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第2話 死の淵での出会いと、最後の一杯
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『魔物の森』は、その名の通り、禍々しい気配に満ちていた。天を突くようにそびえ立つ木々は、昼なお暗い影を落とし、湿った土と腐葉土の匂いが鼻をつく。不気味な獣の遠吠えが、時折、静寂を切り裂いた。
森に放り出されてから、すでに数日が経過していた。アルに与えられた食料は、二日目の朝にはもう尽きていた。木の実や食べられる野草を探して歩き続けたが、見習い料理人にすぎない彼に、森での生存術などあるはずもなかった。
空腹と疲労で、足は鉛のように重い。雨露をしのぐ場所もなく、夜は冷たい地面の上で震えながら眠った。体力は刻一刻と失われ、思考も徐々にまとまりを失っていく。
(もう、だめだ……)
ついに、アルは木の根元にずるずると座り込んだ。立ち上がる力は、もう残っていない。指先はかじかみ、体は芯から冷え切っている。薄れていく意識の中で、故郷の孤児院のことが思い出された。みんなで囲んだ温かいシチュー。院長先生の優しい笑顔。「アルのスープは世界一だよ」と言ってくれた、友達の顔。
(最後に、もう一度だけ……料理が、したかったな……)
誰かのために、心のこもった温かい何かを。それが、アルのたった一つの願いだった。だが、それももう叶わない。自嘲気味に笑みを浮かべ、アルはゆっくりと目を閉じようとした。
その時だった。
ガサリ、と近くの茂みが大きく揺れた。アルは虚ろな目でそちらを向く。茂みから現れたのは、息をのむほどに巨大な、一頭の黒い狼だった。闇をそのまま固めたような漆黒の毛並み。月光を宿したかのように鋭く輝く黄金の瞳。その体躯は大型の馬よりも大きく、全身から放たれる威圧感は、森の王者の風格を漂わせていた。
だが、その威厳ある姿は、ひどく傷ついていた。脇腹には深く抉られたような傷があり、そこから絶えず血が流れ落ちている。足を引きずり、その息は苦しげに荒い。
伝説の聖獣、フェンリル。森の伝承に語られる、神に最も近いとされる存在。
普通なら、恐怖で気を失っていただろう。しかし、死を目前にしたアルの心には、不思議と恐怖は湧いてこなかった。むしろ、自分と同じように、傷つき、死に向かっているその存在に、奇妙な親近感すら覚えた。
グルルル……。
フェンリルはアルを敵とみなし、喉の奥で低い唸り声をあげる。鋭い牙が剥き出しになり、黄金の瞳が殺意を灯した。もうここで終わりだ。この美しい獣に食われるのなら、それも悪くないかもしれない。アルはぼんやりとそう思った。
だが、その瞬間、アルの心に小さな火が灯った。
(どうせ死ぬなら……)
そうだ。どうせこのまま朽ち果てるなら、最後に。この傷ついた美しい獣のために、何かできないだろうか。
アルは震える手で、懐にしまい込んでいた最後のひとかけらの干し肉を取り出した。それは非常用に、とっておいたものだ。それから、近くに生えていた、かろうじて見分けのついた香りの良い野草をいくつか摘む。水は、先ほど見つけた小さな湧き水がある。
彼はおぼつかない足取りで立ち上がると、鍋代わりになりそうな窪んだ石を探し、火打石でか細い火をおこした。持てる力のすべてを振り絞って。
湧き水を石の鍋に注ぎ、火にかける。干し肉を細かく刻み、野草と共に煮込んでいく。ぐつぐつと音を立てて煮える鍋に、最後にアルは革袋に残っていた、なけなしの塩をほんの少しだけ振り入れた。彼の全財産であり、料理人としての最後のプライドだった。
ふわり、と優しい香りが立ち上る。肉の旨味と、野草の爽やかな香り、そしてほんのりとした塩の香り。それは王宮の豪華な料理とは比べ物にならないほど素朴なスープだった。だが、アルはそこに、ありったけの心を込めた。
「どうか、元気になって……」
それは、祈りだった。誰かのために料理を作るという、自分の存在意義を確かめるための、最後の祈り。
アルは出来上がったスープを、拾った木の皮を削って作った粗末な皿によそい、警戒を続けるフェンリルの前に、そっと差し出した。これが、彼の人生最後の一杯になるのかもしれなかった。
森に放り出されてから、すでに数日が経過していた。アルに与えられた食料は、二日目の朝にはもう尽きていた。木の実や食べられる野草を探して歩き続けたが、見習い料理人にすぎない彼に、森での生存術などあるはずもなかった。
空腹と疲労で、足は鉛のように重い。雨露をしのぐ場所もなく、夜は冷たい地面の上で震えながら眠った。体力は刻一刻と失われ、思考も徐々にまとまりを失っていく。
(もう、だめだ……)
ついに、アルは木の根元にずるずると座り込んだ。立ち上がる力は、もう残っていない。指先はかじかみ、体は芯から冷え切っている。薄れていく意識の中で、故郷の孤児院のことが思い出された。みんなで囲んだ温かいシチュー。院長先生の優しい笑顔。「アルのスープは世界一だよ」と言ってくれた、友達の顔。
(最後に、もう一度だけ……料理が、したかったな……)
誰かのために、心のこもった温かい何かを。それが、アルのたった一つの願いだった。だが、それももう叶わない。自嘲気味に笑みを浮かべ、アルはゆっくりと目を閉じようとした。
その時だった。
ガサリ、と近くの茂みが大きく揺れた。アルは虚ろな目でそちらを向く。茂みから現れたのは、息をのむほどに巨大な、一頭の黒い狼だった。闇をそのまま固めたような漆黒の毛並み。月光を宿したかのように鋭く輝く黄金の瞳。その体躯は大型の馬よりも大きく、全身から放たれる威圧感は、森の王者の風格を漂わせていた。
だが、その威厳ある姿は、ひどく傷ついていた。脇腹には深く抉られたような傷があり、そこから絶えず血が流れ落ちている。足を引きずり、その息は苦しげに荒い。
伝説の聖獣、フェンリル。森の伝承に語られる、神に最も近いとされる存在。
普通なら、恐怖で気を失っていただろう。しかし、死を目前にしたアルの心には、不思議と恐怖は湧いてこなかった。むしろ、自分と同じように、傷つき、死に向かっているその存在に、奇妙な親近感すら覚えた。
グルルル……。
フェンリルはアルを敵とみなし、喉の奥で低い唸り声をあげる。鋭い牙が剥き出しになり、黄金の瞳が殺意を灯した。もうここで終わりだ。この美しい獣に食われるのなら、それも悪くないかもしれない。アルはぼんやりとそう思った。
だが、その瞬間、アルの心に小さな火が灯った。
(どうせ死ぬなら……)
そうだ。どうせこのまま朽ち果てるなら、最後に。この傷ついた美しい獣のために、何かできないだろうか。
アルは震える手で、懐にしまい込んでいた最後のひとかけらの干し肉を取り出した。それは非常用に、とっておいたものだ。それから、近くに生えていた、かろうじて見分けのついた香りの良い野草をいくつか摘む。水は、先ほど見つけた小さな湧き水がある。
彼はおぼつかない足取りで立ち上がると、鍋代わりになりそうな窪んだ石を探し、火打石でか細い火をおこした。持てる力のすべてを振り絞って。
湧き水を石の鍋に注ぎ、火にかける。干し肉を細かく刻み、野草と共に煮込んでいく。ぐつぐつと音を立てて煮える鍋に、最後にアルは革袋に残っていた、なけなしの塩をほんの少しだけ振り入れた。彼の全財産であり、料理人としての最後のプライドだった。
ふわり、と優しい香りが立ち上る。肉の旨味と、野草の爽やかな香り、そしてほんのりとした塩の香り。それは王宮の豪華な料理とは比べ物にならないほど素朴なスープだった。だが、アルはそこに、ありったけの心を込めた。
「どうか、元気になって……」
それは、祈りだった。誰かのために料理を作るという、自分の存在意義を確かめるための、最後の祈り。
アルは出来上がったスープを、拾った木の皮を削って作った粗末な皿によそい、警戒を続けるフェンリルの前に、そっと差し出した。これが、彼の人生最後の一杯になるのかもしれなかった。
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