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第9話「ぜんざいの湯気と蘇る言葉」
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「いらっしゃいませ。鏡開きのぜんざい、いかがですか」
暖簾をくぐって入ってきた常連客たちに、蓮の声が響く。以前のような無愛想さは消え、穏やかで落ち着いたトーンになっていた。
開店と同時に、『月光堂』には多くの客が訪れていた。昨夜の雪下ろしの騒ぎで、蔵が開いたという噂が広まっていたのかもしれない。あるいは、久しぶりに晴れた冬の日に誘われたのかもしれない。
店内には、ぜんざいの香ばしく甘い香りが充満している。
イートインスペースとして急遽用意した座敷で、客たちが椀を囲んでいる。
「あら、まあ。綺麗な梅の花だこと」
上品な老婦人が、椀の中に浮かぶ紅白の白玉を見て声を上げた。
「先代の木型で作ったんです。親父の代からある、梅の型で」
蓮が説明すると、老婦人は目を細めた。
「そうかい、そうかい。あの大旦那の……。懐かしいねえ。でも味は、蓮ちゃんの味だね。優しくて、丁寧で」
「……ありがとうございます」
蓮が深々と頭を下げる。その背中には、もう迷いはなかった。
湊はホールの手伝いをしながら、その光景をまぶしく見つめていた。
客たちの笑顔。湯気の向こうにある幸せな風景。
「お兄さん、お茶のお代わりもらえる?」
「はい、ただいま!」
忙しく動き回りながら、湊の頭の中では、猛烈な勢いで言葉が溢れ出していた。
書きたい。この光景を、この感動を、言葉にして伝えたい。
スランプで一文字も書けなくなっていたのが嘘のようだ。描写すべき情景、表現すべき感情が、次から次へと浮かんでくる。
『古都の冬、雪解けの路地に漂う小豆の香り。頑固な職人が守り抜いた蔵の中に、春を待つ梅の花が咲いていた――』
冒頭の文章が、電撃のように脳裏を走る。
湊は注文の合間を縫って、ポケットからメモ帳を取り出し、殴り書きした。
指が震える。書く喜びが、血液となって全身を駆け巡る。
(僕は、まだ書ける。いや、今まで以上に書ける)
蓮が職人として覚醒したように、湊もまた、ライターとしての魂を取り戻しつつあった。
「湊さん、三番テーブルにぜんざい二つです」
「あ、はい!」
蓮に呼ばれ、湊は我に返る。
トレイを受け取る際、蓮が小声で囁いた。
「……楽しそうですね」
「えっ?」
「顔が、輝いています。何か良いことでもありましたか」
「ふふ、秘密です。後で教えますよ」
湊がウインクしてみせると、蓮は呆れたように、しかし嬉しそうに口元を緩めた。
昼を過ぎても客足は途絶えなかった。
焼いた餅の香ばしさと、ふんわりとした紅白梅の白玉。そして特製の粒あん。このぜんざいは、間違いなく『月光堂』の新たな名物になるだろう。
夕方、ようやく客が引けた頃、一人の男性が店に入ってきた。
スーツ姿に眼鏡。手にはビジネスバッグ。観光客には見えない。
「いらっしゃいませ」
蓮が声をかけるが、男はショーケースには目もくれず、湊の方へ一直線に歩み寄ってきた。
「……一ノ瀬湊さんですね」
湊の心臓がドクリと跳ねた。
「え、あ、はい」
「東京の出版社、文芸社編集部の佐々木です。ずっと連絡がつかないので、実家の方にお邪魔したら、こちらにいると伺いまして」
編集者だ。
湊が逃げ出した仕事の、追手がやってきたのだ。
一瞬にして、店内の空気が凍りつく。
蓮が不審そうに眉をひそめ、カウンターから出てきた。
「……湊さんのお知り合いですか」
「ええ。担当編集です。一ノ瀬先生、締切を過ぎている原稿の件ですが……」
「あっ、すみません! その、電話も出られなくて」
湊は狼狽えた。ここでの時間が充実しすぎていて、東京での現実を完全にシャットアウトしていたツケが回ってきたのだ。
「才能あるあなたが、こんな田舎で何をしてるんですか。早く東京に戻って、執筆してください。皆待ってるんですよ」
佐々木の言葉は正論だった。だが、「こんな田舎」という響きに、湊はカチンときた。
同時に、蓮の表情が硬化したのを見逃さなかった。
「……帰るんですか」
蓮が低い声で問う。
「いえ、その……」
「一ノ瀬さん、車を用意してます。今すぐ行きましょう」
佐々木が湊の腕を引く。
「ちょっと待ってください!」
湊はその手を振り払った。
「原稿なら、書けます。ここで、書かせてください」
「はあ? そんな環境で良い仕事ができるわけがないでしょう。資料も設備もない」
「あります! ここには、僕が書くべき物語があるんです!」
湊は叫んだ。
「僕は『月光堂』の記事を書きます。そして、この街の職人たちの生き様をシリーズ化したい。それが、僕の書きたいものです!」
佐々木は呆気にとられた顔をしたが、湊の目にある強い光を見て、口を閉ざした。かつてベストセラーを生み出した時の、あの目が戻っていることに気づいたからだ。
「……分かりました。そこまで言うなら、一週間待ちます。最高の原稿を上げてください。もしダメなら、連載は打ち切りです」
佐々木は名刺を置いて、店を出て行った。
静寂が戻った店内で、湊は深く息を吐いた。
やってしまった。大見得を切ってしまった。
恐る恐る蓮の方を振り返る。
蓮は複雑な表情で立っていた。怒っているわけではない。だが、どこか遠い目をして湊を見ている。
「……東京の、すごい作家さんだったんですね」
「すごくなんてないです。ただのしがないライターですよ」
「違います。あなたの言葉には力がある。……ここは、あなたがずっと居るべき場所ではないのかもしれません」
蓮の言葉に、湊は胸が締め付けられた。
「そんなこと言わないでください。僕はここに居たいんです」
「でも、仕事がある。待っている人がいる」
蓮は背を向け、洗い物を始めた。その背中は、再び頑なな殻に閉じこもろうとしているように見えた。
(違う。そうじゃないんだ、蓮さん)
言葉にしなければ伝わらない。でも、今は言葉よりも結果が必要だ。
湊は決意を固めた。
最高の記事を書いて、証明してみせる。僕にとって、この場所とあなたがどれほど大切なのかを。
その夜から、湊は部屋に籠もり、パソコンに向かった。
ぜんざいの味。蓮の手。冬の古都。全ての感覚を文字に変えていく。
それはラブレターにも似た、情熱の結晶だった。
暖簾をくぐって入ってきた常連客たちに、蓮の声が響く。以前のような無愛想さは消え、穏やかで落ち着いたトーンになっていた。
開店と同時に、『月光堂』には多くの客が訪れていた。昨夜の雪下ろしの騒ぎで、蔵が開いたという噂が広まっていたのかもしれない。あるいは、久しぶりに晴れた冬の日に誘われたのかもしれない。
店内には、ぜんざいの香ばしく甘い香りが充満している。
イートインスペースとして急遽用意した座敷で、客たちが椀を囲んでいる。
「あら、まあ。綺麗な梅の花だこと」
上品な老婦人が、椀の中に浮かぶ紅白の白玉を見て声を上げた。
「先代の木型で作ったんです。親父の代からある、梅の型で」
蓮が説明すると、老婦人は目を細めた。
「そうかい、そうかい。あの大旦那の……。懐かしいねえ。でも味は、蓮ちゃんの味だね。優しくて、丁寧で」
「……ありがとうございます」
蓮が深々と頭を下げる。その背中には、もう迷いはなかった。
湊はホールの手伝いをしながら、その光景をまぶしく見つめていた。
客たちの笑顔。湯気の向こうにある幸せな風景。
「お兄さん、お茶のお代わりもらえる?」
「はい、ただいま!」
忙しく動き回りながら、湊の頭の中では、猛烈な勢いで言葉が溢れ出していた。
書きたい。この光景を、この感動を、言葉にして伝えたい。
スランプで一文字も書けなくなっていたのが嘘のようだ。描写すべき情景、表現すべき感情が、次から次へと浮かんでくる。
『古都の冬、雪解けの路地に漂う小豆の香り。頑固な職人が守り抜いた蔵の中に、春を待つ梅の花が咲いていた――』
冒頭の文章が、電撃のように脳裏を走る。
湊は注文の合間を縫って、ポケットからメモ帳を取り出し、殴り書きした。
指が震える。書く喜びが、血液となって全身を駆け巡る。
(僕は、まだ書ける。いや、今まで以上に書ける)
蓮が職人として覚醒したように、湊もまた、ライターとしての魂を取り戻しつつあった。
「湊さん、三番テーブルにぜんざい二つです」
「あ、はい!」
蓮に呼ばれ、湊は我に返る。
トレイを受け取る際、蓮が小声で囁いた。
「……楽しそうですね」
「えっ?」
「顔が、輝いています。何か良いことでもありましたか」
「ふふ、秘密です。後で教えますよ」
湊がウインクしてみせると、蓮は呆れたように、しかし嬉しそうに口元を緩めた。
昼を過ぎても客足は途絶えなかった。
焼いた餅の香ばしさと、ふんわりとした紅白梅の白玉。そして特製の粒あん。このぜんざいは、間違いなく『月光堂』の新たな名物になるだろう。
夕方、ようやく客が引けた頃、一人の男性が店に入ってきた。
スーツ姿に眼鏡。手にはビジネスバッグ。観光客には見えない。
「いらっしゃいませ」
蓮が声をかけるが、男はショーケースには目もくれず、湊の方へ一直線に歩み寄ってきた。
「……一ノ瀬湊さんですね」
湊の心臓がドクリと跳ねた。
「え、あ、はい」
「東京の出版社、文芸社編集部の佐々木です。ずっと連絡がつかないので、実家の方にお邪魔したら、こちらにいると伺いまして」
編集者だ。
湊が逃げ出した仕事の、追手がやってきたのだ。
一瞬にして、店内の空気が凍りつく。
蓮が不審そうに眉をひそめ、カウンターから出てきた。
「……湊さんのお知り合いですか」
「ええ。担当編集です。一ノ瀬先生、締切を過ぎている原稿の件ですが……」
「あっ、すみません! その、電話も出られなくて」
湊は狼狽えた。ここでの時間が充実しすぎていて、東京での現実を完全にシャットアウトしていたツケが回ってきたのだ。
「才能あるあなたが、こんな田舎で何をしてるんですか。早く東京に戻って、執筆してください。皆待ってるんですよ」
佐々木の言葉は正論だった。だが、「こんな田舎」という響きに、湊はカチンときた。
同時に、蓮の表情が硬化したのを見逃さなかった。
「……帰るんですか」
蓮が低い声で問う。
「いえ、その……」
「一ノ瀬さん、車を用意してます。今すぐ行きましょう」
佐々木が湊の腕を引く。
「ちょっと待ってください!」
湊はその手を振り払った。
「原稿なら、書けます。ここで、書かせてください」
「はあ? そんな環境で良い仕事ができるわけがないでしょう。資料も設備もない」
「あります! ここには、僕が書くべき物語があるんです!」
湊は叫んだ。
「僕は『月光堂』の記事を書きます。そして、この街の職人たちの生き様をシリーズ化したい。それが、僕の書きたいものです!」
佐々木は呆気にとられた顔をしたが、湊の目にある強い光を見て、口を閉ざした。かつてベストセラーを生み出した時の、あの目が戻っていることに気づいたからだ。
「……分かりました。そこまで言うなら、一週間待ちます。最高の原稿を上げてください。もしダメなら、連載は打ち切りです」
佐々木は名刺を置いて、店を出て行った。
静寂が戻った店内で、湊は深く息を吐いた。
やってしまった。大見得を切ってしまった。
恐る恐る蓮の方を振り返る。
蓮は複雑な表情で立っていた。怒っているわけではない。だが、どこか遠い目をして湊を見ている。
「……東京の、すごい作家さんだったんですね」
「すごくなんてないです。ただのしがないライターですよ」
「違います。あなたの言葉には力がある。……ここは、あなたがずっと居るべき場所ではないのかもしれません」
蓮の言葉に、湊は胸が締め付けられた。
「そんなこと言わないでください。僕はここに居たいんです」
「でも、仕事がある。待っている人がいる」
蓮は背を向け、洗い物を始めた。その背中は、再び頑なな殻に閉じこもろうとしているように見えた。
(違う。そうじゃないんだ、蓮さん)
言葉にしなければ伝わらない。でも、今は言葉よりも結果が必要だ。
湊は決意を固めた。
最高の記事を書いて、証明してみせる。僕にとって、この場所とあなたがどれほど大切なのかを。
その夜から、湊は部屋に籠もり、パソコンに向かった。
ぜんざいの味。蓮の手。冬の古都。全ての感覚を文字に変えていく。
それはラブレターにも似た、情熱の結晶だった。
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