遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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8話 優しさの形をしたーー残酷。

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 カチャ……カチャ……ッ……

銀食器と陶器が触れ合い、硬質な音が響く。
テーブルの上には、切り花が彩りを添え、夫婦のディナーを飾っていた。
 
 「あ、あの……ダニエル……」

 「なんだ? どうした? ん?
  他に食べたいものはあるのか?」

 「……な、なんでもないわ。
  食事のあとで、少し話をさせて……」
 
 「そうか、そうだな!
  たくさん話をしよう。」

 「……。」
 
 ――気合い入れすぎよ……

ダニエルは、イネスとの夕食のために、馬を片道二時間走らせて海辺の町へ向かい、新鮮な魚や貝を買い付けてきた。
冬の間は、橋が閉ざされるため、この屋敷で海の幸を味わえるのは、暖かい季節のほんのわずかな間だけだ。

 「んっ……美味しい……。」

口に入れた瞬間、思わず頬が緩む、貝はイネスの好物。

  ――可愛い……ああ、イネス

ダニエルの顔は、イネスを見て綻ぶ。

  ――いや、美しい?
  可愛いよりも、美しい……
  少女のイネスも最高だったが、
  今は、洗練された
  大人の気品を感じる……。

夕食が始まってから、ダニエルはずっとこの調子だった。
テーブルクロスは新調し、使用人たちには銀食器を磨かせた。

普段のままではいけない――
これは、“愛という名の戦い”なのだ。
 
  音楽がいるな……。
  会話の邪魔になると思い、
  後に回したのが間違いだった。
  今からでも呼ぶか……?

夕食後に音楽を楽しむため、町で人気の演奏家たちを、裏に控えさせている。

そんな浮かれた夫とは違い、イネスは居心地の悪さを感じていた。
 
  ――はっきり、
  「あなたと"夫婦ごっこ"を
   するつもりはない。」と、
  そう伝えるつもりだったのに……

浮かれた笑みを浮かべる夫。
大げさな夕食に、イネスの息が詰まる。

 「口に合うか?」

 「……ええ、とても美味しいわ」

揺れる蝋燭の灯りは、目の前にいる彼女のほくろさえ、美しく照らす。
美味しい食事に、洗練された食卓。
ダニエルは、イネスの気持ちなど分からずに、満足げに微笑む。
  
  ――イネスよ、
  この雰囲気では言えないだろう?

実はこれこそが、ダニエルの"狙い"。

イネスはきっと、今夜、夫婦の関係に釘を刺す。
それを防ぐために――
彼はイネスの好物を並べ、優しい時間と味覚で、その口を封じようとしていたのだ。
 
このやり方が正しいとは、彼も思ってはいない。
――けれど、一刻も早く、彼女の心に近づきたかった。

 カチャッ……
 
――しかしイネス。
彼女は、静かにフォークを置いた。
 
久しぶりに味わう鮮魚は、あまりにも美味しい。
けれどそれは、喜びの味ではなかった。

散々ないがしろにし、妻を馬鹿にしてきた夫。

その冷酷な男が、今は、豪華な食事で自分の気を引こうとしていることが、妙におかしく思えた。

長い罰部屋での生活。
夏でさえ、乾かした魚のスープを食べるのが、やっとだった。
父に手紙を送り、助けを求めることもできた。
けれど――「心配をかけたくない」という思いが、それをさせなかった。

温度の違う食卓。
それは、優しさの形をしたーー"残酷"。
 
  ――ダニエル……
  あなたは、どこまで
  気づいているの?

  ノアがこの眼差しを
  一心に受けていたその裏で、
  わたしは泣いていた……。

  渡される、わずかな生活費では
  足りず、野に咲く薬草を摘んでは売り、
  細々と生きていた……。

  有り余るほどの財力。
 
  ――あなたには、それがあったのに……

  わたしがそんなに憎かった?

柔らかな魚の身。
美味しいのに、涙が溢れる。
惨めさが押し寄せる。
噛むほどに、胸の奥から悔しさがこみ上げてくる。
 
気づいたときには、目から涙がこぼれていた。

 カチャリ――。

  「イ、イネス?」

駆け寄るダニエル。
慌てふためき、イネスの横にひざまずいた。

 「もう、戻っていいかしら……?」

 「ま、待ってくれ、
  連れていく場所がある……」

火が灯る渡り廊下。
焦るダニエルは、イネスを時折なだめながら彼女の手を引いた。
 
夏の暖かな風が髪を揺らす。
ダニエルは少し強引で、そして優しくもある。
 
 
 「……ここが、新しい君の部屋だ。」

青を基調としたカーテンや寝具。
金の縁に彩られた家具たち。
洗練された貴婦人の部屋。
 
――そして、ダニエルは優しく、部屋の奥へとイネスを連れていく。

窓から見えたのは――鍛錬場。
剣を振るい、騎士達が鍛える場所。

  「ここって……」

驚くイネスを見つめ、ダニエルはゆっくりと、親指の腹でイネスの涙を拭った。

  「キリアンとブラット、あいつら
   ここで毎日、体を鍛えてる。」

イネスが窓の外に視線を戻すと、剣や盾、槍など、さまざまな形をした武具が、壁にかけられていた。

 「筋がいいぞ、あいつらは。
  流石は俺の息子たちだ!」
 「君には、これからあいつらの
  成長を見守ってほしいんだ。」

イネスの頭に浮かぶのは、大きな剣を振るい、汗をかき、厳しい表情の中に逞しさを兼ね備え、鍛錬に励む息子達。
 
想像でしかない。
でも、イネスの胸は焦げるほどに熱くなった。

  ――ここで、毎日あの子たちを……?

仄暗い視界に、まるで光が差し込んだようだった。
涙に濡れながらも、イネスは微笑む。
 
その涙を、ダニエルは何度も、何度も拭っていった。
 
  「本当は、俺の部屋と一緒に
   してしまいたかったんだが……。
   それだと、君が嫌がるだろ?」

  「ふふ…… 絶対に嫌よ」

  「……だろうな、少しは期待も
   あったんだが……。」

ダニエルは、どこか芝居がかったように残念そうに笑った。
けれど、イネスの笑顔が見られた。
今はそれだけで、十分だった。
妻の――その口を、塞ぐことができたのだから。
 

  「なぁ、イネス……
   キスしていいか?」
 
  「調子に乗らないで。」

  「……だよな。……ハハ」

  「……」
 
  調子よく笑うダニエルには
  戸惑ってしまう。
  本当に、何を考えているのか
  わからない。
 
けれど、今だけは彼を褒めてあげよう。
  
イネスの瞳には、鍛練に励む息子たちの姿が浮かぶ。
それを想像しただけで、胸は高鳴った。

 「今日は、眠れそうにないわ」

イネスは、心の底からの笑みを見せた。
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、涙に濡れた頬を淡く照らす。
その光の中で微笑む彼女の姿は、悲しみを抱えながらも、強さが確かにそこにあった。

 

 ――次話予告
夫を陥れた女の狂った愛。
子供に忍び寄る、大人の手。
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