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66 かの人を乗せて駆けるために(3)
しおりを挟む「それはそれは……よかったのお」
「はい」
「それでこの余裕ぶり——というわけか」
「そ、そういうわけでは……」
にこにこしながら言う師に、ダンジァは慌てて言い返そうとする。が、師は笑ったまま「いやいや」というように首を振った。
「現に、今のお前は落ち着いておる。気配がいい。実のところ、レースが近づくとどうなるか少々心配じゃったが、初めての大会とは思えんほどじゃ。そしてそれは騎士のおかげで——お前と殿下とが今まで築いてきた信頼関係あってのこと。そこは素直に認めておくものじゃ」
「……はい……」
温かいサイ師の言葉に、ダンジァは躊躇いつつも深く頷く。
ユェンも「うんうん」と笑顔で頷いている。
師が来たからか、彼もそれまでに比べれば遥かにリラックスしているようだ。
ダンジァも、側にいてくれる人が増えたことはやはり心強かったし、実際にスタンドから観戦していた師が聞かせてくれた観客の様子や本馬場の雰囲気は、とても興味深く参考になった。
しかしそうして話をしているうちに、本馬場入場の時間が近づいてくる。
流石にそろそろ本格的に準備しなければ間に合わなくなってしまうだろう。
ダンジァは数分おきに時間を確かめた。
あと少し……もう少しだけシィンを待ちたい。そう思って待っているが、彼は姿を見せないまま時間は過ぎていく。
気づけば、ダンジァ以外の騏驥はもうみな鞍をつけ、馬装を整えている。あとは係員の指示を待つだけという様子だ。中には、既に騎士を乗せて歩き、歩様を確かめている騏驥もいる。
そんな状況だからだろう。サイ師は腹を括っているのか落ち着いた顔のままだが、ユェンは落ち着こう落ち着こうとしていても、やはりソワソワしているのが伝わってくる。
(もう、そろそろタイムリミット、かな……)
ダンジァ自身もそう感じ、
「そろそろ鞍の準備をしてもらえますか?」
ユェンに向けてそう頼む。
途端、ユェンは「分かった!」とどこかホッとしたような声を上げ、いそいそと準備を始める。
それを視線の端に見ながら、ダンジァは、あと二分だけ待とう、と決める。
二分あれば、自分の気持ちも切り替えられる。
シィンの前で変われなくても、変わって、鞍をつけて、準備を整えて本馬場を目指していれば、きっと彼は途中の地下馬道で待ってくれている。
貴賓席や騎士の控室からなら、直接地下に行く方が簡単だし早いのだから、他にもそんな騎士は何人かいるだろう。
そうしていると、係員が「本馬場へ」と騏驥たちに指示を出す。
馬場入場の時間だ。これが始まると、規定時間内に入場しなければならない。
その声を合図に、騎士を乗せた騏驥が、そして騎士を乗せる準備を整えた騏驥たちが、次々と馬道へ消えていく。地下にある長い馬道を通って、本馬場へ。
いよいよレースだ。
それを見ながらダンジァはゆっくりと二分数えると、ふっと息をつき、帯びている剣を取る。
馬の姿に変わるため、ユェンかサイ師に持っていてもらおうと思ったのだ。
(残念だな……)
できれば、シィンの命令で変わりたかったけれど。仕方がない。
それに自分はさっき彼に会えた。今は間に合わなかったけれど、さっき彼は会いに来てくれたのだ。それで充分だ。
自分を納得させ、剣を渡そうとした、そのとき。
背後から、聞き覚えのある長靴の音が響く。
はっと振り返ると、そこには、待ち侘びたダンジァの騎士。
——シィンの姿があった。
しかもそのいでたちは、さっきとは少し違っていた。
今の彼は、さっき見た、「(変装したらしい)王子」の姿ではなく、騎士の姿だったのだ。
王子でいるときほど飾り立てて華美なわけではなく、数多の宝玉に彩られて美々しいわけでもなく、携えているのは剣と鞭のみだ。
しかしその姿は、どんな時より魅力的で、堪らなく心惹かれる。
騏驥のための——自分のための、騎士。
その姿は高雅で瑞々しく伸びやかで——それでいて心底から仕えたくなる威厳が漂っている。
近づいてくるシィンに身体ごと向き直ると、ダンジァは剣を手にしたまま自然と片膝をつく格好で跪いていた。
本来ならこの場では必要のない表敬だ。けれどそうせずにいられなかった。
頭を垂れ、そのままシィンが目の前に来るまで静かに待つ。
と、足音が止まると同時に、くす、と笑ったような声がした。
「相変わらずお前は見目良いな。だが未だその姿か」
頭上からかけられた声も、どこか笑い混じりだ。ダンジァが「はい」と頷くと、
「間に合うのか?」
続く声は、この状況を楽しんでいるようなそれだ。
心配しているのではなく、こちらを信じてくれているからこその、揶揄うような声音。
ダンジァが顔を上げると、彼の騎士は案の定どこか悪戯っぽく微笑んでいる。
その貌をまっすぐに見上げ、ダンジァは「はい」と確信を持った声で答えた。
「すべて準備は整っております。……ただただ、殿下をお待ちいたしておりました」
「……わたしを?」
「はい」
「わたしを待っていたか、ダンジァ」
「はい」
嬉しそうに目元を細めて言うシィンに、ダンジァ視線に力を込めて応えた。
「はい——殿下。殿下のご命令を、殿下のお声をお待ちいたしておりました」
あなたのために駆けることを。
ダンジァが告げると、シィンは満足そうに微笑む。
「そうか……。ではまた少し待たせてしまったようだな」
そして、ダンジァの関係者たち以外、もう誰もいなくなった周囲を見回して苦笑して言う。ダンジァは「いいえ」と首を振った。
「殿下の訪れを待つ時間は幸せでございました。何も問題はございません」
「…………」
「どうぞなんなりとご命令を」
そう。
——そう。
来てくれればいいと思いながら待っていた時間すら幸せだった。
そう思えるほどの騎士に出会えた幸福を、シィンはわかってくれるだろうか。分かってくれるといい。伝わればいい——伝えたい——。
そう思いながら、ダンジァはシィンを見つめる。
見上げる視線と、見つめ返してくる視線がぶつかる。絡む。交わり合う。
シィンは、ふ、と微笑み、「そうか」と、一つ深く頷く。
そして静かに続けた。
「……ではそろそろ、行くとしよう」
その声を合図にダンジァが頷き、立ち上がると、すかさずユェンが近づいてくる。
ダンジァが、彼に剣を手渡した直後——。
「——変われ、ダンジァ」
流れるように自然な、そして稀有な美しさを湛えた声が響く。
ダンジァが心密かに”唯一”と決めた騎士の声。
刹那。ダンジァはその姿を馬の姿に変えていた。
頭のてっぺんから尾の先まで一部の隙もない、均整のとれた雄大な体躯。
強健な四肢。艶やかな鬣。
額には、白い星が一つ。それは陽の中でも光を失うことなく、なお燦然と輝いている。
ユェンとサイ師が丁寧に、しかし手早く背に鞍をつけていく中、ダンジァは微動だにせずただシィンを見つめ続ける。
シィンもまた、目を逸らすことなくダンジァを見つめてくる。
やがて、その手がふっと上がり、ダンジァの首を、そして額の星を撫でる。
言葉はない。けれどその視線から、笑顔から、触れる手から、彼の期待が伝わってくる。
ダンジァは歓喜した。
身体の奥底から自信と活力と闘争心が漲ってくる。
絶対に勝つ——。
彼のために。自分のために。
そんな気持ちが絶え間なく沸き起こってくる。
ほどなく鞍つけが終わると、シィンはひらりとそこに——ダンジァの背に飛び乗ってくる。
「——行くぞ」
声と共に前進の合図を出され、ダンジァはひとつ大きく嘶くと、馬道へ——そこから続く馬場へ向けて、力強く一歩を踏み出した。
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