その出会いは確率ゼロ。倒産寸前の会社を舞台に、情熱社長とクールな天才が仕掛ける、恋とビジネスの壮大な逆転劇。

水凪しおん

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第04話「三つの価格、一つのアンカー」

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 プレモータムの導入で社内の空気は一変した。以前のトップダウン方式とは違い、ボトムアップで意見が吸い上げられるようになったことで、社員たちの間に主体性が芽生え始めていた。それは慎一にとっても喜ばしい変化だったが、当面の課題は目先の売上を改善することだ。
 その試金石となるのが、来月からリリースされる新しいクラウドサービスの価格設定だった。

「さて、冬月先生。例の『ナッジ』とやらで、どうやって売上を上げるんか、お手並み拝見やな」

 社長室で、慎一は少し挑発的に言った。理人は眉一つ動かさず、一枚の資料をテーブルに滑らせる。

「これから説明するのは、『アンカリング効果』を利用した価格戦略です」
「アンカリング……船の錨か?」
「その通りです。最初に提示された情報(アンカー)が、その後の判断に大きな影響を与えるという心理効果のことです。例えば、最初に『この腕時計は百万円です』と聞かされた後で、『こちらの時計は十万円です』と言われると、後者がものすごく安く感じませんか? たとえその十万円が、時計の適正価格だったとしても」
「ああ、なるほどな。デパートのセールとかでよくあるやつか」

 慎一はうなずいた。理人の説明は、いつも具体的で分かりやすい。

「はい。この効果を、我々の新サービスに応用します。具体的には、価格プランを三つ用意するんです」

 理人は、ホワイトボードに三つの四角を描いた。

 松プラン:月額5万円(フル機能、手厚いサポート付き)
 竹プラン:月額2万円(主要機能、メールサポート付き)
 梅プラン:月額8千円(基本機能のみ)

「従来なら、我々はこの『竹プラン』を標準プランとして一つだけ売り出していたでしょう。しかし、それだけだと顧客は『月額2万円は高いか、安いか』をゼロベースで判断しなければならない。そこで、意図的に高額な『松プラン』をアンカーとして設定するんです」

 理人は松プランの四角を指で囲った。

「ほとんどの顧客は、月額5万円のプランは高すぎると感じるでしょう。しかし、その直後に月額2万円の竹プランを見ることで、『5万円に比べれば、機能も十分で2万円はかなりお得だ』と感じやすくなる。松プランは、竹プランを割安に見せるための、いわば『おとり』です」
「なるほどな! 梅プランは?」
「梅プランは、価格に敏感な層を取りこぼさないための受け皿であると同時に、『安かろう悪かろう』という印象を与え、竹プランの魅力を相対的に高める効果があります。これを『極端回避性』と言います。人は三つの選択肢があると、無意識に真ん中を選びやすい傾向があるんです」

 その戦略は、慎一にとって目から鱗が落ちるような、鮮やかなものだった。顧客の心理を巧みに読み解き、望む選択へと自然に誘導する。それは、慎一がこれまで信じてきた「良いものを作れば売れる」という性善説的なマーケティングとは全く異なる、科学的なアプローチだった。
 慎一の心に、一抹の抵抗感が生まれた。

「……なあ、冬月くん。これって、お客さんを騙してることにならへんか? なんか、気が進まへんな」

 その言葉に、理人は初めて予測していなかったというように、わずかに目を見開いた。そして、少し考えるように沈黙した後、静かに口を開いた。

「これは、操作(マニピュレーション)ではありません。選択肢の提示方法を工夫することで、顧客がより良い決定を下す手助けをする『ナッジ』です。我々の竹プランは、価格と機能のバランスが最も優れており、顧客にとって最も価値のある選択肢だと、私はデータ分析の結果から確信しています。我々がやろうとしているのは、その価値を顧客に正しく、そして魅力的に伝えるためのデザインに過ぎません」

 理人の言葉には熱がこもっていた。いつもの冷静な彼からは想像もできないほどの、強い信念を感じさせる。

「我々は、顧客を騙して不要なものを売りつけるわけではない。顧客自身が気づいていない、彼らにとっての最適な解を、そっと提示してあげるんです。そこに、罪悪感を抱く必要は一切ありません」

 その真摯な眼差しに、慎一の心の中のわだかまりが、すっと溶けていくのを感じた。そうだ、この男はただ儲けたいだけではない。彼の理論の根底には、顧客にとっても会社にとっても最も幸福な結果を導き出したいという、純粋な思いがあるのだ。

「……わかった。君の言う通りや。やろう、そのアンカリング戦略で」

 慎一が決断すると、理人は小さく、しかしはっきりと安堵の息を漏らした。

「ありがとうございます」

 一ヶ月後、新サービスは三つの価格プランでリリースされた。結果は、劇的だった。
 事前の予測では、大半の顧客が最も安い梅プランに流れるのではないかと危惧する声も社内にはあった。しかし、蓋を開けてみれば、契約者の七割以上が理人の狙い通り「竹プラン」を選択したのだ。売上は、当初の事業計画を大幅に上回る、驚異的なスタートを切った。
 社内は、久しぶりの明るいニュースに沸き返った。特に、これまで理人に懐疑的だった営業部の田中部長が、自分のことのように喜んでいる。

「社長! やりましたね! あの冬月先生という青年、ただの頭でっかちじゃなかったですね!」

 慎一も、社員たちの笑顔を見るのは久しぶりだった。だが、彼の目は喧騒の中心から少し離れた場所で、静かにモニターを見つめる理人の背中を捉えていた。
 彼は、この成功を喜んでいるのだろうか。それとも、すべては計算通りだと、冷ややかに結果を眺めているだけなのだろうか。確かめたい衝動に駆られ、慎一は人混みをかき分けて理人の元へ向かった。

「冬月くん、やったな。君のおかげや」

 慎一が肩をぽんと叩くと、理人は少し驚いたように振り返った。

「いえ、予測通りの結果が出ただけです。統計的に当然の帰結ですから」

 そう答える口調は相変わらずクールだった。だが、慎一には分かった。彼の頬がわずかに高揚している。そして、その瞳の奥には抑えきれない喜びの光が揺らめいていた。
 慎一は、思わず笑みをこぼした。

「素直やないな。まあええわ。今夜は祝勝会や。君も主役やから、絶対に来てや」
「私は、そういう場はあまり……」
「ええからええから!」

 慎一は理人の腕をぐいと掴んだ。その瞬間、理人の体が硬直したのが分かった。スーツ越しに触れた腕は、驚くほど細い。だが、その奥には確かな意志の強さが感じられた。
 この冷たい理論家が時折見せる人間らしい表情。それに気づくたびに、慎一の心臓がなぜか少しだけ速く脈打つのだった。
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