天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

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『あなたを見捨てました』


心の柔い部分を、鋭いナイフで刺されるような痛み───その矛先は、自分ではなく、イヴァニエ自身に向いていた。
悲痛な色をした瞳は伏せられ、ついと逸らされてしまった顔に、ショックよりも焦りが募った。
それと同時に、背に残った傷の存在も思い出し、浴室の一件でイヴァニエとエルダが顔を強張らせていた理由にも、ようやく思い至ることができた。

背中の傷を癒してもらった日の遠い記憶。
掘り起こされたそこに包まれていたのは、怒ったような冷たい眼差しをしたイヴァニエと、痛みから解放された安らぎ、癒しを施してくれたことへの感謝の気持ちだった。
確かにあの時、「傷痕が残る」と言われたが、助けてもらったという記憶こそあれど、見捨てられたという言葉には全く心当たりが無かった。
それに「治せるはずだった傷」とはどういう意味だろうか?
次々と湧き上がる疑問と焦燥感から、堪らず声が漏れた。

「…あ、の…」
「…急にこんなことを言われても、困りますよね」
「い、いえ…っ、そ、じゃ…なくて……あ、あの…だ、大丈夫…ですか?」
「……なんの、心配ですか?」
「え…ぅ…」

いつもの柔和な表情を消したイヴァニエは、それだけで少し怖い。
でもだからこそ、微笑むことができなくなってしまうほど、彼自身が苦しんでいるのだということが分かり、悲しくなった。

「だ…だって…、イヴァニエ様…の方が…ずっと…く、苦しそう…で…」
「───」
「あの…わ、私は…全然…その…見捨て……とか、分かんない、ですし…だ、だから……」
「………」

大丈夫───そう言いたいのだが、イヴァニエから返事が無いことに徐々に声は小さくなり、視線は下がった。
シンと静まり返った静寂は痛いほどで、ドクドクと鳴る心臓の音がやけに大きく聞こえた。

「…ぅ…と…」
「……私は」
「!」

ポツリと呟かれた声に、パッと顔を上げた。

「私は…あの時、あなたを救えたはずなんです」
「……救う…?」
「背中の傷を癒した時……私は、あなたの様子がおかしいことに気づいていました」

『様子がおかしい』
それは、とは何かが違うということに、気づいていたということだろう。

「気づいていて、その上で私は……ただ関わりたくないという保身の為に、傷を負っても助けを求めることすら出来なかったあなたを、気づかぬフリをして見捨てたんです」
「………」
「背の傷だって、もっと多くの聖気を込めれば、傷痕も残さずに治せたはずです。それを私は……傷さえ塞がれば…アドニスが相手ならそこまでする必要はないだろうと…意図的に手を抜きました」
「…っ」
「…どうぞ軽蔑して下さい。独り善がりで癒しを与えたことに満足して、その後はそれすら忘れていました。ルカーシュカがあなたのことを気に掛けて、改めてこの部屋を訪れたあの日まで忘れたままで……あなたの背に残った傷痕を目にするまで、謝罪する勇気もなく、ずっと黙っていた愚か者です」
「…イヴァニエ様…」
「私があの時、あなたの変化ときちんと向き合っていれば、きっともっと早く……、あんなに、あなたを傷つけることなどなかったはずなんです」

それは、初めて知る彼の懺悔だった。
逸らされたままの瞳と、指先が色を失くすほど強く組まれた手。だがその声は、泣きたくなるほど穏やかだった。
どれだけ彼は、自分自身を責めたのだろう…その姿は、二人きりで話した夜のルカーシュカの姿と、ぴたりと重なった。
なんと声を掛けるのが正解なのか、再び訪れた静寂の中、次の言葉を探すように口を閉じては開け…そうして正解など分からないまま、思うまま声に出していた。

「…ぁ…の…、教えて…下さって…、ありがとう、ございます…」
「……ありがとうではないでしょう」

少しだけ低くなったイヴァニエの声に、ビクリと肩が揺れた。

「あ…ぅ…」
「…ごめんなさい。私が私に怒っているだけです…怖がらせましたね」
「い、いえ……いえ…あの…」
「…アドニス、あなたは私に怒っていいのですよ? どうして、ありがとうなどと言うのです?」
「…どうして…て……だって…怒ることが…ないです」
「……何故です? 私はあなたを───」
「み、見捨てて、ないです…!」
「…!」

イヴァニエの言葉を奪うように、少しばかり強く返せば、その顔が驚いたようにこちらを見た。
ようやく目が合った水色の瞳を真っ直ぐに見つめ返せば、逸らされることなく視線が返ってきた。

「イヴァニエ様は…そう…思われるかも、しれない…けど…でも、わ、私は…そんな風に、思いません、でした…っ」
「それは、あなたが知らなかったから…」
「し、知らなくても…今、知っても…そんな風に、思わない、です…! …だ、だって……う、嬉しかった、から…」
「………」
「背中…痛いの…治して、もらえて…本当に、それだけで…嬉しかったです……ありがとう、ございますって…いっぱい…いっぱい、思いました…! 痛く、なくなって…い、痛くない、だけで…こんなに…嬉しいんだって……それだけで、本当に…わ、私は、救われました…」
「ッ…!」

言葉にしながら、あの日の記憶が鮮明に蘇る。
イヴァニエが、優しさから傷を癒やしてくれた訳ではないことには気づいていた。
それでも、同情でもなんでもいい。ただ施しを与えてもらえたことが、傷を癒してくれた温かさが、嬉しかった。
誰も彼もが自分をいない者として扱う中、彼だけが…イヴァニエだけが、自分のことを僅かでも気に掛けてくれた。自分の為に、癒す力を使ってくれた。
そのことに感謝していたあの日の自分は、確かにあの時、彼に救われたはずなのだ。

「……やめて下さい。そんなことを言われるようなことは…」

苦しげに呟くイヴァニエが、また顔を背けてしまった。
咄嗟にキツく組まれた彼の手を、両の手で包むようにギュッと握った。

「っ!?」
「イ、イヴァニエ様が…わ、私に…か、関わりたくないって、思うのは…と、当然なんです…」
「…!」

急に手を握られたからだろう。驚いてこちらを見たイヴァニエと、もう一度目を合わせた。

「自分は……き、嫌われて、ました…いっぱい…嫌われてて…でもそれは…っ、自分が、いっぱい…わ、悪いこと、したから…だから…嫌われ、てて…イヴァニエ様が…わ、たしに、関わりたくないって、思うのは…当たり前、なんです…!」

イヴァニエの『見捨てた』という言葉よりも、自分の吐いた言葉に心を抉られながら、それでも瞳は逸らさなかった。

彼の懺悔は、きっと黙っていることだってできた後悔だ。
ルカーシュカの時ように、お互いが傷つき、傷つけたと自覚して記憶していた出来事ではない。
イヴァニエさえ黙っていれば、自分は何も知ることなく、背に残った傷痕さえ『そういうもの』として気にすることすらなかっただろう。

黙って、忘れることだって出来たことを、彼は覚えていてくれた。教えてくれた。
それが良心の呵責に耐えられなかったものだったとしても、その良心こそ、彼が自分に向けてくれたものなら、それだけで嬉しかった。

「イヴァニエ様は…そ、それでも…来て…くれました…背中の傷も…治して…下さいました…!」
「……それは私の役目だったから…」
「い、いいんです…! 役目でも…なんでも……だ、だって…イヴァニエ様…だけでした…っ」

イヴァニエとルカーシュカが、揃ってこの部屋に現れたあの日。
その間、この部屋を訪ねてきてくれたのは、イヴァニエ唯一人だった。

「此処に…じ、自分のところに…来て、下さったのは…イ、イヴァニエ様…だけです…! イヴァニエ様だけが、す、少し…でも…自分の、ことを…か、考えて…くれました…」
「……、」
「イヴァニエ様、だけなんです……本当に…本当に、私は、そ、それだけで…、あの日の私は、それだけで…たくさん、救われました…っ」
「アドニス…」

言葉にしながら、蘇った寂しい記憶に涙が溢れた。
誰にも助けを求められない。助けを求める勇気もない。
そんな中で、生まれた瞬間から苛まれていた背の痛みが消えたこと、ベッドで眠れるようになったことにどれほど安堵したか、どれほどあの日のイヴァニエに感謝したか…それを彼自身に否定されたことが、とても悲しかった。

「み…見捨てた、なんて…っ、言わな…で…くださぃ…」
「……ごめんなさい、アドニス」
「…ィ、イヴァニエ様、だけだった…です…っ」
「…ええ……ええ、ごめんなさい。酷いことを言いました。ごめんなさい」
「ひ…っ、ぅ…っ」

固く組まれていたイヴァニエの手がゆるりと解け、上から被せていた自身の手も自然と解けた。
ボタボタと溢れる涙をぐしぐしと拭えば、その手をやんわりと取られた。

「そんなに強く擦ってはいけないと、エルダに言われたことはありませんか?」
「ふ…っ、…う…っ」

イヴァニエが服の袖で、涙を吸い取るように優しく拭ってくれた。綺麗な花の模様が描かれたそれで拭われることに申し訳なさが募ったが、涙はなかなか止まらない。

「…ごめんなさい。言わなければと、自分のことばかりで…あなたに悲しい思いをさせてしまいましたね」
「んん…!」

イヴァニエの謝罪に、フルフルと首を横に振れば、不意に彼の指先が頬に触れた。

「…悲しい話は忘れて下さい。あなたは、あなたの中にある思い出だけ、大事にして下さい。…私は……私の罪と、あなたの御心に救われたことだけは忘れません」
「……?」
「…分からなくてもいいです。…ありがとう、アドニス」
「…!」

言葉の意味がよく分からず、パチリと目を瞬けば、眉を下げたまま、イヴァニエが微笑んでくれた。
ずっと難しい顔をしていたイヴァニエが笑ってくれた───そのことに、安堵から頬は緩んだ。

思い返せば、イヴァニエはいつだって柔らかな表情と穏やかな声で接してくれていた。
傷を癒やしてくれたあの日、きっと微笑んだらとても優しげな顔立ちになるのだろうなと思いながら、その微笑みが自身に向けられることは無いのだろうと悟っていた。
だがその後、改めて顔を合わせた彼は、ぎこちなさを残しながらも笑んでくれた。優しく声を掛けてくれた。
その態度は徐々に徐々に、もっと優しく、もっと穏やかで温かなものに変化していった。

同じ距離感で、変わらぬ穏やかさで、常に近くにいてくれることが当たり前のように、イヴァニエは寄り添ってくれていた。
ただ呼吸をするような、空気に溶けこむような和やかな情を、ずっと与えられていた…そのことに改めて気づかされた。
それに気づけたのは、恐らくエルダやルカーシュカとたくさん話し、感情の在り処をたくさん学んだおかげだろう。

(…自分から手に触れられたのも…たぶん、イヴァニエ様だったから…)

浴室へと連れられて、イヴァニエに手を取られた時も、それが非日常であることに一瞬気づけなかったのは、きっと相手が彼だったからだ。
イヴァニエだったから、触れられることに違和感も、動揺もなかった。
それくらい、きっとずっと、彼の存在を近くに感じていたのだ。
不思議なもので、無意識の内に宿っていた好意を自覚すれば、先ほどは動揺してしまった頬に触れる行為も、今はただ、その温もりを心地良いと感じるだけだった。

「…ありがとう、ございます」
「いいえ。…話しを聞いてくれて、ありがとうございました」

涙が止まると、イヴァニエの手もそっと離れていった。
ホッとするような名残惜しいような、どっちつかずの気持ちになりながら、乱れていた呼吸を整えていると視線を感じた。

「…?」
「その…できればで、構いません。私に、背に残った傷痕を、治させて下さいませんか?」
「え?」

思ってもいなかったことを言われ、キョトリとイヴァニエを見返した。

「あなたはあまり気にしていないみたいですが、自分の罪がそこに残ったままの様で…私が気になってしまうんです」
「あ…」
「勝手なことを言ってすみません。これは私の我が儘です。どうしてもという訳ではありませんが…でももし、もう一度機会を頂けるなら、私にあなたの背の傷を癒す権利をください」

真っ直ぐこちらを見つめる瞳に宿った光は強く、それが彼にとっての願いだということはすぐに分かった。
イヴァニエの言う通り、自分はもう気にしていない。というより、言われるまで傷痕のことなど忘れていたほどだ。
それを癒やしてもらうことに少しばかりの躊躇いを覚えたが、それが彼の願いなら断る方がかえって悪いのだろうと、コクリと頷いた。

「ん…と…はい。あの…お願い…します」
「ありがとうございます」

ホッと表情を和らげたイヴァニエに安堵していると、彼の言葉が続いた。

「では早速ですが、上半身の服を脱いで、こちらに背を向けてくれますか?」
「え?」
「え?」

予想外のことに驚いて聞き返せば、彼からも同じ返事が返ってきた。

「い、今から…ですか?」
「? ええ、そのつもりでしたが…」
「えと、だ、だって…あの…聖気も、減ってて…お疲れじゃ…」
「それなら問題ありません。大丈夫ですよ」
「…でも…」
「改めて時間を設けるよりも、アドニスさえ良ければ、今この場で行おうと思っていましたが…いかがですか?」
「ぅ…じゃあ……お、お願い、します」
「ありがとうございます」

サクサクと進む話に若干戸惑いながら、言われるまま、イヴァニエに背を向けると、おずおずと上半身の服を脱いだ。
簡素な一枚服を脱ぐのにそう時間は掛からない。するりとはだけた背に、背後からジッと見られているような視線を感じ、ソワソワとしてしまう。

「う…と…」
「…寒くはないですか?」
「はい…大丈夫、です」

(傷って…どうなってるんだろう?)

イヴァニエに背を向けながら、自分では見えぬ背中の傷が、今更ながらに少しばかり気になった。

「直接傷に触れた方が、治りは良いはずです。少しだけ背に触れますが…いいですか?」
「は、はい…」

思わず姿勢を正し伸ばした背に、真綿をそっと包むかのようにイヴァニエの手が触れた。

「っ…」
「…大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ、です…」

肌に触れるか触れないかの距離で感じた体温にドキドキしたが、大きな手の平がペタリと背に触れた瞬間、ピクリと肩が揺れてしまった。
体温以上に温かく感じる手の平の熱にホッとする反面、少しの擽ったさに、のけ反ってしまいそうになるのをなんとか堪えた。

(くすぐったい…)

背中に触れられることが思っていたよりも大変なことに、少しばかり焦りを感じながら、それでも身動ぎしてしまわないように我慢していると、背後から声が掛かった。

「では、始めますね。…少し大変かもしれませんが、辛くなったら言って下さい」
「…?」

なにが大変なのだろう…そう疑問を口にする間もなく、背中に感じた熱に目を見開いた。

「───ッ!?」

ジリリ…と、突然強い陽の光を当てられたような熱さに反射的に体は逃げ、背はのけ反った。

「あっツ…! や…!」

咄嗟に振り返れば、困惑顔のイヴァニエと目が合った。

「なん…なんで…?」
「…ごめんなさい。驚かせてしまいましたね…思ったより、傷痕が酷かったみたいです」
「…? ひどい…と、治すのも…痛いん、です、か?」
「痛みはないはずです。ただ少し、熱を持ってしまう様ですね。…あと、もしかしたら多少の不快感があるかもしれません」
「…んぅ」

痛みを伴わないとはいえ、どうやら残った傷を治すのはそう簡単なことではないらしい。
少しの熱さなら我慢できるかもしれないが、『多少の不快感』とはどういうものか…途端に不安になってきた。

「…アドニス、どうですか? 頑張れそうですか?」
「う……ぅ…はい…」

先ほどは突然のことに驚いてしまったが、心構えがあれば大丈夫かもしれない…不安を残しつつ、もう一度そろそろとイヴァニエに背を向けた。

「万が一痛みを感じたら言って下さい。すぐに止めます」
「は、はい…」

なんだか大変なことになってしまった…心の中で泣き言を漏らしながら、ギュッと目を閉じ、次の衝撃に備えた。

「…っ!」

じわぁ…と背中に広がる熱。それに一瞬身構えたが、最初に感じた熱さよりも幾分抑えられた熱は、我慢できないほどでもなく、そのことにホッと息を吐いた。

(熱い…けど…これくらいなら…)

全身をこの熱に覆われたら流石に苦しいかもしれないが、背面だけなら大丈夫そうだ。
思っていたよりも少ない衝撃に、強張っていた体から力が抜けた───その瞬間、ゾワリと背を這うような不快感が背筋を駆け上がり、ビクンッと体が跳ねた。

「ひわっ!?」

自身の口から飛び出た声にも驚きながら、反射的に身を捩ると、逃げるようにイヴァニエの手から背を隠した。

「アドニス…」
「ふ…ぅ…だ、だって…」

眉を下げ、困ったような顔でこちらを見つめるイヴァニエに、思わず泣き言が零れた。

「へ、変な…感じが、して…」
「傷が…皮膚が、傷ついた状態で定着してしまっているのです。それを治すには、肌の表面だけでなく、内側の深い部分…傷ついてしまった元の組織から癒す必要があります」
「内側…?」
「…要は、肉の部分です。あなたの背は今…少しばかり、歪な形をしているのです。それを治そうとすると、皮膚の内側の組織が活発に動きます。そのせいで、変に感じるのでしょう」
「う…」

せっかく説明してくれたが、それが解決策ではないことくらいは分かる。
ソファーの端に寄り、縮こまったまま動けないでいると、イヴァニエがそっと距離を詰めてきた。

「私の我が儘に付き合わせてしまって、ごめんなさい。無理をさせるつもりはないんです。…もう止めておきましょう」
「ぅ…」

…そんな顔で言われても、素直に『はい』だなんて言えない。

(……大丈夫。痛く、ないから…)

「だ、大丈夫…です。び、びっくり…しちゃった…だけ、ですから…」
「ですが…」
「大丈夫、です…!」

本当はあまり大丈夫ではないかもしれない。
それでも、イヴァニエの願いを叶えられるのが自分しかいないのなら、それを『否』とは言いたくなかった。

「……分かりました。でもその前に、少し準備をしましょう。失礼ですが、寝室に入ってもよろしいですか?」
「…? …はい」

なぜ自分に許可を求めるのだろう…と不思議に思っている間に、イヴァニエは席を立ち、寝室へと向かった。すぐに戻ってきた彼の手には、枕が抱えられていた。
そのままソファー周りのクッションをいくつも端に寄せて重ねると、クッションで小山を作り上げた。

「これを抱いて、そこにうつ伏せに寝て下さい」
「…?」

『これ』と言って手渡された枕と、『そこ』と言われたクッションの山。
イヴァニエの行動がよく分からず首を傾げていると、困り顔の彼が言いにくそうに呟いた。

「恐らく、反射的に体は逃げようとしてしまうはずですから…」

つまり、枕を抱いて横になって、それで逃げようとする衝動を抑えようということなのだろう。実際、先ほどもイヴァニエの手から逃げようと、体は勝手に動いていた。
言いたいことが分かる分、逃げ道が無くなってしまうことへの不安は膨れたが、彼の言葉に従った。
大きな枕を両腕に抱くと、のそのそとうつ伏せのままクッションの山に埋もれた。柔らかなクッションに上半身を包まれているような安心感に、それだけで気持ちは和らいだ。
ソファーに寝そべると、イヴァニエがその傍らに膝をついた。そのことに驚き、目を見開くが、平然としている彼を前に何も言えず、口を閉じた。

(…エルダにおんなじことしたら、いけませんって言われたのに…)

絨毯の上とはいえ、極自然に床に膝をついたイヴァニエを凝視していると、目が合った彼の左手がスッと差し出された。

「…?」
「…手を握っていた方が、安心するかもしれません」

その言葉に、嫌でも緊張感が高まった。
先ほどのゾワリとした感覚に、反射的に逃げてしまったことを思い出し、縋るような気持ちでイヴァニエの手を取った。

「なるべく早く終わらせます。その分、強く不快に感じるかもしれませんが、あなたを傷つけるものではありません。…どうか怖がらないで下さい」
「ん…」

枕をぎゅうっと抱き締め、クッションに埋もれたまま、小さく頷いた。

「…いきます」
「ん…っ」

背にペタリと触れた大きな手。その温かさに息を吐く間も無く、ジリ…と熱くなった背の一部に唇を柔く噛んだ。
これくらいなら大丈夫───そう思った次の瞬間、ゾクッ…と背筋を何かが這うような感覚に襲われ、枕を抱き締めた手に力が籠った。

「んん…っ!」

ゾワゾワとした感覚に、肌は粟立ち、サワサワと耳の後ろを擽られるような不快感に鳥肌が止まらない。
そうこうしている間に、皮膚の上を何かが這うような感覚がして、堪らず声が漏れた。

「ひゃっ!? ひ…ん…っ」

熱を感じていた部分の肉が、自分勝手に動いているような信じられない感覚に、逃げ出そうと無意識の内に体が動きそうになる。
それを抑えるように枕をキツく抱き、バタつきそうになる足を縮こまらせた。その間にもゾクゾクと背筋を駆け上る悪寒は止まらず、四肢が震えた。

「ゃ…っ、…ぃや…っ!」

初めての感覚に理解が追いつかず、息が詰まる。
そうしている間にも不快感は増していき───直後、皮膚の下をうぞうぞと生き物が這い回るような恐ろしい悪寒と、体の内側を擽られるような言葉にできない感覚に襲われ、いよいよ堪え切れずに泣き声が漏れた。

「あっ!? ひ…っ、やだ…! やだぁっ!」

腰から背筋を這い上がるようなゾクゾクとした悪寒に、全身が跳ねる。
止まらない悪寒と、それを誘発する擽られるような感覚、皮膚と肉の間を何かが蠢くような恐ろしさに、生理的な涙が溢れた。
それでも、癒しを施すイヴァニエの手から逃げてしまわない様、なんとか身を捩ることだけは耐え続けた。

「ふゃ…っ、やだ…っ、こわい…っ、こわいよぉ…!」
「ごめんなさい。ごめんなさい、アドニス…、もう少しですから…!」
「んんぅ…っ」

イヴァニエと繋いでいた手にも、知らず知らずの内に力が籠る。ぎゅうっと握り締めれば、痛いほど握り返され、その力強さに安心感が込み上げた。

「ぃや…っ、ぁ…っ、イヴァニ…さま…っ、イヴァニエ様…!」
「…大丈夫、もう終わりますよ」
「あっ!? ひっ…いぁぁっ!」

もう終わり───その言葉に安堵する前に、一際大きな波が押し寄せた。
尾骶骨から背骨を一気に駆け抜けた痺れるような感覚と一緒に、熱い血が背中全体を瞬間的にドッと巡り、堪らず背がのけ反った。

「~~~…っ!! っ…、はぁっ、はぁっ…、はぁ…っ」

大きな波が過ぎ去った後は、今までの悪寒や、何かが背を這う感覚が嘘のように消え、背に添えられたままのイヴァニエの手の温もりだけが残った。
時間にすればきっとほんの少しの短い時間なのだろう。それでも体感では、とても長い時間が過ぎ去ったように感じた。

「…ありがとう、アドニス。もう大丈夫です。…頑張りましたね」
「はぁ……はぁ……、ん…」

荒い息を整える間、生理的に零れた涙をイヴァニエの指先が拭ってくれた。
そのまま優しく頬を撫でられ、その心地良さと温かさに、ゆっくりと瞼を閉じた。

(…イヴァニエ様は…ほっぺを撫でるのが、お好きなのかな…?)

傷を癒やしてもらったはずなのに、なぜか体はとてつもなく疲れていた。
頬を撫でる手の平の温もりも相まってか、急激な眠気に襲われ、意識がぼんやりとし始める。

「…疲れてしまいましたね。我慢しないで、お休みなさい」
「…イヴァニエ様、は…?」
「私はあなたが眠ったら帰りますから、安心なさい」
「…ん……」

とろとろと眠りに落ちてしまいそうな視界の中、イヴァニエの綺麗な顔が、少しだけ近くに寄った。

「…ねぇ、アドニス。もし、あなたさえよければ……近く、バルドル様に会ってみませんか?」
「…ん…?」

(…バルドル、様……神様…?)

うっそりとした意識の中、かろうじてその名前だけを拾ったが、その名を認識する以上のことを考えられず、ぼんやりと水色の瞳を見つめ返した。

「今言われても、考えられませんよね。…今度、ルカーシュカも交えて、一緒にお話ししましょう」
「…ぅん…」

一緒にお話し…その言葉だけ理解すると、コクンと頷いた。

「さぁ、もうお休みなさい。今日は私の話しを聞いてくれて…我が儘を聞いてくれて、ありがとうございました。…大変な目に遭わせてしまって、ごめんなさい」

眉根を寄せながら、それでも淡く微笑んでくれるイヴァニエの表情はとても穏やかだった。
それだけで気持ちはふわふわと浮き立ち、安心感に包まれた。

「…、私も……ありがとう…ございました…」

閉じてしまいそうな瞼を持ち上げ、ポソポソと言葉を返せば、頬を撫でていたイヴァニエの大きな手の平が、視界を遮るように瞼の上に乗った。



「本当に、ありがとう。…おやすみなさい、アドニス」



泣いて重くなった瞼を温めるような手の平に、全身からゆるり力が抜けていく。

真っ暗になった瞼の裏、目元を覆う体温は蕩けるように心地良く、意識は深く柔らかな眠りへと落ちていった。
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