地味なβのふりをする僕。ある日助けたのは憧れのαだった。記憶を失った彼は僕にだけ懐き甘えてくるが、その瞳の奥には強すぎる独占欲が宿っていて…

水凪しおん

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第7話「記憶の断片と、疼く本能」

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 あの出来事以来、蓮の様子は少しずつ、けれど確実に変わり始めていた。
 普段は相変わらず僕に甘え、子犬のように懐いている。だが、ふとした瞬間にまるで別人のような表情を見せることが増えたのだ。
 講義中に難しい数式を前にして一瞬鋭い思索の表情を浮かべたり。僕が他の誰かと話している時に、背後から突き刺すような冷たい視線を感じたり。
 それは、記憶を失う前の「神楽坂蓮」を彷彿とさせる、冷徹で知的なアルファの顔だった。

「…この紅茶の味、なんだか知ってる気がする」

 ある日の午後、マンションのリビングで。僕が淹れたアールグレイのカップを片手に、蓮がぽつりとつぶやいた。

「そう? いつも飲んでるやつだけど」

「ううん、違う。もっと昔…。誰かが、淹れてくれたような…」

 彼はそう言って、こめかみを押さえて顔をしかめた。頭痛がするのかもしれない。

「大丈夫? 無理に思い出さなくてもいいんだよ」

「…うん。でも、もどかしいんだ。頭の中に霧がかかっているみたいで。大事な何かを、忘れてしまっている気がする」

 彼の青い瞳が不安げに揺れる。その瞳を見ていると、僕の胸まで苦しくなった。
 僕は、彼に記憶が戻ってほしいのだろうか。それとも、このまま忘れていてほしいのだろうか。
 自分の気持ちが、自分でもよく分からなかった。本当の彼に戻ってほしいと願う一方で、今の甘くて優しい彼を失うことを心の底から恐れていた。

 そんな僕の葛藤とは裏腹に、僕自身の体はもう限界に近づいていた。
 抑制剤の量を増やしても、体の奥から湧き上がる熱っぽさを完全に抑え込むことができなくなってきている。蓮のアルファフェロモンが、僕のオメガとしての本能をじわじわと侵食し、蝕んでいく。
 特に夜、同じ屋根の下、隣の部屋で眠る彼の気配を感じるだけで体中の血が騒ぎ出すのを感じた。甘く蕩けるような香りが喉元までせり上がってくるのを、必死で飲み下す。

『もう、限界かもしれない…』

 このままでは近いうちに必ず、本格的なヒートが来てしまう。そうなればすべて終わりだ。彼に秘密がバレるだけでなく、アルファである彼を本能のままに誘惑してしまうかもしれない。そんなこと、絶対にあってはならない。

「湊、今日、顔色悪いよ。どこか具合でも悪いの?」

 朝食の席で、蓮が心配そうに僕の顔をのぞき込んできた。

「う、ううん。ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だよ」

 僕は無理に笑顔を作って、パンを口に運んだ。だが、食欲は全くなかった。
 その日の大学の講義は、内容が全く頭に入ってこなかった。周期的に襲ってくる体の火照りと微かな甘い香りに、僕は生きた心地がしなかった。

『お願いだから、今日だけはもってくれ…』

 心の中で、何度も神に祈る。
 講義が終わり、健太に「今日、マジで顔色ヤバいぞ。先に帰れよ」と背中を押され、僕はふらつく足取りで一人帰路についた。蓮にはサークルの集まりがあると嘘をついた。彼と一緒に帰れば、きっと僕の異変に気づかれてしまうと思ったからだ。

 マンションのエレベーターに乗り込んだ時、ついにその瞬間がやってきてしまった。
 ぐらり、と視界が歪み、立っていられなくなるほどの熱が体の芯から突き上げてきた。

「…っ、ぁ…」

 息が熱い。喉の奥から、自分のものではないような甘い吐息が漏れる。同時に、自分でも分かるほど濃厚なオメガ特有の甘いフェロモンが、体中から香り立った。
 抑制剤が、完全に切れたのだ。
 最悪のタイミングで、ヒートの兆候が始まってしまった。

『どうしよう、どうしよう…!』

 パニックに陥る頭で必死に考える。このままではマンションの住民、特にアルファの住人に気づかれてしまうかもしれない。そうなれば大騒ぎになる。
 僕は震える手で鞄の中から予備の、最も強力な注射型の抑制剤を取り出した。これを打てば、一時的にでも症状を抑えられるはずだ。
 しかし、エレベーターが目的の階に到着しドアが開いた瞬間、僕は目の前に立つ人物を見て息をのんだ。

「…湊?」

 そこに立っていたのは、サークルの集まりに行っているはずの、蓮だった。
 彼は僕の姿と、僕の体から立ち上る異常なほど甘い香りに気づき、目を見開いている。

「どうしたんだ、その匂い…。それに、顔が真っ赤だぞ。やっぱり、熱があるんじゃ…」

 彼は心配そうに僕に近づき、その手を僕の額に伸ばそうとした。

「だ、だめ! 近づかないで!」

 僕は悲鳴のような声を上げて、彼の手を振り払った。
 僕の拒絶に、蓮は傷ついたような、驚いたような顔をする。

「湊…?」

「来ないでって言ってるだろ!」

 僕はパニックのあまり、自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、彼を遠ざけなければいけない。この甘い香りを、彼に嗅がせてはいけない。彼のアルファとしての本能を、刺激してはいけない。
 その一心で、僕は彼を突き飛ばすようにしてエレベーターを飛び出し、自分の部屋へと駆け込んだ。

 鍵を閉め、ドアに背中を預けてずるずるとその場に座り込む。
 心臓が痛いくらいに鳴り響いていた。
 ドアの向こう側で、蓮が僕の名前を呼ぶ声がする。

「湊! 開けてくれ! どうしたんだよ、一体!」

 ドアを叩く音が、僕の頭にがんがんと響く。
 僕は震える手で、ようやく抑制剤の注射器を自分の腕に突き立てた。薬液が体内に注入されると、荒れ狂っていた熱が少しずつ、しかし確実に引いていくのが分かった。甘い香りも徐々に薄れていく。
 最悪の事態は免れた。
 けれど、ドアの向こうの彼にどう説明すればいいのだろう。

「湊、お願いだから、顔を見せてくれ」

 彼の声は、不安と、そして微かな苛立ちを含んでいた。
 僕は深呼吸を繰り返し、何とか平静を装ってドアの鍵を開けた。
 ドアを開けると、そこには見たこともないほど険しい表情をした蓮が立っていた。

「…説明して。さっきのは、何?」

 彼の青い瞳が、まっすぐに僕を射抜く。その瞳の奥にまたあの日のような、冷たい光が宿っているのを僕は見逃さなかった。
 記憶の断片が、彼の中で何かを呼び覚まそうとしている。
 そして、僕の疼く本能が彼との関係を、取り返しのつかない場所へと引きずり込もうとしていた。
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