3 / 16
第2話「福の作り手の依頼」
しおりを挟む
あの男が再び店に現れたのは、三日後のことだった。
前回と同じ黒い着流しで、同じようにカウンターの端に座ると、彼は「今日の定食を」とだけ告げた。その日を境に、男はまるでそれが日課であるかのように、毎日同じ時間に店を訪れるようになった。
男はいつも定食を頼み、黙々と食べ、美味かったと一言だけつぶやいて帰っていく。俺は彼の名前も素性も知らないまま、ただ客として接していた。しかし、日を重ねるごとに、最初の頃に感じていた恐怖心は少しずつ薄れていった。
彼が発するαのオーラは相変わらず圧倒的だが、その眼差しに俺を貶めるような色は一切ない。彼はただ、俺の作る料理を純粋に味わうためにここに来ている。それがわかってくると、彼の存在は俺にとって、少しだけ特別なものに変わっていった。
『あの人が来る』
そう思うだけで、仕込みをする手に力が入る。どうすればもっと美味しいと思ってもらえるだろうか。そんなことを考えるのは、料理人としての喜びを捨てたはずの俺にとって、忘れていた感覚だった。
出会いから十日ほどが過ぎた、よく晴れた日の午後。
その日も男はいつものようにやって来た。しかし、定食を食べ終えた後も、彼は席を立とうとしなかった。珍しいこともあるものだと思っていると、男が静かに口を開いた。
「お前の名前を聞いてもいいか」
「え?……い、伊吹です」
突然の問いに、どきりとする。今まで一度も私的なことを聞かれたことはなかった。
「伊吹、か。いい名だ。俺は暁という」
暁。夜が明ける前の、静かで美しい時間。その名はこの男に驚くほど似合っていた。
「暁、さん」
「暁でいい」
有無を言わせない口調に、俺は小さく頷くことしかできない。暁はまっすぐに俺を見つめ、本題に入った。
「伊吹、お前に頼みたいことがある」
「頼み、ですか?」
「ああ。福の作り手になってほしい」
福の作り手。その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。
福の作り手とは、毎年節分に行われる、この国の安寧を龍神に祈るための儀式で、特別な恵方巻「福巻き」を奉納する料理人のことだ。国中から選りすぐられた料理人がその腕を競い、最も優れた者だけがその栄誉を手にできる。
それは、かつての俺が夢見ていた場所だった。親方の下で修行していた頃、いつか自分もあの神聖な舞台に立ちたいと、そう願っていた。
『お前のような穢れたΩに、神に捧げる料理が作れるとでも思っているのか』
夢を語った俺に、親方が吐き捨てた言葉が脳裏に蘇る。あの日の絶望が、冷たい水のように全身に広がっていく。
「……無理です。俺なんかがなれるはずありません」
声が震えるのを止められなかった。俺は俯き、固く拳を握りしめる。
「なぜだ。お前の腕があれば、最高の福巻きが作れるはずだ」
「無理だと言っているんです!俺には、その資格がない……!」
思わず叫んでしまい、はっと口を押さえる。暁は驚いたように目を見開いていたが、すぐにその表情を消し、静かな声で問いかけた。
「資格とは、なんだ」
「……」
答えられない。俺がΩだからだ、なんて口が裂けても言えるはずがない。もしこの人にΩだと知られたら、きっと軽蔑される。もう二度と、この店に来てくれることもなくなるだろう。それだけは、嫌だった。
「とにかく、俺にはできません。他を当たってください」
そう突き放すのが精一杯だった。
暁はしばらく黙り込んでいたが、やがて静かに立ち上がった。
『帰ってしまう……』
引き留めたい気持ちと、この場から消えてしまいたい気持ちがせめぎ合う。暁は俺の葛藤を見透かすように、穏やかな声で言った。
「……わかった。今日は帰ろう。だが、俺は諦めん」
その言葉に、俺は顔を上げることができなかった。
「お前の料理には、特別な力がある。俺はそれを、信じている」
そう言い残し、暁は店を出て行った。
一人残された店内で、俺はカウンターに突っ伏した。資格がない、と拒絶したのは俺自身だ。なのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
諦めていたはずの夢。捨てたはずの誇り。
暁という男の出現は、硬く閉ざしていた俺の心の扉を、無理やりにこじ開けようとしているようだった。
前回と同じ黒い着流しで、同じようにカウンターの端に座ると、彼は「今日の定食を」とだけ告げた。その日を境に、男はまるでそれが日課であるかのように、毎日同じ時間に店を訪れるようになった。
男はいつも定食を頼み、黙々と食べ、美味かったと一言だけつぶやいて帰っていく。俺は彼の名前も素性も知らないまま、ただ客として接していた。しかし、日を重ねるごとに、最初の頃に感じていた恐怖心は少しずつ薄れていった。
彼が発するαのオーラは相変わらず圧倒的だが、その眼差しに俺を貶めるような色は一切ない。彼はただ、俺の作る料理を純粋に味わうためにここに来ている。それがわかってくると、彼の存在は俺にとって、少しだけ特別なものに変わっていった。
『あの人が来る』
そう思うだけで、仕込みをする手に力が入る。どうすればもっと美味しいと思ってもらえるだろうか。そんなことを考えるのは、料理人としての喜びを捨てたはずの俺にとって、忘れていた感覚だった。
出会いから十日ほどが過ぎた、よく晴れた日の午後。
その日も男はいつものようにやって来た。しかし、定食を食べ終えた後も、彼は席を立とうとしなかった。珍しいこともあるものだと思っていると、男が静かに口を開いた。
「お前の名前を聞いてもいいか」
「え?……い、伊吹です」
突然の問いに、どきりとする。今まで一度も私的なことを聞かれたことはなかった。
「伊吹、か。いい名だ。俺は暁という」
暁。夜が明ける前の、静かで美しい時間。その名はこの男に驚くほど似合っていた。
「暁、さん」
「暁でいい」
有無を言わせない口調に、俺は小さく頷くことしかできない。暁はまっすぐに俺を見つめ、本題に入った。
「伊吹、お前に頼みたいことがある」
「頼み、ですか?」
「ああ。福の作り手になってほしい」
福の作り手。その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。
福の作り手とは、毎年節分に行われる、この国の安寧を龍神に祈るための儀式で、特別な恵方巻「福巻き」を奉納する料理人のことだ。国中から選りすぐられた料理人がその腕を競い、最も優れた者だけがその栄誉を手にできる。
それは、かつての俺が夢見ていた場所だった。親方の下で修行していた頃、いつか自分もあの神聖な舞台に立ちたいと、そう願っていた。
『お前のような穢れたΩに、神に捧げる料理が作れるとでも思っているのか』
夢を語った俺に、親方が吐き捨てた言葉が脳裏に蘇る。あの日の絶望が、冷たい水のように全身に広がっていく。
「……無理です。俺なんかがなれるはずありません」
声が震えるのを止められなかった。俺は俯き、固く拳を握りしめる。
「なぜだ。お前の腕があれば、最高の福巻きが作れるはずだ」
「無理だと言っているんです!俺には、その資格がない……!」
思わず叫んでしまい、はっと口を押さえる。暁は驚いたように目を見開いていたが、すぐにその表情を消し、静かな声で問いかけた。
「資格とは、なんだ」
「……」
答えられない。俺がΩだからだ、なんて口が裂けても言えるはずがない。もしこの人にΩだと知られたら、きっと軽蔑される。もう二度と、この店に来てくれることもなくなるだろう。それだけは、嫌だった。
「とにかく、俺にはできません。他を当たってください」
そう突き放すのが精一杯だった。
暁はしばらく黙り込んでいたが、やがて静かに立ち上がった。
『帰ってしまう……』
引き留めたい気持ちと、この場から消えてしまいたい気持ちがせめぎ合う。暁は俺の葛藤を見透かすように、穏やかな声で言った。
「……わかった。今日は帰ろう。だが、俺は諦めん」
その言葉に、俺は顔を上げることができなかった。
「お前の料理には、特別な力がある。俺はそれを、信じている」
そう言い残し、暁は店を出て行った。
一人残された店内で、俺はカウンターに突っ伏した。資格がない、と拒絶したのは俺自身だ。なのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
諦めていたはずの夢。捨てたはずの誇り。
暁という男の出現は、硬く閉ざしていた俺の心の扉を、無理やりにこじ開けようとしているようだった。
14
あなたにおすすめの小説
隠れオメガの整備士は自由になりたい。なのに暴走する最強騎士を身体を張って止めたら、運命の番だとバレて過保護な専属契約を結ばされました
水凪しおん
BL
※オメガバース設定。激しい戦闘描写や、執着攻めによるマーキング描写、軽度の性的な接触の描写がありますので、15歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。
汚染された惑星を浄化する生体兵器『機装(ギア)』。
その搭乗者は優れた能力を持つ『アルファ』に限られ、彼らの精神を安定させる鎮静剤として『オメガ』が存在する世界。
整備士のエリアンは、オメガであることを隠し、ベータと偽って軍の最前線で働いていた。
オメガは道具のように扱われるこの社会で、自由を守るための必死の嘘だった。
だがある日、軍最強のエリートパイロット・クレイドの機装が暴走する事故に遭遇する。
死を覚悟して止めに入ったエリアンだったが、暴走する機体はなぜか彼にだけ反応し、沈静化した。
それは、隠していたオメガのフェロモンが、クレイドと強烈な『共鳴』を起こした瞬間だった。
「見つけた。俺の対になる存在を」
正体がバレたと戦慄するエリアンに対し、冷徹なはずのクレイドが向けたのは、処罰ではなく執着に満ちた熱い視線で……?
孤独なエリート騎士×身分を隠した健気な整備士。
星の命運と本能が交錯する、近未来SFオメガバース!
新年に余り物でおせちを作ったら、冷酷と噂の騎士団長様に「運命の番」だと求婚されました
水凪しおん
BL
料理人だった俺が転生したのは、男性オメガというだけで家族に虐げられる不遇の青年カイ。
新年くらいはと前世の記憶を頼りに作ったのは、この世界にはない『おせち料理』だった。
それを偶然口にしたのは、氷のように冷酷と噂される最強の騎士団長リアム。
「お前は俺の運命の番だ」
彼の屋敷に保護され、俺の作る料理が彼の心を溶かしていく。
不器用で、だけどまっすぐな愛情を注いでくれる彼と、美味しい料理で紡ぐ、甘くて温かい異世界スローライフ。
自己肯定感低めの不幸な義弟が完璧な義兄と大揉めに揉める話
あと
BL
「こんな僕をお兄ちゃんは嫌ってるだろうな」
トップ俳優な完璧超人の義理の兄×不幸な自己肯定感低めのネガティブ義理の弟です。
お金ない受けが追い詰められて変なアルバイトしようとしたら、攻めと再会して……?みたいな話です。
攻めがヤンデレ気味で、受けがマジで卑屈なので苦手な人はブラウザバックで。
兄弟は親が離婚してるため、苗字が違います。
攻め:水瀬真広
受け:神崎彼方
⚠️作者は芸能界にもお葬式ににもエアプなので、気にしないでください。
途中でモブおじが出てきます。
義理とはいえ兄弟なので、地雷の人はブラウザバックで。
初投稿です。
初投稿がちょっと人を選ぶ作品なので不安です。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
内容も時々サイレント修正するかもです。
定期的にタグ整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
虐げられΩは冷酷公爵に買われるが、実は最強の浄化能力者で運命の番でした
水凪しおん
BL
貧しい村で育った隠れオメガのリアム。彼の運命は、冷酷無比と噂される『銀薔薇の公爵』アシュレイと出会ったことで、激しく動き出す。
強大な魔力の呪いに苦しむ公爵にとって、リアムの持つ不思議な『浄化』の力は唯一の希望だった。道具として屋敷に囚われたリアムだったが、氷の仮面に隠された公爵の孤独と優しさに触れるうち、抗いがたい絆が芽生え始める。
「お前は、俺だけのものだ」
これは、身分も性も、運命さえも乗り越えていく、不器用で一途な二人の成り上がりロマンス。惹かれ合う魂が、やがて世界の理をも変える奇跡を紡ぎ出す――。
オメガだと隠して地味なベータとして生きてきた俺が、なぜか学園最強で傲慢な次期公爵様と『運命の番』になって、強制的にペアを組まされる羽目に
水凪しおん
BL
この世界では、性は三つに分かたれる。支配者たるアルファ、それに庇護されるオメガ、そして大多数を占めるベータ。
誇り高き魔法使いユキは、オメガという性を隠し、ベータとして魔法学園の門をくぐった。誰にも見下されず、己の力だけで認められるために。
しかし彼の平穏は、一人の男との最悪の出会いによって打ち砕かれる。
学園の頂点に君臨する、傲慢不遜なアルファ――カイ・フォン・エーレンベルク。
反発しあう二人が模擬戦で激突したその瞬間、伝説の証『運命の印』が彼らの首筋に発現する。
それは、決して抗うことのできない魂の繋がり、『運命の番』の証だった。
「お前は俺の所有物だ」
傲慢に告げるカイと、それに激しく反発するユキ。
強制的にペアを組まされた学園対抗トーナメント『双星杯』を舞台に、二人の歯車は軋みを上げながらも回り出す。
孤独を隠す最強のアルファと、運命に抗う気高きオメガ。
これは、反発しあう二つの魂がやがて唯一無二のパートナーとなり、世界の理をも変える絆を結ぶまでの、愛と戦いの物語。
冷酷なアルファ(氷の将軍)に嫁いだオメガ、実はめちゃくちゃ愛されていた。
水凪しおん
BL
これは、愛を知らなかった二人が、本当の愛を見つけるまでの物語。
国のための「生贄」として、敵国の将軍に嫁いだオメガの王子、ユアン。
彼を待っていたのは、「氷の将軍」と恐れられるアルファ、クロヴィスとの心ない日々だった。
世継ぎを産むための「道具」として扱われ、絶望に暮れるユアン。
しかし、冷たい仮面の下に隠された、不器用な優しさと孤独な瞳。
孤独な夜にかけられた一枚の外套が、凍てついた心を少しずつ溶かし始める。
これは、政略結婚という偽りから始まった、運命の恋。
帝国に渦巻く陰謀に立ち向かう中で、二人は互いを守り、支え合う「共犯者」となる。
偽りの夫婦が、唯一無二の「番」になるまでの軌跡を、どうぞ見届けてください。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
愛する公爵と番になりましたが、大切な人がいるようなので身を引きます
まんまる
BL
メルン伯爵家の次男ナーシュは、10歳の時Ωだと分かる。
するとすぐに18歳のタザキル公爵家の嫡男アランから求婚があり、あっという間に婚約が整う。
初めて会った時からお互い惹かれ合っていると思っていた。
しかしアランにはナーシュが知らない愛する人がいて、それを知ったナーシュはアランに離婚を申し出る。
でもナーシュがアランの愛人だと思っていたのは⋯。
執着系α×天然Ω
年の差夫夫のすれ違い(?)からのハッピーエンドのお話です。
Rシーンは※付けます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる