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第六章
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しおりを挟む涙が落ち着いた頃、私たちは会計を済まして店を出た。
時刻はもう少しで二十一時になろうとしている。
高羅の最寄り駅であるため、本来なら目の前の改札ですぐに別れるところを、まだ一緒にいたいと言ってしまった。彼は嫌な顔一つせず、「じゃあ絵美さんの家まで送るよ」と言って再び電車に乗ってくれる。
しばらく揺られている間、私たちは何を話すこともなく、窓の外を眺めていた。
だが、真っ暗な世界に映るのは、反射した私たち二人の顔だけだった。
お互いが、ガラス越しに目を見つめる。
ゆったりと流れる時の間で、どちらからともなく置いてあった手が触れ合った。
次第にそれは重なり合い、互いの温もりが伝わる。
いつもなら、そわそわとした感覚が拭えなかったのに、なぜか今日は安心感で満ちていた。
そのまま指を絡ませ、離すことなく電車を降りる。
いつもの数倍遅いペースで歩いた。一歩一歩、時を刻むように進んでいく。
周りに人はおらず、秋の虫だけが、私たちに語りかけるように囁いていた。
止まれと願えば願うほど、時間は歩みを止めなくて、抗うこともできずに流されていく。
「もうすぐ着くね」
高羅がそう言いながら、手をぎゅっと握る。私も同じように力を加えて立ち止まった。
数歩先の曲がり角を進めば、すぐに施設の入口。
離れなければいけないことはわかっている。だが、どうしても離したくなくて、何も言うことができなかった。
「絵美さん……?」
不思議そうに覗き込む高羅の顔を、私は見上げることができなくて、黙り込んだ。
高羅を困らせていることはわかっていた。それでも自分の中で揺れ動く感情を上手く制御することができなくて、足を止めることしかできない。
「……じゃあ、行こうか」
「え?」
高羅は手を繋いだまま、施設とは反対方向の道へと曲がって進み出す。
「行くって、どこに行くの?」
どんどん歩みを進める高羅を追いかけるように、駆け足になって進んだ。
「どこでもないところ」
高羅の背中は大きくて、月の光に照らされて輝いていた。
どこでもないところって、一体どこなのだろう。
私はもちろんのこと、きっと高羅もこの辺の土地勘はないはずだ。
ただひたすらに歩く高羅についていくことしかできない。真っ直ぐに進んだり、右へ曲がったり左へ曲がったりと、まるで目的地があるかのように進んでいた。
「ちょ、ちょっと待って」
小さな川に掛けられた橋の手前に来たところで、私は高羅の手を引っ張った。高羅もようやく歩みを止めて振り返る。
「ごめん、歩くの早かった?」
「いや、そうじゃなくて。高羅、この辺り知ってるの?」
私がそう言うと、高羅は堂々と首を振り、周りを見渡した。
「全然。でも絵美さんが帰りたくなさそうだったから。知らない道を探検するのも楽しいかなと思って」
優しく微笑みながら、彼は私を見下ろす。手はしっかりと握られたままだった。
心を見透かされたような気がして、胸がきゅっと苦しくなる。
どこかもわからない異世界に、二人だけで取り残されたような、そんな感覚だった。
「高羅っ……!」
私は彼の胸に飛び込んだ。高羅は驚いた様子で、反対側の手を使い私を受け止める。
包み込んでもらえるのは、今日が初めてで、そして最後だ。
「ごめん。ごめんね。本当にごめんなさい」
子供のように泣きじゃくった。
本当は怖くて堪らない。何度この決断をなかったことにしようと思ったことか。
もっとずっと、二人でいたかった。もっと生きていた頃を大切にしておけば良かった。
そうすれば、こんなにも思い悩むことなんてなかったのに。
「絵美さん……? どうしたの?」
困惑しながら背中を優しく摩ってくれる高羅。
無理もない。だって、これは私の中で決めたことだから。
誰も知らない。いや、知らなくて良い。
「高羅……大好きだよ。この世で一番大好き。高羅がいたから、私はもう一度やり直したいと思えたの。高羅のおかげで、全力で生きようと思えたの。高羅と一緒に過ごした日々を、例え高羅が忘れてしまったとしても、私は絶対に忘れないよ。ずっと傍で見守ってるから。私と出会ってくれて、付き合ってくれて……好きになってくれてありがとう」
込み上げてくる思いの丈を全て伝えなければ。
きっと今伝えなければ、後悔する。
思ったことは、思ったその時に伝えなければ、いつか「あの時言っておけば良かった」というようなことになっても、もう遅いのだ。
もっと生きていた頃を大切にしておけば良かったなんて、きっと生前の自分なら一瞬足りとも考えたことなどなかったはずだ。
きっと、こうしてやり直す機会を与えてもらえたからこそ、私は一瞬一瞬の奇跡を、身に染みて感じることができたのだろう。
「絵美さん? 何を考えて……」
異変を感じた高羅の手を振りほどき、私は思い切り高羅を突き飛ばした。
自分より体の大きな男性を突き飛ばせるかわからなかったが、あまりに突然の事で高羅も構えることができていなかったのだろう。足をよろめかせ、尻もちをついた。
私は振り返ることなく走り出す。
高羅、ごめんね。本心を伝えられるようになった私だけど、一つだけ、隠していたことがあったの。
それは、全力で生きると決めた時間。
本当は、今後一生全力で生き続けたかった。
高羅ともっと一緒の時間を共にして、大学生になって、社会人になって、いずれは二人で家庭を築いて、子供を育てて、皺が増えても笑いあって、白髪になった頃に日本一周旅行なんかにも行っちゃって、どちらからともなく命の灯火が消える日まで、傍にいたかった。
悩むことや喧嘩することがあっても、ぶつかり合って、色んな道を二人で模索して生きていきたかった。
それでも、本当の私は死んでいるんだ。これはただのやり直しの世界。
愛するお母さんを犠牲にして生まれた時間。
高羅のことが大好きだからこそ、私ではない生きている誰かと、ずっと幸せであってほしい。
高羅に相談した日に決めたんだ。
私が死んだ、今日この瞬間までの時間、やり残したことや、後悔を全てなくせるよう、全力で生きようと。
そして、世界を元に戻そうと。
それが、私の選んだ“やり直し”だ。
私は、大切な人たちを守れる人でありたいと気づいたのだ。
私の大切な人たちには、みんな幸せに生きていてほしい。
本来死んだはずの私が生きて、お母さんが死んでしまうことも、死体のような自分に付き合わせる高羅や麻仲にも、ずっと罪の意識を抱えたまま生きていくことなんて、私には耐えられなかった。
そしてやり残した最後の後悔は、お母さんのことだ。
今までこれでもかというほど愛してくれていたことに気づけなかったことも、感謝の気持ちも、そして謝罪の言葉も、何もかも伝えられないまま別れてしまった。
全てがリセットされるのなら、お母さんは生きることができる。
私はやり直しの時間で、充分に人生を生きることができた。だからあとは、お母さんに対して私ができる罪滅ぼしの時間だ。
どこかもわからないこの世界で、無我夢中に走った。後ろから足音が追いかけてくる。
橋を渡り、右へ左へと走った。そのうち見通しの悪い曲がり角の奥から、ブーンと大きくて無機質な音が近づいてくる。
ああきっとこれだ、と思い、私は飛び出した。
「待って絵美……危ない!」
私は追ってきた高羅の方へと顔を向けた。必死に手を伸ばしてくる姿が見えるも、ここまでは届かない。
ああ、最後に呼び捨てで名前を呼んでもらえた私は、なんて幸せ者なのだろう。
潤んだ瞳から涙を振り払い、私は最期に、最高の笑みを浮かべた。
「幸せに……なって」
キキィィィィ!!
ブレーキ音にかき消されながら、空に浮かんだ。
月が大きく近づいてきた気がして、思わず手を伸ばす。
すると、誰かがそっと手を握り、ぐんっと体を引っ張ってくれた。
星の輝きが増す世界で、私は泳ぐように空を飛ぶ。
その手の主は、白ずくめに大きなマスクをつけた、あの人だった。
「……よく、頑張ったな」
その一言を聞き、私は一瞬で全身の力が抜けていった。
「うん……うん……。……うぅ、うあぁぁぁ」
高羅に見せる最後の表情は、絶対に笑っている姿が良いと、必死に貼り付けていた笑顔が一気に崩れ、世界に雨を降らすかのように涙がとめどなく流れていく。
体に乗っていた重さが全て取り除かれたかのように、軽くどこまでも昇っていった。
ふと下の方を振り向くと、遠く離れたマンションの一室で、カモミールティーを飲む麻仲の姿が見えた。
麻仲はきっと、何かに勘づいていたから、明日も会おうなんて言って来たのだろう。
約束を守れなくてごめんなさい。
きっと麻仲は優しいから、本当のことを知れば、私のことを全力で止めたと思う。それがわかっていたから、私はプレゼントに意味を込めた。
いつかカモミールの花言葉を知って、それでも許さないって恨んでくれても良い。
リセットされるこの世界ででも、残したメッセージに、いつか麻仲が気づいてくれますようにと、願いながら消えることができるだけで幸せだ。
どんどん空に吸い寄せられる。最後にもう一度、高羅の方を見た。
幸せそうな笑みを浮かべながら倒れる私を、抱き抱えながら涙する高羅がいた。
傷つけてごめんなさい。傍にいられなくてごめんなさい。
だから私とは違う、もっと素敵な人と出会って、幸せになってね──。
見つめていた世界が、白く輝き始める。
終わるんだ。私のやり直した世界が。
やり直しがなければ、きっと私はこんなにも穏やかな気持ちで、逝くことはできなかっただろう。
幸せだった。春田絵美として、生きることができて本当に良かった。
私と出会ってくれた大切な人たちは、きっと本当の世界で幸せになれると信じてる。
ずっと見守っているからね。
そうして私は、天使に導かれ、輝きに満ちた世界へと包まれていった。
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