泥の殻々/骸の相承

宮塚恵一

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2. 異界/由李歌

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 憂悟と供に家に戻り、玄関先の布切れを手にした。ぼくは憂悟から受け取った土蜘蛛の腕を、その布切れでぐるぐる巻きにする。布に包まれた土蜘蛛の腕を脇に置き、これまた玄関先に置いてある塩壺を持ち上げた。そして壺の中に右手を入れて塩を握り、それを憂悟に向けて撒く。

 憂悟を染め上げていた怨児おにの血、そして憂悟が手にした刀の漆黒が、すうっと消えていった。

 続いて、塩壺を憂悟に渡す。憂悟も同じようにして、ぼくに塩を撒いた。ぼくの身体からも怨児おにの血が消え、身体がられる。

 怨児おにを討った残滓ざんしは放っておくと、いずれはまたそこから怨児おにを産み出す。残滓は直ぐに清めておけば問題がない。

 だが身体に染み付いてしまったモノは別だ。

 憂悟の左腕は、刀の漆黒や怨児おにの血とは違い、今もべっとりと漆黒くろいまま。
 怨児おにも憂悟の左腕の漆黒も、普通の人には見えない黒だ。

 憂悟はぼくから刀を奪い取ると、家の中に入り、部屋の奥にある掛台かけだいに収納した。
 そんな憂悟を、ぼくは玄関の脇に置いた土蜘蛛の腕を持って追いかける。

 憂悟は戦装束を脱ぎ、箪笥から適当に服を見繕うとすぐに着替えた。
 左腕の漆黒もすっぽりと服で覆われる。

「早く着替えろ。今日は平田が来る。それまでに由李歌ゆりかを風呂に入れておいてほしい」

 そう言って、憂悟はすぐに自室に閉じこもった。ここ最近、独りで何かしているようではあるのだが、憂悟が何をしているのかぼくは知らない

 一息ついてから、ぼくも土蜘蛛の腕を置いて、戦装束を脱ぐ。露になった左胸を軽く撫でた。憂悟程に広くはないが、ぼくの左胸も同じように漆黒くろい。
 夜の闇よりも黒い漆黒くろ
 自然には存在しないこの色は、普通の人間は見ることもできない。

 世界に存在するレイヤーが違うのだ、と憂悟は教えてくれた。

 ぼくたちが普通に生きる人間の世界、そして怨児おに達が跋扈する世界は、空間的には同じ場所にありながら、互いに互いを認識することができない。
 ごく稀に先天的にどちらの世界をも認識できる者も居て、そういう存在のほとんどは遥か昔から血筋を守られ、怨児おにから人を守る機関として世界に根付いているという。だが、そうした関係者をぼくは直接は見たことはない。

 憂悟も怨児おにを狩るが、組織などに属していない、野良の怨児おに狩り。

 これから来る平田は、怨児おにの世界、別のレイヤーに貼られた存在を見ることが出来る怪医師かいいしだ。ぼくらと同じ、機関とは無関係のフリーの人間である。

 ぼくは普段着にいそいそと着替えて、土蜘蛛の腕を持って由李歌の部屋に向かった。

 由李歌は憂悟の妹だ。
 憂悟の歳も由李歌の歳も、正確な歳は知らないが、まだ彼女は十代半ば頃だと思う。

 トントン。ぼくは二回ゆっくりと由李歌の部屋な扉をノックをした。

「どうぞ」

 中から由李歌の声が聞こえたのを確認して、ぼくは部屋の扉を開けた。

 部屋の中にある寝台の上で、彼女は窓の方を向いていた。

「何か気になる?」

 ぼくが訊くと、由李歌はふるふると首を横に振った。
 そして由李歌は僕の方を見る。

 いや、見てはいない。

 その眼は虚。眼だけではなく顔の上半分は髪の毛以外、漆黒くろで覆われている。

 ぼくの持つ土蜘蛛の腕に気付いて、由李歌は「あら」と声を上げた。

「おかえりなさい。お兄ちゃんは?」
「すぐ部屋に篭っちゃった」
「そう。寂しいな」
 顔半分が漆黒で見えなくとも、由李佳がしゅんとした表情になるのが、ぼくにはわかる。
 もう、ここに来てから何年も彼女の世話をしているが、未だに彼女の可憐な矮躯と、小鳥のように繊細な声にはどぎまぎしてしまうことがある。

「由李歌、これ」

 ぼくは土蜘蛛の腕を掲げる。
 由李歌は顔をあげ、それを

 ぼくは土蜘蛛の腕を覆う布を剥ぎ取る。
「んあ」
 彼女は口を大きく開けた。その口元に、土蜘蛛の腕を持っていく。
 土蜘蛛の腕に、由李歌は迷うことなく噛み付いた。
 バリッと乾いた音が部屋に響いた。それから土蜘蛛の腕をバリバリと噛み砕き、ごくりと飲み込んでいく。
 ぼくは由李歌が食べやすいように、土蜘蛛の腕を徐々に動かす。

 由李歌の眼に、この世界は見えていない。だが、この世界とは別レイヤーの、怨児おにの世界のモノだけは“見る”ことができる。

 いつもは暗闇を見ているだけ。

 だが、土蜘蛛の腕のような怨児おにの世界のモノだけはその顔の漆黒の中にある眼でも感知できる。

 僕はちらりと由李歌の肩を見た。

 漆黒。

 由李歌には腕がない。その上、肩から胸にかけてまでもが漆黒に覆われている。

 だから、いつもこうして、ぼくは怨児おにの残滓をいくらか家の中に持ち込み、由李歌に食べさせていた。

 怨児おにの世界に身体のほとんどが持っていかれた彼女にとって、人間の食べ物だけでは生きるのに足りない。
 彼女が生きるためには、人間と怨児おに、双方の栄養を喰らう必要がある。

 憂悟が野良で怨児おにを狩っているのはそれが理由だ。

 由李歌を生き長らえさせる為に、怨児おにを狩らねばならない。怨児おにを狩り、喰わせなければならない。
 と言って、誰とも知れぬ他者に、妹を委ねるつもりも毛頭ない。

 土蜘蛛の腕を一本丸々食べ終えて、由李歌はぺこりと首を下げた。

「ご馳走様ちそうさま
「はい、お粗末様。食べたばかりで悪いけど、お風呂の時間だよ」
「わかった。あさひくん、連れて行って」

 ぼくは由李歌の被る布団を取ってたたみ、由李歌を両腕で持ち上げた。

 その脚も、漆黒。

 由李歌は一人で食事をすることも、歩くことすらできない。

 由李歌の部屋を出て、ぼくは由李歌を浴室まで連れて行く。そして由李歌の着ていたワンピースを脱がせ、浴槽にそっと寝かせた。

 彼女の身体は、ほとんどが夜の闇よりも濃い漆黒くろに覆われているが、顔の下半分から右胸までは、未だ人間の肌だ。陽に焼けない彼女の肌は白く美しい。脚も腿から下は漆黒だがそれより上、臍を通って右胸までもが白い肌だ。両肩と、左肩から左胸にかけてまでは漆黒。
 ぼくはシャワーを流して、まずは由李歌の頭を洗う。丁寧にシャンプーからコンディショナーまでちゃんとつけるのは、ぼくのこだわりだ。せっかく残った人間の部分を、疎かに扱うことはない。髪の毛を洗い、泡を洗い流したら、今度はボディスポンジを濡らしボディソープをしっかり染み込ませて身体全体を洗う。流石さすがにもう慣れたものだが、年頃らしく膨らむ右胸や股の間など、人の部分を洗う時はどこを洗うよ、と毎回口にしてから慎重に洗う癖がついている。

「今日は狩り、上手くいった?」
 由李歌の胸のあたりを洗っていると、彼女に訊かれた。
 ぼくは首を振った。由李歌が言うには、ぼくや憂悟など、身体に怨児おにの影響がある人間は、土蜘蛛の腕などの怨児おにの残滓ほどではないが、うすぼんやりと見えるのだと言う。

「全然駄目。憂悟さんみたいには行かないよ。今日、土蜘蛛を討ったのだって憂悟さん。ぼくは後ろであたふたしてだけだよ」
「そう。でも、お兄ちゃんは旭くんのこと、期待してるよ」
「そうかなあ」
「そうだよ。わたしには判る」

 断言する由李歌に、ぼくは苦笑いを返した。

「次はおへそのあたり、いくよ」

 そんな風に由李歌の身体全身を洗って、脱衣所からタオルを持ってきた。由李歌をタオルで包むと、脱衣所の椅子に座らせて身体を拭き、ドライヤーで髪の毛を乾かす。
 それからオイルトリートメントを髪の毛全体につけて、新しいワンピースを着せる。
 ここまでがいつも彼女を入浴させる時のルーティンだった。

 由李歌のことを、恐ろしいと感じていた時もある。
 けれど今は、憂悟に言われるまでもなく、彼女を守りたいと思っている自分がいる。彼女のことを愛しいと思う。

 彼女に服を着せて、部屋まで運ぼうとした丁度その時。

 ピンポーン、とインターホンが鳴ったのが脱衣所まで聞こえた。
 平田が来たのだろう。

「平田さん、来たみたい。ちょっと待ってて」

 ぼくは由李歌の頭にふわりとタオルを乗せて、玄関へと向かった。
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