捨てられた花屋のオメガは、雨の日に現れたスパダリ社長に溺愛される~抑制剤をやめたら、運命の番に捕まりました~

水凪しおん

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第9話「森の香りに抱かれて」

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「藍沢さん、しっかりしろ!」

 蓮の焦った声が、遠くで聞こえる。
 でも、もう俺の耳には届かなかった。身体を突き上げる強烈な熱と、目の前のアルファを手に入れたいという原始的な欲求が、俺のすべてを支配していた。
 無意識のうちに、俺は蓮の服を掴んでいた。そして、その首筋に顔を埋め、彼の香りを求める。

「っ……湊!」

 初めて名前を呼ばれた。蓮の声には、苦痛と戸惑いの色が混じっていた。
 無理もない。オメガのヒート時のフェロモンは、アルファにとって抗いがたい麻薬のようなものだ。特に、相性の良い相手であればなおさら。
 俺は、この人を試している。彼の理性を、めちゃくちゃにしようとしている。

『最低だ』

 頭の片隅で、かろうじて残った理性がそう囁く。でも、身体は止まらない。
 蓮のシャツのボタンに指をかけ、引きちぎるように外そうとする。もっと、彼の肌に触れたい。彼の香りを全身で浴びたい。

 その時、蓮の腕が俺の身体を強く抱きしめた。
 抵抗できないほどの力。だが、それは暴力的ではなく、むしろ俺の暴走を止めようとするような、必死の抑制が感じられた。

「湊、聞こえるか。俺は君を傷つけたくない」

 耳元で、蓮が喘ぐように言う。彼の呼吸も荒くなっている。彼もまた、必死で自分の本能と戦っているのだ。
 その事実に、ほんの少しだけ、俺の意識が戻った。
 そうだ、この人は、俺を無理やりどうこうしようとはしない。いつだって、俺の気持ちを尊重してくれた。
 それなのに、俺は……。

「ごめ……なさい……」

 涙が溢れた。熱と快感を求める涙ではなく、申し訳なさと情けなさで、胸が張り裂けそうだった。

「謝るな。君は何も悪くない」

 蓮は俺を抱きしめたまま、ゆっくりとベッドに横たわらせた。そして、自分も隣に横たわると、俺を腕の中に閉じ込めるように、優しく抱きしめた。
 肌と肌が直接触れ合っているわけではない。服を隔てて、ただ抱き合っているだけ。
 それなのに、彼の体温と、深く濃密な森の香りに包まれていると、不思議と身体の熱が少しずつ和らいでいくようだった。

「フェロモンを同調させる。少し楽になるはずだ」

 アルファが、番以外のオメガのヒートを鎮めるための方法。それは、アルファにとって相当な精神的負担を強いるものだと、知識としては知っていた。自分の欲求を極限まで抑え込み、相手の興奮だけをなだめる。生半可な理性では到底不可能な行為だ。

 蓮は、それを俺のためにやってくれている。
 俺を、ただの欲望の捌け口にするのではなく、一人の人間として、守ろうとしてくれている。

「れん、さん……」

「大丈夫だ。俺がそばにいる」

 彼の声は、まるで魔法のようだった。荒れ狂う嵐の海に差し込む、一筋の光。
 俺は、彼の胸に顔を埋めた。彼の心臓が、規則正しく、力強く脈打っているのが伝わってくる。
 その音を聞いているうちに、あれほど俺を苛んでいた熱の波が、少しずつ、本当に少しずつ、引いていくのを感じた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。
 意識が朦朧とする中、俺は蓮の腕の中で、浅い眠りに落ちていった。
 夢と現実の狭間で、俺は深い、深い森の中にいた。木々の間から木漏れ日が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。そこは、世界で一番安全で、安心できる場所だった。
 もう、何も怖くない。
 ずっと、ここにいたい。

 目が覚めた時、窓の外はもう暗くなっていた。
 俺は、まだ蓮の腕の中にいた。彼は、俺が眠っている間も、ずっとこのままの体勢でいてくれたらしい。

「……目が覚めたか」

 頭の上から、優しい声が降ってくる。

「……はい」

 身体の熱は、嘘のように引いていた。嵐が過ぎ去った後のように、気だるさは残っているが、あの狂乱状態は完全に収まっている。

「あの……俺……」

 何と言えばいいのか分からなかった。謝罪も、感謝も、言葉にならない。

「今は何も言わなくていい。疲れただろう、もう少し休んでいなさい」

 蓮は、そう言って俺の髪を優しく撫でた。その手つきは、まるで壊れ物を扱うように、どこまでも丁寧だった。
 俺は、もう一度、彼の胸に顔を埋める。
 この温もりを、この香りを、手放したくない。
 初めて、心の底からそう思った。
 灰都とのことなど、どうでもよくなるくらい、この人の存在が、俺の中で大きくなっていた。

 森の香りに抱かれながら、俺は静かに目を閉じた。
 これが、新しい運命の始まりだという予感が、胸を震わせていた。
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