きみよ奇跡の意味を知れ 【本編完結・番外プチ連載5/14完結】

桜以和果

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36 悲劇 【注意】「残酷な描写あり」に該当するシーンがあります 

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【注意】「残酷な描写あり」に該当するシーンがあります。 






 そうして始まった撤退だが、決断の遅さが影響しているのか、なかなか思うようにはいかなかった。
 リィたちは、騎兵たちと連携してなんとか攻撃を凌ごうと試みてはいるが、敵はこちらが退却する場合のことも想定していたようだ。
 ここで大きな打撃を与えることで、こちらの侵攻の意志を挫こうというのか、さらに兵を増やし、無茶とも思える強引さで畳みかけてくる。
 蹴散らしても蹴散らしても湧いてくる敵に、こちらの気力も削られていく。

 しかも実のところ騏驥は攻撃には向いていても防御には向いていない。
「攻撃が最大の防御」という戦い方のため、「線」で守ることが出来ないのだ。
 だから退路確保の最終防衛線は騎兵たちに委ねることになる。
 騎士と騏驥の仕事は、とにかく向かってくる敵をより多く潰し、なるべく騎兵の負担を軽くすることだ。

 だが騎兵たちの機動力を削ごうとしてか、再び火を用いた攻撃も加えられ、その勢いに、リィたちも応戦が手いっぱいになりかけてしまう。
 焦りが焦りを生み、周囲は一層の緊迫感に包まれる。
 その時だった。

「ひぃいいっっ!」

 火災と交戦、そして退却の混乱とで騒然とする人馬たちの中から、不意に、一際大きな叫び声が聞こえた。
 リィが思わずそちらに目を向けると、手綱を強く引かれた騏驥が、大きくバランスを崩すのが見えた。
 騎乗しているのは、あの男だ。
 
 王城でリィを侮辱し、野営地でルーランを打った、あの男。
 ——ゾイエだった。

<なんだ!? あの、ド下手クソ>

 同じく気付いたルーランが、軽蔑を隠しもせずにそう言った瞬間。

「あ、あっ――――うわ、うわあァあっ――!」

 更に大きな悲鳴が響き、どう、と騏驥の巨体が倒れ伏す音が地を揺らす。
 その傍らに、ゾイエもドサリと転がり落ちた。
 落馬した彼は、土埃にまみれ、痛みのためかヒィヒィと情けない声を上げている。しかしそれ以上に騏驥が酷い様子だった。
 強引な騎乗をされた上に、男を庇おうとして上手く受け身が取れなかったのか、左後脚が妙な方向に曲がっている。間違いなく重度の骨折だ。
 起きようとしても起き上がれず、のたうち回っている姿は、見ているだけでその痛みが伝わってくるほどだ。

 皆、早く何とかしてやりたいと思っているのだろうか、交戦中の上、ただでさえ馬よりも大きな騏驥が暴れている状況のため、誰も近づけない。
 魔術の込められた頭絡が外れていれば人の姿に戻ることも出来るのだが、ゾイエは地面に座り込んだまま「痛い、痛い」と喚いているだけで、騏驥に近づこうともしていない。
 おそらく、彼も近づくのが恐いのだろう。

 ルーランが舌打ちした。

<リィ! なんとかしてやれないのかよ! あれじゃあんまりだ!>

 苛立っているような怒っているような声をあげる。
 普段は他の騏驥のことなど気にもしていない彼だが、さすがに目に余ったのだろう。

 リィも、なんとかしてやりたいとは思うものの、今は敵の騎馬数騎と交戦中だ。
 引けば攻め込まれるのは目に見えているし、とてもではないが、下馬してあの騏驥に近づき、頭絡を外してやるほどの余裕はない。

 敵の攻撃を弾き返す合間に度々ゾイエを見やるが、彼は混乱の中を這いずるようにして右往左往しながら、「早く代わりの騏驥を連れてこい!」と叫ぶばかりだ。
 顔がどす黒くなっているのは、泥と、落馬の痛みと恐怖、そして恥をかかされたという思いのためだろう。
 敵と戦っていた様子ではないから、おそらく他の兵たちと共に撤退していた途中だったに違いない。

(どうすれば……)

 リィは唇を噛んだ。
 医師か、せめて魔術の使える助手でもいればなんとかできるだろうに、と辺りを見やるが、見える範囲にはいない。
 更なる混乱を引き起こさぬようにするためにも、少しでも早く騏驥を助けたい。
 とはいえ、押し寄せてくる敵を放り出して救助に赴くわけにもいかない。リィが眉を寄せかけたとき。

「サイ!」

 どこからともなく声がしたかと思うと、一人の女性が風のように素早く、兵や馬たちの間をすり抜けていくのが目に映った。
 そしてあっという間に、痛みに藻掻いている騏驥の傍らに跪く。
 ルシーだった。

 今は人の姿をしている彼女は、用心しながらも毅然とした表情で騏驥に——ゾイエが騎乗していた、騏驥に手を伸ばすと、暴れる騏驥を宥めるように優しく声をかけながら、その身体に触れる。

「大丈夫――。大丈夫よサイ。大丈夫だからじっとして……」

 仲間の穏やかな声と、手の温かさに安堵を覚えたのだろうか。
 苦痛に暴れていた騏驥の動きが、徐々に静かになる。フーフーと荒く乱れていた息も段々と治まっていく。
 頃合いを見て、ルシーは騏驥の頭絡を外してやる。
 ほどなくそれは、一人の女性の姿に変わった。ルシーが大きな布をかけてやる。だが、見えた脚はやはり酷く折れているようだ。
 身を縮こまらせ、そこを抱えるようにして呻いている。
 
 とはいえ、人の姿なら他の兵や救護の者たちも近づけるだろう。
 どこかへ運ぶにも運びやすいし、治療もやりやすいに違いない。
 そんな騏驥の体を隠してやるようにしながら、ルシーがその背を気遣わしげに何度も撫でてやっている様子が見える。

(よかった)

 リィもいくらか安堵し、改めて応戦に本腰を入れ直しかけた、そのときだった。

「お前でいい! さっさと馬になれ!」 
「あっ——!」

 ひび割れた胴間声がしたかと思うと、ルシーの高い悲鳴が聞こえた。
 驚いて振り返ると、目を疑うような光景が飛び込んできた。

 さっきまで呻いていただけのゾイエが、ルシーの背に馬乗りになっていたのだ。
 彼女の顔を見て以前会った騏驥だと思い出したのだろうか。それとも首の「輪」で、それに気付いたのだろうか。
 しかも、ゾイエの手には、さっきルシーがサイから外した頭絡がある。

「っ……この! さっさと馬になれ! 早くしろ! この役立たずが!」

 ゾイエは、ルシーに無理に頭絡をつけようとするが、馬と人とでは口元の形状が違う上、興奮しすぎているせいで手元がおぼつかず、結果、それは猿轡のようにただただルシーを苦しめるだけになっている。
 その上、無理矢理嵌めようとしたせいで一部が彼女の首に絡まり、ゾイエが背の上で暴れるたび、ルシーはその重さに苦しむだけでなく、首を絞められ、喉を反らしては無惨にもグボグボと激しく噎せ返らされていた。

<おい! アイツなにやってんだ!!!>

「ゾイエ殿!」

 ルーランが憤怒の声を上げると同時、リィもその悲惨な光景に、堪らず叫び声を上げた。

 完全に無防備だったところを、いきなり突き飛ばされ、自由を奪われた格好のルシーは、口元と首に絡む手綱で強引に仰け反らされ、呼吸もままならない状態だ。
 なんとか逃れようと必死に頭を振り、喉元を掻きむしり、無残な姿で幾度も四肢をばたつかせている。
 恐慌と混乱のただ中にいる彼女が、すぐさま馬の姿に変われるわけもないことは一目瞭然だ。

 だが、ゾイエは早くこの場から逃げ出したい一心と、恐怖で興奮しているからだろう。
「早くしろ!」「さっさとしろ!」「この馬が!」と、辺りに響き渡るほどの大声で口汚く怒鳴り散らし、手綱を無理に引っ張ってはルシーを苦しめるばかりだ。

<っ……あの野郎……っ! なにしてやがる!>

 ルーランにはその様子がリィよりもよく見え、聞こえてしまうのだろう。
 怒りの籠った呻り声を上げると、憤りも露わに今にも彼らのもとへ行こうという勢いを見せる。
 グッと馬銜ハミを取られ、慌ててリィは手綱をしっかりと持ち直した。

「落ち着け、ルーラン!」

<ふざけんな! 落ち着いてられるわけないだろうが!>

「今ここから離れるのは無理だ!」

<けどルシーが!>

「ここの敵をなんとかするのが先だ!」

 ルーランは居ても立ってもいられない、というように叫んでは何度も身を捩り、なんとかしてルシーの側へ行こうと暴れる。
 それをなんとか宥めながら、リィは唇を噛んだ。
 リィだって、本当はすぐにあの男の——ゾイエの暴挙を止めたい。彼らの間に割って入りたい。
 だが今は無理だ。再び火を使った攻撃をされ、騎兵たちの防衛線が大きく乱れている。敵の騎馬が一気に押し寄せてきている。

 敵の馬も火を恐れるはずなのにどうして、と訝しく思ってよく見てみれば、突っ込んでくる馬たちは全て目隠しをされている。この攻撃のために特化された馬たちた。
 羅々国側はそこまで準備して攻撃を仕掛けてきた。
 だがその原因を調べるのはを後だ。
 今は撤退を決めたタン連隊長の指示に従い、なるべく多くの味方を無事に引かせなければらない。そのためには、ここを崩されるわけにはいかないのだ。
 死守しなければならない。

<けど……!>

「敵が先だ!」

 まだ何か言いかけたルーランの声を遮るように声を荒らげると、掴んでいた手綱を強く引っ張り、口向きを強引に敵へ向ける。
 ルーランはそれでも抵抗するように幾度も首を振って暴れるが、手綱と鞭で無理矢理に敵に向かわせると、彼は諦めたように再び闘い始める。
 だがそうしていても、気持ちはルシーたちの方に行っているようだ。
 そのせいで、彼らしくもなくふっと隙を作るから、そのたび、リィは危うい思いをしていた。

「っ——ルーラン……っ!」

 背後から突き出された槍を間一髪交わすと、リィは「しっかりしろ!」と鞍下を叱責するように腹に脚を入れる。

 いつもなら——普段なら五、六頭の騎馬兵に囲まれたところで、ルーランならわけなく蹴散らせていた。圧倒していた。
 それが今は、焦っているからか急げば急ぐほど敵を捌くことに手間取ってしまい、結果、自ら形勢を悪くしてしまっている。

<っ……クソッ……なんで——>

 ルーランの苛立ちが、リィには痛いほど伝わってきていた。
 こうしている間も、時折ゾイエの半狂乱の叫び声が聞こえてくるのだ。
 今まさに人馬入り乱れての交戦真っ最中の戦地には全くそぐわない、騏驥を罵倒する金切り声が。

 たびたび遠征に出てあちこちの戦場に駆り出されていたリィと違い、彼は騎士となって以降も、そのほとんどの期間を王都で過ごしていた。
 有り体に言えば、名ばかりの騎士。
 家名と金銭の後押しで騎士の箔を得た男。
 騏驥の騎乗訓練や調教にすすんで乗ることもなく、今回の遠征だって、決して望んだものではなかっただろう。
 もしくは、「成望国側が絶対に有利な、危険など全くない遠征」だとでも勘違いして加わったに違いない。
 戦時に「絶対」などないのに、「王都にばかりいる騎士」という悪名をなんとか拭い去るために。

 そんな男に——そんな男のエゴで騏驥が痛めつけられていると思うと、リィも不愉快で堪らない。

 騏驥は兵器。
 リィもそう思っているけれど、だからといって好き勝手に扱っていい訳ではないのだ。強大な力を持つ兵器だからこそ、騎士はその能力を最大限引き出せるように尽力すべきなのだ。それが騎士の務めではないのか。
 主従関係の徹底のため、一線を引き、厳しく接する必要はあれど、あれはただの虐待だ。
 
 それも、自身の身の安全を図るため——より速やかに安全に自分が逃げ出すため——とは!
 
 せめて少しでも早くルシーたちのもとへ、と、ルーランの鞍上、片手綱の不安定さもものともせず、リィも剣を振るう。
 だが、戦況は好転せず、ルーランだけでなくリィも一層焦りが増し始めたとき。

「さっさとしろぉぉォぉ——!!」

 剣のぶつかる音や戦馬たちの蹄の音が満ちる中、場違いなほどの、一際ヒステリックな叫び声が響き渡った。
 驚いて思わず目を向ければ、小柄なルシーの背に馬乗りになったままのゾイエが、持っていた鞭を勢いよく振り上げるのが見える。
 まさかと思う間もなく、それは無抵抗なルシーに容赦なく振り下ろされた。

「ッガ! グァ……ッ——!」

 首を絞められたままの彼女の唇から、くぐもった苦しげな、聞いたことがない獣のような声が迸った。
 それでも姿を変えない——変えられないルシーに、ゾイエはますます癇癪を起こしたのだろう。

「さっさと変われぇぇぇ! この馬が! 馬が! 馬がぁぁぁあ!!」

 聞くに堪えない叫び声を上げながら、二度、三度、四度、と続けざまに鞭で殴打する。

「ッグ! グ……ェッ! ヒグッ——! アガッ! ィ……ヒァガァッ——!」

 その度、ルシーは痛みと苦しさにのたうちまわり、喉からは悲痛な呻き声が上がる。
 目を背けたくなる光景に、リィは敵のことも忘れて制止を求める声を上げる。
 だが、喉が割れるかと思うほどの声量で上げたその叫びも、戦いの喧噪に紛れて届かないのか、それとも届いていても聞く気などないのか、執拗な鞭の音は止まず、そのたび、ルシーの苦しみを訴える呻き声が続く。

<ふざ……ふざけんな! あのクソ野郎——!>

 怒りと殺意を隠そうともせず荒れ狂うルーランは、交戦している敵を放りだしてルシーのもとへ向かおうとする。
 鞍下から伝わってくる憤怒の気配は、かつて感じたことがないぐらいだ。
 乗っていて恐怖を感じるほどで、リィは手綱を持つ自分の手が震えていることに気づく。

<どけ! 邪魔だ!>

「ルーラン! ダメだ!」

 怒鳴り声を上げながら、ルーランは味方をも弾き飛ばして行こうとする。
 リィは慌ててその手綱を強く引いた。

「駄目だ! 今ここを離れたら——」

<まだそんな事言うのかよ!? 早く行かないとルシーが——>

「駄目だ!」

 抵抗して激しく首を振って暴れるルーランをなんとか止めようと、リィは力一杯、手綱を引っ張る。
 彼の気持ちは嫌というほどわかる。
 けれど今この状況で騏驥が一頭前線から引いてしまえば、どうなるかは火を見るより明らかだ。
 ものの数秒で撤退中の味方まで戦闘に飲み込まれるだろう。戦う態勢を整えていない兵馬たちが、一方的に蹂躙される状況に陥ってしまう。
 だが、そうしている間もルシーを罵倒する声は続き、鞭打つ音は更に続き、なのに悲鳴は次第に弱くなり、肉が裂ける鈍い音が届く。

<やめろ!>

 ルーランが半狂乱で叫ぶ。
 だがその悲鳴のような声は、リィにしか届かない。

<やめろ! やめてくれ! リィ! アイツを止めてくれよ!>

 泣き叫ぶような懇願の声は、彼のそれとは思えないほどだ。
 手がつけられないほどに頭を振り、全身で鞍上の指示に抵抗し、ルシーの側へ行こうとしている。
 リィも、せめてゾイエの暴挙を止めようと幾度も彼に向けて叫ぶのだが、鞭の音は止まらない。
 
 だが、あるとき。
 その音が、ふっと止む。

 はっと見てみれば、動かなくなったルシーの上からのそりと降りるゾイエの姿が目に入った。

「この、役立たずが」

 そして捨て台詞とともに、駄目押しのように一発、ことさら酷く打ち据える。 
 次いで、もうぴくりともしなくなったルシーの身体を足蹴にした、その瞬間——。

<————!>

 鞍下から轟いた獣の咆哮に、リィは戦慄した。

「——っ!!」

 次の瞬間。
 リィが駄目だ、と思う間もなく、ルーランがゾイエへと突っ込んでいく。
 殺す気だ、と直感した。

「ルーラン!」

 止めようと手綱を引くが、ルーランは足を緩めない。
 制御できなくなったことよりも、その結果が招いてしまう最悪の事態を想像し、リィは悲鳴を上げた。

「ダメだ、ルーラン! 止めろ! 駄目だ!!」

 騏驥が騎士に対して怪我を負わせたなら、どんな処分を言い渡されるかわからない。
 ここで——こんなことでこの騏驥を殺させるわけにはいかないのに。
 あんな男のせいで——あんな男のせいで。

「ルーラン! 止まれ!」

 我慢してくれ、とリィは叫ぶが、取り憑かれたように駆けるルーランからは、停止の気配は微塵も感じられない。
 伝わってくるのは、怒り、憤り、悲しみ、殺意——そんな禍々しくも哀しい感情ばかりだ。
 ほんの数日前にルシーと知り合ったリィですら、あの光景に憤りを覚えたほどなのだ。昔からの知り合いだという彼が半狂乱になるのも当然だ。
 それでも——だからこそ、彼が処分されることだけは避けなければならない。
 
 リィは覚悟を決めると、持っていた鞭ごと手綱を強く握りなおす。
 直後、最後の手段とばかりにそこに魔術を込め、思い切り引っ張った。

<ぐァッ――!>

 ルーランが呻き、その歩がぐらりと揺らぐ。
 彼に填められている三つの「輪」の全てに干渉する強力な魔術だ。
 リィが騏驥に対して使えるものの中で、最も強い魔術。使うことなどないと思っていたのに。

 そのまま後ろにひっくり返るのではと思うほどの勢いで手綱を引いたままでいると、さしものルーランもふらふらと足取りを乱し、やがて、脚を止める。
 ルーランが転べば下敷きになる危険があるが、それでも構わなかった。
 とにかく、この騏驥を止めなければ。万が一を起こさせるわけにはいかないのだ。彼のために。

 ——だが。

<っふざ……けんな……っ……!>

 一旦は足を止めたはずのルーランは、強引に踏ん張り、じりじりと四肢に力を籠めると、よろめきながらも再び歩き始める。

「ル——」

<ジャマすんなっ!>

 幾重もの魔術で、身体の自由などほとんどきかないはずなのに、ルーランは一歩一歩、ゾイエへ近づいていく。
 その鬼気迫る様子に、ゾイエもようやく気付いたらしい。

「な、なんだ!? なんだ、いったいっ!」

 自分に向かってくるルーランの姿に裏返った声を上げると、狼狽えたように両手を振り回す。
 守ってくれる味方を探し、右に左にと首を巡らせるが、ただでさえ戦いの渦中だ。
 みな自分が生き残ることだけで手一杯の上、向かってくる相手は、ある意味、敵よりも恐ろしいモノ——殺気という言葉も生ぬるいほどのただならぬ気配を漂わせた騏驥なのだ。
 盾になろうという者もいなければ、助け出そうとする者もいない。
 どれほど叫んでみても、兵たちは何も見ていないという顔で遠巻きにしているだけだ。

「く、く、来るな! 早く誰か! 誰かなんとかしろっ! その騏驥を近づけさせるな! 来るなぁぁぁあ!」

 更に口汚く罵るものの、やはり助けに入る者はいない。
 リィは握り締めた手綱に魔力を込め続け、繰り返しルーランに「止まれ」と訴えかける。

 こうして最大限魔力を注ぎ続けるのも、そろそろ限界だ。
 だからまだ魔術が効いているうちに、ルーランの身体が万全ではないうちに、どこかへ逃げるなり隠れるなりしてくれればいいのに、ゾイエは相変わらず無様に狼狽えた様子で右往左往しているだけだ。
 そのふがいなさに、リィはきつく眉根を寄せる。

 こんな男、本当は微塵も庇いたくはない!
 
 それでもルーランを止めなければ、とリィは手綱を引っ張り続ける。
 しかしルーランは荒い息を零しながら、じりじりと、一歩一歩、着実に、ゾイエに近づいていく。

「ルーラン! 止めろ! こんなことをしてはお前が——」

 頼むから——と言外に伝えても、ルーランは止まらない。
 自らの不甲斐なさに、リィはギリギリと歯噛みした。
 こんなことで——こんなことで彼を処分させたくなんかないのに——。

 しかしそんなリィの気持ちなど知ったことかと言わんばかりのルーランは、とうとう腰を抜かしてへたりこんでしまったゾイエのすぐ前まで辿り着く。
 ぐちゃぐちゃの泣き顔でヒィヒィと情けない声を上げ、最後の抵抗のように頭を振る彼をじっと見下ろし、やがて、ゆっくりと前脚を上げる。
 
 踏み殺す気だ——。
 
 もう止めようがない、とリィも思わず目を瞑ったとき。


「だめよ……」


 小さな——小さな声がした。
 ビクリとルーランが慄く。
 リィも慌てて声を探す。


「そんな……らんぼうなことをしちゃ、だめよ……」


 声は、倒れ伏した騏驥からだった。
 ルシーの、声だった。

「ルシー!!!!」

 今まさにゾイエを踏み殺そうとしていたルーランが、その脚をピタリと止める。
 リィは迷ったものの、ルーランから飛び降りると、その頭絡を外した。
 人の姿に変わったからといって安心ではないが、馬の姿よりはましだと思ったのだ。

「ルシー……」

 人の姿になったルーランが、ルシーを呼ぶ。
 呼びながら、そろそろと近づく。近づいて、傍らに跪く。
 震える指でそっと彼女の手を取ると、ルシーの肩が微かに揺れる。

「あなたは……いつも、そう……。おとなしくしなさい、って……なんどもいってるのに……」

 そして彼女は、弱々しくも、なんとかルーランの指を握り返す。

「ルシー……」

 リィが、そしておそらくルーランも安堵した、次の瞬間。
 
 直前まで人の言葉を発していたはずの彼女の唇から零れたのは、ヒン……と小さく鳴く馬の声だった。
 傷ついた貌で、ぎこちなくも微笑むルシー。
 リィの——ルーランの息が止まった。
  

 ルシーのその姿は、馬でも人でも騏驥でもなく、けれどその全てだった。
 人と馬の姿が斑に混じりあった、不完全で歪なキメラ。

「っ」

 リィは咄嗟に自らの上着を脱ぐと、ルシーの身体にかけてやった。
 彼女のこんな姿を人目に晒しておくのはあまりにしのびなかった。

 変わろうと、したのだ。
 彼女は。
 忠実な騏驥である彼女は。
 馬の姿に。
 騎士に命じられるままに。
 恐怖と混乱に引き裂かれながら。

「ルシー……」

 震える声で、ルーランがルシーを呼ぶ。
 また動かなくなった彼女に触れる。

 着ていたもののほとんどは破れ、土と血と涙に汚れたルシー。
 藻掻いたせいで、爪が割れて血が滲み土がこびりついている。あちこちの皮膚が裂け、全身無数に鞭打たれた蚯蚓腫れのあとがある。

 けれど上着に隠れている部位は、人の肌じゃない……。
 投げ出された足先も、右は人の足、けれど左は——。

「ルシー……ルシー——! ルシー! なあ、ルシー!! ルシー!!」

 血を吐くような声で、ルーランが繰り返しルシーを呼ぶ。その身体を揺り動かす。
 呼び続ければ全て元に戻るのだと信じているかのように。何度も何度も。

「ルシー……ルシー……っ……ルシー……なんで……」

 慟哭と共に、はた、はた、と涙が地に落ちる。
 その音はリィの胸の中にも重く落ちる。

 項垂れたルーランを見ていられずリィが目を逸らした直後。

「っ……ルシー!!!」

 一際悲痛な、身を裂くようなルーランの咆哮が響き渡った。
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