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第8話「鏡開きの音と梅の馨り」
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一月十一日。鏡開きの日がやってきた。
昨夜の蔵での劇的な出来事から一睡もしないまま、湊と蓮は工房に立ち続けている。不思議と眠気はなかった。体中にアドレナリンが駆け巡り、高揚感が疲れを麻痺させているようだった。
加工場の神棚に供えられていた本物の鏡餅を下ろす。乾燥してひび割れた表面は、カチコチに硬化して石のようだ。
「さて、これを割るわけですが」
蓮が木槌を構える。その表情は、これから儀式を行う神官のように厳かだ。
「包丁で切っちゃ駄目なんですよね?」
「ええ。鏡餅は年神様の魂が宿るもの。刃物を入れるのは切腹を連想させて縁起が悪いとされています。だから、木槌で叩いて『開く』んです」
蓮が大きく振りかぶり、ドン、と鏡餅を叩く。
重い音が響くが、餅はびくともしない。
「……硬いですね」
「数日風に当てて乾燥させすぎました。これは骨が折れそうだ」
蓮が苦笑する。その笑顔に、湊は胸が温かくなるのを感じた。以前の彼なら、舌打ちをして一人でイライラしていただろう。だが今は、この困難すらも楽しんでいるように見える。
「僕も手伝います。反対側から押さえてますから」
「危ないですよ」
「大丈夫。蓮さんを信じてますから」
湊が餅の端をタオル越しにしっかりと押さえる。蓮は深く息を吸い込み、気合の入った声と共に木槌を振り下ろした。
ガッ、という音がして、餅の中心に亀裂が走る。
「よし、入った!」
「もう一撃いきます」
蓮のリズムに合わせて、湊も力を込める。二人の呼吸が重なり、硬い殻が少しずつ砕かれていく。
それはまるで、二人の間にあった見えない壁が、音を立てて崩れていくようだった。
パカンッ、と乾いた音がして、鏡餅が見事に割れた。
中から現れた断面は、白く輝いている。
「やった……!」
二人は顔を見合わせ、ハイタッチを交わした。蓮の手のひらは大きく、そして熱かった。
「これを細かく砕いて、焼いてからぜんざいに入れます。そして、これの出番です」
蓮が取り出したのは、昨夜蔵から見つけ出した『梅』の木型だ。
丁寧に洗われ、磨き上げられた木型は、長い眠りから覚めて喜んでいるように見える。
「白玉粉で生地を作って、この型で抜くんですね」
「はい。紅白の梅を作ります。普通のぜんざいに彩りを添えて、新年の祝いとします」
蓮の手つきは迷いがなかった。先代の残したノートを読み込み、父の技を再現しようとしている。いや、再現ではない。父の技を受け継ぎながら、蓮自身の感性を加えて昇華させようとしているのだ。
生地を練る手、型に押し込む指先の力加減、型から抜く瞬間の繊細な動き。
ポン、と小気味よい音と共に、可愛らしい梅の花が次々と生まれていく。
「綺麗だ……」
湊は息を呑んで見つめる。
ただの団子ではない。そこには、冬の厳しさを耐え抜き、春を待ちわびる生命力が宿っていた。
「湊さん、鍋の火加減をお願いします。小豆が踊らないように、静かに」
「了解です!」
湊は銅鍋の前に立ち、木べらでゆっくりと餡を混ぜる。
甘い湯気が立ち上り、顔を包み込む。幸せな匂いだ。
鍋の中でふっくらと煮えた小豆たちが、艶やかに光っている。蓮が炊き上げた極上の粒あんだ。
「味見、しますか?」
蓮が小皿に少量のぜんざいをよそい、差し出してくれた。
湊はフーフーと息を吹きかけ、口に運ぶ。
熱い。そして、甘い。
けれど、その甘さは決してくどくない。小豆の風味が鼻に抜け、あと口には上品な余韻だけが残る。そして何より、心に染み入るような優しさがあった。
「……美味しい。すごく、美味しいです」
湊の目から、自然と涙が滲んだ。
東京での激務、人間関係の軋轢、将来への不安。それらで冷え切っていた心の芯まで、この一杯が溶かしていくようだ。
「泣くほど不味いですか?」
蓮が心配そうに覗き込む。
「違いますよ、馬鹿。美味しすぎて泣いてるんです」
湊が袖で目を拭うと、蓮は安堵したように微笑み、そっと湊の頭に手を置いた。
「……良かった。あなたに、一番に食べてほしかった」
その低く甘い声は、ぜんざいよりも熱く湊の胸を焦がした。
「開店まであと二時間。仮眠を取りましょう」
蓮の提案に、湊は頷いた。
二人は工房の隅にある休憩スペースのソファに並んで座る。
狭いソファだ。肩と肩が触れ合う。
疲れがどっと押し寄せ、湊の瞼が重くなる。
「……おやすみなさい、湊さん」
「ん……おやすみなさい、蓮さん」
意識が薄れていく中、蓮がそっと毛布をかけてくれたのを感じた。そして、湊の頭が蓮の肩にもたれかかっても、彼は拒むことなく、その重みを受け止めてくれていた。
窓の外では、朝の光が降り積もった雪をキラキラと照らしている。
『月光堂』の新しい一日が、もうすぐ始まろうとしていた。それは単なる営業日ではなく、高遠蓮という職人の再生の日であり、一ノ瀬湊というライターの復活の日でもあった。
昨夜の蔵での劇的な出来事から一睡もしないまま、湊と蓮は工房に立ち続けている。不思議と眠気はなかった。体中にアドレナリンが駆け巡り、高揚感が疲れを麻痺させているようだった。
加工場の神棚に供えられていた本物の鏡餅を下ろす。乾燥してひび割れた表面は、カチコチに硬化して石のようだ。
「さて、これを割るわけですが」
蓮が木槌を構える。その表情は、これから儀式を行う神官のように厳かだ。
「包丁で切っちゃ駄目なんですよね?」
「ええ。鏡餅は年神様の魂が宿るもの。刃物を入れるのは切腹を連想させて縁起が悪いとされています。だから、木槌で叩いて『開く』んです」
蓮が大きく振りかぶり、ドン、と鏡餅を叩く。
重い音が響くが、餅はびくともしない。
「……硬いですね」
「数日風に当てて乾燥させすぎました。これは骨が折れそうだ」
蓮が苦笑する。その笑顔に、湊は胸が温かくなるのを感じた。以前の彼なら、舌打ちをして一人でイライラしていただろう。だが今は、この困難すらも楽しんでいるように見える。
「僕も手伝います。反対側から押さえてますから」
「危ないですよ」
「大丈夫。蓮さんを信じてますから」
湊が餅の端をタオル越しにしっかりと押さえる。蓮は深く息を吸い込み、気合の入った声と共に木槌を振り下ろした。
ガッ、という音がして、餅の中心に亀裂が走る。
「よし、入った!」
「もう一撃いきます」
蓮のリズムに合わせて、湊も力を込める。二人の呼吸が重なり、硬い殻が少しずつ砕かれていく。
それはまるで、二人の間にあった見えない壁が、音を立てて崩れていくようだった。
パカンッ、と乾いた音がして、鏡餅が見事に割れた。
中から現れた断面は、白く輝いている。
「やった……!」
二人は顔を見合わせ、ハイタッチを交わした。蓮の手のひらは大きく、そして熱かった。
「これを細かく砕いて、焼いてからぜんざいに入れます。そして、これの出番です」
蓮が取り出したのは、昨夜蔵から見つけ出した『梅』の木型だ。
丁寧に洗われ、磨き上げられた木型は、長い眠りから覚めて喜んでいるように見える。
「白玉粉で生地を作って、この型で抜くんですね」
「はい。紅白の梅を作ります。普通のぜんざいに彩りを添えて、新年の祝いとします」
蓮の手つきは迷いがなかった。先代の残したノートを読み込み、父の技を再現しようとしている。いや、再現ではない。父の技を受け継ぎながら、蓮自身の感性を加えて昇華させようとしているのだ。
生地を練る手、型に押し込む指先の力加減、型から抜く瞬間の繊細な動き。
ポン、と小気味よい音と共に、可愛らしい梅の花が次々と生まれていく。
「綺麗だ……」
湊は息を呑んで見つめる。
ただの団子ではない。そこには、冬の厳しさを耐え抜き、春を待ちわびる生命力が宿っていた。
「湊さん、鍋の火加減をお願いします。小豆が踊らないように、静かに」
「了解です!」
湊は銅鍋の前に立ち、木べらでゆっくりと餡を混ぜる。
甘い湯気が立ち上り、顔を包み込む。幸せな匂いだ。
鍋の中でふっくらと煮えた小豆たちが、艶やかに光っている。蓮が炊き上げた極上の粒あんだ。
「味見、しますか?」
蓮が小皿に少量のぜんざいをよそい、差し出してくれた。
湊はフーフーと息を吹きかけ、口に運ぶ。
熱い。そして、甘い。
けれど、その甘さは決してくどくない。小豆の風味が鼻に抜け、あと口には上品な余韻だけが残る。そして何より、心に染み入るような優しさがあった。
「……美味しい。すごく、美味しいです」
湊の目から、自然と涙が滲んだ。
東京での激務、人間関係の軋轢、将来への不安。それらで冷え切っていた心の芯まで、この一杯が溶かしていくようだ。
「泣くほど不味いですか?」
蓮が心配そうに覗き込む。
「違いますよ、馬鹿。美味しすぎて泣いてるんです」
湊が袖で目を拭うと、蓮は安堵したように微笑み、そっと湊の頭に手を置いた。
「……良かった。あなたに、一番に食べてほしかった」
その低く甘い声は、ぜんざいよりも熱く湊の胸を焦がした。
「開店まであと二時間。仮眠を取りましょう」
蓮の提案に、湊は頷いた。
二人は工房の隅にある休憩スペースのソファに並んで座る。
狭いソファだ。肩と肩が触れ合う。
疲れがどっと押し寄せ、湊の瞼が重くなる。
「……おやすみなさい、湊さん」
「ん……おやすみなさい、蓮さん」
意識が薄れていく中、蓮がそっと毛布をかけてくれたのを感じた。そして、湊の頭が蓮の肩にもたれかかっても、彼は拒むことなく、その重みを受け止めてくれていた。
窓の外では、朝の光が降り積もった雪をキラキラと照らしている。
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