遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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25話 ママ、嫌いにならないでーーーー秘めた想い。

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聖堂の扉が開いた瞬間、その中心には――純白のドレスを纏った彼女。


金の髪は陽光を融かしたように輝き、瞳は時間を奪うほど深く、唇は花の色を帯びていた。



  ――ああ……君が俺の妻。


初めてキスした日の柔らかな感触。

驚いたように揺れた瞳。

あの瞬間から、求める気持ちは止まらなかった。


  “今夜、君をようやく抱ける。”


期待で胸が膨らむ。

ダニエルの緩んだ顔に――イネスが微笑む。

彼は確信した。

自分が愛し、欲し、守るすべてが、この先にあるのだ、と。


 『神々の祝福のもと、誓いを結ぶ証

  として――指輪を相手へ。』


指に触れた金の輪。

"夫婦の証"。

その夜を迎える儀式を思うだけで胸が満ちていく。


イネスは指輪にそっとキスを落とした。


 「大事にするわね」


眩しい笑顔。

愛しい――イネス。


だが次の瞬間、世界が揺らいだ。


視界が暗く沈み、イネスの輪郭が歪む。

彼女は真っ赤な涙をこぼしながら遠ざかっていく。


 「行くな……待ってくれ……っ!」


必死に伸ばした手が掴んだのは――

イネスではない。

冷えきったノアの手だった。


その手首を走る黒い傷痕が視界に焼きついた瞬間、胸の奥で何かが“ぎしり”と音を立てて軋む。


イネスの光とは混じり合わない、濁った闇の色。

その闇が、彼女の居場所を奪ったのだと――

直感が執拗に囁いた。

 

重たい瞼が開く。

ダニエルは荒く息を吸い込んだ。


 「……まだ……悪夢の続きか……」


呼吸を整えようと目を閉じる。


 「ダニエル、しっかりして!」

 「あなた、丸一日寝てたのよ!」


ノアの手は、熱を感じないほど冷たい。

苛立ちがこみ上げ、思わず振り払った。


 「なぜ君がここに……?

  イネスはどこだ?」


ノアは視線をそらし、水を注いだ。


 「さあ、水でも飲んで落ち着いて。」


差し出された水を睨みつけ、問う。


 「……イネスは?」


大きなため息ののち、ノアは声を落とした。


 「本当は、まだ弱っているあなたに

  話すべきじゃないのだけれど……」


 「いい、話せ。早く……!」


 「あなたの大事な奥様、昨夜は

  帰ってこなかったのよ。」


そして一拍置き――


 「今朝、男と一緒に帰ってきたの。」


林檎をかじりながら、ノアはダニエルの反応をじっと見守る。


ダニエルの手が震え、グラスから水がこぼれ落ちた。


  何かの間違いだ……


 「……汗もひどいわね。

  ほら、水を飲んだほうが――」


――ガッシャン!


ダニエルはグラスを壁へ叩きつけた。


 「君が用意した水など飲めるか!」

 「おかしいと思っていた…ずっと……」

 「俺に何をした!?」


怒気を孕んだ声に、ノアは体を強張らせる。


 「……答えろ。」


ノアの脈が跳ねる。

床に林檎が転がり、その静かな音が思考の隙をつくった。


ノアは無理に笑い、平静を装う。


 「ふふ……何を言ってるの?」

 「……ああ、この林檎、もう食べられ

  ないわね。」


混沌とした空気を断つように、窓が開く。

冷たい風と、秋花の香りが流れ込んだ。


 「俺がイネスを裏切るなど……

  ありえないんだ。」

 「毒か……魔術か……」

 「それくらいしか説明がつかない……」


外から小さな足音。

扉が開き――


 「ノア、キリアンを止めて!」


ブラットの声。

その不安を帯びた響きに、ダニエルが先に動いた。


子供部屋に駆け込むと――

キリアンとイネスが向き合っていた。

一触即発の空気。


イネスは服を胸元で抱き締め、震えるキリアンを見上げている。


ノアが割って入ろうとした瞬間――


 「君は部外者だ。下がっていろ。」


ダニエルが腕を掴んで制した。

ノアは悔しげに顔を歪める。


 「……どうした?」


ダニエルの声に、イネスが振り返る。

瞳には涙がたまっていた。


 「……ダニエル。

  キリアンと二人きりにして。」

  「お願い……」


切迫した声。

ダニエルはノアとブラットを連れて扉を閉めた。


イネスは床に転がるボタンを拾い上げる。


 「この上着がここへ届くまで……

  何人もの手が必要だったの。」


死の淵で彷徨ったあの日。

もっとあがけばよかったと後悔した。


  ――そうよ。

  嫌われることを怖がってはいけない。


イネスはキリアンをまっすぐ見据えた。


 「不満があるのなら、言葉にして

  いいなさい。」


この服には皆の力が宿っている。

だからこそ、踏みにじることは許せない。

 

  彼にも伝えなきゃ――

  大事なこと。


キリアンは、泣き崩れるイネスを想像していた。

だが、目の前の彼女は強く、気高かった。

悲しみの奥に宿る威厳――その気迫に言葉を失う。


 「マイリー家は代々、布と毛糸を

  生業としてきたわ。」

 「キリアン。

  次期後継者として――これは

  けっして許されないことよ。」


意表を突かれたキリアンの怒りが、涙とともに噴き出す。


 「……最低だ。」

 「あなたの作った服なんて着たくない!」

 「ノ、ノアなら、服を汚したくらいで

  怒らない!」


 「――あなたには、この紋章が

  目には入らないの!?」

 

踏みつけられた服には、大きな角の山羊。

これは、マイリー家の紋章。


羊毛、山羊毛、麻――

厳しい寒冷地で受け継がれた努力が、今日のマイリー家を築いた。

紡績と織物。

帝国の衣を担う家系として、誇りは幼い頃から叩き込まれてきた。

 

キリアンの瞳は迷いで揺れた。


 「怒りをぶつける先が違うわ。」

 「お願い……

  何があなたをそうさせたのか、

  ちゃんと教えて。」


甘やかすばかりではいけない。

恐れず向き合う――それが、母としての愛。


 「……っ…」


  ――あなたは…

  "僕たちのことが嫌い"なの?


心の声は言葉にならない。

言えるはずがない。

嫌われるのが怖くて――反発はさらに強くなる。


イネスはそっと歩み寄り、キリアンを抱きしめた。

驚いて体が跳ねたが、抵抗はない。

ただ、力なく泣くだけだった。


 「……ごめんなさい。」

 「あなたの痛みに、気づいて

  あげられなくて……」



  ――ママ。



キリアンは声にできず、心の中で母を呼んだ。

何度も、何度も。


しかし――浮かぶのはノアの顔。


  でも、僕は……

  ノアのことを裏切っちゃダメなんだ……


キリアンは服に端をギュッと掴んだ。

そこにイネスの声が優しく届く。


 「ーーーーキリアン。

  あなたを愛しているわ……とても。」


胸に抱く温もり。

久しぶりに抱く子の柔らかな匂い。

イネスは頬を寄せ、さらに抱き締める。


  信じちゃだめだっ…!


キリアンはその腕をはねのけた。


  ……なら、なぜ……僕を?


額には傷痕――。

"愛している"。

その矛盾の言葉が、鋭く刺さる。

そばにいなかったことも、今さらの優しさも――許せなかった。


 「僕に構わないで……!」


イネスを振り切り、キリアンは部屋を飛び出した。

イネスは追わず、静かに息を整える。

今は、互いに冷静になる時間が必要だった。


 「……キリアン……」


膝が崩れ落ちる。

光沢を帯びた布を、そっと撫でた。


 「可愛いわね……」


靴の小さな足跡すら、愛しい。

生まれたばかりのキリアンの足は、親指ほどしかなかった。


良かったのか、悪かったのか分からない。

――でも、イネスに後悔はなかった。


扉を開けると、ダニエルがいた。


 「俺があいつを、しっかり

  叱ってやる。」


ただ、父として最善を尽くしてほしい。

イネスは否定も肯定もしなかった。


 「……具合はどうなの?」


 「熱は下がった……」


 「……そう……」


一晩、共にいた男がマルセルなのか。

ダニエルは喉元まで質問が込み上げたが――

こんな直後に聞ける話ではない。

まして、自分は離婚を切り出された身。


強く噛みしめる。


 「……話がある。」

 「後で時間をとってくれないか?」


 「……今ここで話を。」


 「…………」

 「昨日は悪かった……

  言ってはいけないことを口にした。」


 「……ええ。」


 「…………しない……」


掠れたダニエルの声。


 「……ごめんなさい。

  聞こえなかったわ……?」


 「離婚はしない。」

 「君の意思はどうあれ、離婚は

  双方の同意が必要だ。」


その瞬間、ダニエルの胸に鋭い痛みが走った。

イネスの指に、絶望の影が落ちる。


「大事にするわね」と笑っていた彼女。

あの頃の眼差しはない。


緊張ーーーーそして恐れ。

イネスの凍りついた亡骸。

失われた指輪の記憶が甦る。


 「……イネス。指輪はどうした?」


あの日の残酷な記憶。

ダニエルは眉の頭をぎゅっと掴んだ。


 「離縁状を書いた方がいいかしら。

  それとも、届けはあなたが用意して

  くれる?」


 「……何度だって言う。

  離婚はしない。」


 「もう決めたの。」


 「……なら、俺から逃げてみろ……」

 「君が根を上げるまで、追い

  続ける。」


ダニエルの目は、イネスを捕らえ、決して離さぬ覚悟で光っていた。

その独占の視線に、イネスは目を逸らした。

 

 「も、もう行くわ……。

  体を大事にして。」


彼女の背中が遠ざかる。

呼び止めたい――だが、今はきっと届かない。



書斎には積まれた書類。

気を紛らわせようとダニエルは手を伸ばすが、何一つ頭に入らない。


コン、コン――。


 「ダニエル様、ご体調は?

  病み上がりで申し訳ないのですが――」


 「セオドリック……頼みがある。」


嫌な予感。

こういう時のダニエルは必ず面倒事を押し付ける。


 「……頼みごと、ですか?」


 「帝都の学術院周辺……

  あのあたりの物件を調べろ。」


 「物件……ですか?」


ダニエルは決めていた。

イネスが借りようとしている家を、家主から買い取ると。


帝国法の定めにより、夫婦が三年の別居状態にあれば、婚姻は破綻と認定され、離縁が許される。

 

  ――だからこそ、阻止する。

  君のいる場所が、俺のいる場所。


たとえ彼女がどこへ逃げようとも。

その足跡の先に立つのは、自分だと――

ダニエルは唇を微かに歪め、微笑を浮かべた。



君がどこへ逃げても、俺は必ずその先に立つ――君を誰にも渡さない。




 ――次話予告

二頭の獣。

新天地での牽制ーーイネスを巡って。

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