雨音の記憶、君の影

金森しのぶ

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第12話 初めての音

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冬の朝、教室の窓にうっすらと霜が降りていた。
咲良は早めに登校し、音楽室でひとりピアノの前に座っていた。
もう鍵盤も見えない。でも、耳を澄ませば教室に響く残響や椅子の軋み、窓を打つ雨の気配までが鮮やかに心に伝わってくる。

合唱コンクールは、いよいよ明日に迫っていた。
放課後はクラスのみんなが集まって、何度も練習を繰り返している。
咲良は暗譜した楽譜を頭の中で反芻し、音と音の間をたしかめるように、指先で静かに鍵盤をなぞった。

ドアがそっと開く音がした。
「おはよう、咲良ちゃん」
健太の明るい声。奏人も後ろからついてくる。

健太がピアノの横に立ち、「今日も朝練?がんばってるな!」と笑う。
咲良は「ありがとう」と言って、手話で「緊張してる」と奏人に伝えた。
奏人はうなずいて、ノートに「ぼくも緊張してる」と書いた。

「何で?ピアノは咲良ちゃんが弾くのに」
健太が首をかしげると、奏人は少し照れくさそうに、手話で「“声”の練習、やっとうまくいきそう」と伝える。
健太は目を丸くして「すごいじゃん!早く聞かせてくれよ」と身を乗り出す。



昼休み。
奏人は校庭の片隅で、真帆や母親、健太、咲良の前に立っていた。
家族や友人たちの応援の中で「声を出す」ということに、初めて挑戦しようとしていた。

真帆がゆっくり手話で「大丈夫、ゆっくりでいいんだよ」と励ます。
咲良も目を閉じて「がんばれ」とそっと小声で言った。

奏人は深く息を吸い、胸に手を当ててみる。
自分の中の「伝えたい」という強い気持ちが、喉から小さな“音”としてあふれ出すのを想像する。

「……さ」

喉の奥から、かすかな音が漏れる。
「……くら……」

真帆が「聞こえたよ!」と泣きそうな笑顔で手を叩く。
健太も「すげえ!」と手を叩き、咲良は両手で口元を押さえ、こぼれた涙を拭った。

「もう一回、もう一回」とみんなが促す。
奏人はもう一度、咲良の名前を心で呼びながら——
「さ……くら」

最初よりも、ほんの少しだけはっきりとした音になった。

「……ありがとう」

その一言が届いたかは分からない。でも、咲良は胸の奥に熱いものを感じ、手探りで奏人の手を取った。
「ちゃんと、聞こえたよ」と、咲良は震える声で言った。

健太やクラスメイトが、わっと歓声を上げた。



放課後、みんなで最後の合唱練習。
咲良のピアノは、時々間違いながらも、歌声に優しく寄り添う。
健太や女子たちも、咲良の音を頼りに精一杯歌った。
奏人は客席の一番前で、みんなの歌声とピアノの音に耳を澄ませていた。

終わった後、健太が言った。
「なあ、咲良ちゃん。怖いこともあるけどさ、みんなでやれば何だってできるな!」

咲良は笑顔でうなずいた。
奏人も、その場で小さく「ありがとう」と口を動かしてみる。

咲良は手を伸ばし、奏人の手をしっかりと握った。
「大丈夫、これからも一緒に歩いていこう」

雨が窓を叩いている。
だけど、その音さえ今は心強い応援歌のように聞こえた。



夜、自宅で。
咲良は母親と並んでソファに座り、今日あったことをゆっくり話した。
「奏人君、今日、初めて“さくら”って声に出してくれたの。すごくうれしかった」

母親は咲良を優しく抱きしめ、「よかったね」と微笑んだ。
「音も言葉も、気持ちも、全部届いてるよ。咲良が咲良である限り、大丈夫だよ」

咲良は目を閉じ、静かに雨音に耳を澄ました。
きっと明日も、前に進める気がした。



合唱コンクール本番の朝。
咲良は舞台の袖で、深呼吸をしていた。
奏人がそっと近づき、手話で「がんばって」と伝える。
咲良は「ありがとう」と手話で返し、ピアノの前に座った。

音が鳴る。
咲良の世界はもう真っ暗だ。でも、音楽は消えない。
みんなの歌声と、奏人の「さくら」の声が、心の奥でずっと響いている。

——初めての音。
——初めての勇気。
それは二人だけでなく、みんなに伝わっていく小さな奇跡だった。
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