まいにち、きみと奇跡を探しに

金森しのぶ

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やさしさの記憶 ―母のまなざし―

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 陽ざしのまぶしい朝、団地の窓から風がカーテンを揺らす。
 目覚まし時計のベルが鳴るより早く、私は布団の中でゆっくりと深呼吸をした。

 春斗が小学校へ行くのは、もう慣れた。
 けれど、子どもと二人きりの生活は、決して「当たり前」ではなかった。

 

 私は、春斗の母だ。
 スーパーのレジと夜のビル清掃、二つの仕事を掛け持ちし、
 朝早くから夜遅くまで、いつも何かに追われている。

 

 春斗が起きてくる前に、冷蔵庫に朝ごはんを用意し、
 小さなメモに「がんばって」と一言だけ書く。
 私の字は丸くて不器用だけれど、いつもこの言葉を添えずにはいられなかった。

 

 カレンダーには、夫が家を出ていった日が、小さな丸で囲んである。
 その日から、私は「母」であり「父」でもあろうと、必死に毎日を生きてきた。

 

 夫――
 彼は、やさしい人だった。
 けれど、時には不器用で、思いをうまく言葉にできないまま、
 私たち家族の前から姿を消した。

 

 思い出すのは、彼と暮らした団地の日々。
 季節ごとの行事や、家族で囲む食卓の笑顔。
 たまに、思いがけず帰ってきたときに、春斗の寝顔をやさしく撫でていた彼の手。

 

 あの人は――
 私に「やさしさ」というものの意味を、教えてくれた人だった。

 

 私は、時々自分に問いかける。

「やさしさって、なんだろう」

 忙しさに追われ、仕事で失敗し、誰にも弱音を吐けない夜。
 眠れずに天井を見上げる夜。
 涙がこぼれそうになる日。

 それでも、私は朝になればまた立ち上がる。
 それはきっと、私が「母」であるからだけじゃない。
 あの人と出会い、共に暮らし、春斗を育てる日々の中で、
 「誰かのために生きることの重さと、やさしさの大切さ」を知ったからだと思う。

 

 ある夜のことだった。
 私は仕事の帰り道、ふと団地の階段で座りこんでしまった。
 疲れがどっと押し寄せ、足が動かなくなったのだ。

 

 すると、管理人さんが缶コーヒーを差し出してくれた。

「お母さん、たまには泣いてもいいんだよ」

 その一言に、私は思わず涙をこぼした。

「春斗くん、ええ子だよ。みんな、お母さんのこと見てるからな」

 

 団地は小さな世界だけど、その中にはいくつもの「やさしさ」が流れている。
 だれかのあいさつ、だれかの手紙、誰かの料理の匂い。
 私もその一部でありたいと、思ってきた。

 

 夫が家を出ていく直前――
 彼は、冷蔵庫にメモを残していた。

「大切なものは、きっとすぐそばにある」

 

 あの日は、なぜかその言葉の意味がわからなかった。
 けれど今、春斗と二人きりで食卓を囲み、
 彼の成長を見守るうちに、ふとわかった気がした。

 

 「大切なもの」とは、
 ――朝の「いってきます」、帰宅したときの「おかえり」
 ――ささやかな食卓、笑い声、ちょっとした手紙やメモ
 ――困っているとき、誰かが差し出すやさしさ

 

 夫がいなくなったことで、私はずっと一人でがんばらなければと自分を追い詰めてきた。
 けれど、実際は違った。
 私は、団地の人たち、友だち、見知らぬ誰かのあたたかさに、
 たくさん支えられていた。

 

 そして、春斗――
 この子は、時に私よりずっとやさしい心を持っている。

 

 彼は、自分がつらいときでも人にやさしくできる子だ。
 落ち込んだ友だちの背中をそっと押したり、
 迷子の子に声をかけたり、
 私の帰りが遅い夜も、一人でごはんを食べて「だいじょうぶ」と笑ってくれる。

 

 そんな春斗の姿を見るたび、私は
 (夫のやさしさが、この子のなかにもちゃんと流れているんだ)
 と感じる。

 

 退院したあの日――
 家に戻ると、春斗と団地の子たち、町内会のみんなが「おかえりなさい」と迎えてくれた。
 手作りの折り紙の花束、「ありがとう」の手紙。
 あふれる涙をぬぐいながら、私はみんなに頭を下げた。

 

「春斗、よくがんばったね」

 私は彼の頭をそっと撫でた。

「うん、みんなが助けてくれたから……」

 

 夜、春斗が「お母さんに見てほしいものがある」と言って
 机の引き出しから何枚ものメモや手紙を持ってきた。

 

「これ、僕のお守りなんだ」

 そこには、私の知らない字も混じっていた。
 でも、どれもやさしい言葉だった。

「困っている人にやさしくした人には、きっといいことが起きる」
「だいじょうぶ、きみはきみのままでいい」
「今日もありがとう。きみのやさしさは、みんなの元気になるよ」

 

 私が驚いたのは、その中に――
 夫が昔よく書いていた、あの独特の丸い字が混じっていたことだ。

 

「お母さん、この字、もしかして……」

「そう、きっとお父さんの字よ。
 きっと、どこかであなたを見守っているんだと思う」

 春斗は涙ぐみながらも、まっすぐにうなずいた。

 

 私は、過去の自分にそっと伝えたい。

 

 「やさしさは、受け取ってもいいんだよ」
 「ひとりでがんばらなくていいんだよ」
 「誰かが差し出す手を、迷わずつかんでいいんだよ」

 

 家族という形は、時には壊れることもある。
 でも――
 「やさしさの記憶」は、きっと誰かの心に受け継がれていく。

 

 私は、今日も朝の光の中で、
 小さなメモを春斗のために書く。

 

「いってらっしゃい、春斗。
 きみのやさしさは、世界にきっと届いているよ」

 

 そう思いながら、私はまた新しい一日を始める。
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