地味なβのふりをする僕。ある日助けたのは憧れのαだった。記憶を失った彼は僕にだけ懐き甘えてくるが、その瞳の奥には強すぎる独占欲が宿っていて…

水凪しおん

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第6話「ガラス細工の幸せと、忍び寄る影」

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 蓮と僕が「恋人ごっこ」を始めてから、季節は初夏へと移り変わっていた。
 木々の緑は日に日に濃くなり、キャンパスを吹き抜ける風もどことなく湿り気を帯び始めている。僕たちの関係は、表面的にはとても穏やかで甘いものだった。

「湊、あーん」

 昼休みの中庭。木陰のベンチで、蓮が僕の作った卵焼きを箸でつまみ僕の口元へと運んでくる。周囲の学生たちから好奇の視線が突き刺さるのを感じるが、蓮はまったく気にする素振りも見せない。

「も、もう、自分で食べられるから」

「いいから。はい、あーん」

 有無を言わせぬ彼の笑顔に、僕は観念して小さな口を開ける。甘くて少ししょっぱい卵焼きが口の中に広がる。美味しいはずなのに、胸がどきどきして味がよくわからない。

「美味しい?」

「…うん」

 僕がうなずくと、蓮は満足そうに微笑んで今度は自分の口に卵焼きを放り込んだ。そんな何気ないやり取りの一つ一つが、僕の心を温かく満たしていくと同時にちくりと小さな棘で刺すのだ。

 この幸せは、ガラス細工のように脆い。
 ふとしたきっかけで簡単に壊れてしまう。そのことを、僕は誰よりもよく分かっていた。
 最近、僕の体には少しずつ、けれど確実な変化が現れ始めていた。毎日欠かさず飲んでいる抑制剤の効き目が、以前よりも弱まってきているのを感じるのだ。
 蓮のそばにいると、彼の放つアルファとしての濃厚なフェロモンに常に晒されることになる。その影響で僕の中に眠っていたオメガの本能が、分厚い扉を内側から叩くように少しずつ覚醒し始めているのかもしれない。

 時折、不意に体の奥が熱を帯び甘い香りが微かに立ち上りそうになる。その度に僕は慌てて蓮から距離を取ったり、別の抑制剤を頓服したりして何とか誤魔化していた。蓮は記憶を失っているせいかフェロモンに対する感覚も少し鈍っているようで、今のところ僕の変化には気づいていない。
 けれど、それも時間の問題だろう。
 いつか来る発情期(ヒート)。その時が来れば、僕の秘密はすべて暴かれてしまう。

「湊? どうかした? ぼーっとして」

 心配そうに僕の顔をのぞき込む蓮の瞳。僕は慌てて首を横に振った。

「ううん、何でもないよ。ちょっと、考え事してただけ」

「僕以外の男のこと?」

「違うよ」

 むすっとした表情の彼に、僕は苦笑する。彼の独占欲は相変わらずで、僕が健太と話しているだけであからさまに不機嫌なオーラを出す。その度に健太に申し訳ない気持ちになるが、当の健太は「まあ、記憶喪失で不安なんだろ。湊が精神安定剤になってるんなら、仕方ねえよ」と意外にも理解を示してくれていた。

 その日の夕方、事件は起こった。
 大学からの帰り道、僕たちはいつも利用する駅前で数人の派手な身なりの男たちに絡まれたのだ。おそらく、別の大学の学生だろう。

「なあ、そこのカノジョ。俺らとお茶しない?」

 リーダー格らしい男が、蓮の肩に馴れ馴れしく腕を回してきた。男は蓮の類稀な美貌を見て、女性だと勘違いしたらしかった。
 蓮は心底不快だと言わんばかりに眉をひそめ、男の腕を乱暴に振り払った。

「…失せろ」

 地を這うような低い声。
 その声には、僕が知っている甘えたな蓮の面影はどこにもなかった。ぞっとするほど冷たく、鋭い響き。それはまるで記憶を失う前の、人を寄せ付けなかった頃の神楽坂蓮そのものだった。
 男たちは蓮から放たれる強烈なアルファの威圧感に一瞬怯んだが、数で勝る状況が彼らを強気にさせた。

「あんだよ、テメェ! 生意気な口きいてんじゃねえぞ!」

 男が蓮の胸ぐらを掴み、拳を振り上げた、その瞬間だった。

 蓮の動きは、目で追うのがやっとなくらい速かった。
 男の拳を軽々と受け止め、その腕を捻り上げる。男の苦悶の叫び声が響き渡った。

「二度とその汚い手で、俺に触るな。それから…」

 蓮は僕の腕をぐいと引き寄せ、自分の背中にかばうようにして抱きしめた。そして、残りの男たちを射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。

「こいつに気安く声をかけるな。俺のだ」

 その瞳は深く、昏い青色をしていた。いつもの空色のような明るい青じゃない。底なしの沼のように、見る者を吸い込んでしまいそうな恐ろしい色。
 男たちは蓮の気迫に完全に圧倒され、「す、すみませんでした!」と捨て台詞を残して蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 周囲の通行人たちが、何事かと遠巻きにこちらを見ている。
 僕は蓮の腕の中で、ただ震えることしかできなかった。
 怖かった。男たちに絡まれたこともそうだが、それ以上に一瞬だけ垣間見えた、僕の知らない蓮の姿が。

「…湊、大丈夫? 怖かったよな」

 僕の震えに気づいたのか、蓮の声がいつもの優しいトーンに戻っていた。僕の体を抱きしめる腕の力も、先ほどまでの暴力的な強さではなく労わるような優しさに満ちている。

「う、うん…。大丈夫。蓮こそ、怪我は?」

「僕は何ともないよ。でも、湊が傷つけられなくて、本当によかった」

 彼は心から安堵したように、僕の髪を優しく撫でた。その瞳の色も、いつもの澄んだ青色に戻っている。
 さっきのは、何だったんだろう。
 まるで別人格が顔を覗かせたような。
 それは記憶が戻る前兆なのだろうか。それとも彼の中に元々潜んでいた、冷酷な本性なのだろうか。

 ガラス細工の幸せに、小さなひびが入ったような気がした。
 僕たちの穏やかな日々の下に、静かに、しかし確実に何かが蠢いている。その正体もわからないまま、僕はただ忍び寄る影の気配に、言いようのない不安を募らせていくのだった。
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