9 / 68
9話 堕ちた少女は破滅を選ぶ。
しおりを挟む朝の光が部屋に差し込むと、
埃に混じった粒が空気の中で静かに舞った。
窓の外では、
通りを行き交う人々の声がかすかに届き、
遠くの鐘が柔らかく時を告げる。
その光景を眺めながら、
胸のざわめきをそっと押し込めた。
彼の優しさも、眼差しも――
すべてはエンリケの力によって
"ねじ曲げられた"もの。
例えるなら――「妻を愛する」という呪い。
いっそ、この"呪い"を利用して、
母としての権利を取り戻そう――。
そして言ってやるはずだった。
「あなたと愛し合うつもりはない」と。
しかし、言葉は喉でつっかえ、形にならなかった。
優しく笑う彼の声。
必死に拒もうとしても、真っ直ぐと自分を見る
眼差しは柔らかで、心の奥がほどけそうになった。
愛に枯渇し、孤独に沈んでいた日々が、
嘘だったかのように思えた。
――いっそ許し、楽になってしまおうかとも。
でも、その弱さを戒めるかのように、心が囁く。
"彼が本当に愛しているのはお前じゃない。
――目を覚ませ"。
カーテン越しの朝日は、まるでダニエルの瞳の
ように揺れて胸をざわつかせた。
広い部屋も、並ぶ衣装棚も――
与えられたものすべてが『偽り』。
「どうして、エンリケ様は……
あの人の"心だけ"、変えたの?」
首元をかすめる風。
エンリケの宿るネックレスがひんやりと肌に触れる。
これにも、意味があるのだろうか。
コンコンッ――
「奥様、これからの支度を
お手伝いさせていただく、
アリーナです。」
不満げに溜め息を吐き、
イネスは自ら衣服を整え、髪を結い上げる。
人の手は借りない。
それは、思慮なき夫への小さな仕返し。
心に鍵を下ろし、彼に付け入る隙を与えない。
幾つもの朝を、無言の責めに耐えてきた。
鏡の自分は痩せ細り、飢えに苦しんだ。
冬の寒さに凍え、
ふっくらした指は傷を作り薪を集めた。
けれど、肌に触れる寒さや空腹よりも、
心の凍えの方がずっと苦しかった。
赦せるはずがない……。
こんな簡単に……
それはあまりにも、
過去の自分が可哀想だから。
“エンリケに伝わる伝承”。
気まぐれに人の心を試すもの。
普遍的な愛など存在しない――
回帰前に、痛いほど思い知った。
「だから、一人でもっと強く……。」
ガヤ……ッ。
高く響く子供の声に、胸の奥で思いが跳ねる。
「あっ、来た……!」
朝の光が頬を撫でるたび、あの子たちの成長が
自分の生を刻む――。
新しい一日が、胸の高鳴りと共に始まった。
---
灰街の裏通り。
ノアはローブを深く被り、足音を潜めて進む。
まがい物が並ぶ無法地帯。
囚われの“シャーマン”――老女ヴォア。
「……ククッ、ククク……
あぁ、これは……
見事に“傷”がついておるな」
濁った瞳、黄ばんだ歯。ノアは一瞬たじろぐ。
「何が可笑しいの?
……気味悪い」
ヴォアは手を強引にこじ開け、笑みを浮かべる。
「……あんた、邪術をかける
“相手”を――
間違えたねぇ」
空気が止まった。
赤黒い線――人形に血を垂らした痕。薄れていたはずの傷跡が、微かに疼く。
「反動が手に出ておる」
ノアが顔を上げると、ヴォアの笑みは消えた。
「かけた邪術が祓われた……
相当な力によってな」
「祓われた……?」
かすれた声、くすぶる匂い。胸騒ぎが止まらない――
あの声が蘇る。
『願いは叶えよう。
されど約束ありじゃ……
この人形を粗末にするな。
傷ひとつでも付けば、
願いは裏返り、
血の代償を求めよう……』
故意ではない。
気づけば、太い線が刻まれていた。
ノアの体が強張る。
「なんでよっ!!
あ゙ぁ――――ッ!!」
人形を振り払うノア。
ヴォアは動じず、瞳でその先を覗き見る。
「ゲホッ……ッ……」
血が飛び散る。指の間からも滲み、ヴォアは掌で押さえる。
ノアは後ずさり、心臓が跳ねる。
「か、帰れ……っ……」
「ここに二度と来るでないぞ!!」
人形を突き返し、怒気を強めるヴォア。
「ちょ、ちょっと!
話は終わってな――」
黒服の男たちがヴォアを庇い、短剣を構える。
ノアは唇を噛み、戸に手を掛けた。
「その男は諦めろ……
関わってはいけぬ」
「嫌よ、絶対に!!」
手や腕に走る衝撃。
胸に人形を抱き、全身を寒気が覆った。
かつて清らかだった少女は、禁断の術に堕ち、愛する男を呪術で支配していた。
代償の恐ろしさは、まだ知らない。
---
琥珀色の空に月。
蜂は巣を目指し飛び去った。
「兄さん、
……そろそろ戻ろうよ」
ベンチに座るキリアン。今日一日、困惑ばかりだった。母の眼差しと優しい声に、胸が熱くなる。
静かで穏やかな日常――すべてが変わった。
パカラッ、パカララッ…。
「――あっ、ノアが来た!」
馬車が止まり、ブラットが飛びつく。
「ただいま」
「ノア、おかえり」
安堵の抱擁。だが――
「ただいま、キリアン。
わたしがいなくて
嬉しかった?」
声に影が落ちる。
イネスへの怒り、ダニエルへの焦燥、邪術への不安――すべて噛み合わない。
「裏切り者。」
ノアは低い声で、小さな耳元で囁く。
キリアンは怯え、心を凍らせる。
揺れる瞳に映るノアの顔は影に沈む。
「ぼ、僕は味方だよ……?」
「そうね……
あなたが裏切るはず……
ないわよね!?」
幸せが壊れる音。
呪いが静かにほどけ、彼の瞳から自分の影が消えた。
「……わたしの愛しい子。
それなら、わたしのお願い――
聞いてくれるわよね?」
奪われるくらいなら、なんでも利用してやる。
――何度でも呪ってやるわ。
行き着く先が地獄でも
あの女に、ダニエルは渡さない。
次話予告
無垢な瞳の残酷な願い。
傍にいれなかった代償――。
231
あなたにおすすめの小説
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
七年目の裏切り 〜赴任先の夫から届く愛の手紙は、愛人の代筆でした〜
恋せよ恋
恋愛
「君は僕の最愛だ。もう二度と、君を危険に晒したくない」
命懸けの出産後、涙を流して私を抱きしめた夫ジュリアン。
その言葉通り、彼は「私を大切にするため」に夜の営みを断った。
私は、女としての寂しさを「愛されている誇り」に変え、
隣国へ赴任した夫を信じて二人の子供と家を守り続けていた。
毎週届く、情熱的な愛の手紙。タイプライターで綴られた
その愛の言葉を、私は宝物のように抱きしめていた。
……しかし、その手紙は「裏切り」だった。
夫が異国の地で、愛人と肌を重ねながら綴らせていた「偽りの愛」。
身分を隠して夫の赴任先の隣国へと向かった私が見たのは……。
果たして、貞淑な妻・メラニアが選んだ結論は……。
子供たちのため結婚生活の継続か、それとも……。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
一年だけの夫婦でも私は幸せでした。
クロユキ
恋愛
騎士のブライドと結婚をしたフローズンは夫がまだ婚約者だった姉を今でも想っている事を知っていた。
フローズンとブライドは政略結婚で結婚式当日にブライドの婚約者だった姉が姿を消してしまった。
フローズンは姉が戻るまでの一年の夫婦の生活が始まった。
更新が不定期です。誤字脱字がありますが宜しくお願いします。
貴方なんて大嫌い
ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と
いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている
それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い
もう演じなくて結構です
梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。
愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。
11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。
感想などいただけると、嬉しいです。
11/14 完結いたしました。
11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】本日、私の妹のことが好きな婚約者と結婚いたしました
音芽 心
恋愛
私は今日、幼い頃から大好きだった人と結婚式を挙げる。
____私の妹のことが昔から好きな婚約者と、だ。
だから私は決めている。
この白い結婚を一年で終わらせて、彼を解放してあげることを。
彼の気持ちを直接聞いたことはないけれど……きっとその方が、彼も喜ぶだろうから。
……これは、恋を諦めていた令嬢が、本当の幸せを掴むまでの物語。
その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*
音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。
塩対応より下があるなんて……。
この婚約は間違っている?
*2021年7月完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる