遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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29話 悪女の足掻き。

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鉄柵が取りつけられ、生活の品々も揃い、イネスやダニエルが暮らす“小さな家”は、ようやく形を成した。

そして本邸があるメッカ。
屋敷の者達も含め、領民たちは冬支度に精をだしていた。
雪が積もれば閉ざされる。
カイロや帝都に向かい出稼ぎに行く者、羊の世話で残る者――様々な事情を抱えて人が行き交う。
これは毎年の風物詩。

引っ越し前夜。
その日、静かに食卓が整えられていた。
使用人たちが皿を置くたび、温かな匂いが広がる。 

果たして、あの小さな屋敷で本当にうまくやっていけるのだろうか。
ダニエルが言うには、子供達もあの小さな屋敷に連れて行くと言う。
何よりも嬉しい知らせのはずなのに、不安と焦りが、湯気の向こうで形にならずに揺れていた。

 「ねぇ、キリアン! 聞いて!」
 
ブラットがパンをかじりながら声をあげる。

 「ママのお家ね、すっごくカッコいい
  んだよ!
  一階が書店なの!」

スープを飲んでいたキリアンの手が、そこでぴたりと止まる。
驚いたように瞬きをし、それからほんの少し口元が緩んだ。

 「……書店、だって?」

声は抑えているのに、隠しきれない色が浮かぶ。
その表情を見た瞬間、イネスの胸の不安が、ふっと和らいだ。

 「うん! キリアン絶対好きだよ!
  小さいけどさ、見たこともない本が
  いーーーっぱい!!」

身振り手振りを交えて夢中で説明するブラット。
キリアンはそっぽを向くようにしながらも、耳は明らかにこちらへ向いている。

 「……悪くない」

言葉とは裏腹に、声がわずかに弾んでいる。
ダニエルが横でふっと笑う。

暖炉の火が揺れ、柔らかな影がテーブルの上に重なる。
四人で囲む食卓。

ダニエルはノア――彼女をここへ置いていくそうだ。
彼の本心はわからないが、イネスは今、この幸せを噛み締めていた。

  まさか、屋敷を一緒に出ることに
  なるなんて……

 「……ふふっ」
 
立派な屋敷から、みんなで狭く古びた屋敷へ。
それがなんだか可笑しかった。
 
外は雪をほんのり孕んだ風。
夜の静寂が深まっていく。
それはまるで、嵐の前に落ちる“最後の一息”のようだった。


――

 
そして――深夜。
ダニエルは、ノアに報告をした。

張り詰めた空気を裂くように、ダニエルの部屋ではノアの怒声。

 「な、なんですって……
  明日出て行く!?」

 「発想の転換だ。
  ――君がここから出て行くことに、
  あいつらは反対している。
  なら、君はここに残ればいい」

淡々とした響きだが、ダニエルの声音には皮肉と怒りが滲んでいた。

 「ただし、春になれば君も出ていけ。
  あいつらは寮に移る。
  君がここにいる理由もなくなる
  からな。」

  「……な……なっ」
 
ノアの顔から血の気がさっと引いた。
寝耳に水――いや、背に氷柱を落とされたような衝撃だった。

  「わたし一人残して
   ど、どこへ行くっていうの…?」

上ずる声。

  「それにあなた……冬はここに残る
   “決まり”じゃない!」

マイリー家の伝統。
それは閉ざされた大地を管理する者として、当主はここへ残るという習わし。
ダニエルの選択は前代未聞だった。

 「イネスが下で暮らす。
  だから俺も、あいつらと下へ移る」

ノアの喉が、ひゅ、と鳴った。

 「キ、キリアンは何て言ってるの!?
  あの子が、わたしから離れるはずが
  ないじゃない!」

ブラットはともかく、キリアンはイネスを母と認めていない。
必ず味方してくれると思っていた甘い見込みに、ダニエルのこめかみがぴくりと跳ねた。

 「離れられるはずがない……?」
 「やはり君は、最初からこちらに
  協力する気などなかったんだな。」

部屋に灯る焔が、ダニエルの胸の怒りを映して大きく揺れた。

 「ち、違うのよ……!
  キリアンは怪我をしたでしょ?
  思ったよりも心の傷が深いのよ!」

 「……」
 「あの怪我……
  きっとイネスのせいじゃない。」

 「ダニエル!!
  いい加減にしてちょうだい!」

縋るノアの手を、ダニエルは乱暴に払った。

 「証拠もない。
  なのに俺は、君の言葉をすべて
  鵜呑みにしていた……」
 「反吐が出る。
  さっさと部屋を出ていけ!」

 「ダ、ダニエル!!
  なぜ、わたしに冷たくあたるの!?」

 「もう、報告はいらない。
  君の役目は終わった。」

 「ダ、ダニエルッ……!!」

背中を押されるように閉め出され、ノアは廊下に立ち尽くした。
胸の奥がズキンと裂けるように痛む。

 「……酷いじゃない………
  こんなにも愛しているのに……」

歩く一歩一歩が鉛のように重い。

 「あなたを手に入れるために、
  わ、わたしが……どれほどの代償を
  払ったと思ってるの…?」

まるで子宮が掴まれたような痛み。
ノアは思い出したように腹を抱え、よろめきながら廊下を進んだ。

 「ヴォア……
  何としてでもあの女に
  会わないと………」

暗闇に仄かな灯りと影。
虚ろな目で立つノアの前を、イネスが静かに通りすぎる。
 
 「……あら、奥様。
  こんな時間までお勉強だなんて」

 「…………」

イネスは一瞥のみで、静かに通り過ぎる。
そのたった一歩が、ノアの胸をぎり、と軋ませた。

イネス……。
澄ました顔。
なにもかもが癇に障る――いや、憎い。
殺してやりたい!

本来ダニエルはわたしのものだった。
あの人の視線も、声も、未来も。
全部、わたしに向けられていたはずなのに。

  ――彼は、渡さない。

ノアは吐き捨てるように呟いた。

 「今日は……彼の部屋を
  追い出されてしまったの……」

イネスは小さくため息をつく。
だがノアには、それが「勝ち誇った笑い」にしか見えなかった。

刃物があれば刺していたかもしれない。

  ――この女を陥れてやる。

ノアは悲しみを装った声で続ける。
奥で、瞳だけが冷たく笑っていた。

 「……ダニエルが、あの子たちを
  連れて出て行くって言っているのよ…」

イネスの足が止まる。

 「………」

子供たちのこと。
それだけはイネスも無関係ではない。

 「ええ……冬の間一緒に暮らすの。」

 「……へぇ……いいわねぇ」

ノアは、ゆっくりと決定打を放つ。

 「……わたし彼に嫌われちゃったみたい
   あなたならわかるでしょ?
  男が急に冷たくなる理由が……」

そして胸を確実に抉る、一言。

 「……彼に、“月のモノ”がこないって
  少し前に報告したの……」

イネスの顔が強ばる。
 
  「そうしたら、この通りよ……」
  「……あの時のあなたのように、
   彼から冷たくされてね…
   もう女として見えなくなったん
   ですって……」

イネスは言葉を失う。

  ――ノアが妊娠した……?

冷水を頭から浴びせられたような衝撃に、イネスの心臓はキンと凍り、指先は震えた。
視界は歪むよう。
廊下の静寂は、まるで別世界の音のようだ。

ノアはイネスの蒼白を、甘い蜜のように味わっていた。

やがてイネスは、正気を取り戻すかのように、その場から逃げるように走り去った。
 
吹き出す笑い。

 「あははははっ……いい気味!!
  ばか女、せいぜい苦しみなさい」

腹を抱えて笑うノア。
その裏では、手に握った手袋の奥で、左手の赤黒い痣は日に日に濃く――広がっていた。

 
---

 
部屋に戻ったイネス。
扉を静かに閉める音が、悲しく響く。
ランプの揺れる光が壁に長く影を伸ばし、空気はどんよりと重く沈む。
その影の隙間に、思い出したくない記憶が忍び込む。

――彼は確かに言った。
妊娠中の妻を抱く気にはなれない、と。

ノアも同じように捨てられるのだろうか。
あの時の自分のように、愛していた女性であっても、妊娠した途端に心が離れるのか。

信じられない。
回帰前、懐妊の知らせはなかった……。
しかし、目の前の現実として確かに存在する。

イネスの胸を、悲しみと怒りと軽蔑が波のように打ち寄せる。
吐き出すようなため息と失望が入り混じり、深い闇へ引きずられる。

 「さ、最低なクズ……
  妊娠した途端に捨てるなんて……」

  最近みせる彼からの執着……
  きっと、彼女へ関心がなくなった
  から…… 

身体の内側で怒りが燃え広がる。
灯に照らされた瞳は赤く、その感情は胸に封じ込める。
もう――二度と甘い顔はしない。
イネスはそう固く決めた。

朝。
何度も寝返りをうち、眠れぬ夜を過ごしたイネス。
霜に反射する朝陽が、自分の心の内とはあまりにも似つかわしくない。
白い息を力一杯吐き出すと、イネスは残りの荷物を馬車へ積め、アリーナに軽く会釈した。

  「短い間だったけど、世話になったわね」

  「……とんでもございません。
   また春に会えることを
   楽しみにしています……」

  「……ふふ」

イネスは返事はしなかった。
馬車で待つブラットが大きく手を振ると、イネスは手を振り返した。

  「……行くわ。」

最後尾の馬車へ向かって歩く。
そこにはブラットだけでなく、ダニエルの姿もあった。
 
  「……はぁ」
 
昨夜の軋むような空気や怒り。
ダニエルの顔さえ見たくなかった。

 「鍵をかけても意味ないですって?
  鉄鍋で殴ってでも侵入を防いで
  やるわ!」

呟く声は荒々しい。
イネスは淡々としながらも、ブラットには笑顔を見せ馬車に乗り込んだ。
ダニエルには目もくれない。
その素っ気ない態度に、ダニエルはこれまでにない気まずさを抱く。

 「……キリアンは、後から来るそうだ。」

 「……そう。
  心配だから、あなたも後から
  一緒に来ればよかったじゃない。」

声に刺が混じる。

 「………」

わずかに顎を上げた姿勢、肩の力を抜かぬ所作――彼女の全てが拒絶を語っていた。
ブラットには微笑むが、ダニエルには目を向けない。
言葉はなくとも、空気が断絶を告げている。
 
  「ダニエル、ブラット!!
   これ……」

出発ギリギリ。
ノアの甲高い声と同時に、馬車が小さく揺れた。
イネスの視線は微動だにせず、干した果物やパンを手に乗り込むノアを横目に追う。
気まずそうにダニエルはイネスに目をやる。
 
 「ここで、わたし一人……
   寂しくなるわ……」

 「ノア。僕も会えなくなるのは
   寂しいよ!
   けど、会えない時間が絆を深める
   こともあるんだ!
   離れていても家族だよ!」

これはジェイコブ先生の言葉。
ブラットは得意げ。
冬、閉ざされたここより、都会の地で暮らすことに胸は弾んでいた。
これはダニエルの策略。
キリアンとブラットがノアから離れられるように、二人の説得をジェイコブに頼んでいた。

 「……そうね……ブラット、
  愛しているわ」

そしてノアは、イネスに見せつけるように、ダニエルの頬へキスをした。
穢らわしいものを見るように、イネスの眉間にはシワが寄る。

 「……っ……やめろ!」

突き飛ばすダニエル。
イネスは無意識にノアを庇った。

  彼女は身重なのよ……っ!?

ダニエルを怒鳴りつけようかとも思ったが、ここにはブラットもいる。
イネスは言葉をぐっと堪え、ダニエルを睨んだ。

 「……ごめんなさい……ダニエル。
   でも、愛してる……
   そして、ずっと待ってるわ……」

ノアは腹を抑え、弱々しく声を震わせた。

 「なんなんだ!
  いい加減にしろ!!」

ダニエルが怒鳴ると、イネスはそれを制止した。

 「ノ、ノアさん……
   体は大事にしてくださいね」

夫を奪った女へ、これがイネスの精一杯。
同じ女としてその痛みはわかる……。

 「……はい。」

静かに去るノア。
惨めな演技。
震える背中は、笑いをこらえていた。

 
 
 ――次話予告。
初めての悪意。
ブラットが新天地で受けた洗礼。
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