泥まみれの追放オメガ、王宮で冷酷王太子に拾われたら運命の番として異常なほど溺愛されています

水凪しおん

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第2話「砕かれた心と冷たい雨」

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 空は厚く重い灰色の雲に覆われ、今にも冷たい雨粒を落としそうだった。
 昼下がりだというのに、屋敷の中にはどんよりとした薄暗さが漂っている。
 リアムは使い古されたモップを手に、長い廊下の床を無心で磨いていた。
 木の床の冷たさが、薄い靴底を通して足の裏に伝わってくる。
 一定のリズムで腕を動かし続けていると、何も考えずに済む。
 今のリアムにとって、思考を止めることは唯一の自己防衛だった。
 その時、廊下の奥から重い足音が近づいてきた。
 屋敷をまとめる家令の男だ。
 彼はリアムの前に立ち止まると、見下すような冷たい視線を向けた。

「旦那様がお呼びだ。すぐに大広間へ向かえ」

「父上が……ですか」

 リアムは驚きで顔を上げた。
 父親である伯爵がリアムを直接呼ぶことなど、ここ数年まったくなかったからだ。
 胸の奥で、嫌な予感がどくどくと脈打つ。
 手にしたモップの柄を握る指先に、じわっと嫌な汗がにじんだ。

「早くしろ。皆様をお待たせする気か」

 家令に急かされ、リアムは汚れたエプロンを外す暇もなく、足早に大広間へと向かった。
 重厚な木製の扉の前に立つと、中から微かに話し声が聞こえてくる。
 深呼吸をして、冷えきった真鍮のドアノブに手をかけた。
 広大な大広間に足を踏み入れると、そこには異様な空間が広がっていた。
 高い天井からは豪華なシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた大理石の床が冷たい光を反射している。
 部屋の中央にある立派なソファには、父親である伯爵、豪華なドレスを着飾った継母、そしてミハエルが座っていた。
 さらにその向かい側には、先ほど到着したばかりのジュリアスが、足を組んでゆったりと腰を下ろしている。
 全員の視線が、一斉にリアムに突き刺さった。
 軽蔑、嫌悪、そして嘲笑。
 その視線の重さに耐えきれず、リアムは思わずうつむいた。

「遅いぞ、リアム。いったいどこで油を売っていたんだ」

 父親の低く冷ややかな声が、広い部屋に響き渡る。
 リアムは身をすくませ、震える声で答えた。

「申し訳ありません。廊下の掃除をしておりまして……」

「ふん、相変わらず薄汚れた格好だな。ジュリアス殿の前に出るというのに、恥を知らないのか」

 父親の言葉に、継母が口元を扇で隠してくすくすと笑い声を漏らす。
 ミハエルはジュリアスの隣に移動し、親しげにその腕に自分の腕を絡ませていた。
 ジュリアスはリアムをまるでゴミでも見るかのように一瞥し、冷たく言い放った。

「本当に目障りだ。これ以上、君の顔を見たくもない。今日ここに来たのは、他でもない。君との婚約を正式に破棄するためだ」

 その言葉は、冷たい氷の刃となってリアムの胸に突き刺さった。
 予感はしていた。
 いつかはこの日が来るのだと、心のどこかで分かっていた。
 それでも、大勢の前でこうして直接言葉を叩きつけられると、呼吸が止まりそうになる。

「婚約破棄……ですか」

「そうだ。私のようなアルファが、君のような魅力のないオメガを番にするはずがないだろう。私の本当の相手は、この美しく可憐なミハエルだ」

 ジュリアスがミハエルの肩を抱き寄せると、ミハエルは頬を赤らめて嬉しそうに微笑んだ。
 二人の周りだけ、甘く幸せな空気が漂っている。
 リアムの存在など、最初からこの世界になかったかのように。

「それだけではないぞ、リアム」

 父親がテーブルの上に、小さな布の包みを乱暴に投げ出した。
 カチャリ、と金属の触れ合う鈍い音がする。
 包みが解け、中から現れたのは、美しい銀細工の首飾りだった。
 それは、継母が大切にしている高価な宝石の一つだ。

「お前の部屋のベッドの下から、これが見つかった。母親の宝石を盗み出すとは、どこまで卑しいのだ」

「え……?」

 リアムは目を見開いた。
 まったく身に覚えがない。
 そもそも、リアムの部屋は屋根裏の狭い物置同然の場所であり、継母の部屋に近づくことさえ固く禁じられている。

「違います。僕はそんなもの、見たこともありません」

「嘘をおつきにならないで」

 継母がヒステリックな声を上げた。

「あなたがいつも私の宝石を羨ましそうに見ていたのを知っているわ。オメガのくせに、着飾ろうなんて浅ましい」

「違います、本当に僕じゃありません! 信じてください、父上!」

 必死に訴えるリアムの言葉は、誰の耳にも届かなかった。
 父親は忌々しげに顔をしかめ、冷酷な宣告を下した。

「泥棒をこのまま家に置いておくわけにはいかない。ヴァレンタイン家の恥だ。リアム、お前は本日をもってこの家を追放する。二度とその汚い顔を私の前に見せるな」

『追放……?』

 頭の中が真っ白になった。
 耳鳴りがひどく、周囲の音が遠く聞こえる。
 ミハエルがジュリアスの腕にしがみつきながら、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべているのが見えた。
 すべては、彼らが仕組んだ罠だったのだ。
 リアムを合法的に追い出し、ミハエルがジュリアスと結ばれるための、最低で残酷な計画。

「待ってください……行くあてなんてありません……どうか、どうかお許しを……」

 リアムは無意識のうちに床にひざまずき、石の床に額をこすりつけていた。
 プライドなどとうにない。
 ただ、外の世界の恐ろしさに足がすくんでいた。
 金も、身分を証明するものもないオメガが、一人で生きていけるほど外の世界は甘くない。
 しかし、無情にも屈強な使用人たちが二人がかりでリアムの細い腕を掴み、無理やり引きずり起こした。

「やめろ、離して……!」

 抵抗する力など、リアムには残されていなかった。
 荷物をまとめる時間さえ与えられず、着の身着のままの状態で、リアムは屋敷の重い裏扉から外へと放り出された。
 どさっと冷たい石畳の上に倒れ込む。
 手のひらを擦りむき、じわじわと痛みが走った。
 背後で、分厚い扉が大きな音を立てて閉ざされる。
 ガチャリ、と重い鍵がかけられる音が、リアムのすべてを断ち切るように響いた。
 その瞬間、空に溜まっていた灰色の雲が限界を迎え、大粒の雨が降り出し始めた。
 冷たい雨粒が、リアムの薄いシャツを容赦なく濡らしていく。
 肌を刺すような寒さが、一瞬にして体温を奪っていく。
 リアムはゆっくりと体を起こした。
 すりむいた手のひらから血がにじみ、雨水と混ざって流れていく。
 目の前には、見慣れたはずの街の景色が広がっていた。
 しかし、今の彼にとっては、果てしなく暗く、恐ろしい別世界にしか見えなかった。

『どこへ行けばいいんだ……』

 頬を伝うのが雨なのか涙なのか、もう自分でもわからなかった。
 リアムは凍える腕で自分の体を抱きしめ、ふらつく足取りで、当てもなく雨の街へと歩き出した。
 行く先を照らす光は、どこにも見えなかった。
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