抱え、少し疲れた表情をしている。
「フィア、少しいいか?」
「はい、もちろんです」
私が頷くと、ナリスはそっと席を外してくれた。
レオンが治療室の机の上に書類を置きながら、何気なく話しかけてくる。
「このところ、団員たちが君のことをずいぶん慕っている。君が来てくれて、本当に助かっているよ」
その言葉が優しくて、胸が締め付けられた。けれど私は笑顔を保ったまま小さくうなずく。
「みんなが優しいから、私も頑張れます。団長こそ、お忙しそうですが、体調は大丈夫ですか?」
レオンは書類を手に取り、ふと視線を私に戻した。
「ああ、問題ない。だが――」
一瞬、言葉を止めた彼が、ためらうように続ける。
「君の顔色があまり良くない時がある。無理をするな。辛い時はちゃんと言うんだぞ」
その言葉に、思わず心が揺れた。私の余命のことを知っているのは私自身だけ。この切ない秘密を誰かに明かすつもりはなかった。でも彼の前だと、つい本音がこぼれそうになる。
「ありがとう、レオン団長。気をつけます」
彼は小さくうなずくと、部屋を後にした。その後ろ姿を見送りながら、胸が苦しくなる。
レオンが私に向ける優しさは、団長としてのものなのか、それとも――。
夜、私は自室のベッドの上で息をついた。窓の外では、星が静かに瞬いている。
胸にそっと手を当てると、私の命の鼓動が静かに響いていた。もうすぐ消えてしまう、小さな命。だからこそ、この想いを胸に秘めたまま消えるつもりだった。
けれど、毎日レオンの姿を見るたびに、その想いが胸の奥で大きくなる。
静かに目を閉じた時、再び身体の奥からこみ上げる熱が喉元を突いた。咄嗟に手を当てると指先が赤く染まる。
「っ……」
急いで洗面台へ向かい、血を洗い流す。顔を上げると、青白く疲れ切った自分の顔が鏡に映った。
(もう少しだけ……あと少しだけ、ここにいたい)
この日常を、みんなとの穏やかな日々を失いたくない。
私は再びベッドに戻り、小さく身を丸めた。
翌朝、治療室に入ると、机の上に小さな包みが置いてあった。開けてみると、甘く香るハーブクッキーが入っている。
ナリスが得意気に笑って説明した。
「団長がフィアさんにって。疲れてるみたいだから、甘いものでも食べてゆっくり休めって」
私はその小さな包みを胸に抱きしめるようにした。
(レオン……)
胸が温かくなり、同時に切なくなる。レオンのさりげない優しさが、私の遠ざけようとしていた想いを少しずつ近づけてしまう。
ゆったりとした日常の中で、小さな幸せを積み重ねながら、私は残された時間を大切にしたいと改めて思った。
けれど、私の余命が彼を傷つける日が必ず来る。だからこそ、この想いは胸の奥にしまっておこう。
私が去るその日まで、誰も傷つけず、ただ穏やかな日々を守りたい――。
それが、私が今できる唯一の願いだった。
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