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第06話「ノイズとシグナル」
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アンカリング戦略の成功を皮切りに、ネクストリープの業績は目に見えて回復し始めた。理人が次々と打ち出す行動経済学に基づいた施策は面白いように当たり、社内は活気を取り戻していた。慎一も経営者としての自信を取り戻し、社員たちの顔にも笑顔が増えた。理人との関係も、仕事上のパートナーとして、そしてそれ以上の存在として、確かな信頼関係が築かれつつあった。
このまま、すべてがうまくいく。慎一は、そう信じかけていた。
その日、慎一は旧知の取引先である大手企業の役員と会食していた。業績回復を祝う和やかな席になるはずだった。しかし、役員の口から出たのは、慎一の心に冷水を浴びせる言葉だった。
「夏目くん、最近入ったという冬月理人くんのことだが……あまり、信用しない方がいいかもしれないよ」
「え? どういうことですか?」
慎一は思わず聞き返した。役員は、声を潜めて続ける。
「彼の前の職場を知っているかね? 業界最大手の、ギガ・ソリューションズだ」
ギガ・ソリューションズ。その名前は、慎一もよく知っていた。ネクストリープにとっては、最も手強いライバル企業の一つだ。
「彼がギガ社を辞めた理由が、あまり良くない噂でね。どうやら、会社の重要な企業秘密を持ち出して、トラブルになったらしい。まあ、噂だからどこまで本当かは分からないが……」
慎一の頭が、真っ白になった。理人が、ギガ・ソリューションズにいた? 企業秘密を持ち出した? そんな馬鹿な。あの理人が、そんなことをするはずがない。
だが、役員の言葉は毒のように慎一の心に染み込んでいく。そういえば、理人は自分の過去についてほとんど語ろうとしなかった。なぜ、ギガ社というエリートコースを捨てて、うちのような中小企業に来たのか。彼ほどの才能があれば、引く手あまたのはずだ。
「いや、そんな……何かの間違いですよ。彼は、そんな人間じゃありません」
慎一は必死で否定したが、その声は弱々しく震えていた。
「だといいんだがね。念のため、忠告しておこうと思ってね。最近、君の会社の動きがどうもギガ社の戦略と似ている、という声もあってね……」
会食を終え、会社に戻る足取りは鉛のように重かった。オフィスには、まだ理人の姿があった。彼は、いつものようにモニターに向かい、膨大なデータと向き合っている。その真剣な横顔を見ていると、先ほどの噂が嘘のように思えた。
しかし、一度芽生えた疑念は簡単には消えない。
「……冬月くん」
慎一が声をかけると、理人はゆっくりとこちらを振り返った。
「お疲れ様です。どうかしましたか? 顔色が優れませんが」
「いや……なんでもない。ちょっと、飲みすぎただけや」
慎一は、真実を問い詰めることができなかった。もし、噂が本当だったら? 理人を信じたい気持ちと、会社を守らなければならない責任感が、心の中で激しくせめぎ合っていた。
翌日から、慎一は理人に対してどこかぎこちない態度をとるようになってしまった。理人もそんな慎一の変化に気づいているようだったが、何も聞いてはこなかった。二人の間に目に見えない溝が生まれ、それは日を追うごとに深くなっていった。
そんな中、事件は起きた。
ネクストリープが満を持して発表した新サービスのプロモーション戦略。その内容が、発表の数日前にギガ・ソリューションズによって酷似した形で先行リリースされたのだ。偶然とは考えられないタイミングと内容だった。社内は騒然となった。情報が、どこかから漏れている。
社員たちの疑惑の目は、自然と理人に向けられた。
「あいつ、やっぱりギガ社のスパイだったんじゃないか……」
「最近のウチの戦略、全部あいつが立ててたんだろ?」
ロッカールームで交わされる社員たちのひそひそ話が、慎一の耳にも届いてくる。慎一は、社員たちを諌めながらも、心の動揺を隠せなかった。
これは、ただの偶然なのか。それとも、意図的に仕組まれた罠なのか。
理人の口から、直接真実を聞かなければならない。
慎一は、重い足取りで社長室に戻った。そこには、理人が静かに立っていた。
「……話があります」
理人が、先に口を開いた。その表情は、いつも以上に硬く感情が読み取れない。
「ああ、俺もや。座ってくれ」
慎一は理人をソファに促し、自分もその向かいに腰を下ろした。重苦しい沈黙が、二人を支配する。
「今回の情報漏洩の件、私が疑われていることは分かっています」
理人は、まっすぐに慎一の目を見て言った。
「今回の件と私がギガ・ソリューションズに在籍していたことは、統計学的に言えば『相関関係』はあっても、そこに『因果関係』があるとは限りません」
「相関と因果……?」
「はい。例えば、『アイスクリームの売上が上がると、水難事故が増える』というデータがあったとします。この二つには、確かに正の相関があります。しかし、だからといって『アイスクリームが水難事故の原因だ』とは言えませんよね? 真の原因は、その背後にある『気温の上昇』という第三の因子です」
理人は、動揺を抑えるように、いつもの理路整然とした口調で説明を始めた。
「今回の件も同じです。私がギガ社にいたという事実と、情報が漏洩したという事実。この二つが同時に起きているからといって、私が漏洩の原因だと結論づけるのは、統計学的に見て早計です」
その言葉は正論だった。だが、今の慎一にはただの言い訳にしか聞こえなかった。
「理屈は分かった。けどな、状況証拠は君が限りなく黒に近いことを示してるんや。俺は、社長として会社を守る責任がある」
慎一の声が震える。信じたい。心の底からそう思っている。だが、信じきることができない自分が、もどかしくて悔しかった。
「……あなたは、私を信じてくれないんですね」
理人の声に、初めてはっきりとした失望の色が浮かんだ。その表情に、慎一の心臓が痛む。
「信じたいんや! けど、どうやって信じろっちゅうんや! 君は、自分の過去について何一つ話してくれへんかったやないか!」
思わず、感情が爆発した。慎一は立ち上がり、理人を睨みつける。理人もまた、静かに立ち上がった。
「……分かりました。これ以上、あなたと会社にご迷惑はかけられません。コンサルタント契約は、本日付けで解消させていただきます」
そう言うと、理人は深々と頭を下げ、社長室を出て行こうとした。
「待て!」
慎一は、彼の腕を掴もうと手を伸ばした。だが、その手は空を切る。理人の背中は、もう振り返らなかった。
一人残された社長室で、慎一は崩れるようにソファに座り込んだ。これで良かったのか。本当に、彼をこのまま行かせてしまって良かったのか。答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。
窓の外では、厚い雲が空を覆い始め、まるでこれからのネクストリープの運命を暗示しているかのようだった。
このまま、すべてがうまくいく。慎一は、そう信じかけていた。
その日、慎一は旧知の取引先である大手企業の役員と会食していた。業績回復を祝う和やかな席になるはずだった。しかし、役員の口から出たのは、慎一の心に冷水を浴びせる言葉だった。
「夏目くん、最近入ったという冬月理人くんのことだが……あまり、信用しない方がいいかもしれないよ」
「え? どういうことですか?」
慎一は思わず聞き返した。役員は、声を潜めて続ける。
「彼の前の職場を知っているかね? 業界最大手の、ギガ・ソリューションズだ」
ギガ・ソリューションズ。その名前は、慎一もよく知っていた。ネクストリープにとっては、最も手強いライバル企業の一つだ。
「彼がギガ社を辞めた理由が、あまり良くない噂でね。どうやら、会社の重要な企業秘密を持ち出して、トラブルになったらしい。まあ、噂だからどこまで本当かは分からないが……」
慎一の頭が、真っ白になった。理人が、ギガ・ソリューションズにいた? 企業秘密を持ち出した? そんな馬鹿な。あの理人が、そんなことをするはずがない。
だが、役員の言葉は毒のように慎一の心に染み込んでいく。そういえば、理人は自分の過去についてほとんど語ろうとしなかった。なぜ、ギガ社というエリートコースを捨てて、うちのような中小企業に来たのか。彼ほどの才能があれば、引く手あまたのはずだ。
「いや、そんな……何かの間違いですよ。彼は、そんな人間じゃありません」
慎一は必死で否定したが、その声は弱々しく震えていた。
「だといいんだがね。念のため、忠告しておこうと思ってね。最近、君の会社の動きがどうもギガ社の戦略と似ている、という声もあってね……」
会食を終え、会社に戻る足取りは鉛のように重かった。オフィスには、まだ理人の姿があった。彼は、いつものようにモニターに向かい、膨大なデータと向き合っている。その真剣な横顔を見ていると、先ほどの噂が嘘のように思えた。
しかし、一度芽生えた疑念は簡単には消えない。
「……冬月くん」
慎一が声をかけると、理人はゆっくりとこちらを振り返った。
「お疲れ様です。どうかしましたか? 顔色が優れませんが」
「いや……なんでもない。ちょっと、飲みすぎただけや」
慎一は、真実を問い詰めることができなかった。もし、噂が本当だったら? 理人を信じたい気持ちと、会社を守らなければならない責任感が、心の中で激しくせめぎ合っていた。
翌日から、慎一は理人に対してどこかぎこちない態度をとるようになってしまった。理人もそんな慎一の変化に気づいているようだったが、何も聞いてはこなかった。二人の間に目に見えない溝が生まれ、それは日を追うごとに深くなっていった。
そんな中、事件は起きた。
ネクストリープが満を持して発表した新サービスのプロモーション戦略。その内容が、発表の数日前にギガ・ソリューションズによって酷似した形で先行リリースされたのだ。偶然とは考えられないタイミングと内容だった。社内は騒然となった。情報が、どこかから漏れている。
社員たちの疑惑の目は、自然と理人に向けられた。
「あいつ、やっぱりギガ社のスパイだったんじゃないか……」
「最近のウチの戦略、全部あいつが立ててたんだろ?」
ロッカールームで交わされる社員たちのひそひそ話が、慎一の耳にも届いてくる。慎一は、社員たちを諌めながらも、心の動揺を隠せなかった。
これは、ただの偶然なのか。それとも、意図的に仕組まれた罠なのか。
理人の口から、直接真実を聞かなければならない。
慎一は、重い足取りで社長室に戻った。そこには、理人が静かに立っていた。
「……話があります」
理人が、先に口を開いた。その表情は、いつも以上に硬く感情が読み取れない。
「ああ、俺もや。座ってくれ」
慎一は理人をソファに促し、自分もその向かいに腰を下ろした。重苦しい沈黙が、二人を支配する。
「今回の情報漏洩の件、私が疑われていることは分かっています」
理人は、まっすぐに慎一の目を見て言った。
「今回の件と私がギガ・ソリューションズに在籍していたことは、統計学的に言えば『相関関係』はあっても、そこに『因果関係』があるとは限りません」
「相関と因果……?」
「はい。例えば、『アイスクリームの売上が上がると、水難事故が増える』というデータがあったとします。この二つには、確かに正の相関があります。しかし、だからといって『アイスクリームが水難事故の原因だ』とは言えませんよね? 真の原因は、その背後にある『気温の上昇』という第三の因子です」
理人は、動揺を抑えるように、いつもの理路整然とした口調で説明を始めた。
「今回の件も同じです。私がギガ社にいたという事実と、情報が漏洩したという事実。この二つが同時に起きているからといって、私が漏洩の原因だと結論づけるのは、統計学的に見て早計です」
その言葉は正論だった。だが、今の慎一にはただの言い訳にしか聞こえなかった。
「理屈は分かった。けどな、状況証拠は君が限りなく黒に近いことを示してるんや。俺は、社長として会社を守る責任がある」
慎一の声が震える。信じたい。心の底からそう思っている。だが、信じきることができない自分が、もどかしくて悔しかった。
「……あなたは、私を信じてくれないんですね」
理人の声に、初めてはっきりとした失望の色が浮かんだ。その表情に、慎一の心臓が痛む。
「信じたいんや! けど、どうやって信じろっちゅうんや! 君は、自分の過去について何一つ話してくれへんかったやないか!」
思わず、感情が爆発した。慎一は立ち上がり、理人を睨みつける。理人もまた、静かに立ち上がった。
「……分かりました。これ以上、あなたと会社にご迷惑はかけられません。コンサルタント契約は、本日付けで解消させていただきます」
そう言うと、理人は深々と頭を下げ、社長室を出て行こうとした。
「待て!」
慎一は、彼の腕を掴もうと手を伸ばした。だが、その手は空を切る。理人の背中は、もう振り返らなかった。
一人残された社長室で、慎一は崩れるようにソファに座り込んだ。これで良かったのか。本当に、彼をこのまま行かせてしまって良かったのか。答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。
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