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第11話「愛の期待値」
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公正取引委員会への告発状を提出してから、数週間。ネクストリープのオフィスは、嵐の前の静けさに包まれていた。やるべきことはすべてやった。あとは、公的な調査機関がギガ・ソリューションズの不正を暴き出してくれるのを待つだけだ。
だが、相手は巨大企業。政財界にも強い影響力を持っている。このままもみ消されてしまうのではないか。そんな不安が、社員たちの間に暗い影を落としていた。慎一もまた、経営者として、そして一人の人間として、言いようのないプレッシャーに苛まれていた。
そんなある日の夜、慎一は一人、社長室で窓の外を眺めていた。眠れない夜が、もう何日も続いている。
「眠れませんか」
静かな声に振り返ると、理人が立っていた。彼もまた、この戦いの中心人物として計り知れない重圧と戦っているはずだった。
「ああ。……少しな。君こそ、大丈夫か」
「私は平気です。すべてのデータは、我々の正しさを証明している。あとは、確率の問題ですから」
そう言う理人の顔は青白く、少し痩せたように見えた。強がっているのは明らかだった。
慎一は、理人の手を取りソファに座らせた。そして、自分もその隣に腰を下ろす。
「なあ、理人。もし、俺たちが負けたら……どうなるんやろな」
弱気な自分を見せたくはなかったが、不安を吐き出さずにはいられなかった。
理人は、少しの間黙って考えていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……経済学には、『期待値』という概念があります」
「期待値?」
「はい。ある行動を取った時に、得られるであろう結果の平均値のことです。例えば、コインを投げて表が出たら百円もらえ、裏が出たら何ももらえない、というゲームがあったとします。このゲームの期待値は、百円がもらえる確率二分の一と、ゼロ円になる確率二分の一を掛け合わせて足したもの、つまり五十円です」
理人は慎一の手のひらに、指で数式を書く真似をした。
「私たちの戦いも、同じです。勝てば、ギガ社の不正は正され、データ業界は健全化し、私たちの会社も大きく成長できる。その価値は、計り知れないほど大きい。負ければ、すべてを失うかもしれない。でも……」
理人は言葉を切り、慎一の目をじっと見つめた。
「たとえ負けたとしても、私たちは『正しいことをしようとした』という事実までは失いません。そして、私はあなたという最高のパートナーに出会えた。その価値を考えれば、この戦いの『期待値』は、たとえどんな結果になろうとも間違いなくプラスなんです。だから、何も恐れることはありません」
その言葉は、どんな慰めよりも、どんな激励よりも、慎一の心に深く温かく染み渡った。そうだ。自分たちは、もうすでにかけてがえのないものを手に入れているのだ。
慎一は、理人の頬にそっと手を伸ばした。理人の体が、小さくこわばる。
「理人」
「……はい」
「俺、君が好きや。」
それは、ずっと心の中にあったごく自然な感情だった。だが、口に出した瞬間、世界が輝きを増したように感じられた。
理人の目が、大きく見開かれる。その白い頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……な、何を、突然……。今は、そんな話をしている場合では……」
感情が高ぶったせいで、彼の口調が早くなる。
「今やから言うんや。どんな結果になっても、この気持ちだけは伝えとかなあかんと思った」
慎一は、理人の顔をゆっくりと引き寄せた。理人は抵抗しなかった。ただ、固く目を閉じ、その時を待っている。
二人の唇が、そっと重なった。
それは、ほんの一瞬の優しいキスだった。だが、その瞬間、二人の間にあった最後の壁が音を立てて崩れていくのを感じた。データも理論も確率も、すべてが意味をなさない。ただ純粋な感情だけが、そこにはあった。
唇が離れた後、理人は顔を真っ赤にしてうつむいていた。
「……非合理、極まりない」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
「せやろ? でも、これが俺の答えや」
慎一が笑うと、理人もつられたように小さく笑った。それは、慎一が今まで見た中で一番美しい笑顔だった。
その翌朝、事態は大きく動いた。
公正取引委員会が、ギガ・ソリューションズへの強制調査に入ったというニュースが速報で流れたのだ。理人が突き止めたデータ改ざんの証拠が、決定打となったらしかった。テレビには、ギガ社の本社に段ボール箱を運び込む調査官たちの姿が映し出されている。
ネクストリープのオフィスは、割れんばかりの歓声に包まれた。社員たちは抱き合い、涙を流して勝利を喜んだ。
慎一と理人は、その輪の中心でただ静かにお互いを見つめ合っていた。
言葉は、いらなかった。
二人の目には、同じ未来が映っていた。数式では決して解くことのできない、無限の可能性に満ちた未来が。
長い戦いは、終わった。そして、ここからが本当の始まりなのだ。
だが、相手は巨大企業。政財界にも強い影響力を持っている。このままもみ消されてしまうのではないか。そんな不安が、社員たちの間に暗い影を落としていた。慎一もまた、経営者として、そして一人の人間として、言いようのないプレッシャーに苛まれていた。
そんなある日の夜、慎一は一人、社長室で窓の外を眺めていた。眠れない夜が、もう何日も続いている。
「眠れませんか」
静かな声に振り返ると、理人が立っていた。彼もまた、この戦いの中心人物として計り知れない重圧と戦っているはずだった。
「ああ。……少しな。君こそ、大丈夫か」
「私は平気です。すべてのデータは、我々の正しさを証明している。あとは、確率の問題ですから」
そう言う理人の顔は青白く、少し痩せたように見えた。強がっているのは明らかだった。
慎一は、理人の手を取りソファに座らせた。そして、自分もその隣に腰を下ろす。
「なあ、理人。もし、俺たちが負けたら……どうなるんやろな」
弱気な自分を見せたくはなかったが、不安を吐き出さずにはいられなかった。
理人は、少しの間黙って考えていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……経済学には、『期待値』という概念があります」
「期待値?」
「はい。ある行動を取った時に、得られるであろう結果の平均値のことです。例えば、コインを投げて表が出たら百円もらえ、裏が出たら何ももらえない、というゲームがあったとします。このゲームの期待値は、百円がもらえる確率二分の一と、ゼロ円になる確率二分の一を掛け合わせて足したもの、つまり五十円です」
理人は慎一の手のひらに、指で数式を書く真似をした。
「私たちの戦いも、同じです。勝てば、ギガ社の不正は正され、データ業界は健全化し、私たちの会社も大きく成長できる。その価値は、計り知れないほど大きい。負ければ、すべてを失うかもしれない。でも……」
理人は言葉を切り、慎一の目をじっと見つめた。
「たとえ負けたとしても、私たちは『正しいことをしようとした』という事実までは失いません。そして、私はあなたという最高のパートナーに出会えた。その価値を考えれば、この戦いの『期待値』は、たとえどんな結果になろうとも間違いなくプラスなんです。だから、何も恐れることはありません」
その言葉は、どんな慰めよりも、どんな激励よりも、慎一の心に深く温かく染み渡った。そうだ。自分たちは、もうすでにかけてがえのないものを手に入れているのだ。
慎一は、理人の頬にそっと手を伸ばした。理人の体が、小さくこわばる。
「理人」
「……はい」
「俺、君が好きや。」
それは、ずっと心の中にあったごく自然な感情だった。だが、口に出した瞬間、世界が輝きを増したように感じられた。
理人の目が、大きく見開かれる。その白い頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……な、何を、突然……。今は、そんな話をしている場合では……」
感情が高ぶったせいで、彼の口調が早くなる。
「今やから言うんや。どんな結果になっても、この気持ちだけは伝えとかなあかんと思った」
慎一は、理人の顔をゆっくりと引き寄せた。理人は抵抗しなかった。ただ、固く目を閉じ、その時を待っている。
二人の唇が、そっと重なった。
それは、ほんの一瞬の優しいキスだった。だが、その瞬間、二人の間にあった最後の壁が音を立てて崩れていくのを感じた。データも理論も確率も、すべてが意味をなさない。ただ純粋な感情だけが、そこにはあった。
唇が離れた後、理人は顔を真っ赤にしてうつむいていた。
「……非合理、極まりない」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
「せやろ? でも、これが俺の答えや」
慎一が笑うと、理人もつられたように小さく笑った。それは、慎一が今まで見た中で一番美しい笑顔だった。
その翌朝、事態は大きく動いた。
公正取引委員会が、ギガ・ソリューションズへの強制調査に入ったというニュースが速報で流れたのだ。理人が突き止めたデータ改ざんの証拠が、決定打となったらしかった。テレビには、ギガ社の本社に段ボール箱を運び込む調査官たちの姿が映し出されている。
ネクストリープのオフィスは、割れんばかりの歓声に包まれた。社員たちは抱き合い、涙を流して勝利を喜んだ。
慎一と理人は、その輪の中心でただ静かにお互いを見つめ合っていた。
言葉は、いらなかった。
二人の目には、同じ未来が映っていた。数式では決して解くことのできない、無限の可能性に満ちた未来が。
長い戦いは、終わった。そして、ここからが本当の始まりなのだ。
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