【完結】不可説不可説転 〜ツミツグナイセイトシ~

羽瀬川璃紗

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武山千絵 ※自然災害、流血表現あり

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※※注意※※
※※地震と津波の描写が出てきます※※



「あら、女の子だったの」

 母はそう言い、ベビーベッドで眠る娘を眺めた。

「あんたの亭主に似て、眉毛濃くて可哀想」

 母は、いつも余計な一言を言う。私は辺りを伺い、義母の姿がないか確認した。
 母は吐き捨てるように言った。

「居やしないでしょ? 八百屋なんて、定年も無く死ぬまで馬車馬みたいに働かないと、いけないんだから。あの年でも働いててバカみたい」

 母は偏見に満ちた意見を言うと、娘に笑いかけた。

「あなたはお母さんと違って、あたしみたいに公務員と結婚して、安泰な老後を過ごしなさいねー」

 母はお茶に口をつけると、顔を歪ませた。

「ぬるいお茶だね。こっちの家ではこういう淹れ方するの? 新しいのにして。沸かしたての!」

「…はい」

 台所で、急いで新しい湯を沸かす。湯をポットに入れ持っていくと、母の姿は無くなっていた。

(帰った?トイレ?)

 ふとベビーベッドを見ると、生後3か月の娘の姿も消えていた。

「…百花?!」



 目を覚ますと、自分は布団の中だった。夢と分かり、武山千絵たけやまちえは息をついた。

(久しぶりにあの夢、見た)

 千絵の人生で、1番最悪な日の夢だった。

 幼い頃から自分を蔑んできた母親の元から逃げ、夫と出会い生まれた我が子を、やって来た母親が連れ去った。
 娘はその後すぐに見つかったが、見つかるまでは殺されたとばかり思っていた。

 何せ自分は『母親の了承を得ない相手と結婚』したのだから。


 取りあえず水を飲もうと階下へ行くと、台所は明かりが点いていた。
 そこには携帯を弄りながら、台所のストーブの前で立ったままおにぎりを食べる、娘:百花が居た。

「ああ、おはよう。どうしたの? こんな時間に」

「何か喉乾いてね。今から出るの?」


 あの時攫われた娘は、今や千絵の身長をも超え立派に成長し、大学を出てからは夫と共に家業に勤しんでいる。
 同じ時間に始まる競りに行く夫は、まだ寝ているのに、百花は随分と早く起きている。

「ううん。父さんはギリギリまで寝ててもいいけど、あたしは化粧とかしないとお外歩けないから、そのぶん早く起きてるだけよ」

 百花はケラケラ笑った。


 千絵はその時の『連れ去り』事件で、心に深い傷を負った。また攫われるのではと神経過敏になり、夜中に何度も目覚めたり、百花が幼稚園に入ると空手道を習わせたり。
 極めつけは『次は守れない』かもしれないから、百花の守りに集中するべく、一人っ子にした。

 周囲は『過保護だね』と苦笑する人も居たが、母の異常さを知る人は『それぐらいしないとまずい。あの人は異常だもの』と同情してくれた。

 だがその一方で、千絵には迷いもあった。
 実の親なのに、敬う事も庇護もしない自分。母は親として最低だが、自分も子供として最低だと思うのである。


 千絵は勿論、子供の頃は自分の母のやる事が当たり前だと思っていた。体罰は当たり前にある時代だったし、裕福じゃないから物を沢山買って貰える訳でもない。

 だが成長するにつれて、周囲の状況や友人との会話などで、千絵の考える『日常』が世間とずれている事に、嫌でも気づくようになったのだ。

 気づいたとしても、千絵には変える事は出来なかった。ささやかな抵抗は倍返しされるので、いつしか抵抗自体を諦めるようになった。

 そんな千絵の人生を変えるきっかけは、1つ下の弟の家出だった。


 ある夜。神妙な顔をした弟が、千絵に言った。

「俺は明日、この家を出てあの母親を捨てる」

 弟は母の自分勝手な意見で、将来の夢を反故にされた。

「姉貴もそうした方がいい。子供は親を選べないけど、捨てる事は出来るんだよ」

 2年後に弟は若くして事故死したが、その死に顔はとても晴れ晴れとしていた。

『若くして死んだけど、自由を満喫出来たから、悔いは無い』

 そう言ってるように見えた。心を殺して生きるか、自由に生きるか。どうせいつか死ぬなら、自由を知りたい。

 千絵は、初七日を待たず家を飛び出した。


 全てを自分で決断し生きる事は簡単で無かったが、苦ではなかった。生の喜びを感じられたし、全ての経験が新しかった。

 人生で初めて、付き合う友達も仕事も、夕食でさえも自分の意志で決めれたし、恋をする事も出来た。
 相手の両親に会った時は、他人の自分にこんなに良くしてくれる人間がいるものなのか、と感動したものだ。

 でも、神は自由を謳歌し、母親を無かった事にしようとする自分を許さなかったのか。


 母:むつ子を介護するようになり、10年近くが経とうとしている。


 元々の家は仙台市の山沿い側だったが、千絵の居場所を掴んだむつ子の意向で、青果店から程近い太平洋側に面した条水じょうすい区へ、執念の転居をした。

 お蔭で当時定年間際だった父は、通勤時間が40分も増えたが、自分以外の他者の事などむつ子はお構いなしだ。


 高血圧が祟り、約10年前にくも膜下出血を起こしたむつ子は、本人の意向で敢えて独居である。
 ケアマネージャーなどから再三にわたり『施設』を勧められたが、『介護は自宅で娘がやるもの』という姿勢を崩さない。

 最近、ようやくデイサービスに行くようになったが、それでも基本は娘に介護させるという謎の意地みたいなものが、垣間見える。


「こんにちはー」

 千絵が声を掛けるも、むつ子はベッドの上でテレビを見るだけで、返事もしない。

(まだ昨夜の事で怒ってる…)

 昨晩、むつ子の夕食に魚のフライを作ったが、ウスターソースを切らしていた。それが未だお気に召さないらしい。
 この母親を前にすると、どんなクレーマーも反抗期の子供でも、可愛く見えるから不思議だ。


 昼食を乗せていたトレイには、わざと残飯を詰めて放置したコップが乗っていた。
 千絵は何も言わずにトレイごと回収し、中身を捨てる。むつ子が横目で見て言う。

「…親がご飯を残してるのに、あんたは何も言わないんだね?」

「食べたくなかったんでしょ? 具合悪い人はこういう事はしないもの」

「ハッ!! 親に向かって何て口の利き方だ」

 むつ子は吐き捨てるように呟く。我ながら確かにそうだな、と心で苦笑する。


 今は握力も弱くなってきたので、物を投げつけてくるような事も無くなった。
 日頃動けないストレスを、千絵にぶつけて発散しているその様は、哀れ以外の何物でもない。そう考えると、無心で介護できるようになった。


 何を言ってものらりくらり返答する千絵に、むつ子はまた1人で沸騰する。

「情けないねえ、実の娘にこんな扱いを受けるなんて…! 徳田が来たら虐待されたって言うからね!!」


 勿論、民生委員徳田はむつ子が被害妄想でものを言う事も、良く知っている。
 千絵は洗い物の手を止めずに言った。

「あー、そうですかぁ」


 あと何年、こういうやり取りを繰り返すのかは分からない。
 むつ子には『人に感謝する』という観念が最初から欠如しているので、今更感謝が欲しいとか報われたいとか、そういう気持ちは湧かない。

 最後の日が来るまで、千絵は毎日同じ事を繰り返すだけだ。


 洗って拭いた食器をしまおうとした時、千絵は棚の中のガラスのコップが震える音を聞いた。

(振動してる?)

 小さな振動は、ガタンと大きくなった。

「やだ、地震だね」

 千絵はむつ子に声を掛けながら、台所を後にした。すると千絵はそのまま、むつ子の部屋の入口で転んでしまった。

(え?どうしたの、私)

 転んだのではない。有り得ない大きさの地震の揺れで、立っていられなくなったのだ。

「何だよ! これ! 何なんだ!!」

 ベッドの上でむつ子が喚くも、揺れは収まらない。

「あああ!!」

 テレビは勝手に飛び出し、電話も吹き飛び、タンスや棚は中身が出てから順番に倒れ伏す。

「ちょっと千絵!! ああー!」

 むつ子はベッドから放り出されたが、助けに行きたくても、千絵には外れた襖が倒れ掛かる。

「…痛っ! 母さん!!」

 家が倒壊するんじゃないかという長い揺れに、千絵はひたすら頭を抱えていた。

 どれ位時が経ったか。もうもうと埃が立ち込める中、千絵は襖を押し退け立ち上がった。

「お母さん…! 何処?」

 むつ子の部屋は家具が倒れ、生活用品がぶちまけられ、見る影もない程になっていた。
 部屋の何処からか、むつ子の呻き声が漏れてくる。

「大丈夫?! いま行くから!」

 自力であまり移動出来ないむつ子は、貴重品や生活必需品の全てを、自分の部屋に置いていた。
 手や目の届く範囲に何でも置くので、平常時でさえ物が多くごちゃごちゃしている。

(もう!物が多くて進めない…!)

 目の前に倒れるタンスの上に乗ると、タンスの裏側の板は音を立てて凹んだ。

(後で怒られるかな。そんなの構っていられない)

「母さん!!」

 ベッドからずり落ちたむつ子は、落ちてきた額縁の下敷きになっていた。
 額縁は昔、何かで貰った木目込み細工の絵画で、かなりの重さだった。千絵は埃まみれになりながら、片足を倒れたタンスの上に置いて持ち上げる。

「今どかすから!」

 額縁をどかして現れたむつ子は、首から上が血まみれだった。

「ううー…うー-」

 むつ子は額に額縁が直撃したらしく、生え際から右眉の辺りにかけてパックリと裂けていた。

「血を…」

 大量の本の下敷きになっているベッドから、タオルケットを取ろうとするが、重くて取れない。

「早く、早く…」

 むつ子が呻くが、タオルケットは無理そうなので、傍らに落ちていた布巾を当てがった。
 その間にも、大きな余震。

(この家、築30年以上だったっけ…)


 避難しようにも、むつ子は右半身が不自由で歩行が出来ない。ベッドの傍に置いている車いすは、倒れた物の下敷きになっている。
 無論、車いすを出してむつ子を乗せても、こんなに物が沢山落ちていては、動かせるだろうか。


「母さん、取りあえず外に出よう!」

 千絵はそう言ったが、むつ子はうずくまったまま、動こうとしない。

「あんたはケガしてないからそう言うんだよ!! 痛いー、痛いー!」

 むつ子は喚く。

「お医者さんに診てもらおう? だから、頑張って!」

 千絵は手を掴んだが、振り払われた。

 そもそも、千絵1人で物が散乱するこの場所から、半身麻痺の老人を連れて行ける訳がない。電話して夫か百花に来てもらおうとしたが、携帯電話は繋がらない。

 外からは、けたたましいサイレンや警報音が鳴り始めた。


 ここが千絵の自宅ならば、地震から数分と経たずにご近所さんが様子を見に来ただろう。だが、むつ子は近隣から『関わらない方がいい人』と疎まれていた。
 その証拠にあの巨大な揺れからだいぶ経つのに、誰も安否確認に来ない。


(つまり、私1人でこの母親を何とかしないといけないのか)

 これ程に、母親の立ち振る舞いに悩んだ事があっただろうか。
 下敷きになっている車椅子を出そうと、倒れた棚や物を自力で動かしていると、何者かが玄関口で叫んだ。

「津波来るぞ! 早く逃げて!!」

 近隣住民だろうか。人物は各戸に手当たり次第に声を掛け、走り去る。

 思わず手を止め窓の外を見たが、普段と同じ風景が広がるだけ。
 血に染まる布巾をあてがいながら、むつ子は吐き捨てるように言った。

「きっと火事場泥棒だよ。居なくなった家から、物を盗る為に言って回ってんだ。聞いちゃダメだって」

「でも、地震長かったよ? ここ海から近いし、危ないんじゃない?」


 昔、親戚が『揺れてる時間の長い地震は津波を呼ぶ』と言っていた。むつ子の家は海から1キロもない。

 せめて2階に行った方がいいのでは。でもむつ子は、首を横に振る。

「津波なんか来ないって! 何だい、あたしを置いていく気かい?!」

「そんな事言ってないよ」

 喚くむつ子をなだめる千絵の耳に、妙な音が届いた。

「ちょっと母さん、変な音するよ」

「うるさいねえ! 早く診察券も見つけて、医者に連れて行ってよ!!」

 解体工事で出るような、メリメリバリバリという騒音がする。

(いや、変だよ!)

 千絵は窓越しに、隣家がこちらへ移動しているのを見た。

(何で動いてるの?)

 目の端が、廊下の床を何かが移動するのを捉えた。それは透明で、廊下の埃やゴミを表面に浮かべていた。

(まさかこれが、津波…?)

 一瞬の事に立ち尽くす千絵の腕を、何者かが強く掴んだ。むつ子だ。

「あんたまさか逃げるつもりじゃあ、ないよね?」

 どこにそんな力があるのか、掴む力は強くなる。千絵はむつ子の言葉に、耳を疑った。

「一緒に死ななきゃね」

 家が崩壊する音がした時、むつ子の声がやけにはっきり聞こえた。

「あんたはあの世でも、あたしの世話をしないといけないんだから」

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