まいにち、きみと奇跡を探しに

金森しのぶ

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第十話 まいにちが、奇跡の日

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 八月の朝――夏休みがはじまって何日かが経った。
 団地の中庭には、夏の光が降りそそぎ、セミの鳴き声がにぎやかに響いていた。
 この数日、春斗の家にはお母さんの姿がなかった。けれど、その不在はもう「さびしさ」ばかりではなかった。

 

 母の入院が決まった日から、団地のみんなが本当にたくさん支えてくれた。
 芽衣ちゃんや信也くんと一緒にご飯を食べたり、管理人さんが毎朝「困ったことはない?」と声をかけてくれたり、
 町内会のおばちゃんたちが「お母さんにはゆっくり休んでもらいなさい」と笑顔でおかずを分けてくれたり――
 春斗は「家族」という言葉の意味を、少しだけ考え直すようになった。

 

 お母さんのことが心配でたまらない夜もあった。
 でも、ベッドの上で手紙やメモを握りしめていると、心のどこかで「きっと大丈夫」と思えるようになっていた。

 

 そして今日、ようやくその日がやってきた。

「お母さん、退院するって!」

 

 朝ごはんを食べながら、お母さんからの電話が鳴った。
 やさしい声が、受話器の向こうからふわっと聞こえてくる。

「今日の午後には家に帰れるよ。待っててね」

「うん! ずっと待ってる!」

 電話を切ると、心が弾むように踊り出した。
 まるで世界中が、今日だけ春斗のためにやさしくなっているみたいだった。

 

 お母さんが帰ってくる日。
 それは春斗にとって、「ふつうの日」が戻ってくるということだったけど、
 同時に「いつもよりちょっと特別な日」になる気がしてならなかった。

 

 お昼前、団地の中庭を見下ろすと、
 芽衣ちゃんが麦わら帽子をかぶって走ってきた。

「春斗くん、お母さん帰ってくるんだって?」

「うん! 今日なんだ!」

「やったね! 信也くんももうすぐ来るって!」

 

 三人で一緒に団地の花壇の水やりをした。
 陽ざしの下で水がキラキラとはね、葉っぱの上で丸いしずくに変わる。

「お母さんが帰ってきたら、またみんなでお祭りの手伝いしようね」

「うん、絶対しよう!」

「そうだ、おかえりのサプライズ考えようよ!」

 

 昼過ぎには、管理人さんや町内会のおばちゃんたちが、春斗の家の前で「おかえり会」を準備してくれていた。
 小さな紙の花や、色とりどりのガーランド。
 団地の子どもたちが色紙に「おかえりなさい」と書いて貼り付けてくれていた。

 

 午後三時すぎ――
 エレベーターの扉が開き、少しだけ疲れた顔のお母さんが、ゆっくりと歩いてきた。

 

「おかえりなさい!」

 

 みんなが一斉に拍手して声をかけた。
 お母さんは驚いて、そして――すぐに、やさしい涙をこぼした。

「みんな……ありがとう……。本当に、ありがとう」

 

 お母さんは、春斗の手をしっかりと握った。
 あたたかい、ずっと忘れかけていた感覚が、胸の奥までしみこんでくる。

「春斗……お留守番、よくがんばったね」

「うん。僕、大丈夫だったよ。みんなが助けてくれたから」

 芽衣ちゃんや信也くん、おばちゃんたち、管理人さん――
 みんなが大きくうなずいた。

 

 家の中に入ると、きれいに片づけられたリビングに「おかえり」の文字が並ぶ。
 テーブルの上には、みんなで作った折り紙の花束と、
 「またみんなで笑おうね」という手紙がそっと置いてあった。

 

「……みんな、本当にありがとう」

 お母さんが、また涙ぐみながら言った。

「お母さんが元気になって、ほんとによかった……」

 春斗も、思わず涙がこぼれそうになった。

 

 その日の夜、久しぶりに芽衣ちゃんと信也くんも呼んで、にぎやかな夕食を囲んだ。

「カレーだ!」「やっぱりお母さんのカレーが一番だよ!」

「春斗、サラダのおかわりあるよ!」

 

 みんなが笑う。
 お母さんも笑う。
 笑い声と食器の音、みんなの話し声が部屋いっぱいに広がっていた。

 

 夕食が終わり、みんなが帰ったあと。
 お母さんは、しみじみと春斗を抱きしめてくれた。

「春斗、たくさん頑張ってくれてありがとう。……お母さん、うれしいよ。
 みんながいてくれるから、私もここまでがんばれた」

「うん……。僕も、寂しいときはみんながいてくれた。
 それにね、ほら……」

 

 春斗は、これまで集めてきたメモや手紙をお母さんに見せた。

「――これ、ずっとお守りだったんだ」

「困っている人にやさしくした人には、きっといいことが起きる」
「だいじょうぶ、きみはきみのままでいい」
「今日もありがとう。きみのやさしさは、みんなの元気になるよ」
「願いは、きっと届くよ。あきらめないで」
「ひとりじゃないよ。いつも誰かが見守っている」
「きっと大丈夫。みんなで乗り越えられるよ」

 

「これ、全部春斗がもらったの?」

「うん。団地の掲示板やポストに入ってたり、家の中に置いてあったり……
 なんだか、誰かが僕のこと、いつも見てくれてるみたいだった」

 お母さんは、一枚一枚丁寧に読みながら、
 最後の一枚――「春斗、きみががんばっていること、ちゃんと見ているよ。今日もありがとう」を見て、
 はっと息を呑んだ。

「この字……お父さんの字に、よく似てる」

「えっ?」

「そうよ……お父さんは、昔から“誰かのために”って、よく家の中にメモを貼っていたの」

 

 お母さんが写真立てを手に取る。
 そこには、小さいころの家族写真と、隅っこに貼られた古いメモがあった。

「大切なものは、きっとすぐそばにある」

 

「お父さん、ずっと見てくれてたのかな……」

「そうかもしれないね。
 もしかしたら、今もどこかで、春斗や私のこと、ずっと見守ってくれているのかも」

 

 春斗は、胸がぽかぽかとあたたかくなった。
 涙が溢れそうになりながらも、しっかりとうなずいた。

「……僕、これからもやさしくしていきたい。お父さんみたいに、誰かのために」

「うん。春斗なら、きっとできるよ」

 

 夜、布団に入る前、春斗は窓際まで歩いた。
 カーテンを少しだけ開けて外をのぞく。
 団地の駐車場には静かな夜風。
 街灯の下に、誰かが一瞬だけ立っているのが見えた。

 遠くて顔までは見えない。
 けれど、その人影はどこかやさしい空気をまとっている気がした。

 人影はやがて歩き出し、夜の闇にすっと溶けていった。

 

(ありがとう。――お父さん)

 

 次の日の朝。
 お母さんが作ってくれた卵焼きサンドを一緒に食べながら、春斗は思った。

 これからも、毎日が「奇跡の日」かもしれない。
 誰かにやさしくしたい。みんなと笑いたい。
 家族も友だちも、団地の人たちも――
 全部が、春斗の宝物だ。

 

 窓の外は、今日も青い空。
 セミの声が響いている。
 「まいにち、きみと奇跡を探しに」
 その言葉の意味を、春斗は少しだけわかったような気がした。
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