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第三章
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しおりを挟む十六年間暮らしていた家までの道を、忘れるわけがなかった。素早い足取りで、私は色褪せた壁と、つかない玄関ライト、そして蜘蛛の巣が張られた『春田』を探し歩く。
日が少しずつ落ちてきた。街灯が白い光を放ち、太陽の代わりに世界を明るく照らす。
そんな眩しい光を浴びた、一軒の家が見えてきた。
「あった……」
それは私が暮らしていた時と、何ら変わりのない家……ではなかった。
壁の色は、塗り替えたばかりなのか、汚れ一つ見えないほどの綺麗さで、玄関ライトは淡くオレンジ色の光を灯していた。
そんな綺麗な家を見て、私は胸が痛くなる。単純な理由だ。だって、そこに書いてあるのは『春田』ではなかったから。
掃き出し窓からはカーテンを挟んで温かい光が漏れており、キャーという子供らしい声と、それを聞いて笑う男女の声が響いていた。
ああ、入れない。私がこんな理想的な家族の間に入れるわけがない。入ってしまえばきっと、虚しさで灰になってしまうだろう。
ここでただ見つめているだけで十分。そう思った時だった。
シャッと淡いピンク色のカーテンが開いた。オレンジ色の眩しい光が、闇の中にいる私に直撃する。逆光で表情は何も見えなかったが、長い髪の人影が私を見ているのがわかる。
私は驚いて完全に固まっていた。すると、その女性らしき人は、鍵を開けたのだ。
「……どちら様? どうかされましたか?」
先程聞いた笑い声は幻かのように、ピリリと冷たい空気が私たちの間を流れる。
小さな影と、更に大きい大人の影も、窓枠の端から覗いていた。
冷や汗が滲み出てくる。私は咄嗟に答えた。
「あの……前ここに住んでいて、どうなってるのか気になって……」
すると、女性は、すぐ下に置いてあったサンダルを履き、門のそばまで出てくる。表情がようやく露わになり始めた。
スタイルは良く、肌艶があり、若めの綺麗なお母さん、という印象だった。怒っているのかと思ったが、意外にも表情は柔らかい。だが、真剣な表情だった。
恐らく、怒り口調でないのは、制服を着ていたおかげだろう。全く年齢も素性もわからない不審者であれば、無言で警察を呼ばれてもおかしくないはずた。
「高校生よね。本当に、前この家に住んでたの? 名前は?」
「あ、はい。春田絵美です」
そう答えると、瞳に宿っていた緊張感が、ふっと緩むのが目に見えてわかった。
するとすぐに、後ろから「ねぇママ、その人誰ー?」と小さな影が揺れた。女性はそれに対し、ひらひらと笑顔で手を振り「大丈夫よ」と声をかけている。
「絵美ちゃんね。何だか本当に、奇跡みたい」
女性は少し嬉しそうだった。何か知っているのだろうかと、私は食い気味に次の言葉を待つ。
だが、彼女は「ちょっと待ってて」と言い残して、バタバタと家の中に消えていった。それを追いかけるように、二つの影も去っていく。
何をしているのか、皆目見当もつかなかった。改めて、家の全体の姿を見る。庭は綺麗に整えられており、様々な花も植えられていた。見覚えのない花壇もいくつかあり、その中には小さな家や人形の置物、太陽光発電で光るガーデニングライトが刺さっている。まるで花の世界に一つだけ建てられた、素朴な家のように思えた。
私が住んでいた頃とは全く違うことを改めて感じさせられる。この家も、今ここに住んでいる家族と暮らした方が幸せなのではないだろうかと思った。
「お待たせ」
女性が今度は玄関から出てきた。手には、何やら大きな紙袋がある。女性は徐に私の手を取り、それを握らせた。
「はい。きっとあなたのだと思う。今日、裏庭に新しい花壇を作ろうと思って、土を掘り起こしてみたの。そしたらこれが出てきてね。中身を見たけど、正直持っていてもどうしようもないし、捨てようと思ってゴミ袋に入れてたのよ。そんな時に、まさか会えるなんてね。本当に奇跡だわ」
女性は満足そうに微笑んだ。紙袋の中を覗くと、ビニール袋に包まれた大きな瓶が見えた。袋越しでもわかるほど、それは汚らしくて堪らない。払っても取れないような茶色い汚れが、透明な容器にびっしりとついており、正直触りたいとは到底思えなかった。
「もう暗いから、気をつけて帰ってね」
終始、目の前の状況に理解が追いつかなかったが、その言葉はやり取りを終了させる意味に他ならず、私も同様に「ありがとうございます」とお礼を伝え、家を離れる意志を示した。
正直、まだ家のことについては気になる。だが、ここにいる権利など、今の私にはない。別の家族が暮らしているのだから。もはや私の家ではないのだ。我が物顔で滞在するのはお門違いだ。
私はすぐに背を向け、足を進める。振り返りはしなかった。振り返ったら、二度と足を踏み入れられないあの場所を、またじっと見つめてしまいそうだったから。
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