sunflower.

和奏 澄

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#1:Lost.

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眠れなくなったと気付いた時には、もう手遅れだった。

平日はベッドに入っても眠ることができず、目を閉じて朝を迎え、金曜日と土曜日の夜だけは、浴びるほど酒を飲んで意識を飛ばす日々を繰り返していた。

『あの面接』を辞退した翌週の月曜日の朝、初めての異変がボクの体を襲った。

スマートフォンのアラームが鳴る。

手探りで画面をタップして、朝を告げるそれを止める。

「はぁ…」

また眠れなかった。ため息を合図に、上半身を持ち上げる。

「えっ…?」

目に映る景色の全てが二重にじゅうになって見えた。まばたきをして、目を再起動させても視点が定まらない。耳の中で『キーン』という音が鳴り響いて、今度は視界を回し始めた。左手で目を覆って、目を閉じたままにしていても、脳が揺らされている感覚は、ボクをがしてくれそうになかった。

目を覆った手は冷えきっていて、親指と人差し指から伝わる額の温度が、異様に熱いことを即座に理解させた。

ベッドサイドに置いてある、蔓延した感染症が『きっかけ』で購入した体温計を脇に差し込んで、合図を待つ。

【39.3℃】

「さすがにマズいか…」

一昔ひとむかし前なら、隠して仕事に向かっていたけれど、このご時世では難しいだろう。時代は令和だ。

揺れる視界が戻らないまま、何とか業務用のビジネスチャットアプリを立ち上げ、支社長との個別ルームを開く。

発熱のため休ませて欲しいこと、できれば感染症の検査を受けてくることを打ち込み、支社長からの返事を待って頭を枕に戻した。


午後には何とか起き上がって、感染症の検査を受けに行くことが出来るようになっていた。

明朝みょうちょうにメールで検査結果が受け取れること、結果が分からないので、明日も引き続き休ませて欲しいことをチャットで連絡した。



【火曜日 8:49 河白クリニック 検査結果のお知らせ:陰性】

ひとまず安心したものの『発熱の正体が何か』を明らかにする必要があった。体温計はいまだ39℃台を示していた。

検査結果は陰性だったけれど、まだ熱が下がらないので、これから内科を受診してくることをチャットで報告する。

簡単に連絡を取り合えるこのやり取りは、常に監視されているようで好きではなかった。ただ、機内モードに設定した状態から、電話を掛ける為だけに電波をよみがえらせることは出来なかった。

内科では、感染症検査は陰性であったこと、不眠状態が続いていることを伝えたところ、解熱剤と睡眠導入剤が処方されただけで、あっさりと診察が終わってしまった。特に風邪だとか、なになにえんみたいな診断名は与えられなかった。



翌日、目を覚ますと不思議なもので、遮光カーテンから漏れる陽射しの明るさから、就業開始時刻を過ぎていることを確信することが出来た。

「ヤバいっ!」

慌てて飛び起きて、恐る恐るスマートフォンで時間を確認する。

【水曜日 9:32】

でも、そのことを咎める様な連絡は来ていなかった。

たったいま起床したこと、急いでを機械的にチャットに打ち込こんだ。

乗換案内アプリを立ち上げ、到着予定時刻を割り出して、到着するであろう時間よりを連絡して、急ぎ自宅を出た。

(あの薬は飲んじゃダメだな…)

初めて飲んだ睡眠導入剤の効果に感動したけれど、それ以上の恐怖を覚えてしまった。

「おはようございます…」

申し訳ありません、と言ったかと思う口調を持ってオフィスに入った。気遣ってくれる言葉に、丁寧に頭を下げながら、鞄を持ったまま支社長のデスクに真っ直ぐ向かう。

「申し訳ありませんでした」

深く頭を下げ、月曜日からの不始末を詫びた。

「おっ、早かったね!大丈夫だよ、体調はどう?」

デスクトップから目を離し、ボクの方に体を向けて笑みを浮かべながら、彼女は優しく声をかけてくれた。その優しい言動が、ボクにはつらかった。

「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」

「気にしないで」と言われ、会話はそこで終わるかと思ったけれど、彼女からの話は小声で続いた。

「〝ちょっと二人で話そうか〟」

そう促され、着の身着のまま会議室に向かった。

支社長が席に着くのを待って、自分も椅子に体を預ける。

何の話をされるのか見当がつかなかったけれど、鞄から手帳とボールペンを取り出して、今日の日付のページを開いた。

「寝すぎちゃった?」

予想していなかった言葉に意表を突かれまいと、頭を落ち着かせて冷静に、丁寧に言葉を紡ぐ。

「すみませんでした。初めて睡眠導入剤を飲んだので効果が分からず…アラームにも気が付きませんでした」

「わかるよ~!私も飲んだことがあるから」

「仕方ないことだよ」と頷きながら経験談を話してくれたけれど、どこか見透かされているようで恥しかった。

「すみません…」

それでね、と彼女は話の本題に入った。

「いま何か困っていることはある?」
「いえ、特には…」
「じゃあ嫌いな人が居る?」
「特には…いません」
「どこかに異動したい?」
「いえ…」

口調は優しかったけれど、ガードをしていないボクに、マシンガンを撃ち込むように彼女は問い続けた。

「じゃあ、頼りになる人、味方だと思える人は居るかな?」

(頼りになる人? 味方?)

「そこに書いてみよっか。誰か居るかな?」

促されて、手帳に『頼りになる人』『味方』と書く。

書いたとして何になるのだろうか。頭の中を覗かれるような、恥ずかしい気持ちになったけれど、その二つの存在に当てはまるような人物が、自分には居ないことを痛感した。

ものの五分位だったと思う…でも、その時間は永遠のように長く感じた。結局、書くことも言葉にして発することも出来なかった。

「今すぐに思い付かなくても良い」

そう言われて自分の席に着いたけれど、気が付くと就業終了時刻を迎えていた。

「定時ですよー!帰りなさーい!」

この支社長は部下には残業をさせない、残業させてしまう時は、自分も一緒に残るという考えを持っている人だった。

「あの…今日は遅れてしまったので残ります」

さすがに帰る訳には行かないと思い、何とかやり過ごそうとしたけれど、今すぐ終わらせるべき仕事は無かった。

「定時は定時!帰るよっ!」

そう言われて、従わない理由も無かった。

駅までの道中は会話が一切無く、改札を通り、別路線で通勤している支社長との別れ際、今朝までの不始末を改めて詫びようとした瞬間、二の腕に優しく手を置かれた。

「明日は休みなさい」

今朝の笑みとは違う心配そうな顔と、その温かい手はボクの思考を停止させた。

「へッ?!」

声と呼吸が噛み合わず、裏返ったような声を出してしまった。

「有休扱いで良いから、明日は休みなさい」

「わかりました…申し訳ありません」

「ヨシッ!」とヒラヒラ手を振りながら去っていく彼女が見えなくなるまで、ボクは目で追うことは出来なかった。

一刻も早く、彼女の視界から消えたい。

向こうのホームから、ボクの姿を見られているかもしれない。

とにかく早く逃げ出したかった。
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