26 / 68
26話 片想いは盲目。
しおりを挟む契約
「では、以上でよろしければ、
こちらにご署名を……」
「……あっ、今日はこの間の家主さん、
いらっしゃらないんですね?」
「ああ、ええ……
そのための仲介ですからね…ははっ…」
「な、何か不都合でも……?」
「いいえ、まったく問題ありません」
物件斡旋組合を通して、イネスの新居が決まった。
身元の保証人はマルセル。
「お待たせ、マルセル兄さん。
鍵をもらったわ!
何から何までありがとう」
外で待っていたマルセル。
イネスは鍵を見せ嬉しそうに笑う。
「気にするな。君が落ち着ける場所が
見つかって、本当に良かった」
マルセルは穏やかだった。
声には、彼女が“もう夫のもとへ戻らない”という確信めいた喜びが、隠しきれずに滲んでいた。
イネスの鼻先が、少し赤く染まる。
寒そうにするイネス。
「工房に寄っていかないか?
熱いお茶でも飲もう。」
「――それに、君が使いやすいように、
小型の縫製盤も取り入れた。
見て確認してほしい」
イネスの横顔を見つめるだけで、彼女を抱き締め、キスをしたい衝動に駆られる。
胸の奥で疼く想い。
「……あの、えっと……
もう少しここにいたいの。」
レンガ造りの、年季の入った屋敷。
一階は古書の香りが漂う書店。
三階には、この建物の主である老夫婦が暮らしている。
そして――
そのあいだの二階に、イネスの部屋があった。
「ああ、そうだな」
「けど、家具が届くのは明日だろ?
ここにはまだ何もない」
「……そうだけど、ここの雰囲気が
好きで、もう少しだけここに
いたいわ。」
「それに、来週にはのんびりも
できなくなるし」
イネスは生計を立てるため、まずマルセルの工房で働くことになっている。
オーダー中心の自分の店を持つのはまだ先の夢。
まずは腕を磨き、信頼を得ることが目標だ。
「……そうか、なら食事はここでとろう」
「何か買ってくる」
「あっ……いいの。
マルセル兄さんは、まだやること
残ってるでしょ?
工房のみんなが待ってるわ。」
――二人でいるのは、あまりよくない……
あの嵐の日以来、イネスはマルセルとの間に、心の距離をわずかにとっていた。
今の彼女には、彼の気持ちに答える気はない。
都合よくも、昔のよしみあり、あくまでも、"妹のような存在"でいたかった。
彼女の気持ち。
それは、マルセル自身も察していた。
けれど、引く気など微塵もない。
――この想いは、過去にも、そしてきっと未来まで変わらないだろう。
「わかった。
食事だけここ済ましたら、すぐ帰る」
「昼食はパンでいいかな?」
「ええ……ありがとう」
マルセルが振り返ると、彼女は穏やかに笑っていた。
新天地の屋敷を眺め、レンガに絡む蔓。
その外観にさえ、イネスの心が浮き立つ。
マルセルも釣られて浮かべる微笑。
しかし、その笑みは優しさだけではない。
――イニー。
君があの屋敷をを出たら、もう俺は
手加減しないだろう……
――
授業
「ジェイコブ先生、
別居ってなんですか?」
ブラットが真剣な顔で尋ねる。
家庭教師のジェイコブは、赤毛でくるくるした髪が印象的だ。
その質問に、しばらく言葉を失った。
「ブラット、やめろよ!」
「先生、無視してください。」
キリアンはブラットを睨む。
「ブラット君……なぜそんな言葉が
気になるのですか?」
「ノアが、言ってたんだ……」
「おい、やめろ……ブラット!」
ブラットはキリアンに構うことなく、質問を続ける。
「ママがここから居なくなるって。
また前みたいに“四人家族”に戻るって
言うんだ……」
ジェイコブは少し困った顔をして、座るブラットの目線に合わせてかがむ。
「別居というのは、別々に暮らす。
という意味です……」
「やっぱり、そうなんだ……」
ブラットの目に、うっすらと涙が浮かぶ。
大好きな虫の話を、一緒に楽しんでくれるのは、母のイネスだけだった。
「アゲハ蝶になった姿を、一緒に
見ようって約束したのに……」
「もう、無理なのかな……」
箱で飼っていたアゲハの幼虫。
寒い冬を乗り越え、蛹が春になり蝶になる姿をイネスも楽しみにしていた。
「……別居といっても、会えなく
なるわけではありませんよ。
きっとお二人、会いに来てくれる
ことでしょう」
ブラットは少し安心したように笑った。
しかし、キリアンの胸の内は違った。
――あの人は僕に怒っている。
だから出ていくのかもしれない……
自分を責め、胸が苦しい。小さな胸は張り裂けそうだった。
---
執務室
執務室の扉が開く。
いつも無表情のセオドリックが、どこか上機嫌で書類を抱えて入ってきた。
「……おい、セオドリック」
ダニエルは眉をひそめる。
「お前、どうした。
なぜそんなに浮かれている?
気味が悪いぞ」
「えっ、顔に出ていました?」
セオドリックは耳まで赤くなり、視線をそらす。
「恋をすると、誰だってこんな
顔になりますよ。」
「……恋? お前が?」
「はい!!
隣国から来られた女性でしてね。
亡きご主人の形見を売りに
遥々ここまで……
慎ましく、それでいてどこか儚く
美しいんです」
語り始めると止まらない。
「ほら、この間の市で少しだけ
話しまして。
あの方の布は手触りが全然違って――
ああ、思い出すだけで胸が――」
「……はぁ、うるさい」
「……あと、それよりいいんですか?
奥様、本日新居の鍵をもらう日
ですよ?」
「おい! 明日じゃないのか!?」
「明日は、奥様が手配していた家具が
届く日です」
「お前、浮かれすぎだ……
報告がなかったぞ!」
「はは……すみません……」
ダニエルは怒り、上着を手に取り足早に出ていった。
「恋は盲目……お互い様ですね」
セオドリックは、たまった書類に手を伸ばした。
---
新居
マルセルは窓から外を覗き込む。
「この通りをすぐに右に曲がれば、
パン屋がある」
イネスは質素な部屋で、立ったままチーズパンをかじりつく。
椅子もテーブルもないが、それでも新しい生活の始まりを感じさせる。
空の部屋なのに、不思議と“ここが自分の居場所だ”と思えた。
「パン屋、肉屋も確認済みよ。
ここは綿密に調べたの」
「ここは乗合馬車の停留所も近くて
便利だな」
窓から、連なる建物の間から、学術院の尖った屋根が覗ける。
ここへ住む決め手はそれだった。
外は帝都・学究区の喧騒。
石畳を学者や職人が忙しなく行き交い、研究棟と工房が肩を並べる。
海外からの知識と品が絶えず流れ込み、空気も香りも、イネスの住む北端の山岳街メッカとはまるで違う。
冷たい風が吹き抜ける中、イネスがふと二階の窓から通りを見下ろした瞬間――
いた。
黒い外套に身を包み、ただそこに立ち尽くす男が。
視線が交わり、イネスの心臓が跳ねた。
息も忘れ、手が小さく震れる。
――どうしてあの人が……?
「イニー……窓を閉めよう」
マルセルの声は静かだが、彼女を守る決意が滲んでいる。
階段に重い足音が響く。
ダニエルへの警戒が強まる。
ダンダンッ……
ノックではない、扉を叩くような音に、イネスは小さく跳ねた。
マルセルが扉を開ける。
「……伯爵様、随分と早いご訪問ですね」
ダニエルは無意識に扉の縁を握る。
その鋭い視線に、イネスは自然と目を伏せた。
「なぜ貴様が……?」
「ちょうど通りかかっただけです。」
マルセルは微笑み、余裕を崩さない。
沈黙が二人の間に流れる。
ダニエルは目を細め、低く息を漏らした。
「……構わん、すぐに帰ってくれ」
「お二人の状況を少しだけ、
彼女から聞きました……」
マルセルは静かにダニエルを見据える。
「……それで?」
「彼女と二人きりにはさせません。
伯爵様がお帰りになるまで、私も
ここにいます。」
ダニエルの拳がわずかに震え、胸ぐらを掴みかかろうとする勢い。
「待って……ダニエル!」
「……あなた、ここに何しに来たの?」
冷たい瞳でイネスを見つめ、薄く笑うダニエル。
「……困るじゃないか。
俺が知らない場所に君がいるなんて」
扉の留め具が錆び弛んでいる。
ダニエルは小さく舌を鳴らす。
「……あの日、言っただろう。
"根を上げるまで追い続ける"と……」
イネスの瞳が揺れる。
頭の中は疑問でいっぱいだ。
ダニエルは部屋に入り、窓から外を眺めた。
「想像よりも快適そうだな。」
冷たい光がその顔を刺す。
黒革の靴が床に音を立てず慎重に触れ、狭い部屋を静かに横切る。
一歩ごとに、空気が張り詰めていくようだった。
「……君が住む場所を、俺が
把握していないとでも?」
部屋に静かな緊張を落とす。
「だが、俺もここへは、今日初めて
来たんだ。」
「……三階もここと同じ作りらしい」
古い壁紙に、木枠の窓。
彼の髪と整った身なりは、この屋敷には不釣り合いだった。
「……三階?いったい何の話――」
「この屋敷を買い取った。
俺は、ここの三階に住むことにした。」
「……な、なんですって!?」
ダニエルは含み笑いを浮かべ、イネスより先にマルセルを見た。
「彼女のいる場所が、俺の居場所だ」
黒い瞳の奥に、噛み殺した獣のような怒気が宿る。
その刃は、まっすぐマルセルへ向けられている。
――“俺の妻”だ。手を出すな。
凍った空気。
マルセルは微動だにせず、その視線を正面から受け止めた。
――苦労知らずの大貴族がここへ?
笑わせるな。
マルセルは口角を上げる。
"やれるものならやってみろ"!
そう挑むような、余裕の微笑だった。
――次話予告
わーい!ここは秘密基地!
ママ、僕は嬉しいよ。
125
あなたにおすすめの小説
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
七年目の裏切り 〜赴任先の夫から届く愛の手紙は、愛人の代筆でした〜
恋せよ恋
恋愛
「君は僕の最愛だ。もう二度と、君を危険に晒したくない」
命懸けの出産後、涙を流して私を抱きしめた夫ジュリアン。
その言葉通り、彼は「私を大切にするため」に夜の営みを断った。
私は、女としての寂しさを「愛されている誇り」に変え、
隣国へ赴任した夫を信じて二人の子供と家を守り続けていた。
毎週届く、情熱的な愛の手紙。タイプライターで綴られた
その愛の言葉を、私は宝物のように抱きしめていた。
……しかし、その手紙は「裏切り」だった。
夫が異国の地で、愛人と肌を重ねながら綴らせていた「偽りの愛」。
身分を隠して夫の赴任先の隣国へと向かった私が見たのは……。
果たして、貞淑な妻・メラニアが選んだ結論は……。
子供たちのため結婚生活の継続か、それとも……。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
一年だけの夫婦でも私は幸せでした。
クロユキ
恋愛
騎士のブライドと結婚をしたフローズンは夫がまだ婚約者だった姉を今でも想っている事を知っていた。
フローズンとブライドは政略結婚で結婚式当日にブライドの婚約者だった姉が姿を消してしまった。
フローズンは姉が戻るまでの一年の夫婦の生活が始まった。
更新が不定期です。誤字脱字がありますが宜しくお願いします。
貴方なんて大嫌い
ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と
いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている
それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い
もう演じなくて結構です
梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。
愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。
11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。
感想などいただけると、嬉しいです。
11/14 完結いたしました。
11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】本日、私の妹のことが好きな婚約者と結婚いたしました
音芽 心
恋愛
私は今日、幼い頃から大好きだった人と結婚式を挙げる。
____私の妹のことが昔から好きな婚約者と、だ。
だから私は決めている。
この白い結婚を一年で終わらせて、彼を解放してあげることを。
彼の気持ちを直接聞いたことはないけれど……きっとその方が、彼も喜ぶだろうから。
……これは、恋を諦めていた令嬢が、本当の幸せを掴むまでの物語。
その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*
音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。
塩対応より下があるなんて……。
この婚約は間違っている?
*2021年7月完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる