張飛の花嫁

白羽鳥(扇つくも)

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第二話

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(殺さないで…)

 幼い少女の声が微かに響く。弱々しく、既に立つ事もできなくなっている状態で。その目は、周りの餓えた獣たちに向けられていた。

(殺さないで……)

 よく見ると、獣ではなく人間の男たちのようだ。しかし誰もが痩せ細り骨と皮ばかりで、目だけがぎょろぎょろと動いている。やがて男の一人が、少女の方に手をかける。少女の体を絶望が覆った。
 
(殺さないで……)

 そこへもう一人の男がその手を払い除け、少女を抱きしめた。
 彼女は顔を上げる。
 知っている男だった。
 男は一言か二言呟くと、意を決したように何かを指差す。
 震えるその指の先にあったものは、安らかに眠っている赤ん坊だった。


 ▼ ▽ ▼ ▽ ▼

 玉華が目を覚ますと、そこはボロ小屋の中だった。殺風景な部屋の中には、割れた板の隙間から朝日の光が射し込んでいる。

(ここ……どこ?)

 起き上がろうとして、全身の激痛に顔を歪める。身体を見ると痣だらけで、着ている物と言えば下衣だけだ。着物を探すと、足元にくしゃくしゃになっているのが見つかった。
 そして、不意に思い出す。自分の身の上に起こった事を。

 玉華は突如現れた熊のような大男に攫われ、長い時間馬に乗せられてここに連れて来られたのだ。そこには男の仲間たちが何人かいたが、どうやら山賊のようであった。

(私……生きてる?)

 山賊を見るのは初めてだったが、どんな奴等かは知っている。通りかかる者たちを襲い、殺して金品を奪うならず者たち。女であれば、連れて行かれて辱めを受ける。しかも、それで生きていられる保証はどこにもない。山賊たちが散々弄んで飽きてしまえば、同じように殺されてしまう。
 玉華が今こうして生きていられるのは、幸運としか言いようがなかった。

(でも、いつまでもここにこうしていたら、いずれ……)

 玉華は高貴な身分ではあったが、辱めを受ければ命を絶つという発想はなかった。精神的な幼さのせいもあるが、彼女にはどんなに苦しくても生き延びなければならない理由があったのだ。自害するのも山賊に殺されるのも御免だった。

 そばにあった着物を手繰り寄せて羽織ると、痛みを堪えて部屋を出る。とにかく、山賊に殺される前にここから逃げ出さねば。そろそろと音を立てずに廊下を抜ける。
 誰もいないか向こう側を覗き込んだ時、

「おい」

 野太い声が後ろから響き、思わず飛び上がった。山賊の一人がこちらに走り寄ってくる。玉華は逃げようとしたが、足が竦んでしまっている。

「お頭がお前を連れてこいと言った。こっちだ」
「こ、殺され……」
「ああ、殺しゃしねえよ。今みたいに逃げ出そうとしねえ限りな」

 恐くてたまらなかったが、この場は逆らわない方がよさそうだ。足の震えを抑えながら、彼女は山賊の後をついていった。


 お頭と言うのは、玉華を攫った大男だった。黒い傷だらけの顔をボサボサの髭が覆い、目付きは野獣のように狂暴だ。出会った時は熊のようだと思ったが、虎にも似ていると思った。

「そこに座れ!」

 いきなり咆哮するように怒鳴られ、思わず声を上げそうになった。体が固まって動けないでいると、もう一度男が同じことを言い、慌ててその場に座る。床にはふわふわした獣の毛皮が敷いてあり、それが盗んだ物か、この男たちが作った物かは分からない。
 男たちは玉華を舐めるような視線で見て、下卑た笑いを浮かべている。玉華は恐怖のあまり、心の中で助けを求めていた。

(伯父様……)

「逃げ出そうとしていたらしいな? 今まで見てきた女たちに比べると大した奴だが、無駄な事はしねえ方がいい。ここにいる連中は気が荒いからな。俺が言いつけておかなきゃ只じゃ済まなかったぞ」

 玉華の体がビシリと強張る。

「殺さないで……」

 蚊の鳴くような声で懇願する。

「殺すつもりはねえ」

 お頭は面食らったように見返した。そして、昨日も同じこ事を言っていたのを思い出す。自分の腕で、涙を流しながら譫言のように繰り返していた。

『殺さないで』

 まるで小さな子供のように。殺してくれと言った女はいた。自分から死んでいった女も。お頭は、らしくもない罪悪感に戸惑っていた。

(くそ…いつもはこんな事考えもしねえのによ!)
 
 目の前の女を見る。流れるような豊かな黒髪と、対極を為す白い肌。唇は青ざめているが、それでも雪に落ちた血を思わせた。漆のような目は濡れて光り、こちらを睨み付けている自分自身が映っている。
 美しかった。こんな女は出会った事がなかった。見目良い女ならいくらでもいる。が、こんなにも儚く脆く、それでいて芯は絶対に崩れる事はない女は初めてだ。出会ったばかりなのに何故かそんなことを確信した。
 とにかく、自分がこの妙な女を気に入ったのだと分かった。

「お願い、私をうちへ帰して」

 さっきよりも強い調子で玉華が言う。山賊たちは、お頭にこんな物言いをする彼女に驚いて顔を見合わせた。

「それはできない。お前は今日から俺たちと行くんだ。諦めるんだな」
「でも、家の人たちも心配している…」

「駄目だ!!」

 怒号が飛び、その場の誰もが竦み上がった。部屋がびりびりと鳴っている。

「生かされているだけでもありがたいんだ。逃げようなんて考えるなよ。何なら小屋を出てみるか? ここからお前のいた場所まで、女の足じゃ帰り着く事はできんぞ」

 玉華の顔に絶望が走った。一日中馬の上で恐怖に駆られている間に、自分は何て遠くまで来てしまったのだろう。玉華一人がこの山賊の巣から家に帰り着くのは、とてもできるものではない。
 ここがどこなのかも分からないし、下手をすれば迷い込んで野垂れ死にしてしまう。生きて戻るのはもう不可能だった。

(二度と会えない……伯父様にも、阿覇にも…皆にも)

 玉華の目から涙が溢れ、ぼろぼろと零れる。山賊たちはそれをにやにやしながら見ていたが、突然彼女がお頭にも劣らぬ大声で、わっと泣き上げたのには驚愕した。

「伯父様ぁ! 伯母様! 阿覇……阿称、阿威…お願い、帰して!! 涼永……もう会えないなんて…嫌ぁ!!」

 部屋の中に、玉華の泣き声が響く。あまりに騒がしいので、山賊が黙らせようとするが、お頭はそれを怒鳴りつけて止めさせた。何故か動揺しているようだ。

「なあ、そんな泣くな。お前は俺たちを悪い奴だと思ってるみてえだが、それは違う。山賊なんてやっちゃいるが、わけがあっての事なんだ」

 どうやら山賊稼業の裏には何か目的があるようだったが、今の玉華には知った事ではない。

「悪人よ。でなければ、帰して」
「それは…」
「どうして駄目なの!!!」

 恐怖よりも悲しみが勝り、さっきなら到底できない大声で叫ぶ。お頭は口篭もっていたが、やがて切り出す。自分でも何故こんなに言い辛いのか分からないようだ。

「その…今更元んとこに送り返せねえってのもあるが、俺はお前が気に入ったんだ。ずっと手元に置いときたいんだよ」

 玉華の涙が止まった。頭をボリボリ掻いているお頭をじっと見る。もう少し、話してみようという気になった。彼女には何だか、この男が想像していたような悪い男ではないように思えたのだ。

 
「お前、名は?」
「………」

 泣き止んで落ち着いた所を見計らって、お頭が尋ねる。玉華は黙ったままだ。

「答えろ!!」

 お頭の咆哮に、竦み上がる。怒っているのかと思えば、これが地声のようだ。

「……玉華」

 小さな声でぼそりと答える。

「玉華か。齢は十七くらいか?」
「十四」

 ふるふると首を振ってみせると、お頭の顔が凍り付いた。この時代、この年齢ならば結婚していてもおかしくはないのだが、それは庶民の話で、高い身分となると適齢期はもう少し上になってくる。深層の令嬢には政略結婚の役割があり、嫁す前に教養を身に付ける期間があるからだ。
 玉華は見た目こそ早熟だったが、大切に育てられてきたせいか、精神に幼さが見られた。

(まいった……)

 今まで見た仕種や言動から幼さを感じていたが、まさか本当に子供だとは……
 知らなかった。とは言え、無意識に分かっていたかもしれない。何となくあった罪悪感はまさにこれだった。

「どうするんだ、兄ィ。手元に置いとくか?」

 山賊の一人が冷やかして言う。物言いからして、他の連中とは別格らしい。

「こんな荒くれ連中の元に転がしときゃ、こんなガキ三日で壊れちまうぞ」
「手え出すなよ!!」

 お頭が慌てて振り返る。さすがに子供相手に乱暴を働く気はないらしい。山賊たちは困った振りをしながら口元はにやついていた。

「お頭はいいのか?」
「煩い、俺は知らなかったんだ!!」

 動揺した様子で、黒い顔が墨を吹いたようにますます黒くなる。見た所玉華の倍か、それ以上の歳なのに、仕種からはそうは見えなかった。阿覇にもあんな所がある、と玉華は思った。

「しかし、本当にどうするよ?益徳の兄ィ」

 さっきの男が何気なく言った言葉に、玉華は反応した。

「益徳?」

 その名は聞いた事がある。確か伯父が話してくれた、最近降伏してきた将の義兄弟で…

「張、益徳……」

 ぼそりと呟いた声に、お頭がこちらを見た。少なからず驚いているようだった。

「俺を知っているのか?」

 虎のようにぎょろついた目が見開かれる。

「お頭、あんたの名は結構知れ渡ってるんだぜ。いくらいいとこの小娘だからって、知っててもおかしかねえや」
「いや…最近じゃ話の方が一人歩きしててな。以前立ち寄った村じゃ、講談師の勘違いで『翼徳』だと思われててよ。俺が名乗ってもちっとも気付かれやしなかったんだ。『益徳』とだけ聞いて、すぐさま俺だと分かる奴なんて…」

 ―――張飛。
 玉華がその名を最初に聞いたのは、まだ幼い時期だった。義勇軍を結成し、戦場を渡り歩いた劉備三兄弟の末弟で、あの呂布とも戦った事があるという。以前は許都に留まっていたのだが、玉華は直接彼に会った事はなかった。それでも伯父に何度か話を聞いていたため、漠然とした印象はあったのだ。益徳と聞いて張飛を連想したのも、この印象と合致したからだった。

(張益徳が……山賊の頭??)

「お前、どこで俺の事を知った?」

 張飛に詰め寄られ、玉華は思わず吃る。

「お、伯父……伯父様が」
「ああ、お前は伯父夫婦に育てられたみてえだったな。あそこに住んでてそれなりの地位にいる奴と言ったら………曹操の関係か?」

 心臓の音がやけにはっきりと聞こえる。劉備は今、袁紹についている。と言う事は、義兄弟である張飛は自分とは敵にあたるのだろう。

「玉華。お前の伯父とは、誰だ?」
 
「夏侯……妙才」

 震えながらも静かに言う玉華。

「夏侯淵の野郎か!!」

 無遠慮な大声に、玉華は眉根を寄せた。大好きな伯父に対する物言いに、むっとしたのだ。だが張飛は彼女の様子を気にする風もなく、一人考え込んでいる様子だ。

「夏侯家と言えば、名門中の名門…その血縁の娘か。確かにまだ幼い。だが、そばに置いて損はねえはずだ。兄者だってきっと賛成してくれる……いや、させる!!」

 怪訝な顔をする面々にくるりと顔を向けた張飛は、驚くべき発表を口にした。

「俺はこいつを、妻として迎える!!」


 玉華は一瞬、自分の事を言っているのとは気が付かなかった。張飛の満足そうな顔を呆気に取られて見ていた連中も、何とも言えない表情になる。

「分かったか。今日からお前は、俺の妻だ。生きるも死ぬも、俺と共にするんだ」

「……『夏侯淵の野郎』の血縁なんかと結婚するのは、お嫌ではないのですか?」

 我に返った玉華の口から漏れる壮絶な皮肉に、山賊たちの顔が引きつった。口調は穏やかだが、煮えくり返るような怒りが込められ、張飛を刺すように睨み付けている。さっきまで泣き喚き、恐怖に震えていた子供とは別人のようだった。
 山賊たちは、逆上した張飛が玉華を殺すだろうと予測した。だが、彼にはそんな皮肉も通じていない。

「俺は、婚姻を結ぶなら名門にするべきだと常々思っていた。夏侯家はまさにそうした家系だろう。ま、劉家には及ばないけどな!」

 そう言って玉華の方を向き、ガハハと豪快に笑う。玉華はふいと目を逸らした。妻になるなんて、冗談じゃないと思った。玉華は張飛が本当は悪い男ではないと分かっていたが、それでも嫌いだった。夫婦になれば、伯父や阿覇とも敵対する事になる。それが何より辛かった。
 彼は本当に、名門と言うだけで自分を娶るんだろうか?敵側の、しかもまだ子供である自分を…
 色々な思いが頭の中を渦巻いていたが、今の玉華には分からなかった。


「さあ話はここまでにして、飯にするか」

 張飛の声に、山賊たちが料理を運び込んでくる。料理と言っても、炙った肉と僅かな山菜、それに盗んだらしい酒だったが。
 玉華はいつの間にか空腹である事に気が付いた。恐怖から解放され、怒ったせいだろうか。思えば、昨日の晩から何も食べていない。
 ふと、夕餉を作っていた事を思い出す。

(阿覇……食べてくれたかな)

 胸を締め付けられるような想いに囚われ、服をぎゅっと握りしめていた玉華の前に何かが転がってくる。見ると人の頭蓋骨だったので、思わず悲鳴を上げてしまった。

「ここいらじゃ、獣はほとんど獲れねえ。食える肉と言っちゃ、通りがかるこいつらだけさ。深窓のお嬢さんにゃ分かんねえだろうが、俺たちの間じゃこんなのも茶飯事ってこった」

 山賊たちがせせら笑う。どうやら、先程の張飛とのやり取りに対する嫌がらせらしい。

「やめねえか、てめえら!!」

 張飛が連中を窘める。と、彼らの目の前で、炙った肉に手が伸ばされた。玉華はそれを何の躊躇もなく口に入れる。山賊たちの笑いが止まった。さすがの張飛も言葉が出ない。

 飢え死にするわけにはいかない。何としてでも生き延びて、次の機会を狙う。逃げ出すのを諦めたわけではなかった。

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