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26 傷
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その光景が目に入ったのは、まったくの偶然だった。
侵攻拠点である野営地やその周囲を歩き回り、辺りの様子を確認して、地図と見比べて、気になった点を地図に書き加える。
いつもの遠征時と同じように、黙々それを繰り返していた時だった。
平時とは違う喧騒の気配を感じ、そちらへ足を向けたのだ。
遠征時の野営地では、みな気が昂っていたり逆に疲労していたりで、ほんのちょっとのことで揉め事が起こりやすい。
大抵は誰かが仲裁に入り、大ごとになる前に収まるのだが、稀にその後の遠征計画に支障をきたすような事態に発展することがある。
騏驥同士の諍いでどちらかが傷ついたり、というのはわかりやすい事象だが、それ以外でも、小さな喧嘩が元で、上手く統率が取れなくなってしまうこともある。
遺恨を残したまま一緒に過ごすことで恨みが増し、いざと言うときに仲間を裏切るような真似を——又はそこまで大袈裟ではなくとも、命令に背くような真似をする者が出てこないとも限らないのだ。
そんなことがあっては困る、とリィは人が集まっている方へ足早に向かう。
やはり何か起こっているようだ。
リィ自身は人付き合いが良い方ではないし、仲裁が得意というわけでもない。
ただ、騎士であるリィが間に入り、その場を治めようとすれば、歩兵や騎兵といった一般の兵たちはひとまず落ち着く。
それだけでも違うのだ。
(騏驥同士の揉め事でなければいいが……)
胸を、一抹の不安がよぎる。
その場合、リィが一番気になるのは、当然自らの騏驥のことである。
以前も他の騏驥と騒ぎを起こしたことがあるのだ。
医師による体調検査・確認の後は厩舎に戻るはずだが、あの騏驥が大人しく言うことを聞いているだろうか……?
打ち消しても打ち消しても不安が沸き起こるの感じつつ、しかし、いやさすがにそれは心配のしすぎだろう、と思い直しつつ、人が集まっているところへ近づいた時。
「!?」
(ルーラン! と、あれは——)
まさにその騏驥がいたことに、そしてその騏驥に向けて今この瞬間、鞭が振り下ろされようとしていることに、リィは驚愕する。
「ルーラン!」
思わず叫び、人をかき分けて彼のもとへ向かった。
何が起こっている?
どうして彼があの男に——王城で自分を中傷してきたあの男に鞭打たれようとしているのか。
私の騏驥が。
私の騏驥が——。
リィの声に気づいたルーランが驚いたようにこちらを見る。
「お前、いったい何が——」
事情の説明を求めるように、急いで駆け寄った時。
いったん手を止めていた男が、再びルーランを鞭打とうとするように腕を振り上げるのが見えた。
こっちを見ていたせいで、ルーランの反応が遅れる。
「っ——!」
リィはとっさに、ルーランを庇うように手を差し伸ばしていた。
次の瞬間。
バシィッ!
鞭が激しく打ち付けられる音が届き、リィはぎゅっと身を竦ませた。
肉を打つその音は、何度も聞いても慣れない。
だが。
想像していた痛みはない。
いや——それより。
自分はどうなっている?
どうして自分の身体はこんなに窮屈なのだ。
どうしてこんなに温かい?
まるで誰かに抱きしめられているみたい……に……。
……………………。
「!?」
何が起こっているのかわからず、リィが混乱しかけた時。
「リィ!?」
ルーランの、狼狽えたような上ずったような、滅多に聞かない声がすぐ近くから響く。
かと思うと、ふっと身体が自由になり、かわりに彼に腕を取られた。
素早く、けれど丁寧に。右、左。次いで袖をめくり上げられ、また右、左。さらには手を。
「……よかった……」
そして聞こえてきたのは、心から安堵したような、長い息混じりの彼の声だ。
(何が起こった?)
リィは困惑に目を瞬かせる。
自分に一体何が?
しかしその時、そんなリィの目に、血の滲んだルーランの肩が映る。
「! お前……っ……!」
即座に理解した。
ルーランはリィを庇ってくれたのだ。
自分は彼に庇われたのだ。
男が振り下ろした鞭から。
あの、酷い痛みと打たれる屈辱をもたらす凶器から。
それも、身体を身体で包むように。
リィがほんの僅かの危険にも晒されないように。
抱きしめられた気がしたのは「気がした」のではなく、彼に抱きしめられたのだ。護られたのだ。
彼はリィを護ってくれた。
だがその代わりに、彼は——。
「……っ、大丈夫なのか!? 痛みは——」
リィは彼の腕を掴んで揺さぶりたい思いを堪えて尋ねる。ルーランは「大丈夫だよ」と笑った。
「見た目ほど酷くない。怪我のうちにも入らないって」
ルーランは軽口のように言うが、リィは目の前が真っ暗になる気がした。
この騏驥は、戦闘の時ですらほとんど怪我を負うことがない。
その天性の柔軟性と荒々しさで周囲の全てを蹴散らしながら、信じられないほどの身体能力の高さで、敵の人馬からのあらゆる攻撃を巧みに避けていた。
怪我らしい怪我を負うことなど一度もなかったのだ。
なのに。
(私を……庇ったせいで……っ)
そう思った時、自分はどんな顔をしたのだろう?
リィにはわからない。
けれどルーランはひどく狼狽えた様子で、「大丈夫だから! ぜんぜん大丈夫だから!」と繰り返す。
「騏驥なんだから、これぐらいなんてことないって」
だがそんな風に言いながら大きく腕を動かした時。
痛んだのだろう。瞬間、ルーランの顔がぎゅっと歪む。
「ルーラン!」
刹那、リィは悲鳴のような声を上げていた。
自分が打たれたよりも痛い気がして、目の奥が熱くなる。
縋るように彼のもう一方の腕を掴むと、ルーランが驚いたようにリィを見る。
「医師に……医師に診てもらえ……絶対だ」
リィは辛うじてそれだけを言うと、唇を噛み、ルーランを打った男に向き直った。
怒りと憤りで目の前が赤くなるようだ。
全身が震える。
(私の騏驥を。私の騏驥を。私の騏驥を——)
よくも私の騏驥を。
「……どういうことか、ご説明いただきたい」
今まで聞いたことのない、自分の声がした。
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