希少な『月魄のオメガ』だとバレたら、冷酷無慈悲な最強アルファに囚われ、契約の番として甘く激しく溺愛されています。

水凪しおん

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第1話「孤独な月と絶対者」

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 雨の匂いが好きだ。
 アスファルトを叩く音、湿り気を帯びた空気、そして店先に並んだ花々の甘い香りを、一層際立たせてくれるから。

 僕、水瀬湊は、都会の喧騒から少し離れた路地裏で小さな花屋『フルール・コパン』を営んでいる。いや、正確には店長が別にいて、僕は住み込みで働かせてもらっているだけのアルバイトにすぎない。

 世の中には三つの性がある。生まれながらの支配者階級であるアルファ、大多数を占めるごく普通のベータ、そしてアルファの子を産むためだけに存在するオメガ。
 僕はそのどれにも当てはまらない。戸籍上はベータとして登録されているけれど、本当は違う。
 抑制剤がなければ、定期的に訪れる発情期(ヒート)に苦しめられる、正真正銘のオメガだ。それも、数百年ぶりに現れたという特殊な形質を持つ『月魄(げっぱく)のオメガ』らしい。
 らしい、というのは僕自身もよく分かっていないからだ。物心ついた頃には両親はもうおらず、遠い親戚に引き取られた僕は、ただ「お前は普通じゃないから、絶対に人前で素性を明かすな」とだけ教え込まれて育った。
 だから僕は、毎日欠かさず抑制剤を飲み、ベータとして息を潜めるように生きている。この花屋の優しい店長にも、もちろん秘密だ。

 カラン、とドアベルが鳴り、雨の雫を纏った一人の男性が店に入ってきた。
 思わず、息を呑む。
 高級そうな黒いスーツに身を包んだ、背の高い男性。切り揃えられた漆黒の髪に、彫刻のように整った顔立ち。なにより、その瞳。射貫くような鋭い光を宿した金色の瞳は、まるで猛禽類のようだ。
 明らかに、こんな寂れた花屋には似つかわしくない。
 いや、それ以上に、僕の本能が警鐘を鳴らしていた。
 危険だ。この人は、アルファだ。それも、そこらにいるアルファとは格が違う。空気がピリピリと震え、呼吸が浅くなる。抑制剤を飲んでいるはずなのに、身体の奥がざわつくのを感じた。

『落ち着け、僕。大丈夫、ただのお客さんだ』

 心の中で自分に言い聞かせ、僕はぎこちない笑顔を貼り付けた。

「い、いらっしゃいませ。……あの、何かお探しですか?」

 男性は僕の言葉には答えず、店内をゆっくりと見回した。その視線が僕に戻ってくる。金色の瞳が、何かを探るように僕をじっと見つめていた。居心地が悪くて、視線を足元に落とす。

「……何か、香らないか」

 低く、よく通る声だった。鼓膜を直接揺さぶられるような感覚に、びくりと肩が跳ねる。

「え……? あ、花の香り、でしょうか。今日は雨なので、少し香りが強いかもしれません」

 我ながら、声が上ずっているのが分かる。早く帰ってほしい。この人と一緒にいると、隠しているはずの何かが暴かれてしまいそうだ。

「いや、違う。花の香りではない。……もっと、甘く、心を掻き乱すような……月の光にも似た、清らかな香りだ」

 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
 月の光。まさか。そんなはずはない。僕のフェロモンは、特殊な抑制剤で完全に抑え込んでいるはずだ。それに、僕の香りを正確に言い当てた人なんて、今まで一人もいなかった。

「……さあ、何のことでしょうか。僕は、何も感じませんが」

 必死に平静を装う。これ以上、この人に関わってはいけない。
 男性は、そんな僕の様子を面白がるように見つめながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。逃げ場のないカウンターの内側で、僕はじりじりと後ずさった。

「ほう。お前は、何も感じない、と」

 壁に背中がつき、もう逃げられない。目の前に立った男性は、僕よりも頭一つ分は背が高かった。見下ろされるだけで、身体が竦んでしまう。
 彼がふっと息を吐くと、濃厚な香りが鼻腔をくすぐった。白檀のような、落ち着いた、それでいて圧倒的な支配力を感じさせる香り。これが、本物のアルファのフェロモン……。
 頭がくらくらする。膝から力が抜けそうだ。

「お前の名前は?」

「……え?」

「名前を訊いている」

 有無を言わさぬ口調だった。逆らうことなんて、できそうにない。

「……みなせ、みなと、です」

「湊、か。良い名だ」

 男はそう言うと、すっと手を伸ばしてきた。僕の頬に、冷たい指先が触れる。ひっ、と息を呑んだ僕の耳元で、彼は悪魔のように囁いた。

「俺は、皇戒吏。……覚えておけ。お前は、俺のものになるんだからな」

 皇戒吏。
 その名前は、僕のような人間でも知っていた。日本経済を牛耳る巨大コンツェルン、その次期当主。メディアでは『黒曜のアルファ』と称される、冷酷無慈悲な若き支配者。

 なぜ、そんな人が、ここに。そして、なぜ、僕に。

 訳が分からないまま固まっている僕を満足そうに見下ろすと、皇さんは何事もなかったかのように踵を返した。

「また来る」

 カラン、とベルの音を残して彼が去った後も、僕はその場から一歩も動けなかった。
 頬に残る彼の指の感触と、脳裏に焼き付いた金色の瞳。
 そして、僕のささやかな日常が、終わりを告げた音。

 雨は、まだ降り続いていた。
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