嘘つきオメガの賞味期限〜スラムの薬師はスパダリ騎士団長に溺愛されて逃げられない〜

水凪しおん

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第1話「雨音と期限切れの隠れ家」

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 絶え間なく降り注ぐ雨が、石畳を叩く音がする。
 王都の最下層、陽の光さえ遠慮がちに差し込むような路地裏に、古びた木造の建物が一軒、身を潜めるように建っていた。看板には掠れた文字で『月の雫薬局』とあるが、ここを訪れるのは正規の医者にかかれない貧民か、あるいは訳ありの薬を求める裏社会の人間くらいのものだ。
 店主のルカは、カウンターの奥で薬研を動かしていた。すり潰される薬草の青臭い香りが、湿った空気と混ざり合い、店内に独特の静寂を作り出している。
 ルカの手は白く、細いが、指先には無数の小さな火傷や薬品によるしみが残っていた。それは彼が薬師として生きてきた証であり、同時にこの薄暗い場所でしか生きられない烙印のようにも見えた。
 窓の外を見やる。雨足は強くなるばかりだ。まるで世界中の悲しみを洗い流そうとしているかのような激しい雨音を聞いていると、ルカは不思議と心が落ち着くのを感じた。
 世界と自分を隔てる雨のカーテン。それが分厚いほど、秘密を守りやすくなる気がしたからだ。
 ルカには誰にも言えない秘密があった。
 一つは、この国の法で厳しく管理されている第二の性、オメガであること。
 そしてもう一つは、自らの体にある「賞味期限」を設けていることだ。
「……そろそろ、店じまいにするか」
 独り言をつぶやき、ルカは立ち上がった。ランプの芯を小さくし、入り口の扉に手を掛ける。
 その時だった。
 ドサリ、という重い音が雨音の隙間を縫って聞こえたのは。
 野良犬か、あるいは酔っ払いか。この辺りでは珍しいことではない。無視して鍵を閉めるのが賢明な判断だ。ルカのような弱者が生き抜くためには、余計な情けは命取りになる。
 しかし、扉の隙間から流れ込んできたのは、泥の臭いだけではなかった。
 鉄錆のような、甘く湿った血の臭い。
 そして、微かに漂う、張り詰めた空気のような威圧感。
 それは訓練された強者特有の気配だった。
 ルカは眉間にしわを寄せ、ため息を一つつくと、あきらめたように扉を開け放った。
「……こんな雨の日に、野垂れ死には勘弁してほしいんだけど」
 雨に打たれる石畳の上に、大きな影がうずくまっていた。
 夜の闇に溶け込むような漆黒のマント。その隙間から覗くのは、豪奢な刺繍が施された騎士服だ。明らかにこのスラムには不釣り合いな人物だった。
 男は荒い呼吸を繰り返している。肩のあたりから流れ出た血が、雨水に混じって赤い筋を描いていた。
「おい、あんた。生きてるか」
 ルカが声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
 雨に濡れた金色の髪が、街灯の薄明かりを弾いてきらめく。その下にある瞳は、夜空よりも深い蒼色をしていた。
 鋭く、射るような視線。瀕死の状態であっても失われない、王者のような風格。
(……アルファだ)
 ルカの本能が警鐘を鳴らした。それも、ただのアルファではない。支配者階級の中でも頂点に立つような、強大な力の持ち主だ。
 関わってはいけない。本能がそう叫んでいる。
 けれど、男の蒼い瞳が苦痛に歪み、その唇が音もなく助けを求めた瞬間、ルカの中にある薬師としての矜持が勝ってしまった。
「……ったく。高い治療費をもらうからな」
 ルカは舌打ちを一つして、男の脇に体を滑り込ませた。ずしりと重い体重が肩にかかる。男の体温は驚くほど熱く、雨の冷たさを一瞬で忘れさせた。
 男を引きずるようにして店の中へ運び込み、奥にある診察用の長椅子に寝かせる。
 ランプの明かりを近づけると、傷の深さが露わになった。左肩から胸にかけて、刃物による深い切り傷がある。傷口周辺の肉が紫色に変色しているのは、毒が塗られていた証拠だ。
「毒か。厄介だな」
 ルカは手早く棚から数種類の瓶を取り出した。解毒作用のある抽出液、止血用の軟膏、そして痛み止めの粉末。
 男の服を切り裂き、傷口を露出させる。鍛え上げられた筋肉が、苦痛に波打っていた。
「少ししみるぞ。暴れるなよ」
 言い捨てて、ルカは解毒剤を傷口に直接注ぎ込んだ。
「ぐっ……!」
 男が短くうめき声を上げ、シーツを鷲掴みにする。だが、暴れることはしなかった。凄まじい精神力で痛みに耐えているのがわかる。
 手際よく毒を含んだ血を押し出し、洗浄し、軟膏を塗って包帯を巻く。その一連の動作の間、ルカは意識して呼吸を浅くしていた。
 アルファのフェロモンが濃い。
 血の臭いに混じって、針葉樹の森のような、清涼でいて圧倒的な存在感を持つ香りが漂ってくる。それはルカの中に眠るオメガの本能を刺激し、奥底を甘く痺れさせるような感覚をもたらした。
 だが、ルカは表情一つ変えずに処置を続ける。彼には「薬」がある。毎朝服用している特製の抑制剤が、オメガとしての反応を完全に封じ込めているからだ。
 処置を終え、ルカがふぅと息を吐くと、男が静かに目を開けた。
 蒼い瞳が、じっとルカを見つめている。
「……礼を言う。手際がいいな」
 男の声は低く、チェロの音色のように心地よく響いた。
「商売だからな。それより、あんたみたいな高貴な方が、こんな掃き溜めで何をしてたんだ?」
 ルカはタオルで手を拭きながら、努めてそっけなく尋ねた。
 男は自嘲気味に口の端を持ち上げた。
「不覚をとっただけだ。……信頼していた部下の裏切り、というやつでね」
「よくある話だ。ここでは日常茶飯事だよ」
「君は……名は?」
「ルカだ。ただの薬師だよ」
「ルカ……。私はクラウスだ」
 クラウス。その名を聞いて、ルカは心の中で息を呑んだ。
 クラウス・フォン・ベルンシュタイン。王国の英雄と称えられる筆頭騎士団長の名前だ。新聞や噂話で何度も耳にしたことがある。冷徹なまでに完璧な騎士でありながら、その美貌で多くの浮き名を流す男。
(とんでもない大物を拾ってしまった……)
 ルカは後悔と焦燥を感じながら、飲み水をクラウスに差し出した。
「動けるようになったらすぐに出て行ってくれ。うちは宿泊所じゃないんだ」
「つれないな。命の恩人に対して」
 クラウスは水を受け取りながら、ルカの手首を不意に掴んだ。
 ビクリとルカの体が跳ねる。
 クラウスはルカの手首を引き寄せ、その鼻先でクンと匂いを嗅ぐような仕草をした。
「……君からは、不思議な匂いがする」
「は?」
「薬草の香りに混じって……何か、雨のような、静かで懐かしい匂いだ。ベータにしては、ひどく心を乱される」
 心臓が早鐘を打つ。抑制剤の効果は完璧なはずだ。フェロモンは漏れていないはず。
 ルカは乱暴に手を振りほどいた。
「薬草の染みついた臭いだろ。気色が悪いな、アンタ」
「失礼。だが、不快ではないと言いたかったんだ」
 クラウスは悪びれる様子もなく、ただじっとルカを見つめ続けた。その視線には、獲物を見つけた肉食獣のような、あるいは未知の宝物を発見した探検家のような、熱っぽい光が宿っていた。
「とにかく、今日はもう休め。明日には出て行ってもらう」
 ルカは逃げるようにカウンターの奥へと戻った。
 背中に突き刺さるクラウスの視線を感じながら、ルカは自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
 シャツの下、心臓の鼓動がうるさいほどに響いている。
 雨音はまだ止まない。
 この出会いが、ルカが守り続けてきた「期限付きの平穏」を脅かす最初の亀裂になるとは、まだ知る由もなかった。

 ***

 翌朝、雨は上がっていたが、空はまだ厚い雲に覆われていた。
 ルカが診察用の長椅子を確認すると、そこはすでにもぬけの殻だった。
 綺麗に畳まれたシーツの上には、治療費としては法外な額の金貨が数枚と、メモが置かれていた。
『必ず、借りは返す』
 力強い筆跡で書かれたその言葉を見て、ルカはため息をついた。
「……返さなくていいから、もう二度と来ないでくれ」
 金貨をポケットにねじ込み、ルカは店を開ける準備を始めた。
 しかし、その願いが聞き入れられることはなかった。
 数日後、店の前には豪奢な馬車が止まり、仕立ての良い服に着替えたクラウスが、まるで散歩のついでとでも言うような顔で立っていたのだから。
 それは、ルカにとっての「終わりの始まり」を告げる光景だった。
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