地味なβのふりをする僕。ある日助けたのは憧れのαだった。記憶を失った彼は僕にだけ懐き甘えてくるが、その瞳の奥には強すぎる独占欲が宿っていて…

水凪しおん

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第11話「目覚めた獅子、崩れ落ちる砂の城」

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 ひまわり畑の写真。
 その一枚が、僕と蓮の間に横たわっていた分厚い霧を、一瞬にして吹き飛ばした。
 忘れていたはずの夏の記憶が鮮やかな色彩と共に、僕の脳裏に蘇る。日差しの匂い、草いきれの香り、そして隣で笑っていた金色の髪の少年の顔。
 僕たちは、出会っていたのだ。
 僕がオメガとして目覚めるよりずっと前。彼が人を寄せ付けないアルファになる、ずっと前。ただの、無邪気な子供として。

「…思い出した。全部」

 隣で、蓮が低い声でつぶやいた。
 その声の響きに、僕ははっと息をのんだ。
 いつもの甘えたな声じゃない。
 僕の知らない、けれどどこかで聞いたことのある、冷たくてそれでいて芯の通った絶対的な王者の声。
 僕は恐る恐る、彼の横顔を見上げた。
 彼の青い瞳は、もう揺れていなかった。そこには静かで、底知れないほど深い光が宿っている。まるで長い眠りから覚めた獅子のような、鋭い眼光。
 彼は、記憶を取り戻したのだ。
 僕がずっと恐れていたその瞬間が、ついに訪れてしまった。

「蓮…?」

 僕がおそるおそる呼びかけると、彼はゆっくりとこちらに顔を向けた。
 その顔にはもう、あの無垢な笑顔はなかった。
 代わりに浮かんでいたのは、かすかな嘲るような笑み。

「ああ、思い出したよ、湊。お前のことも、全部な」

 彼の口から紡がれる「湊」という呼び名は、今までとは全く違う響きを持っていた。甘く蕩けるような響きではなく、獲物を追い詰めた捕食者のような冷たい響き。

「ずっと、探してたんだ。大学でお前を見つけた時は、正直驚いた。まさか、こんなに近くにいたなんてな」

 彼の言葉に僕は何も言えず、ただ彼を見つめることしかできなかった。
 佐伯さんの言っていたことは、本当だったのだ。彼は事故に遭う前から、僕のことを見つけていた。

「でも、お前は俺に気づかない。それどころか、ベータのふりなんかして俺から隠れるようにして生きてる。どうやって声をかければいいか、ずっと悩んでたんだ」

 彼はまるで他人事のように、淡々と語る。

「あの事故の日も、お前に話しかけようとしてお前の方に気を取られていたせいで、車に気づくのが遅れた。まあ、結果的にはこうしてお前のそばにいられるようになったんだから、怪我の功名、というわけか」

 彼の言葉の一つ一つが、僕の心を鋭く抉っていく。
 彼はすべてを知っていた。僕がオメガであることも、おそらく気づいていたのだろう。その上で、記憶を失ったふりを…? いや、違う。記憶を失ったのは本当だったはずだ。でも、その後の彼は…?
 僕が混乱していると、蓮は立ち上がり僕を見下ろした。その長身が、今は威圧的な壁のように感じられる。

「なあ、湊。楽しかったか? 記憶のない俺を手玉に取って、恋人ごっこするのは」

「ち、違う…! 僕は、そんなつもりじゃ…」

「じゃあ、どんなつもりだったんだ? 俺が本当のことを知ったら、捨てられるのが怖かったか? それとも、俺を騙し続けるのがそんなに楽しかったか?」

 彼の言葉は氷の刃のように冷たく、僕の胸に突き刺さった。
 違う。そんなんじゃない。僕はただ今の優しい君が好きで、その時間を少しでも長く続けたかっただけで…。
 そう叫びたかったが、喉が張り付いて声が出なかった。

「もういい。茶番は終わりだ」

 蓮は、僕に背を向けた。

「蓮、待って…!」

 僕は思わず彼の腕を掴んだ。
 その瞬間、蓮は信じられないほどの力で僕の手を振り払った。

「触るな」

 たった一言。
 だが、その一言はどんな罵声よりも、僕の心を深く傷つけた。
 僕はよろめいて、ソファにへたり込んだ。

 蓮は僕に一瞥もくれることなく、リビングを出て行ってしまった。
 部屋には僕と、呆然と立ち尽くす蓮の母親だけが残された。

「み、水瀬くん…。あの、蓮は…」

 彼女も息子の豹変ぶりに、戸惑いを隠せないでいる。

「…すみません。僕、帰ります」

 僕はかろうじてそれだけ言うと、逃げるように神楽坂家を飛び出した。

 降り始めた冷たい雨が、僕の頬を濡らしていく。それが雨なのか涙なのか、もう僕には分からなかった。
 崩れ落ちていく。
 僕たちがこの数ヶ月で築き上げてきた、幸せだったはずの関係が。
 まるで砂の城のように、あっけなく、跡形もなく。
 目覚めた獅子は、もう僕のことなど見ていなかった。
 彼の冷たい瞳に映っていたのは、僕への軽蔑と失望の色だけだった。
 僕たちの運命は再会したあの夏の日からずっとすれ違ったままだったのだ。そしてそのすれ違いは今、決定的な亀裂となって僕たち二人を引き裂こうとしていた。
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