真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん

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第1話「フェロモンの嵐が吹き荒れる職場にて」

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 王城の廊下は、今日も今日とて目に見えない嵐が吹き荒れていた。
 豪勢なシャンデリアがわずかに揺れ、すれ違うメイドたちが顔を赤くして震えている。彼女たちが壁に手をついて息を整えているのは、風邪のせいでもなければ、恋の病でもない。
 この国の王族たちが放つ、強烈すぎる「アルファ」のフェロモンのせいだ。

 オルヴァンス王国の王城は、言うなれば高濃度のフェロモン充満施設である。
 第一王子は氷のような威圧感を、第二王子は灼熱のような攻撃性を、第三王子は絡めとるような粘着質の色気を、それぞれ呼吸するように撒き散らしている。
 一般のベータやオメガにとって、ここは職場というより戦場に近い。

「ルシアン様、あ、あの、もうダメです……足がすくんで」
 顔面蒼白になった新人メイドが、その場にしゃがみ込んだ。
 俺、ルシアンは手にした書類の束を小脇に抱え直し、冷静に彼女を見下ろす。
「深呼吸をして。窓を三センチ開放してあるから、あそこの隅で外気を吸うといい」
「は、はい……すみません」
「謝罪は不要だ。その代わり、十分後に東棟の廊下のモップ掛けを頼む。レオナルド様が暴れた跡がある」
 淡々と指示を出し、俺はそのまま歩みを進めた。

 俺には何も感じない。
 甘い香りも、押し潰されるような威圧感も、肌を刺すような情熱も。
 俺は転生者であり、この世界における平凡な「ベータ」だからだ。
 前世の記憶があるといっても、特別なチート能力があるわけではない。ただ一つ、この過剰なフェロモン社会において、俺の感覚器官が完全に遮断されているという一点を除いては。

 廊下の角を曲がると、壁の一部が焦げていた。
 近くには折れた剣の破片。
 間違いなく第二王子レオナルドの仕業だ。朝の鍛錬で興奮しすぎたのだろう。
 周囲には濃厚な残り香があるらしく、警備の兵士さえもが遠巻きにしている。

『まったく。王族というのは、自分のフェロモン管理もできないのか』

 心の中でため息をつきながら、俺は懐から手帳を取り出し、修繕費の項目に数字を書き込んだ。
 俺の仕事は執事だ。
 それも、ただお茶を淹れるだけの係ではない。この荒れ狂う王城で、唯一「正常に稼働する」管理システムの歯車である。

「ルシアン! ああ、やっと来てくれたか!」
 廊下の向こうから、顔色の悪い文官が泣きそうな顔で走ってきた。
「第一王子殿下が酷いご機嫌で……もう誰も執務室に入れないんだ。頼む、決裁書類を届けてくれ!」
 押し付けられた書類の山。
 執務室の扉の向こうからは、ピリピリとした殺気が漏れ出ているらしい。らしい、というのは、俺には分からないからだ。
「分かりました。至急届けます」
「助かる! 君だけが頼みの綱だ!」
 文官は脱兎のごとく逃げ出した。

 俺は書類を整え、衣服の乱れがないかを確認する。
 ボタンは上までしっかりと留められ、手袋には一点の汚れもない。背筋を伸ばし、表情筋を「業務モード」に固定する。
 怖いものなどない。俺にとってアルファの威圧など、ただの空気の流れだ。
 俺は躊躇なく、魔王の城の門のような重厚な扉をノックした。

「失礼いたします。ルシアンです。至急の決裁書類をお持ちしました」
 返事を待たずに扉を開ける。
 瞬間、室内の空気がドンと重くなった気がした。
 書類が床に散らばり、インク壺が転がっている。部屋の中央にあるデスクには、額に青筋を浮かべた第一王子、テオドールが座っていた。

「……誰も入れるなと言ったはずだ」
 地を這うような低い声。
 常人なら失神しかねないプレッシャーらしいが、俺には「機嫌の悪い上司」にしか見えない。
「はい。ですが、財務報告書の期限は本日までですので」
 俺は散らばった書類を優雅な所作で拾い集め、倒れたインク壺を直す。ポケットから取り出したハンカチでデスクの汚れを拭き取り、新たな紅茶を淹れ直した。
 テオドールが、信じられないものを見る目で俺を凝視している。

「貴様……この状況で、平気なのか?」
「何がでしょうか」
 俺は淹れたての紅茶を彼の前に置く。
 湯気と共に、ベルガモットの香りが漂う。俺にはこの紅茶の香りの方が、よほど重要だ。
「頭痛がおありのようでしたので、少し薄めにいたしました。蜂蜜を加えてあります」
 テオドールは呆気にとられた顔をしていたが、やがてゆっくりとカップに手を伸ばした。
 そして、一口飲む。

「……」
 その瞬間、彼の眉間に刻まれていた深いシワが、嘘のように消え去った。
 まるで憑き物が落ちたような表情だ。
「おい」
「はい」
「……ここにいろ」
 テオドールは空になったカップを置き、俺の手首を掴んだ。
 熱い手だった。
「書類が終わるまで、一歩も動くな。……貴様がそばにいると、なぜか頭が割れるような痛みが消える」
「それは良かったです。では、書類の整理をしております」
 俺は素っ気なく答え、掴まれた手首をそれとなく外し、彼の背後で書類の仕分けを始めた。

 テオドールは時折、確認するように俺の方を振り返り、また仕事に戻る。
 彼が放つ(らしい)殺人的なフェロモンの中で、俺だけが涼しい顔でペンを走らせている。
 これが俺の日常だ。
 自分が王族専用の「空気清浄機」として認識され始めていることに、この時の俺はまだ気づいていなかった。
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