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69 出走直前(3)
しおりを挟むダンジァがソワソワしてしまうと、それにシィンも気づいたのだろう。
「……すまない。なんでもないのだ」
言いながら、ダンジァの鬣を撫でた。だがどう考えても「なんでもない」ようには思えない。
人の姿ならもっとちゃんと顔を見て話せるかもしれないのに……とダンジァは焦燥感に駆られるが、少し待ってもシィンからの声はない。仕方なく、別の話を向けてみた。
<あ——あの、殿下。では、その、今回の作戦は……>
「作戦……」
<はい。少し見たところ、向こう正面に大きな障害物のようなものがありましたが……>
「ああ、そういえばそのようなものがあったな」
うん、うん、とシィンは頷く。しかし、
「——ダンジァ」
そう呼んだシィンに<はい>と応えたダンジァの耳に聞こえてきた次の言葉は、彼が全く想像もしていなかったものだった。
「『殿下』はやめろ」
<……は?>
一瞬、虚をつかれたように動きが止まってしまう。
目を瞬かせていると、シィンが続ける。
「? そんなに難しいことを言ったか? わたしのことを『殿下』と呼ぶのはやめろと言ったのだ」
<…………>
?
????????
<あ、あの、殿……シィン、さま…………>
もうスタート直前だ。
騏驥は順にゲートに誘導されている。
なのにどうして今、そんな話に?
<あの……>
「今のように名前を呼べばいいだろう。わたしにも名前はある」
<…………>
「お前はそう呼んでいい。ずっとそう呼んでいい。……ではなく、呼べ」
<は……>
畏まりました……と応えたものの、ダンジァは混乱していた。
名前。
——名前。
名前。
別に、彼を名前で呼ぶこと自体は初めてのことではない。
けれど改めて「呼べ」と言われるとは思わなかった。
そんなふうに言われると、なんだかドキドキしてしまう。
なぜだろう。
手綱から伝わってくシィンの様子も、なんだかいつもと違っているからかもしれない。
(っレ、レース前だ)
慌てて、ダンジァは表情を引き締めて集中する。
係員に誘導され、ゆっくりゲートに入る。隣は、さっき話しかけてきたあの騎士と騏驥だ。
彼らも集中を取り戻した様子で、ビリビリと張り詰めている。
あと数頭のゲート入りを大人しく待っていると
「好きに走れ」
それまでの声とは違う凛とした声で、シィンが言った。
その声に、ダンジァの胸が鳴る。シィンは続けた。
「作戦は、それだ。お前の好きなように走ってみよ。わたしはそれが見たい」
<……>
「どんな結果になっても構わぬ。最初から早いペースで走って最後に疲れてしまったとしても、逆に体力を温存したつもりで最後のスパートが叶わなかったとしても……。万が一にもないとは思うが、仮にこの予選を通過できない結果になったとしても……それはそれで、いい」
<シィン……さま……>
「今日までやれることはやった。あとは、わたしはお前が精一杯駆けるのを感じたいのだ。一人の騎士として」
<はい……>
ダンジァは深く頷く。
これほど信じてもらえたなら、あとはその喜びを結果で示すだけだ。
(予選が通過できないのは嫌だけど……)
だってそれでは、これがシィンに乗ってもらう最後になってしまうかもしれない。
この予選は絶対に通過する。
好きに走って——走って走って走って——絶対に。
絶対にもう一度シィンに乗ってもらう。そして本戦でも勝つのだ。
しかし、ダンジァがそう気持ちを高めた直後。
「あぁ……だが一つ命令がある」
シィンが言葉を継いだ。
<なんでしょうか>
「あの青い騎士服の騎士には勝つぞ。絶対に先着しろ。いいな」
<……>
「いいな」
<は、はい>
なにがなんだかよくわからない。
けれど彼の命令なら——シィンの命令なら全力で応えるまでだ。
この身で彼の望みを叶えられるなら、これほど嬉しいことはない。
ダンジァの脳裏を、彼と出会ってからのことが、今日までのことが次々よぎっていく。思い出す。
自然と笑みが溢れた。
息をつめて正面を見つめる。
次の瞬間、ゲートが開いた。
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