天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

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イヴァニエとルカーシュカと定期的に顔を合わせるようになってから、二月ふたつきが過ぎた。

一度の対面時間はそう長くはないのだが、それでも三日に一度という頻度のおかげか、最近になってようやく、気持ち的にも落ち着いて二人と向き合えるようになってきた。
未だに話す言葉には慣れないが、それでもきちんと二人の目を見て話しを聞けるようになったし、必要以上に怯えたり、緊張することも少なくなり、穏やかな気持ちで共にいる時間を過ごせるようになった。


今日もエルダが二人を出迎え、部屋へと招き入れる。未だに扉に近寄るのは恐ろしく、部屋の中からその様子を眺めていることしかできないが、入ってきた二人と目礼を交わすと、彼らがこちらに歩いてくるのを待った。
少し前までは、二人が近づいてくるというだけで狼狽え、怯んでいたが、今ではエルダが横にいなくとも、その場で待つことだけなら出来るようになった。

「土産だ」
「えっ…、あ…」

目の前まで来たルカーシュカが、片手で差し出した透明な容器を慌てて受け取る。
両手ですっぽりと包めてしまう大きさの容器の中には、キラキラと光る黄金色の花が入っていた。

「…これ……いつもと…違う、お花…?」
「毎回同じ形というのも芸がないだろう」

渡されたのは、初めて貰った贈り物と同じ、蜂蜜で作られた花だった。
以前、同じ物を贈ろうと言ってくれた言葉の通り、あれから二度、イヴァニエとルカーシュカ、それぞれから同じ物を受け取っていた。これで四度目となる蜂蜜の花の贈り物は、今までとは違う花の形をしていた。

「…とても、綺麗…です。あ、ありがとう、ございます」
「…ああ」

短い返事を聞きながら、目の前に立つルカーシュカをジッと見つめる。
少し手を伸ばせば、ルカーシュカに手が届く───そんな近い距離に立てるようになったのも、エルダを介さずに贈り物を受け取れるようになったのも、少しずつ二人が側にいることに慣れてきた証拠であり、成果だった。
なにより、短いとはいえ、こうして何気ない会話を交わせるようにまでなったのだ。

(…不思議な感じ)

物の手渡しが可能なほど近い距離に立つルカーシュカは、自分よりも頭一つ分ほど背が低く、その隣に立つイヴァニエは自分よりもやや視線が高めな高身長だ。身長の違いも、近くに立って初めて気づいたほど、今までは気持ちに余裕がなかったのだと思い知る。

(…睫毛が長い)

近くに寄れるようになって、至近距離から見れるようになった二人の顔は、改めて見ても大変整っており、思わず魅入ってしまうほどだった。

(エルダが大っきくなったら、ルカーシュカ様みたいになるのかな…?)

どことなく部分的な顔の造りや線の細さが似ている二人を思い浮かべながら、まじまじとルカーシュカを見つめていると、僅かに笑いを含んだ声が掛かった。

「アドニス、そのように見つめては、ルカーシュカが困りますよ」
「え……あっ、ご、ごめんなさい…!」
「…別に、構わないが…」

(し、失礼だったかもしれない…!)

オロオロと狼狽えていると、出迎えのために側を離れていたエルダがいつの間にか隣に立っており、自身の手にそっと手の平を重ねてくれた。

「大丈夫ですよ、アドニス様。…どうぞ、お二人もお掛け下さいませ」

その言葉に促されるまま、定位置となった場所に腰を下ろす彼らを不安半分で見つめていると、エルダがコソリと声を掛けてくれた。

「ご安心下さい、ご心配されるようなことはございませんよ」
「う、うん……あ、これ…ルカーシュカ様から、頂いたの…」
「では一旦お預かり致します。今回も、綺麗なお花ですね」
「うん…」
「さぁ、アドニス様もお掛け下さい。お茶をご用意致しますね」
「ん」

ルカーシュカからの贈り物を預け、空になった手を差し出されたエルダの手の平に重ねると、そのまま手を引かれ、ようやく慣れた一人掛けの椅子にゆっくりと腰を下ろした。




「私達からの贈り物は、プティ達も喜んでいますか?」

イヴァニエから問い掛けられたのは、質問形式の会話が一通り落ち着いた頃合いだった。

「あ…は、はい…、とっても…みんな、楽しそうに…してます」
「そう、それは良かったです」

あれから二度受け取った贈り物は、まだそれを見たことがない子達を十人ずつほど集めて、なるべく大人数で楽しむのが常となっていた。
贈り物にも少しだけ変化があり、イヴァニエの綿菓子は、一つだった小さな雲が三つに増え、赤子達が十人いても、揉みくちゃになることはなくなった。
雲の数は増えたが、降り注ぐ花の数は変わらず、床に座った赤ん坊達は、相変わらず胸まで花に埋もれる状態になっては、楽しそうにきゃきゃあとはしゃいでいた。
ルカーシュカの蜂蜜の花は、増えた赤子達とも一緒に食べられるように、一度に作れるミルクの花の量を少しだけ多めにしてもらえた。
皆と同じ物を食べられるのがこの時しかなく、赤子達も甘いミルクは好きなのか、ニコニコと嬉しそうに笑いながら一緒に食べてくれる。量を増やした分、エルダも少しだけなら一緒に食べてくれるようになったのが尚嬉しかった。

「あ…の、いつも、ありがとう…ございます」
「喜んでもらえているなら、なによりですよ」

貰うばかりで申し訳ないとは思うのだが、二人が見返りを求めている訳ではないことが分かっているだけに、感謝の言葉を伝えることしかできないのがもどかしい。

(…いつか、何かお返しができたらいいな…)

そんな考えに、ふと意識が逸れた時だった。

「……あれ?」

座っている位置から少し離れた小さな窓───いつも赤ん坊達が出入りしている小窓の外に、一人の小さな天使が張り付いているのが見えた。

「…エルダ、あの子…」
「プティ…ですね。どうしたのでしょう?」

イヴァニエとルカーシュカと顔を合わせるようになって早二月。二人と会う時は、赤ん坊達には部屋に入らない様、エルダから伝えてもらっていた。
仲間外れにしている訳ではなく、自分が赤子達にばかり気を向けてしまい、二人の話に集中できないだろう、というのが主な理由だ。
「お客様が来るから」という理由で赤子達には話しており、それはあの子達も理解してくれていたはずなのだが…

「どうしたのかな…あの、エルダ…」
「少々お待ちを。見てまいりますね」

窓の外から、小さな手でペチペチと薄いガラスを叩く様子は危なっかしく、心配になる。
エルダが傍らを離れ、小窓に近づいていく様子を眺めながら、ふとあることに気づき、ポツリと言葉が零れた。

「…どうして、入って来ないんだろう…?」

窓に鍵を掛けている訳でもなく、ましてや小さな窓は赤子の手でも開けられるほどの軽さのはずだ。
今までは赤子達が既に室内にいることが多かった為、あまり気にしていなかったが、窓の外にくっついて中に入りたそうにしているのに、自分で開けることはしない姿が妙に不思議に見えた。

「…プティ達は、閉じられた扉や窓を開けることができない」
「え?」
「そう決まっているんだ」
「そうですね。あの子達が唯一、禁じられていることでもあります」
「え…と、ど、どうして…?」

思わず漏れた独り言に反応があったことに驚く中、あの子達にも禁止されていたことがあると知り、更に驚く。

「かなり古い話だが、随分前に数人のプティが───」
「あっ、こら、待ちなさい!」
「!」

話し始めたルカーシュカの声を遮るように、エルダの険しい声が重なった。
咄嗟にそちらに視線を向ければ、窓際に張り付いていた赤子が室内に入り込み、パタパタと羽音を響かせながら、一直線にこちらに飛んでくるのが見えた。

「…え?」

『あのまま自分の元へと飛び込んでくる』

瞬間的にそれを察知した脳みそは、理解すると同時に手にしていたカップをテーブルに置き、すぐ目の前まで迫っていた赤子を受け止めるため、反射的に両手を広げていた。

「う…!」
「アドニス様!」
「おい…っ」
「大丈夫ですか?」

ドスッ、という鈍い衝撃に、小さく呻き声が漏れる。いくら赤ん坊とはいえ、真っ直ぐ飛んできた勢いのままともなれば、それなりの衝撃にもなる。
こちらに駆け寄って来るエルダと、イヴァニエとルカーシュカに、慌てて「だ、大丈夫」と返事をすると、ぎゅうっと胸元のしがみつく赤子の小さな頭を撫でた。

「…どうしたの? 今は入って来ちゃ…」

「ダメだよ」と言おうとして、言葉に詰まった。
こちらを見上げた赤ん坊は、怒ったような表情で丸い頬を更に丸く、ぷっくりと膨らませていたからだ。
え? と思う間も無く、小さな手が動き───ぷくぷくとした小さな指が、ルカーシュカを真っ直ぐに指差した。


「ぶぅぅぅっ!」


「………へ?」

(え……今の…この子の、声…?)

お喋りをしている時とも、笑っている時とも違う、今まで聞いたことがないような赤子の発した声に驚き、呆気にとられる。一瞬思考が固まり呆けてしまったが、ハッと我に返ると、慌てて周囲を見回した。
エルダとイヴァニエは、自分と同じように驚いた顔をしていたが、何故かルカーシュカだけは、眉根に皺を寄せ、悲しそうに、辛そうに、表情を曇らせていた。
頬を膨らませたままルカーシュカを見つめる赤子は、まるで彼を責めているように見え、対するルカーシュカは、その感情を受け止めているように見えた。

(…どうして…? ルカーシュカ様に…怒ってる…?)

状況が理解できずに狼狽えるが、そっと目を伏せたルカーシュカが視界に入り、思わず口を開いていた。

「あ、あの…っ、ルカーシュ…」
「んやあぁっ!」
「わっ…ま、まって…!」

少し身を乗り出した途端、大声を発して体を捩らせた赤子が「イヤイヤ」と言うように頭を振り、ぐりぐりと胸元に顔を埋めた。
訳も分からないまま、宥めるように小さな背中を撫でていると、視界の端でルカーシュカが視線を逸らしたことに気づいた。

「…ッ」

『このままではいけないかもしれない』

咄嗟に浮かんだ考えに、赤ん坊を腕に抱くと立ち上がった。

「あ、あの…ご、ごめんなさい…っ、ちょっと…む、向こうに…」

言い終わらぬ内に慌ててその場を離れる。二人の返事も聞かずに席を立ってしまったが、気にしている余裕もなく、とにかくルカーシュカと赤ん坊を引き離そうと体が動いていた。
『向こう』と言って向かった先は、いつも赤ん坊達と遊んで過ごすソファーが置かれている一角だ。
幸いなことに、ソファーのある場所と、いつも二人と話しをする場所は離れており、それなりの距離が保てた。
赤ん坊を腕に抱いたままソファーに腰を下ろすと、ホッと息を吐いた。
自分の後を追って、ついてきてくれたエルダと互いに目配せをしつつ、胸元の服を掴んだまま、離れる気配のない赤子の小さな頭をゆっくりと撫でた。

「…どうしたの?」

ゆるゆると丸い頭を撫でながら問い掛けるが、赤子からの反応はない。

「どうして、怒ってるの…?」
「…やぅ」
「…ヤなの?」
「んぶぅ…」
「…そう」

赤ん坊故に喋ることができないため、どうして怒っているのか、その明確な答えは分からない。が、『やだ』という気持ちだけは伝わってくる。
どうしたものか…と、エルダに助けを求めようと視線を向けたその後ろで、ルカーシュカが静かに席を立つ姿が視界に入り、息を呑んだ。

「っ…、まっ…エ、エルダ…!」

自分の声と視線に気づいたエルダが後ろを振り返るが、そうしている間にルカーシュカは席を離れてしまった。
パチリと、一瞬だけ目が合ったが、その瞳はすぐに逸らされてしまった。
踵を返し、部屋の扉へと向かう背に不安が込み上げ、ザワリと胸がざわついた。

「エルダ…! あの…、ルカーシュカ様の、と、ところに…」
「アドニス様…ですが…」
「だ、だいじょうぶ…! 自分は、大丈夫、だから…っ」
「…畏まりました。アドニス様はこちらでお待ち下さいませ」

自分よりもルカーシュカの方が大丈夫でないはず、と含んで伝えれば、その意を汲んでくれたエルダが頷き、ルカーシュカの後を追ってくれた。
その背を見届け、安堵から体の力を抜けば、腕の中で赤ん坊が身じろぎした。

「…ルカーシュカ様、行っちゃったよ…?」
「…ぷ」

また頬を膨らませる様子に困惑しながら、ふくふくとした頬を撫でた。

「ルカーシュカなら、部屋の外にいるだけですから大丈夫ですよ。どこかに行ってしまうことはありませんから、安心なさい」
「ぁ…はい…」

ゆるりと立ち上がったイヴァニエが、ゆっくりとこちらに近づいてくる様子を目にして、ようやく意識がそちらに向いた。
流石にもう怖くはないが、エルダが室内にいない状態で向き合うのは、やはり少しだけ緊張してしまう。

「ルカーシュカには何か心当たりがある様ですし、エルダがきちんと聞き出してくれ───」

そう言いながら、ほんの数歩先までイヴァニエが近づいた時だった。

「あっ! や"ぁぁっ!」
「っ…!」

大人しくしていた赤子が突然暴れ出し、腕の中でバタバタと両手を振る。急なことに驚いた体が、ビクリと跳ねてしまった。

「だぅっ! だ!」
「……私も、いけないのですか?」

目を丸くして驚くイヴァニエの様子を見るに、予想外のことだったのだろう。ルカーシュカと違い、その表情には困惑が滲んでいた。

「ど、どうしちゃったの…? イヴァニエ様も、ルカーシュカ様も…一緒にお話ししてただけ、だよ…?」
「…ぅ、うぅ~っ…!」

小さな手をそっと握り、あやすように話し掛けるが、どうしてかその瞳は徐々に水気を帯び出した。

「ふぅ……ふっ…ふ…っ」
「あ……え、ま、まって…」
「ふぇ…ふっ、ふ…っ、…っあぁぁ!」
「あぁっ、うそ、どうして…っ」
「ああぁあぁぁっ!」

ボロボロと涙を零しながら大声で泣き出した赤ん坊に、困惑と驚愕から慌てるが、考えるよりも早く、体は赤ん坊を胸元に抱き締めていた。

「あぁぁぁっ、ひっ…ああぁっ!」
「ごめん…ごめんね? ごめんね…大丈夫…大丈夫だよ…怒ってないよ…?」
「ああぁっ、…っ、あぁぁっ…」
「…ごめんね。大丈夫…大丈夫だよ…怖く、ないよ」

赤ん坊の丸い頭を手の平で包むように撫で、全身で泣く小さな体を抱きしめる。
胸元に埋めた赤ん坊から泣き声が漏れるたび、服越しに伝わる熱い吐息と、力一杯握り締められた服の端に、切なさと共に愛しさが込み上げた。
小さな背をトン、トン、とゆっくり撫でるように叩きながら、細く柔らかな毛先に唇を落とした。

「…ね? 大丈夫、だからね」
「ひっ、…ひぅ、ふぅぅ…っ」

落ち着き始めた赤子にホッとしていると、扉が僅かに開き、その隙間からエルダが顔を出した。

「アドニス様…? 今、泣き声が…」
「あ…だ、だい…」
「…じきに泣き止みそうです。私も外に出ますから、そちらは話しを続けて下さい」
「え…?」
「そろそろ時間ですし、今日はここまでにしましょう。…プティも、その方が落ち着くはずです」
「…っ、ご、ごめ…」
「アドニス、あなたが悪い訳でも、プティが悪い訳でもないですよ。…プティが怒るということは、恐らく私達が、何かいけないことをしてしまったのでしょう」
「そ、そんな…こと…」
「大丈夫ですよ。まずは私もルカーシュカの話を聞いてきましょう。あなたはそのまま、プティと一緒にいて下さい」

僅かに笑んだイヴァニエが、服の裾をふわりと翻し、扉に向かって歩き出す。
声を掛けることも、掛ける言葉も分からず、茫然としている間に、彼は扉の向こう側へと行ってしまった。

「…っ…、…ぅ…あぶ…」
「…もういいの?」
「…んぅ」
「…どうして泣いちゃったの?」
「んむぅ~…っ」
「…わかんないかぁ」

自分と赤子だけが残された静かな部屋の中、泣き止んだ赤子を抱き上げて立ち上がると、ゆらゆらと小さな体を揺らしながら窓際を歩いた。

「…君達も、泣くんだね?」
「だぅ」
「ふふ、そうだよね…赤ちゃんだものね」
「う…」

ゆらゆらと揺らしている間に、泣いて疲れたのか、ウトウトとしだした赤ん坊は、あっという間に寝てしまった。
頬に残る涙の跡を拭いながら、ゆっくりと部屋の中を歩き回っていると、静かに部屋の扉が開き、エルダが戻ってきた。

「エルダ……お二人は…?」
「そのままお帰りになりました。アドニス様は…プティは、大丈夫ですか?」
「うん…急に、泣き出しちゃったけど、今はもう寝てるよ…」
「左様でございましたか…その子は一度、ソファーの上で寝かせて、それからお話しをしましょう」
「うん」

胸元の服を掴んだままの小さな手を外し、慎重にソファーの上に寝かせると、エルダが薄い毛布を掛けてくれた。
眠る赤子を起こさない様、そろりとその場を離れると、先ほどまでイヴァニエとルカーシュカと一緒に話しをしていた席へと戻った。

「…ルカーシュカ様、なにか…言ってた…?」

二人が座っていた長椅子に、エルダと並んで座ると、ルカーシュカの様子について尋ねた。

「そうですね…プティのあの態度については、説明ができそうですが…」
「うん」
「…アドニス様には少々、お辛い記憶になってしまうかもしれません」
「え?」

辛いこと、と言われて思い浮かぶのは、今よりもずっと前のことだ。
つい身構えるように体が強張ってしまったが、それに気づいたエルダが、両の手で包み込むように片手を握り締めてくれた。

「聞くのがお辛いようでしたら、すぐに仰って下さい。…その、アドニス様が、ルカーシュカ様とお会いになられた…夜の花畑での出来事は、覚えていらっしゃいますか?」
「…あ」

夜の花畑───瞬間的に思い出した記憶は、鮮明にその時のことを覚えていた。
真白く光る美しい花と、笑う赤ん坊達。そして、突然現れたルカーシュカ…

「…、」

星明かりの下、薄暗い夜の世界にいて尚輝いていた、憎悪の籠った瞳の鋭さを思い出し、少しだけ身震いする───が、それ以上の強い恐怖は感じなかった。

(…いつも、お話ししてるからかな…)

話しが出来るようになる前は、彼のことも、怖くて怖くて堪らなかった。
でも今は、あの鋭い目つきで睨まれることも、憎悪の視線を向けられることもなければ、身を刺すような言葉をぶつけられることもない。
笑うことこそないが、黒い瞳は穏やかに凪ぎ、言葉の端こそ少々荒いが、発せられる言葉には優しさが滲んでいた。

そんな彼の姿を知っているから、知ることができたからこそ、今はルカーシュカを怖いとは思わないし、記憶に怯えることもないのだろう。

「…アドニス様?」
「あ…、大丈夫…だよ。…ぇと、そう、だけど…それが…なにか、あった…?」

自分が怯えたりしないことに安心したのか、エルダがホッと浅く息を吐いた。

「ルカーシュカ様が仰るには、その時にアドニス様に対して…その、酷く傷つけるようなことを言ってしまった、と…」
「あ……それは…あの……」
「…ルカーシュカ様ご本人がそう仰っていたのです。お言葉を濁さなくとも、大丈夫ですよ」
「ぅ……あの…ちょっと…その……こ、怖い、こと…は、言われた…かも…だけど…」
「ええ、そのせいで、アドニス様を傷つけてしまったと、ルカーシュカ様は仰っていました。どうやらその時、その場にいたプティ達が、ルカーシュカ様に対して怒ったようなのです」
「…え?」

(…怒ってた…け?)

『傷つけた』と言うルカーシュカの言葉に驚くばかりで、理解するのが追いつかない脳みそをなんとか動かし、記憶を手繰り寄せた。
あの時はルカーシュカの様子にばかり意識が向いており、側にいた赤子達の様子まで気にしている余裕がなかった。

(心配…してくれてたのは、覚えてる…みんな、泣きそうな顔してて…でも…怒ってた…かな?)

記憶に無いことに首を傾げていると、エルダがなんとも言えない表情で口を開いた。

「ルカーシュカ様が仰るには、アドニス様はその様子をご覧になっていないそうです。アドニス様には見えないところで…その、赤ん坊達がルカーシュカ様に対して『きらい』と言った様で…」
「え…喋ったの?」
「あ、いえ、喋った訳ではなく…その、そういう意味と取れる行動をした様で…恐らくですが、その場にいたプティ達は、ルカーシュカ様のことを、アドニス様を虐める相手として認識してしまった様です」
「えぇ…」
「そうでなければ、プティがあのように激しく怒ったり、嫌がったりすることはございません。…お二人が一緒にいる場面を見て、以前のことを思い出し、あのような態度になってしまったのでしょう」
「そんな…」

自分の中では既に消化されていたことが、赤子達の中ではまだ蟠りとなっていて、更にはそれを自分が知らなかったということに愕然とする。

「どうしよう…あの子達にも、ルカーシュカ様にも…悪いことを…」
「アドニス様のせいでは…いえ、誰が悪いということも、ないのですが…少し、巡り合わせが悪かったのでしょう」
「……ルカーシュカ様は…? 大丈夫…?」
「申し訳ございません。私からは、なんと申し上げていいのか…」
「そう…」

眉を下げるエルダに、自分も視線を下げた。

「…あの、イヴァニエ様…は? イヴァニエ様にも…その、怒ってたんだけど…」
「こちらも恐らく、としか言えませんが、イヴァニエ様に対して怒ったというよりも、もっと広い括りに対して、そのような態度になったのかもしれません」
「広い、括り…?」
「…例えばですが、大天使様達に対して…その、ルカーシュカ様のように、怒る可能性があるのかもしれません」
「…え…ど…して…」
「こちらも憶測ですが、やはりアドニス様の知らないところで、プティと大天使様の間で何かあったのかもしれません。イヴァニエ様はまったく心当たりが無いご様子でしたので…他のどなたかと、何かあったのかもしれません」

(他の…)

そう言われて思い出すのは、金色の髪の毛と紅い瞳の天使の存在だ。
ずっと前に起こったバルコニーでの邂逅。自分がこの部屋に閉じこもってから関わったことがある存在と言えば、イヴァニエとルカーシュカ以外には彼しかいない。
鋭く冷たい瞳と、後方から聞こえた嘲笑を思い出し、ぶるりと体が震えた。

「…アドニス様? なにか、ご存知ですか?」
「…、う、うぅん…っ」

確証の無いことは言えないし、赤子達と大天使達の間に何かあったのかどうかさえ不確定なのだ。エルダの問いに、フルフルと首を振った。

「…今後も、お二人と会う時には、プティ達をお部屋に入れないようにしなければいけませんね。…ですが、ずっとそのままという訳にもいきません。お二人ともご相談して、どうすべきか考えてまいりましょう」
「…うん…」

確かに、今はまだいいかもしれないが、この先もずっとこのまま、という訳にはいかないだろう。そうでなくとも、ルカーシュカと赤ん坊達の関係が悪いままなのは、良くないことだ。

その後、エルダが退室していた間に起こった出来事を伝え、自分にも何かできることがあるか聞いているところで、寝ていた赤ん坊が目を覚まし、それ以上その会話を続けることは出来なかった。
寝る前までぐずっていた赤子も、目を覚ませばケロリとしており、いつものようにご機嫌な様子だった為、ルカーシュカのことについて尋ねるのは躊躇われたのだ。

結局、そのまま他の子達も遊びに来る時間になってしまい、充分に話し合うこともできずに、その話はそのまま流れてしまった。





「はぁ…」

夜も更け、エルダもいなくなった部屋の中、訪れる気配のない眠気に、布団に包まったまま溜め息を零した。
悶々と思い返すのは、昼間の一幕と、ルカーシュカと赤ん坊達のことだった。
あれから陽が落ちるまで、赤ん坊達とずっと一緒にいた為、話しを切り出すことも出来ず、陽が落ちてからエルダと話そうにも、詳しい状況が分からないので何も話せず、消化不良のまま夜を迎えてしまった。

(…どっちも…悪くないと、思うんだけどな…)

あの夜、真白く光る花畑で起きたことを思い出す。
自分に対して怒りと憎悪をぶつけたルカーシュカと、そんな彼に対して、自分のために怒ってくれた赤ん坊達。

その感情はどちらも間違っていない───正しい感情のはずだ。

ルカーシュカの言葉に自分が傷ついたのも、恐怖と悲しみに泣いたのも事実ではある。
だが、彼が自分に対して激しい感情を抱くことになったのも、鋭い言葉を放ったのも、元を辿れば彼を怒らせ、傷つけたせいだろう。
憎しみを抱き、嫌悪するほどのことを、彼にしてしまったのだ。

(…きっとあの花は、ルカーシュカ様にとって大切なものなんだ…)

過去に、その『大切なもの』を踏み荒らしたという───彼が怒り、その感情を己に向けるのは至極当然のことであり、なにもおかしいことではない。生まれる感情として極自然で、正しいもののはずだ。
対して赤ん坊達が怒ったというのも、自分が彼に虐められていると思ったからこそ、自分のために憤ってくれたのだろう。
その怒りはあの子達の優しさであり、決して悪いことをした訳ではないはずだ。

(…どっちも、悪くないのに…)

感情として間違っていない。
どちらかが悪いことをした訳でもない。
それなのに、双方の間に亀裂が入ってしまった。

(……どうしよう…)

更には双方の間に位置するのが自分なのだ。
自分という存在が、亀裂を生み出す原因になってしまったことに、どうしても気分は落ち込んだ。
悶々と悩んでいる間にも時間は過ぎていき、眠ることもできないまま、布団に包まって目を瞑っているのがだんだんと辛くなってきた。

(……外…行こう…)

のそりと起き上がると、もぞもぞとベッドから這い出る。眠れない時、星空が見たい時、バルコニーへと向かうのが常となっていた体は、薄暗い部屋の中でも難なく窓辺へと辿り着くことができた。
ゆっくりと窓を開ければ、昼間よりも少しだけ冷えた風が、ふわりと薄絹のカーテンを揺らす。
色々考え過ぎて、ごちゃごちゃとしていた頭の中も、すぅっと冴えていくような風に、深く息を吐き出した。
バルコニーへと踏み出し、窓辺の脇に置かれた長椅子に腰を下ろすと、柔らかなクッションに身を預けた。

「…はぁ……」

キラキラと、輝く星々は今日もとても美しい…それなのに、その光景を見ても気分が晴れることはなかった。

(…どうしたら…仲直りできるのかな…)

いや、仲直りというのとはまた少し違うのかもしれない。ただ仲違いしてしまった現状を、どうにかできないものかと思考を巡らせた。

(…ルカーシュカ様は、怖い人じゃないよって、言うのは失礼…かな…? 優しい人だよ…とか? …でも、言葉で伝えるだけで、あの子達は納得してくれるのかな…?)

なによりあの子達は自分のために怒ってくれたのだ。その気持ちはとても嬉しいし、優しい子達だなと思うのだが…ルカーシュカとの関係が変わってきた今、あの日の出来事にあえて触れることも無ければ、思い出そうともしなかった。
辛く悲しい記憶だからこそ、触れたくないというのもあるが、あの時と今のルカーシュカが自分に向ける感情は異なるのだとハッキリと分かっているからこそ、蒸し返したところで良いことなど一つも無いと思っていたのだ。

(…あの子にも、悪いことをしちゃった…)

今日の子も、もしかしたら自分を守ろうと思って、部屋の中まで入ってきてくれたのかもしれない。怒って、泣いてくれたのかもしれない。
それなのに、あの子達が自分のために怒ってくれたということも知らず、今になってその事実を知って困惑してしまう自分の薄情さに、きゅうっと胸が苦しくなる。

(…怒ってくれて、ありがとうって、ちゃんと言わなきゃ…それから、謝って……)

ルカーシュカとの今の関係は、言葉を尽くせば、分かってくれるだろうか?
それを、あの子達はどう思うだろうか? …怒るだろうか?
少しだけ泣いてしまいそうな気分に引きずられ、瞳を伏せた時だった。

「………?」

不意に周りの空気が変わった気がして、辺りを見回した。
何が違う、とは明確には分からないが、何かが変わったような感覚に、キョロキョロと目を動かした。

(…気のせいかな?)

───そう思った、その時だ。



「───アドニス」



「っ!?」

すぐ近くで聞こえた、耳に覚えのある声に、思わず椅子から立ち上がった。

(この声…ルカーシュカ様…? だけど、ど、どこから…?)

すぐ側で声が聞こえたはずなのに、自分の近くにも、見える範囲にも誰もいない。
一体どこから…と立ち尽くしていると、続けて声が聞こえた。

「…下だ」
「…!」

その声に、バッとバルコニーの端を見た。
広いバルコニーの周りを、ぐるりと囲む手摺り、その向こう側には、何度か降り立ったことがある大地が広がっている。

「……、」

どうしたものか…迷い、戸惑い、躊躇いながら、恐る恐るバルコニーの端に向かって足を動かした。
ずっとずっと前、ルカーシュカと初めて出会ったあの夜を最後に、一度も近づくことのなかった外の世界へと繋がる境界線。

『外に出たら怒られる』
『怖い思いをする』

そんな恐怖心から、近寄ることすらできなかった場所に、一歩一歩、ゆっくりと近づいた。
広いとはいえ、歩き出してしまえばあっけないほどあっという間に辿り着いた手摺りの前で、深く息を吐き出した。

(大丈夫…ルカーシュカ様が、そこにいらっしゃるか、確かめるだけだから…)

他の天使達もいない。外に出ようとしている訳でもない。
だから大丈夫…と自分に言い聞かせると、手摺りにそっと手を掛け、湧き上がる恐怖を振り払うように、そろそろと身を乗り出した。

「……ルカーシュカ、様…」

覗き込んだ手摺りの下───白い大地の上に佇むルカーシュカが、こちらを見上げていた。
どうして、何故こんな時間に…と様々な疑問が浮かぶも、どれも声には成らず、押し黙ることしかできなかった。

数秒の静寂の中、先に沈黙を破ったのは、ルカーシュカだった。
夜空色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめ───…


「……少し、話しがしたい」


穏やかな夜によく似た静かな声が、耳元でそっと囁いた。
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