路地裏オメガの餌付け婚~味覚を失った最強公爵様は、僕の料理とフェロモンにだけ発情するようです~

水凪しおん

文字の大きさ
2 / 16

第1話「肉の日の路地裏と、運命の匂い」

しおりを挟む
 石畳を叩く雨音が、空腹の腹の虫と合奏しているようだった。

 王都の下町、その一角にある大衆食堂の裏手は、いつも生ゴミと油の腐った臭いが充満している。

 けれど、今日の僕はそんな悪臭など気にならなかった。

 なぜなら今日は二十九日。

 この国では月に一度、狩猟の神に感謝を捧げる「肉の日」だからだ。

 といっても、僕のような店の下働きには、感謝祭の恩恵など回ってこない。店主のガストンはケチで有名だし、厨房のシェフたちは僕をただの雑用係としか見ていない。

「おいノア! まだ皿洗いが終わらねえのか!」

「す、すみません! すぐ終わらせます!」

 怒号が飛び交う厨房の裏口で、僕は冷たい井戸水に手を浸していた。指先はすでにかじかんで感覚がなくなりかけている。それでも僕は、こっそりと隠し持っていた包みを懐で確かめて、小さく笑みをこぼした。

 今日の昼間、市場への買い出しを手伝わされたときのことだ。肉屋の親父さんが「売り物にならないクズ肉だから」と、骨周りの肉をこっそり分けてくれたのだ。

 筋ばかりで硬く、貴族が見れば顔をしかめるような部位だろう。

 でも、僕にはわかる。

 これは、最高のごちそうになる。

 ようやく仕事が終わり、シェフたちが酒場へと繰り出した深夜。僕は誰もいない厨房へ戻ることはせず、店の裏にある小さな焚き火場へと向かった。

 本当は厨房を使いたいけれど、見つかったら「泥棒」扱いされてひどい目に遭う。以前、余ったスープを飲もうとしただけで、ガストンに蹴り飛ばされたことがあるのだ。

 雨避けのボロ布を木枠にかけただけの簡易な隠れ家。そこで僕は、大切にしていた小さな鉄板を熾火(おきび)の上に置いた。

「……よし」

 懐から取り出したのは、赤黒い塊肉。

 下処理は昼間のうちに済ませてある。硬い筋には細かく切り込みを入れ、潰した木の実と香草を揉み込んでおいた。こうすることで、肉の臭みが消え、驚くほど柔らかくなる。

 鉄板が熱せられ、雨の湿気の中にじゅわっと微かな音が響いた。

 脂身を先に溶かし、そこへ肉を滑らせる。

 ジューッ!

 食欲を刺激する激しい音と共に、一気に白い煙が立ち上った。

 香ばしい匂い。脂の甘みと、肉が焼ける野性的な香り。

 僕の鼻腔をくすぐるそれは、どんな高級な香水よりも魅力的だ。

 この世界には、生まれつきの性別とは別に、アルファ、ベータ、オメガという三つの属性がある。僕は最も弱いとされるオメガだ。発情期という厄介な体質があるせいで、まともな職には就けず、こうして身分を隠して働くしかない。

 でも、料理をしている時だけは、自分が何者かを忘れられる。

「いい色だ……」

 表面はカリッと狐色に、中はしっとりとロゼ色に。火の通り加減を指先で確かめながら、僕は最後の仕上げにかかった。

 取り出したのは、これも廃棄予定だった果実の皮を煮詰めて作った特製ソース。酸味と甘味が凝縮された黒い液体を、熱々の肉にかける。

 ジュワワワーッ!

 蒸気と共に爆発的な香りが路地裏に広がった。

 たまらない。唾液が口の中に溢れてくる。

 誰にも邪魔されない、僕だけの肉の宴。

 木の枝を削った即席のフォークで、熱々の肉を突き刺し、口へ運ぼうとしたその時だった。

「……いい匂いだ」

 暗闇の中から、低く、地を這うような声が響いた。

 僕は驚いて飛び上がり、せっかくの肉を落としそうになる。

「だ、誰!?」

 雨音にかき消されるようにして立っていたのは、一人の男だった。

 背が高い。見上げるほどの大男だ。

 上質な外套を頭から被っているが、その濡れた布越しにも、鍛え抜かれた肉体の厚みが伝わってくる。

 男はふらりと足を踏み出し、焚き火の明かりの中にその顔を晒した。

 息をのむような美貌だった。

 夜の闇を溶かしたような黒髪に、凍てつく湖のようなアイスブルーの瞳。整いすぎた顔立ちは彫刻のようだが、その顔色はひどく悪い。まるで何日も食事をしていない病人のように蒼白だ。

 そして何より、僕を怯えさせたのは、彼が放つ圧倒的な気配だった。

 アルファだ。それも、とびきり強大な。

 本能が警鐘を鳴らす。逃げろ、と。

 けれど、男の視線は僕ではなく、僕の手元にある鉄板に釘付けになっていた。

「それを……食わせろ」

 命令口調だったが、その声には切実な響きがあった。

「え?」

「金なら払う。いくらでも出す。だから、それを寄越せ」

 男は震える手で懐を探ろうとするが、力が入らないのか、そのまま膝から崩れ落ちそうになった。

 僕は咄嗟に駆け寄り、その体を支える。

 重い。岩のような重量感だ。それに、体温が氷のように冷たい。

「大丈夫ですか!?」

「……腹が、減った」

 男はうわごとのようにつぶやいた。

「何も……味がしないんだ。何を食べても、砂を噛んでいるようで……吐き気がする。だが、この匂いだけは……」

 彼の瞳が、飢えた獣のようにギラリと光り、鉄板の上の肉を捉えている。

 普通の空腹ではない。もっと深刻な、生命の危機に関わるような飢餓感。

 僕は迷った。これは僕のなけなしのごちそうだ。これを逃せば、次の肉の日まで肉なんて食べられないかもしれない。

 でも、目の前の男は死にそうだった。

 それに、料理人として――たとえ見習い以下の雑用係だとしても――お腹を空かせている人を放っておくなんてできない。

「……どうぞ」

 僕は彼を焚き火のそばの乾いた場所に座らせ、鉄板ごと差し出した。

「ただのクズ肉のステーキですけど、毒見は僕がしましたから」

 男は疑う様子もなく、僕の手からフォーク代わりの枝を奪い取るように受け取った。

 そして、まだ湯気を立てている肉塊にかぶりつく。

 熱くないのだろうか。心配になるほどの勢いだった。

 咀嚼する音が、雨音の合間に響く。

 一口、また一口。

 男の動きが止まった。

 まさか、不味かったのだろうか。筋が硬すぎたか? ソースが濃すぎたか?

 不安になって顔を覗き込むと、男は目を見開き、信じられないものを見るような表情で肉を見つめていた。

「……味が、する」

 震える声だった。

「肉の、味がする……脂が甘い。血が熱い。スパイスが……舌を刺す」

 彼はまるで、生まれて初めて食事をした人間のように、感動に打ち震えていた。

 そして次の瞬間、猛烈な勢いで残りの肉を平らげ始めた。

 野性的で、それでいてどこか品のある食べ方だった。鉄板に残ったソースまで、彼は指で拭って舐めとった。

 すべてを食べ終えたとき、男の顔には先程までの死相はなく、代わりに薔薇色の血色が戻っていた。

 彼は深く息を吐き、ゆっくりと僕の方を向いた。

 その瞳に宿るのは、先程までの虚ろな光ではない。

 獲物を見定めた捕食者の、鋭く強烈な光だ。

「……名は?」

「え、あ、ノアです」

「ノア」

 彼が僕の名前を呼んだ瞬間、背筋にゾクゾクとした痺れが走った。

 なんだろう、この感覚は。

「美味かった。俺の人生で、これほど美味いものを食べたのは初めてだ」

 男は立ち上がり、僕を見下ろした。

 その威圧感に、僕は思わず後ずさる。

「お前を雇う」

「は?」

「俺の専属になれ。衣食住、全て保証する。給金は言い値でいい」

 唐突な申し出に、僕は口をパクパクとさせた。

 専属? 僕を?

「あの、僕はただの皿洗いで、ここの店員ですらないというか、勝手に裏で焼いてただけで……」

「関係ない。俺が求めているのは、この料理を作った人間だ」

 男――まだ名前も知らない彼は、僕の手首を強く掴んだ。

 熱い。さっきまで氷のようだった手が、今は燃えるように熱い。

「拒否権はないと思え」

 その強引な瞳の奥に、怪しげな熱が揺らめいていることに、僕はまだ気づいていなかった。

 雨はいつの間にか止み、雲の切れ間から満月が顔を覗かせていた。

 それはまるで、僕の運命が大きく変わり始めたことを告げる合図のようだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ふしだらオメガ王子の嫁入り

金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか? お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。

オメガはオメガらしく生きろなんて耐えられない

子犬一 はぁて
BL
「オメガはオメガらしく生きろ」 家を追われオメガ寮で育ったΩは、見合いの席で名家の年上αに身請けされる。 無骨だが優しく、Ωとしてではなく一人の人間として扱ってくれる彼に初めて恋をした。 しかし幸せな日々は突然終わり、二人は別れることになる。 5年後、雪の夜。彼と再会する。 「もう離さない」 再び抱きしめられたら、僕はもうこの人の傍にいることが自分の幸せなんだと気づいた。 彼は温かい手のひらを持つ人だった。 身分差×年上アルファ×溺愛再会BL短編。

虐げられΩは冷酷公爵に買われるが、実は最強の浄化能力者で運命の番でした

水凪しおん
BL
貧しい村で育った隠れオメガのリアム。彼の運命は、冷酷無比と噂される『銀薔薇の公爵』アシュレイと出会ったことで、激しく動き出す。 強大な魔力の呪いに苦しむ公爵にとって、リアムの持つ不思議な『浄化』の力は唯一の希望だった。道具として屋敷に囚われたリアムだったが、氷の仮面に隠された公爵の孤独と優しさに触れるうち、抗いがたい絆が芽生え始める。 「お前は、俺だけのものだ」 これは、身分も性も、運命さえも乗り越えていく、不器用で一途な二人の成り上がりロマンス。惹かれ合う魂が、やがて世界の理をも変える奇跡を紡ぎ出す――。

契約結婚だけど大好きです!

泉あけの
BL
子爵令息のイヴ・ランヌは伯爵ベルナール・オルレイアンに恋をしている。 そんな中、子爵である父からオルレイアン伯爵から求婚書が届いていると言われた。 片思いをしていたイヴは憧れのベルナール様が求婚をしてくれたと大喜び。 しかしこの結婚は両家の利害が一致した契約結婚だった。 イヴは恋心が暴走してベルナール様に迷惑がかからないようにと距離を取ることに決めた。 ...... 「俺と一緒に散歩に行かないか、綺麗な花が庭園に咲いているんだ」  彼はそう言って僕に手を差し伸べてくれた。 「すみません。僕はこれから用事があるので」  本当はベルナール様の手を取ってしまいたい。でも我慢しなくちゃ。この想いに蓋をしなくては。  この結婚は契約だ。僕がどんなに彼を好きでも僕達が通じ合うことはないのだから。 ※小説家になろうにも掲載しております ※直接的な表現ではありませんが、「初夜」という単語がたびたび登場します

追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜

あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。 行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。 異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?

聖女召喚の巻き添えで喚ばれた「オマケ」の男子高校生ですが、魔王様の「抱き枕」として重宝されています

八百屋 成美
BL
聖女召喚に巻き込まれて異世界に来た主人公。聖女は優遇されるが、魔力のない主人公は城から追い出され、魔の森へ捨てられる。 そこで出会ったのは、強大な魔力ゆえに不眠症に悩む魔王。なぜか主人公の「匂い」や「体温」だけが魔王を安眠させることができると判明し、魔王城で「生きた抱き枕」として飼われることになる。

過労死転生した悪役令息Ωは、冷徹な隣国皇帝陛下の運命の番でした~婚約破棄と断罪からのざまぁ、そして始まる激甘な溺愛生活~

水凪しおん
BL
過労死した平凡な会社員が目を覚ますと、そこは愛読していたBL小説の世界。よりにもよって、義理の家族に虐げられ、最後は婚約者に断罪される「悪役令息」リオンに転生してしまった! 「出来損ないのΩ」と罵られ、食事もろくに与えられない絶望的な日々。破滅フラグしかない運命に抗うため、前世の知識を頼りに生き延びる決意をするリオン。 そんな彼の前に現れたのは、隣国から訪れた「冷徹皇帝」カイゼル。誰もが恐れる圧倒的カリスマを持つ彼に、なぜかリオンは助けられてしまう。カイゼルに触れられた瞬間、走る甘い痺れ。それは、αとΩを引き合わせる「運命の番」の兆しだった。 「お前がいいんだ、リオン」――まっすぐな求婚、惜しみない溺愛。 孤独だった悪役令息が、運命の番である皇帝に見出され、破滅の運命を覆していく。巧妙な罠、仕組まれた断罪劇、そして華麗なるざまぁ。絶望の淵から始まる、極上の逆転シンデレラストーリー!

処理中です...