料理の腕を奪われたΩの俺が、運命の番であるスパダリαな次期当主様に見初められ、国の運命を懸けた神聖な恵方巻を作って奇跡を起こす。

水凪しおん

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第2話「福の作り手の依頼」

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 あの男が再び店に現れたのは、三日後のことだった。
 前回と同じ黒い着流しで、同じようにカウンターの端に座ると、彼は「今日の定食を」とだけ告げた。その日を境に、男はまるでそれが日課であるかのように、毎日同じ時間に店を訪れるようになった。

 男はいつも定食を頼み、黙々と食べ、美味かったと一言だけつぶやいて帰っていく。俺は彼の名前も素性も知らないまま、ただ客として接していた。しかし、日を重ねるごとに、最初の頃に感じていた恐怖心は少しずつ薄れていった。

 彼が発するαのオーラは相変わらず圧倒的だが、その眼差しに俺を貶めるような色は一切ない。彼はただ、俺の作る料理を純粋に味わうためにここに来ている。それがわかってくると、彼の存在は俺にとって、少しだけ特別なものに変わっていった。

『あの人が来る』

 そう思うだけで、仕込みをする手に力が入る。どうすればもっと美味しいと思ってもらえるだろうか。そんなことを考えるのは、料理人としての喜びを捨てたはずの俺にとって、忘れていた感覚だった。

 出会いから十日ほどが過ぎた、よく晴れた日の午後。
 その日も男はいつものようにやって来た。しかし、定食を食べ終えた後も、彼は席を立とうとしなかった。珍しいこともあるものだと思っていると、男が静かに口を開いた。

「お前の名前を聞いてもいいか」

「え?……い、伊吹です」

 突然の問いに、どきりとする。今まで一度も私的なことを聞かれたことはなかった。

「伊吹、か。いい名だ。俺は暁という」

 暁。夜が明ける前の、静かで美しい時間。その名はこの男に驚くほど似合っていた。

「暁、さん」

「暁でいい」

 有無を言わせない口調に、俺は小さく頷くことしかできない。暁はまっすぐに俺を見つめ、本題に入った。

「伊吹、お前に頼みたいことがある」

「頼み、ですか?」

「ああ。福の作り手になってほしい」

 福の作り手。その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。
 福の作り手とは、毎年節分に行われる、この国の安寧を龍神に祈るための儀式で、特別な恵方巻「福巻き」を奉納する料理人のことだ。国中から選りすぐられた料理人がその腕を競い、最も優れた者だけがその栄誉を手にできる。

 それは、かつての俺が夢見ていた場所だった。親方の下で修行していた頃、いつか自分もあの神聖な舞台に立ちたいと、そう願っていた。

『お前のような穢れたΩに、神に捧げる料理が作れるとでも思っているのか』

 夢を語った俺に、親方が吐き捨てた言葉が脳裏に蘇る。あの日の絶望が、冷たい水のように全身に広がっていく。

「……無理です。俺なんかがなれるはずありません」

 声が震えるのを止められなかった。俺は俯き、固く拳を握りしめる。

「なぜだ。お前の腕があれば、最高の福巻きが作れるはずだ」

「無理だと言っているんです!俺には、その資格がない……!」

 思わず叫んでしまい、はっと口を押さえる。暁は驚いたように目を見開いていたが、すぐにその表情を消し、静かな声で問いかけた。

「資格とは、なんだ」

「……」

 答えられない。俺がΩだからだ、なんて口が裂けても言えるはずがない。もしこの人にΩだと知られたら、きっと軽蔑される。もう二度と、この店に来てくれることもなくなるだろう。それだけは、嫌だった。

「とにかく、俺にはできません。他を当たってください」

 そう突き放すのが精一杯だった。
 暁はしばらく黙り込んでいたが、やがて静かに立ち上がった。

『帰ってしまう……』

 引き留めたい気持ちと、この場から消えてしまいたい気持ちがせめぎ合う。暁は俺の葛藤を見透かすように、穏やかな声で言った。

「……わかった。今日は帰ろう。だが、俺は諦めん」

 その言葉に、俺は顔を上げることができなかった。

「お前の料理には、特別な力がある。俺はそれを、信じている」

 そう言い残し、暁は店を出て行った。
 一人残された店内で、俺はカウンターに突っ伏した。資格がない、と拒絶したのは俺自身だ。なのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。

 諦めていたはずの夢。捨てたはずの誇り。
 暁という男の出現は、硬く閉ざしていた俺の心の扉を、無理やりにこじ開けようとしているようだった。
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