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第2話「餡の甘さと舌の苦み」
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古い日本家屋の朝は冷え込む。布団から出るのに強い意志力を必要とする季節だ。湊は意を決して布団を跳ね除け、身支度を整えると、ノートパソコンとICレコーダーを鞄に詰め込んだ。
今日は『月光堂』に取材交渉に行くつもりだった。
昨夜食べたどら焼きは、衝撃的なほど美味かった。皮はしっとりと柔らかく、卵の風味が濃厚で、中の粒あんは豆の輪郭をしっかりと感じさせながらも、口の中でとろけるように滑らかだった。甘すぎず、それでいて満足感のある甘さ。それは、作り手の誠実さがそのまま形になったような味だった。
この味を、あの職人の手を、記事にしたい。
その衝動だけで、湊は再び『月光堂』の暖簾をくぐった。
時刻は午前十時。客足はまだ疎らだろうと見込んでの時間帯だ。
「いらっしゃいませ」
昨日と同じ、低く響く声が出迎える。
蓮は帳場の奥で、贈答用の箱を組み立てている最中だった。湊の顔を見ると、わずかに目を細める。昨日の不審な客だと認識されたのかもしれない。
「あ、あの! 昨日はごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
湊はまず、一番伝えたかった感想を口にする。
蓮の手が止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「……どうも」
反応は薄い。だが、拒絶されている雰囲気でもない。湊は勇気を振り絞り、懐から名刺を取り出した。
「実は私、フリーでライターをしております一ノ瀬と申します。昨日のどら焼きに感動しまして……ぜひ、こちらの店舗と、職人であるあなたを取材させていただきたいのですが」
一気にまくし立て、湊は名刺を差し出す。
蓮は名刺を受け取ることなく、じっと湊を見つめた。その視線の鋭さに、湊は思わず一歩後退る。
「取材?」
「はい。この街の隠れた名店や、伝統を守る職人さんにスポットを当てた記事を書きたくて」
嘘ではないが、企画が通っているわけではない。これは湊が自分自身を救うために勝手に始めた企画だ。
蓮は短くため息をつき、作業に戻ってしまった。
「お断りします」
「えっ」
「うちは宣伝など必要ありません。それに、メディアの類は嫌いです」
取り付く島もないとはこのことだ。背中を向けた蓮からは、明確な拒絶のオーラが漂っている。
「そ、そこを何とか! ご迷惑はおかけしません。写真も、お顔が出ないように配慮しますし、お話を聞かせていただくだけでも」
「邪魔です。帰ってください」
声の温度が一度下がった。
これ以上食い下がれば、本当に出入り禁止になりかねない。湊は唇を噛み、引き下がるしかなかった。
「……失礼しました」
肩を落として店を出る。
甘かった。美味しい和菓子を作る人が、必ずしも友好的であるとは限らない。むしろ、頑固な職人ほどメディアを嫌う傾向にあるのは、これまでの経験で知っていたはずだ。
だが、諦めきれない。
あのどら焼きの味と、あの大きな手の記憶が、湊の心を捉えて離さないのだ。
それから、湊の『月光堂』通いが始まった。
取材のお願いは一旦封印し、まずは客として信用を得る作戦に変更したのだ。毎日店に通い、違う菓子を一つ二つ買う。そして、「美味しかったです」と一言だけ伝えて帰る。
三日目、蓮は無言で釣り銭を渡してきた。
五日目、湊が店に入ると、蓮がわずかに会釈をしたような気がした。
そして一週間が経ったある日。
その日は朝から雪がちらついていた。底冷えのする午後、湊がいつものように店を訪れると、蓮が店先で何やら困った顔をして立ち尽くしている。
視線の先には、店の看板の足元に置かれた重そうな袋があった。
「どうかしましたか?」
湊が声をかけると、蓮は驚いたように肩を震わせた。
「……業者、が。配送の手違いで、小豆の袋をここに置いていってしまって」
見れば三十キロはありそうな業務用のアズキの袋だ。本来なら勝手口や倉庫に運ばれるべきものが、手違いで店先に配送されてしまったらしい。
「運びましょうか?」
「いえ、一人で大丈夫です」
蓮はそう言うが、彼が右手を庇うようにしているのを湊は見逃さなかった。
「手、怪我してるんじゃないですか?」
「……たいしたことありません。少し、ひねっただけです」
職人にとって手は命だ。無理をして悪化させたら大変なことになる。
「駄目です。僕がやります。こう見えても、引越しのバイト経験があるんで」
湊は有無を言わさずコートを脱ぎ、袖をまくり上げた。蓮が止める間もなく袋に手をかけ、腰を落とす。三十キロは確かに重いが、持てない重さではない。
「どこへ運びますか?」
「……裏の、加工場へ」
蓮は渋々といった様子で案内を始める。
店の奥、暖簾の向こう側へ足を踏み入れるのは初めてだった。そこには清潔で、甘い香りが充満する工房が広がっていた。使い込まれた道具たちが整然と並び、大きな銅鍋が鈍い光を放っている。
指定された場所に袋を下ろすと、湊は額に滲んだ汗を拭った。
「ふぅ、なんとかなりましたね」
笑顔で振り返ると、蓮が複雑な表情で立っていた。
「……助かりました」
「いえいえ、これくらいお安い御用です。美味しい和菓子のお礼です」
湊がコートを着ようとすると、蓮が「待ってください」と声をかけた。
彼は奥の棚から小皿を取り出し、そこに出来立てらしい湯気の立つものを乗せて戻ってきた。
「お代は結構ですので。……味見です」
差し出されたのは、まだ温かい饅頭だった。
「え、いいんですか?」
「形が崩れた失敗作ですから」
どう見ても綺麗な丸い形をしている。これは、蓮なりの不器用な感謝なのだと湊は悟った。
「いただきます」
一口食べると、薄皮の中から熱々のこし餡が溢れ出した。上品な甘さが、冷えた体に染み渡っていく。
「美味しい……! 今まで食べた饅頭の中で一番美味しいです」
湊が満面の笑みを向けると、蓮はふいと顔を背けた。だが、その耳は明らかに赤い。
「……大げさです」
「本当ですよ。高遠さんの作るお菓子は、すごく優しい味がします」
その言葉に、蓮がぴくりと反応した。
彼はゆっくりと湊の方を向き、探るような瞳で見つめてくる。
「……優しい、ですか」
「はい。食べた人を幸せにしたいって気持ちが、伝わってくる気がします」
蓮はしばらく沈黙し、それからポツリと言った。
「……あなたは、変わった人だ」
その声には、最初の頃のような棘はなかった。
ほんの少しだけ、二人の間の氷が解けたような気がした。その夜、湊は久しぶりにパソコンを開き、キーボードを叩いた。記事のタイトルはまだ決まらない。けれど、あの職人の不器用な優しさを、どうしても言葉に残しておきたかった。
今日は『月光堂』に取材交渉に行くつもりだった。
昨夜食べたどら焼きは、衝撃的なほど美味かった。皮はしっとりと柔らかく、卵の風味が濃厚で、中の粒あんは豆の輪郭をしっかりと感じさせながらも、口の中でとろけるように滑らかだった。甘すぎず、それでいて満足感のある甘さ。それは、作り手の誠実さがそのまま形になったような味だった。
この味を、あの職人の手を、記事にしたい。
その衝動だけで、湊は再び『月光堂』の暖簾をくぐった。
時刻は午前十時。客足はまだ疎らだろうと見込んでの時間帯だ。
「いらっしゃいませ」
昨日と同じ、低く響く声が出迎える。
蓮は帳場の奥で、贈答用の箱を組み立てている最中だった。湊の顔を見ると、わずかに目を細める。昨日の不審な客だと認識されたのかもしれない。
「あ、あの! 昨日はごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
湊はまず、一番伝えたかった感想を口にする。
蓮の手が止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「……どうも」
反応は薄い。だが、拒絶されている雰囲気でもない。湊は勇気を振り絞り、懐から名刺を取り出した。
「実は私、フリーでライターをしております一ノ瀬と申します。昨日のどら焼きに感動しまして……ぜひ、こちらの店舗と、職人であるあなたを取材させていただきたいのですが」
一気にまくし立て、湊は名刺を差し出す。
蓮は名刺を受け取ることなく、じっと湊を見つめた。その視線の鋭さに、湊は思わず一歩後退る。
「取材?」
「はい。この街の隠れた名店や、伝統を守る職人さんにスポットを当てた記事を書きたくて」
嘘ではないが、企画が通っているわけではない。これは湊が自分自身を救うために勝手に始めた企画だ。
蓮は短くため息をつき、作業に戻ってしまった。
「お断りします」
「えっ」
「うちは宣伝など必要ありません。それに、メディアの類は嫌いです」
取り付く島もないとはこのことだ。背中を向けた蓮からは、明確な拒絶のオーラが漂っている。
「そ、そこを何とか! ご迷惑はおかけしません。写真も、お顔が出ないように配慮しますし、お話を聞かせていただくだけでも」
「邪魔です。帰ってください」
声の温度が一度下がった。
これ以上食い下がれば、本当に出入り禁止になりかねない。湊は唇を噛み、引き下がるしかなかった。
「……失礼しました」
肩を落として店を出る。
甘かった。美味しい和菓子を作る人が、必ずしも友好的であるとは限らない。むしろ、頑固な職人ほどメディアを嫌う傾向にあるのは、これまでの経験で知っていたはずだ。
だが、諦めきれない。
あのどら焼きの味と、あの大きな手の記憶が、湊の心を捉えて離さないのだ。
それから、湊の『月光堂』通いが始まった。
取材のお願いは一旦封印し、まずは客として信用を得る作戦に変更したのだ。毎日店に通い、違う菓子を一つ二つ買う。そして、「美味しかったです」と一言だけ伝えて帰る。
三日目、蓮は無言で釣り銭を渡してきた。
五日目、湊が店に入ると、蓮がわずかに会釈をしたような気がした。
そして一週間が経ったある日。
その日は朝から雪がちらついていた。底冷えのする午後、湊がいつものように店を訪れると、蓮が店先で何やら困った顔をして立ち尽くしている。
視線の先には、店の看板の足元に置かれた重そうな袋があった。
「どうかしましたか?」
湊が声をかけると、蓮は驚いたように肩を震わせた。
「……業者、が。配送の手違いで、小豆の袋をここに置いていってしまって」
見れば三十キロはありそうな業務用のアズキの袋だ。本来なら勝手口や倉庫に運ばれるべきものが、手違いで店先に配送されてしまったらしい。
「運びましょうか?」
「いえ、一人で大丈夫です」
蓮はそう言うが、彼が右手を庇うようにしているのを湊は見逃さなかった。
「手、怪我してるんじゃないですか?」
「……たいしたことありません。少し、ひねっただけです」
職人にとって手は命だ。無理をして悪化させたら大変なことになる。
「駄目です。僕がやります。こう見えても、引越しのバイト経験があるんで」
湊は有無を言わさずコートを脱ぎ、袖をまくり上げた。蓮が止める間もなく袋に手をかけ、腰を落とす。三十キロは確かに重いが、持てない重さではない。
「どこへ運びますか?」
「……裏の、加工場へ」
蓮は渋々といった様子で案内を始める。
店の奥、暖簾の向こう側へ足を踏み入れるのは初めてだった。そこには清潔で、甘い香りが充満する工房が広がっていた。使い込まれた道具たちが整然と並び、大きな銅鍋が鈍い光を放っている。
指定された場所に袋を下ろすと、湊は額に滲んだ汗を拭った。
「ふぅ、なんとかなりましたね」
笑顔で振り返ると、蓮が複雑な表情で立っていた。
「……助かりました」
「いえいえ、これくらいお安い御用です。美味しい和菓子のお礼です」
湊がコートを着ようとすると、蓮が「待ってください」と声をかけた。
彼は奥の棚から小皿を取り出し、そこに出来立てらしい湯気の立つものを乗せて戻ってきた。
「お代は結構ですので。……味見です」
差し出されたのは、まだ温かい饅頭だった。
「え、いいんですか?」
「形が崩れた失敗作ですから」
どう見ても綺麗な丸い形をしている。これは、蓮なりの不器用な感謝なのだと湊は悟った。
「いただきます」
一口食べると、薄皮の中から熱々のこし餡が溢れ出した。上品な甘さが、冷えた体に染み渡っていく。
「美味しい……! 今まで食べた饅頭の中で一番美味しいです」
湊が満面の笑みを向けると、蓮はふいと顔を背けた。だが、その耳は明らかに赤い。
「……大げさです」
「本当ですよ。高遠さんの作るお菓子は、すごく優しい味がします」
その言葉に、蓮がぴくりと反応した。
彼はゆっくりと湊の方を向き、探るような瞳で見つめてくる。
「……優しい、ですか」
「はい。食べた人を幸せにしたいって気持ちが、伝わってくる気がします」
蓮はしばらく沈黙し、それからポツリと言った。
「……あなたは、変わった人だ」
その声には、最初の頃のような棘はなかった。
ほんの少しだけ、二人の間の氷が解けたような気がした。その夜、湊は久しぶりにパソコンを開き、キーボードを叩いた。記事のタイトルはまだ決まらない。けれど、あの職人の不器用な優しさを、どうしても言葉に残しておきたかった。
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